2021年8月1日(主日)聖霊降臨後第10主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(大阪)
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
お知らせがあります。来たる8月15日に、私たちの兄弟が遂に洗礼の御恵みを受ける予定です。そしてそれと一緒に、私たちの3人の小さなお友達も洗礼を受けます。その嬉しい日です。8月15日、主日、マリア様の被昇天の大祝日です。どうぞこの4人の霊魂が良い準備を受ける事ができますように、お祈り下さい。
そのミサが終わった後には、大阪の街を、そして大阪の街を通して全日本を、そして全世界を、マリア様が祝福して下さいますように、聖母行列も行ないたいと思っています。皆さんいらして下さい。マリア様がとてもお喜びになる1日になると思っています。
今日は、イエズス様が福音で二人の、「ファリサイ人、それから税吏が、お祈りに神殿に上がって来た」という話をされました。とても深い例え話です。
私たちは天主様から、愛である天主から全てを受けました。全く無であった者にもかかわらず創造されて、そして天主の子供となるようにされました。天国の遺産を相続するようになりました。
それにも関わらずわらず、私たちは罪を犯して、その愛の計画を全く壊してしまいました。そのような私たちに対してさえも、主は愛の限りを尽くして、私たちに更にチャンスを与えようと、御血を全て流されて、御聖体を制定されて、御自分の全てを与えて、命を与えて、私たちを天国へと招いて下さっています。
そして私たちにはこうも仰るのです。「空の鳥を見よ。蒔きもせずに耕しもしないけれども、養って下さっている。しかし私たちは、その鳥よりももっと大切だ。」
鳥は罪を犯さなかったのですけれども、私たちは罪を犯したのです。しかしその鳥よりももっと大切に考えて下さっている。
「野に咲く百合も、綺麗に着飾らして下さるけれども、私たちの霊魂はもっと大切だ。」
そして私たちは全く功徳がなかったにも関わらず、全くその価値が無かったにも関わらず、ただひたすら主が良い方であって、憐れみの愛深い方であるので、御恵みに次ぐ御恵みを、憐れみに次ぐ憐れみを、あれでもか、これでもか、と受けてきました。
私たちが何か、イエズス様を「主である」と言う事ができるのも、私たちが信仰を持っているのも、私たちが何か善をする事ができるのも、全くイエズス様の御恵みのおかげです。愛によってインスピレーションを受けて、それによって支えられているおかげで、かろうじて何とか言う事ができます。とても自慢できたものではないのですけれども、それでもイエズス様が憐れんで下さっているので、それを受けて下さっています。本当に私たちがやっている事は、子供が、小さな子供が、「うば、うば」とお母さんに言うような感じで、お母さんがそれを見て他愛もないけれども、しかし喜んで下さるような感じです。
ところが、今日のファリザイ人は、神殿にやって来て、まず周りを見回して、「この中で、世界中で、偉いのは俺しかいない」と思いました。「いやぁ、俺はどんなに素晴らしいか。この周りの奴は皆罪人だ。あぁ、このような奴でなくてよかった。何故かというと、自分は自分で義人となっている。自分は自分で聖化しているからだ。何故かというと、自分は断食もしているし、献金もしているし、こんなに掟を守っているやつはいない。どうだ。」
そしてそれが、主の前で言った言葉でした。
もちろんこの問題は、この彼のやった態度は、全く主の目から見ると真理ではありませんでした。自分ではなくて主から、主に御恵みを頂いて初めて罪が赦されて、主の御恵みを頂いて初めて私たちも何か良い事ができるからです。
しかしファリザイ人はそれを全く認めようとしませんでした。「俺は自分でやっている。そして自分だけが偉い。他はダメだ。」ですから、彼は全て嘘に満ちていました。傲慢で傲り高ぶっていました。ですからこのような祈りは、祈りでもありませんでした。
イエズス様はこの例えを出しながら私たちに、「気をつけなさい」と今日警告しています。「私たちもこのような罠に陥らないように。」
何故かというと、非常に自然な、私たちに陥りがちな罠であるからです。
ある時、隠遁士聖アントニオに悪魔が、ある修道士の姿をして現れたそうです。「アントニオ、お前は断食をしている、しかし時々食べるではないか。俺は何も食べない、いつも断食している。アントニオ、お前は夜を通して苦業をしていて、徹夜している、でも少しは眠るではないか。俺は全く眠らない、どうだ。しかし、私ができない事をお前はやっている、それはお前の謙遜だ。お前は跪いて祈っている。俺には膝がない。」
それでアントニオは後でこう言ったそうです。「この世には傲慢の悪魔で満ちているけれども、私たちが救われる為には、一つのやり方しかない。それは、私たちが謙遜に祈る事だ。」
実際に、十字架に付けられた盗賊も、謙遜に祈ったが故に赦されました。今日の税吏も、謙遜に祈ったが故に、義とされて家に帰りました。
イエズス様も十字架に付けられて、そして私たちにその謙遜を、「どれほど謙遜であるべきか」という事を教えておられます。私たちの中にもしも傲慢の芽が生えてきたら、イエズス様の十字架を見る事に致しましょう。イエズス様が、私たちの王の王、天主が、ここまで御謙遜になられたのならば、私たちが一体主の御助けによってできない事があるでしょうか。
昨日聖イグナチオの祝日だったので、こんな話があった、というエピソードを引用して、この話を終わります。
ある時、聖イグナチオが聖地からスペインに帰る時に、ロンバルディアという所を通らなければなりませんでした。ロンバルディアは当時ちょうど戦争があって、非常に荒廃していて、非常に危険だったそうです。そして聖イグナチオがそこを通って行った時に、スペイン軍の人たちがイグナチオをスパイだと思って捉えて丸裸にしました。指揮官の前に連れていかれ、残酷に取り扱われようとしていました。
聖イグナチオにはそれを避ける手段がありました。自分が誰かを示し、どんなに偉いかを示すこともできましたし、最悪でも、礼儀を尽くして対応すれば指揮官はイグナチオの説明を聞いて理解を示しただろうからです。それなら少なくとも拷問や屈辱は避ける事ができたでしょう。
しかし、その時に聖イグナチオが思っていたのは、これは傲慢で自己愛ではないか、ということでした。それよりも聖人は「イエズス様の十字架」の事を考えました。「主は、これほどまでも高貴な方であったにもかかわらず、それを何も見せようとせずに、そして悪人たちからどんな乱暴を受けることも潔しとした、辱められた、唾をかけられた、殴られた。もしも主がこうなさったのなら、これはいいチャンスではないか。私も主に倣いたい。」と思ったのです。
そこで聖イグナチオは自分が馬鹿にされたり辱められたりする機会を逃さないように努めました。教養があるような態度を一切取らずに、粗野な態度を取りました。指揮官の前でお辞儀もせずに、脱帽もしませんでした。すると軍人らは、聖イグナチオを見て、頭がおかしいんじゃないか、どっかに行ってしまえと、何もなさずに、そのまま通過させたとの事です。
これも主の御計らいだったと思います。主は、下げられる者を高められる、というのは、奇跡を起こしてまでもそれをされる、という事なのでしょう。
では最後に、マリア様にお祈り致しましょう。私たちもいつも主からの憐れみを認めて、そのまま単純に、主に全てを帰す事ができますように、お祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。