聖ピオ十世教皇:イエズスは罪人ならびに正しい道から逸れてしまった人々に対して優しくあられたのですが、彼らの抱いている誤った考えについては、尊重されませんでした。イエズスは彼らを皆お愛しになりましたが、しかし彼らを回心させ救いへと導くために教えられたのです。
主は重荷を負い労苦する人たちを慰めようと御自分のもとにお呼びになりましたが、それは彼らに変節した平等を説くためではありませんでした。イエズスは身分の低い人たちを高められましたが、それは彼らの心に従順の義務から独立し、またそれに反抗する感情をふき込むためではありませんでした。イエズスの御心は善意の人々への優しさにあふれていましたが、同時に天主の家を汚す者たち、小さい者らにつまずきを与える邪な者たち、また人々を重荷で押しつぶし、自分はそれを持ち上げるために指一本貸そうとはしない権威者たちに対して聖なる憤りに燃えて断固とした態度をとることもおできになったのです。
イエズスは、優しい方であると同時に強い方だったのです。イエズスはたしなめ、おどし、罰を下されました。それは怖れこそが知恵の始まりであり、時として人は体全体を救うために肢体の一部を切り落としたほうが良いということを知っておられ、私たちにそのことを教えようとされたからでした。
最後に、イエズスは苦しみがはや除き去られた理想の幸福の状態の未来の社会の到来をお告げになったのではなく、かえってご自分の教訓と模範とによって、この地上で味わい得る幸福と天国における完全な幸福とへの道 ――― すなわち十字架の道 ――― をお示しになったのです。これらの教えをただ永遠の救いを得るために自分自身の個人としての生活にだけ当てはめるのは誤りです。これらはすこぶる社会的な教えであり、主イエズス・キリストにおいて「一貫性に欠き権威のない人道主義」とはかけ離れたものを示しています。
フランスの大司教および司教たちに宛てたシヨン運動に関する教皇聖ピオ十世の回勅
Notre Charge Apostolique
『私の使徒的責務』
訳者 聖ピオ十世司祭兄弟会
Copyright © Society of Saint Pius X, 2001
All rights reserved
ピオ十世、教皇は
尊敬すべき兄弟たちへ挨拶と祝福を送る
1. ― 誤謬は排斥されねばならないこと
私の使徒的責務(Notre Charge Apostolique)により、私は信仰の純粋さとカトリックの規律を完璧に維持するために目を配らねばなりません。この責務はまた、私が信徒を悪と誤謬から守ることを求めますが、それは特に悪および誤謬が魅惑的な言葉で提示される場合にとりわけ必要となります。なぜなら、こういった言葉遣いは、熱情的な感情と響きの良い言葉使いとで、あいまいな概念やどうにでも取れる表現を包みかくし、一見魅力的ですが、しかし実際は不幸な結果をもたらすことになることを追求させようと人々の心を燃え立たせるのが常だからです。かつての、いわゆる18世紀の「哲学者」たちの教説、またフランス革命およびリベラリズムの教説はいずれもそうであり、これらは非常にたびたび排斥されてきました。今日においては、華々しい寛大さのよそおいの下に、ほとんどいつも明晰さ、論理、真理とに欠けている「シヨン (Sillon) 」の理論がこれに該当します。従って、この点で、シヨンの理論はカトリック的またフランス的特性を帯びるものではありません。
2.シヨン主義者(シヨニスト)は、その献身的な働きによって信用を得ていること
尊敬すべき兄弟たちよ、荘厳かつ公にシヨンについての私の考えを述べることを決めるまで、私は長く考えあぐねました。あなた方がこの問題について懸念し、私自身の心配をいや増すに当たって、ようやくそう決意するにいたったのです。と言うのも、私は真実、シヨンの旗印の下で戦う若者たちを愛しているのであり、また彼らは多くの点において称賛と感嘆とに値するからです。私はまた、彼らの指導者たちを愛しており、彼らが卑俗な情念とは一線を画する気高い魂を有し、最も高貴な熱意に駆られて善を追い求めていることを認め、かつうれしく思います。尊敬する兄弟たちよ、あなた方は、彼らが人々の兄弟愛の生き生きとした実現を求める熱意にかられていることを、同時に、彼らが私心のない努力をイエズス・キリストへの愛と宗教的義務の厳格な遵守とによって養いつつ、労苦し苦難を味わっている者らを探し求め、そうした人たちを立ち直らせるのを目にしてきました。
3.シヨンの起源およびその会員の勇気
それは思い出深い私の前任者であるレオ十三世が、労働者階級についての感嘆すべき回勅『レールム・ノヴァルム』を出したそのすぐ後のことでした。教会は最高の指導者の口を通して、その母の愛の優しさを卑しく低い身分の人々の上にちょうど注いだところであり、あたかもそれは、教会が我々の不安定な社会の秩序と正義との再興のために働くより多くの人々を求めているかのようでした。ですから、シヨンの指導者たちが進み出て、教会の知恵と望みとを成就することのできる若い信者のグループを教会の奉仕のために捧げたのは時宜に適ったことではなかったでしょうか。そして実際、シヨンは労働者の間に、人々と国々の救いの印であるイエズス・キリストの御旗を掲げたのです。その社会活動を天主の恩寵によって養いながら、シヨンは事実、宗教に対する尊敬をもっともそこから心が離れている人々にも与え、無知で不敬虔な者らに天主の御言葉に耳を傾ける習慣をもたらしたのでした。また公開の討論の場で、質問や皮肉でつつかれた彼らが猛然と立ち上がり、敵対的な聴衆の面前で堂々と自らの信仰を公言するのを一、二度ならずあなた方は目にしてきました。これはシヨンの最盛期であり、その明るい面のために、司教たちおよびローマ聖座から多くの励ましならびに認可のしるしを受けていました。当時はまだ、この宗教的熱意がシヨン主義運動の本当の性質をおおい隠していたからです。
4.正道から逸れてしまったシヨン
しかしながら尊敬する兄弟たちよ、私たちの期待は大きく裏切られたと言わねばなりません。ついに、識別力のある者たちにとって、シヨンが危険な傾向を見せる日が来ました。シヨンは道を誤ろうとしていたのです。そうなるのも当然ではなかったでしょうか。シヨンの指導者たちは若く、血気盛んで自信に満ちていました。しかしこの若き指導者たちは十分な歴史についての知識、健全な哲学、ならびに確固とした神学[の素養]に欠けており、そのような彼らが、自らの活動と心の傾きとによって関与することになった難しい社会的問題に取り組むのは危険なことでした。教義と従順とに関して、リベラルかつプロテスタント的な考え方が侵入しないように身を守るためには、備えに欠いていたのです。
5.譴責のための忠告ならびに警告の無視
シヨンの指導者たちは少なからぬ忠告を受けていました。忠告に続いて警告が与えられました。しかし、悲しいことに、そのどちらも彼らの捉えどころのない心の覆いを貫くことは出来ず、効果を生みませんでした。そして事態の流れにより、私はもはや沈黙をこれ以上保つことは出来なくなりました。寛大な公平無私の精神によって種々の誤謬と危険とが散らばっている道に駆り立てられ、突き進んでゆく、シヨンの愛する子らに真理を示す義務があるからです。またシヨンに引きずられて司教の権威から、あるいは少なくとも司教の指導と影響とから離れてしまった多くの神学生、司祭たちにも同様の責務を私は負っています。さらにはシヨンが不和の種をその内部に蒔き、またシヨンの目指すところによって危機におとしめられる教会にも真理を示す責務を負っています。
6.シヨン主義者による完全な自立の要求
まず第一にシヨンが教会の権威の裁治権から免れようとするという点をはっきりと取り上げておかなければなりません。事実、シヨンの指導者たちは教会とは別の領域で活動しているのだと主張しており、また自分たちは霊的な目的ではなく、現世的な目的を追求しているのであり、シヨン主義者とは単に自らの信仰から無私の働きのための力を汲み取りつつ労働者階級の向上と民主化のため熱心に努めるカトリック信者を指すに過ぎないと言っています。また彼らの言うところによれば、シヨン主義者とはカトリックの職人、農夫、経済学者、政治家に他ならず、それ以上でも以下でもなく、[したがって]シヨン主義者は社会一般の行動規範に従わなければならないが、さりとて教会の権威に特別に縛られるわけでもないのです。
7.シヨン主義者の主張は正当化できないこと
これらの誤った考えには容易に答えることができます。司祭、神学生を含むカトリックのシヨニストたちが、彼らの励む社会活動においてただ単に労働者階級の現世的な利益のみを追い求めているのだと、一体誰が信じるでしょうか。実際のところを言うとシヨンの指導者たちは、彼ら自身そう言っているように、誰も阻むことのできない理想主義者なのです。彼らはまず第一に人の良心を向上させることを通して労働者階級を再生しようとしているのだと公言しています。彼らは自分独自の社会教説を持っており、また社会を新しい基盤の上に再構築するための宗教的ならびに哲学的原理を有しています。彼らはまた、人間の尊厳、自由、兄弟的博愛について独自の概念[考え]を持っています。そして自分たちが社会について思い描く幻想[に過ぎない考え]を正当化するために、彼らは福音を引き合いに出すのですが、それはあくまで彼らの流儀にしたがって解釈されたかぎりでの福音に過ぎません。そしてさらに深刻なことには、彼らはキリストを証しするよう呼びかけながら、[実際は]彼らが明かし立てるべきだとするキリストは、小さくされ、歪められたキリストでしかないのです。さらに、彼らはこういった思想を勉強会で教え、友人たちに吹き込み、また自分たちの活動の手順に[活動の指針として]採り入れています。したがって彼らは実際のところ社会的、市民的、ならびに宗教的道徳の教師なのです。そしてたとえシヨン主義運動の組織にどのような形の修正がなされたとしても、シヨンの目的およびその性格と行動とは道徳の領域に属しており、これは教会が固有とする分野に他なりません。こういった事実をすべて考慮に入れると、シヨン主義者たちが自分たちは教会の権威およびその教え導き、統治する権能の範囲外の領域で活動しているのだと信じるとき、彼らは自らを欺いているのだと言わざるを得ません。
8.彼らシヨニストは明白な誤謬を教えていること
たとえ彼らシヨニストたちの教えるところに何らの誤謬がなかったとしても、個人および共同体を真理と善の真っ直ぐな道にそって導く使命を天から受けた者たちの指導をかたくなに拒むことはカトリック教会の規律の重大な違反です。しかし、先ほどのべたように、悪[の根]はさらに深く、弱者へのまちがった愛に流されて、シヨンは誤謬に陥ってしまったのです。
9.シヨニストたちが奉じる、すでに教会によって排斥された誤った民主思想
実際、シヨンは労働者階級の向上ならびに再教育を図っています。しかし、この点に関するカトリックの教えの原理はすでに定義されており、そしてキリスト教的文明の歴史は、そうした原理がいかに有益かつ実りを生むものであるかを示しています。思い出深い私の前任者であるレオ十三世は、これらの原理を傑作という言葉がふさわしい、いくつかの文書で再確認しており、社会問題に取り組む全てのカトリック信者はそれらの文書を研究し、心に留めておく義務があります。レオ十三世教皇は他のことに先んじて次の一事を教えられました。すなわち「キリスト教的民主制は、健全に構成された国家の属性に他ならない階級の多様性を維持し、また人間の社会に、その創始者である天主が付与されたところの形態と性格とを与えねばならない」のです。同教皇は「人民に主権を置き、かつ階級の廃止と横並びの平等化とを図るほどに変節したある種の民主制」を非難しています。それと同時にレオ十三世教皇はカトリック信者のための行動のプログラムを定めたのであり、これは社会を十数世紀におよぶ歴史を誇るキリスト教的基盤の上に戻すことのできる唯一のプログラムです。
一方、シヨンの指導者たちは何をしたでしょうか。レオ十三世教皇のそれとは異なる別のプログラムと教えとを採用したばかりでなく (このこと自体、すなわち平信徒が教皇と並んで教会において成される社会活動の指導者の地位を占め[ようとす]ることであり、著しく大胆不遜な企図と言わねばなりません) 彼らは社会の最も重要な諸原理に関して同教皇によって定められたプログラムをあからさまに拒絶し、そうして彼らは人民の中に権威を置くか、あるいは徐々に権威を廃止してゆき、自らの理想としているようにあらゆる階級を横並びにすることを図ります。彼らはカトリックの教義に対抗して排斥された理想へと進むのです。
10.人間の自然本性を支配する自然法の無視
シヨニストたちが人間の尊厳ならびに労働者階級の屈辱的な境遇を向上するという自らの考えに得々としていることを私たちはよく心得ています。私たちはまた、彼らが労働法および労使関係を公正で非の打ちどころのないものとすることを望んでいることをもまた知っています。彼らがこのように望むのは、そうして地上により完全な正義とより大きな愛徳がゆきわたり、同時により深く、実り豊かな社会変革が成し遂げられ、これによって人類は未だかって想像だにしなかったような飛躍的な進歩を遂げることができると考えているからです。無論、私はこういった努力を非難しません。このような努力は、ある人が進歩するということは、彼が自分が[生まれながらに持っている]自然的な能力を新たな動機付けにより、人間の自然本性の法則の枠組みの中で、またそれに沿った仕方で開発することに存するということをシヨニストたちが忘れないなら、素晴らしいものとなったでしょう。しかし反対に、もし人間社会に本質的な機構を破壊し、それらの活動の枠組を破ってしまうなら、それは進歩の方向ではなく、死に向かって進めていることなのです。しかるにシヨニストたちはまさにこのことを人間社会において成そうとしているのです。彼らは別の原理に基づいて築かれる未来の国家を夢見ており、そういった原理の方が、現在あるキリスト教国が拠って立つところの原理に比してより多くの実りと便益とをもたらすと公言してはばかりません。
11. 人間社会は天主の計画に従って築かれるべき事
いや、尊敬する兄弟たちよ、誰もが自分が教師および立法者として立つ、この社会的・知的な無秩序この時代にあって、私たちは力をふりしぼって次のことを繰り返し叫ばねばなりません。すなわち国は天主が築かれたのとは違ったしかたで築かれてはならないと言うことです。社会は、教会がその礎を置き、その機能を見守るのでなければ打ち立てられることが出来ないのです。否、文明とは今もって発見されるべきものではなく、新しい国家が空をつかむような想念の上に築かれるべきでもありません。文明は[現に]存在してきたのであり、今でも存在するのです。それはキリスト教文明であり、キリスト教国なのです。これは正気を失った夢想家や反乱者、ならず者による容赦のない攻撃に対して、絶えず打ち立て、再興さえすればよいのです。そしてこれこそ「キリストにおいてすべてを立て直すことonmia instaurare in Christo」に他なりません。
12.シヨンの教説の主要な点
ではここで、私があまりにも性急かつ不当な厳格さをもってシヨンの社会教説を裁いているという非難を受けないためにも、かかる教説の主な点を検証して見ることにしましょう。
13.自由と平等
シヨンの人間の尊厳に対する[熱心な]配慮には称賛に値するものがあります。しかし[問題は]彼らが人間の尊厳というものを教会が全く良しとしていない特定の哲学者たちの考え方に沿って理解しているという点です。この人間の尊厳の第一の条件とは、宗教に関することがらを除き、人は誰でも自律的[つまり誰でも自分の望むとおりに行動してよいということ]であるという意味での自由です。これはシヨンにとっての根本的な原理であり、シヨン主義に含まれる他の原理はみなそこから導き出された結論に他なりません。[シヨニストの説くところによると]今日、人々は自分とはまったく別の権威の保護下にあり、[したがって]彼らは自らを解放する必要があるのです。これが彼らの説く政治的解放です。人々はまた生産手段を握る雇用者に依存しており、彼らによって搾取、圧迫され、品位を落としめられています。[ですから]人々はこのくびきを払いのけなければなりません。これが彼らの説く経済的解放です。 最後に、人々は知識階級という、その本性上、巷の事柄を取り仕切るにあたって不当に大きな発言権を有している階層によって支配されています。人々はこの支配から離脱しなければなりません。これが彼らの説く知的解放です。この3つの観点に即した[階級的]区別の横並び的解消によって人々の間の平等が生まれ、そしてこのような平等こそ真の人間的正義に他なりません。自由と平等、という2つの柱 ――― そして今から述べる博愛がそれに付け加わりますが ――― の上にたてられた社会・政治的機構こそ、これがシヨニストらの呼ぶところの民主制なのです。
14.人民による統治
しかし自由と平等とは、いわば消極的な側面に過ぎません。民主制が固有に持つ積極的な側面は、すべての人が、公的なことがらに最大限参加するということにあります。そしてこのことはまた政治的、経済的、道徳的という三重の側面を含んでいます。
15.政治的側面 ― 人民に存する権威
初めのうちは、シヨンは政治的権威を廃止してしまおうとはしません。反対にシヨンはそれを不可欠なものとして見なすのですが、ただそれを分割すること、と言うよりむしろそれを[無限に]多数化し、一人々々の市民が一種の王になることを望むのです。シヨニストは権威が天主から由来することを認めますが、しかしそれは第一に人民の中に存し、選挙もしくは、もっと適切な表現を使うならば選択を通して表されるというのです。しかし、[このようにして権威を一時的に委任された代表者が選ばれるとしても]権威はなお人民の手の中にあるのであり、彼らの支配から免れることは出来ない、と言います。 [人民によって選ばれた者の権威は]見かけ上は外的な権威であったとしても実際は内的な権威です。なぜなら、それは同意に基づく権威だからであると言うのです。
16.経済的側面 ― 協同組合的社会主義
程度の違いこそあれ、同じ原理が経済の秩序にも当てはめられます。経営管理の権は特定の階級から取り上げられて[政治におけるのと同様に]、多数に分配され一人々々の労働者が一種の雇用者となります。さてシヨンがこの経済の分野における理想を現実化するために用いる体制は、彼ら自身の述べるところによると社会主義ではなく、一種の協同組合制です。これは健全な競争が生じるのに十分な数の協同組合から成るものであり、こうして多くの協同組合の中から選ぶことのできる労働者は特定の協同組合に縛られずにすみ、その自立が守られると言うことです。
17.道徳的側面 ― 共同体第一主義
ここで最も主要な側面である、道徳的側面を取り扱うことにします。これまで見たように[シヨニストが思い描く社会においては]権威が大幅に削減されるので、それを補いかつ個人の自己中心性に対する永続的な対抗物 ――― いわば天秤のバランスを保つための重りのようなもの ――― となるべき別の力が必要となります。この新たな原理、この新たな力とは職業上の利害、ならびに公共の利害に対する愛、すなわち職業および社会の目的そのものに対する愛に他なりません。一人々々の心に、個人的利害と家族の福利に対する生まれつきの愛と共に、自分の職業ならびに社会の福祉への愛が宿っている社会を思い浮かべてください。一人々々の意識において自分自身、および家族の利害がより高次の利害に従属し、つねに後者が前者に対して優先されるこの社会を想像してみてください。このような社会は、ほとんど権威なしにやっていけるのではないでしょうか。また、それは人間の尊厳の理想[的な姿]の提供してはないでしょうか。かかる社会においては一人々々の市民が王のような精神を、一人々々の労働者は管理者の精神を持っているからです。些細な個人的利害から解放され、[各]職業の利害、さらに国家全体の利害、そして最後には人類の利害にまで高められて(なぜならシヨンの視野は国境にしばられておらず、地の果てにいたるまで全ての人を含むものだからです)、人間の心は公共の福利への愛によって大きく広がり、同じ職業を営む全ての同朋、全ての同国人、全ての人々を包み込みます。そして、これこそが有名な「自由、平等、博愛」のモットーによって達成されるべき人間の偉大さ、高貴さの理想だと言うのです。
18.互いに関連するこれら3つの側面
これら3つの側面、すなわち政治的、経済的および道徳的な側面は互いに依存しあっており、また先に指摘したように、道徳的側面がこの中で主要な位置を占めています。実際、いかなる政治的な民主制も、経済的な民主制に結び付いているのでなければ存続することが出来ません。しかし、このいずれも、もしそれが[自分は]道徳的責任とそれに比例した活動力とを与えられているという人間の意識内での自覚に根差しているのでなければ成立し得ません。しかし、種々の責任と道徳的(能)力を[自らが有していることを]意識することによって形づくられるそのような自覚の存在を仮に認めるとしても、かかる自覚から生じてくるところの民主制のはたらきには自らの起源となった当の意識および道徳的力が反映されます。同様の仕方で、政治的民主制もまた職業協同組合制から生じてきます。このようにして、政治的および経済的民主制の双方 ――― 後者は前者を支えているのですが ――― は、人々の意識自体の中で揺るぎない基盤に固定されることになる、と言うのです。
19.民衆の民主的教育という幻想
まとめて言えば、シヨンの理論ないし幻想、また彼らが民衆の民主的な教育と称する教育が目指すところは次のようになります。すなわち各人の良心と市民としての責任感を最高度に高め、こうして経済的および政治的民主制ならびに正義、自由、平等、博愛の支配が生まれる、と言うのです。
20.カトリック的真理に反する教え
尊敬する兄弟たちよ、この簡潔な説明を通してみなさんはシヨンが[カトリックの諸々の]教理に対して独自の教説を対置させ、カトリックの真理に相反する理論に基づいて自らの国家を築くことを模索し、また人間社会における社会的関係を規制する基本的かつ根本的な概念を歪曲していると指摘することがいかに適当であるかを理解されたことと思います。そして以下の考察はこの[シヨンとカトリック教会の教えとの]対立をさらに明白に示すことでしょう。
21.権威の真の源
シヨンは公の権威をまず第一に人民のうちに置きます。そしてこの権威は、次に、相変わらず人民のうちに存し続けるような仕方で人民から由来し政府の方に移りますが。しかし、レオ十三世教皇は政治的支配についての『ディウトゥルヌム・イッルド』という回勅で、この教説を完全に排斥しています。同教皇はこう述べています。「現代の非常に多数の著述家は、前世紀に哲学者と自称した者らの後にならい、あらゆる権力は人民に由来すると言明しています。したがって社会において権力を行使する者たちは、その権力を彼ら自身の権威においてではなく、民衆から委任される権威に基づいて行使することとなります。しかもこの権限は権威者がそこからそれを得るところの人民の意志によって解消され得るという条件の下で委任されるのです。カトリック信者の心情はこれと全く異なり、支配・統治する権利は、その自然的かつ必然的根源として天主から由来するということを固く信じています。」
確かに、シヨンは第一に民衆のうちに存するものとされる権威が天主から降り来るものであることを認めていますが、しかしそれは「権力が人民の側から上に戻り上がり、しかるに教会の組織においては権力は上から下に降る。」とされるかぎりにおいてです。しかるに権力の委任が上向きになされるということの異様さ ――― なぜなら委任とは、その本性からして上位の者が下位の者に対してなすものだからです ――― のみならず、レオ十三世はカトリックの教理を哲学至上主義と結び付けようとするこの試みを、先手を打って反駁しました。なぜなら、教皇が続けて述べるように、「国家を統治する地位につく者は民衆の意志と判断とによって選ばれることが可能であり、これはカトリックの教えに対立ないし相反するものではありません。しかるにこの選択によって支配者が選び出されるとしても、この選択によって人民が当の支配者に統治する権威を与えるのではなく、また権力を委任するのでもありません。この選択はただ、支配する権力が付与される者を指名するに止まります。」
22.権威、自由、そして従順
さらに、もし人民が権力を握る者であるとすれば、権威はいったいどうなってしまうでしょうか。それはもはや影、作り話に過ぎないものとなり、そこにはもはや本来の意味での法も従順もなくなってしまいます。シヨンはこれを認めています。実際、シヨンは人間の尊厳の名によって、政治的、経済的、知性的な三重の解放を求めているからです。シヨンが作り出そうと励んでいる未来の国家においては、誰一人主人または下僕となる者はいなくなると言うのです。全ての市民は自由であり、皆が同志、皆が王となるでしょう。命令や戒律といったものは自由の侵害と見なされ、いかなる意味での上位者に対する服従も人格を損なうことであり、従順は不面目なこととされます。尊敬する兄弟たちよ、教会の伝統的な教えが示す社会的関係は、最も完全な社会におけるそれであろうと、このようなものでしょうか。他に依存し、不平等な被造物からなるすべての共同体は、その成員のはたらきを共通善へと向け、かつ法を制定するために権威を必要とするのではないでしょうか。そしてもし邪な人たちが共同体において見出されるならば ――― 実際、いつでもそのような人はいるものです ――― 悪辣な者らの身勝手さによる脅威が大きくなるだけ、権威はそれに応じてより強いものとなるべきではないでしょうか。また、もし自由が何であるかについて大きな思い違いをするのでなければ権威と自由が互いに相容れないということなどは、少しでも分別のあったら誰があえて言うでしょうか。従順は人間の尊厳に反しており、理想としては[自発的に]受け容れられた権威がそれにとって代わるべきだと教えることが誰にできるでしょうか。使徒聖パウロが、信徒らに全ての権威に服従するよう命じたとき、彼は人間の社会をそのあらゆる可能な段階において見越していたのではないでしょうか。そして、合法的に天主を代表する者として立てられている者たちへの従順は、つまるところ天主に対する従順であり、そのようにすることが人の品位を落とし、自らにふさわしくないレベルにまで引きおろすことになるのでしょうか。また、従順に基づいた修道生活は人間本性の理想[の姿]に反するのでしょうか。誰にも増して従順であった聖人たちは単なる奴隷、あるいは出来そこないのような者たちだったのでしょうか。最後に、イエズス・キリストがもし地上にお戻りになったとして、そこではもはや従順の模範をお示しにならず、また「カエサルのものはカエサルに、天主のものは天主に返しなさい」と仰らないような社会的状況が考えられるでしょうか。
23.正義と平等
したがって、このような教説を教え、またそれを自らの組織の中で適用することを通して、シヨンは権威、自由、従順についての誤謬に満ち、きわめて有害な観念をあなた方の下にあるカトリックの青年たちの間に広めているのです。
同じことが正義と平等についても言えます。シヨンは平等の時代をつくりだすべく努めていますが、この時代はまた、平等であるがゆえに正義の時代ともなるだろう、と言うのです。このようなわけで、シヨンにとってあらゆる不平等は正義にもとることであり、あるいは少なくとも正義を損なってしまうものだ、と言うのです。このような原理は明らかに自然本性と相容れないものであり、また嫉妬、不公正を招き、社会的秩序を転覆させる原理です。シヨンによれば民主主義のみが完全な正義の統治をもたらすと言うのです。しかしこのように考えることは、こうして不毛な代替品の座に貶められた他の統治形態に対する侮辱ではないでしょうか。この点においてシヨニストたちはまたしてもレオ十三世教皇の教えに対立しています。すでに引用した政治体制についての回勅中の次のくだりを彼らは読んでみるべきでしょう。「正義が保たれるかぎり、人民が自分たちで適当な統治形態を選ぶことは禁じられていません。したがって、人民は自分たちの気質、あるいは祖先から受け継いできた制度や慣習に最も合った形の政治体制を選ぶことができるのです。」
またこの回勅は3つの主要な形の政治体制に言及しており、このことは正義がこれらの中のいずれにおいても実現され得ることを示唆しています。そしてまた労働者階級の状況についての回勅は、現今の社会的構造の枠組みの中で正義を回復することができると明確に述べていないでしょうか。レオ十三世教皇はここである種の正義についてではなく、完全な正義について話しているということは疑いの余地がありません。したがって、正義が上述の3種の統治形態のうちのいずれにおいても見出され得る旨同教皇が述べているならば、この点において民主主義は特別な優位性を持つのではないと教えていたことになります。これと反対の見解を固持するシヨニストは教会の教えに全く耳を貸そうとしない、あるいは自分自身で勝手に正義と平等についてのカトリック的でない考えを抱いていることになります。
24.博愛 対 愛徳
同様のことが「博愛」についても当てはまります。シヨニストたちはこの博愛というものを共通の善益への愛に、もしくは ――― あらゆる哲学、宗教を超越して ――― 単なる人間性という概念に基づくものとします。したがって、シヨニストたちは等しい愛と平等な寛容をもって全ての人々をその困難かつ望ましくない状況 ――― それが知的、もしくは道徳的なものであれ、あるいは物質的、地上的なものであれ ――― と共に抱擁します。しかるにカトリックの教えに従えば、愛徳の第一の義務とは、誤った考えをそれがたとえそれがいかに誠実な心から出たものであったにせよ、容認することでもなく、あるいは私たちの兄弟が陥っている誤謬や悪徳に対する理論上のもしくは実際上の無関心にあるのでもありません。愛徳の第一の義務とは、それと反対に兄弟の物質的福利と共に、その知的、道徳的な改善を図る熱意に存するのです。カトリックの教理はさらに、隣人に対する愛は、全ての者の父であり人類家族の目的である天主への愛にその源を有していること、またその愛(隣人愛)は私たちがその肢体であるところのイエズス・キリストのうちに存しており、他人にすることはイエズス・キリストご自身にすることに他ならないことを教えています。これ以外の他のいかなる種類の愛も全くの幻想であり、不毛で儚いものです。
事実、私たちは古えの異教徒から成る世俗的社会が自ら経験したごとく、共通の利害、もしくは自然的な親近性は[人々の]心にある情念ならびに野蛮な欲望に対してはほとんど無力なものと化してしまうことを知っています。いや、尊敬する兄弟たちよ、キリスト教的愛徳の外にはいかなる真の博愛も存在しません。天主[なる御父]とその御子我らの主イエズス・キリストに対する愛を通して、キリスト教的愛徳は全ての人を抱擁し、慰め、同じ一つの信仰と同じ天の幸福へと導きます。
このような意味のキリスト教的愛徳から博愛を引き離してしまうので、民主主義は文明にとって進歩どころか、甚だしい後退をもたらすこととなります。もし、私が心からそう望むように、社会およびその成員の福利が博愛、ないし「普遍的連帯」によって達成されるべきであるとするならば、全ての人の知性は真理の認識において一致し、全ての人の意志は道徳において一致し、そして全ての人の心は天主[なる御父]とその御子イエズス・キリストに対する愛において一致しなければなりません。しかし、この一致はカトリック的愛徳によってのみ達成し得るのであり、したがってカトリック的愛徳のみが人々をして理想的な文明への進歩の道を歩ませることができるのです。
25.人間の尊厳
最後に、社会問題に関するシヨン主義者のあらゆる誤謬の根には、彼らの人間の尊厳についての誤った期待があります。彼らによると人間は、強く、啓蒙され、自立した意識を持ち、主人など要らず、ただ自分自身にのみ従い、最も重大な責任をもためらうことなく引き受けることのできるようになった時、初めて「人間」の名に値するものとなると言うのです。このような大言壮語によって人の自尊心をあおり立て、あたかも[実体のない]夢のように、光も導きも助けも与えずに、幻覚の領域へと連れ去ってしまうのです。そしてこの幻覚の領域において、人は完全な意識を得る栄えある日を待ちながら、実際は自らの誤謬と情念とによって滅びてしまうのです。そして、その大いなる日はいつ来るのでしょうか。人間の自然本性を変えることができたなら、それも可能でしょうが、しかしこれはシヨン主義者の手に負えることではありません。したがって、そのような日がはたして来ることがあるのでしょうか。そもそも人間の尊厳をその極みにまで高めた聖人たちはシヨンが理想とするような尊厳を有していたでしょうか。また、そのように高く舞い上がることもできず、この地上で、御摂理が彼らを置かれるところに甘んじ、つつましく働く者たちはどうなるでしょうか。キリスト教的謙遜、従順、忍耐とをもって自らの努めを果たす、彼らもまた「人間」と呼ばれるのがふさわしい者たちではないでしょうか。我らの主は、いつの日か彼らをその目立たぬ場所から引き上げ、天国でみ民の王たちとともにお置きにならないでしょうか。
26. シヨン主義者の活動に関する誤りの影響
シヨンの陥っている種々の誤謬についての考察はこのぐらいにしておきましょう。私はこのテーマについて全てを語り尽くしたわけではありません。これらと同様に誤り、危険をはらんでおり、したがって、あなた方の注意を喚起すべき他の点 ――― 例えば教会が有する強制力をどのように解釈するかについての問題など ――― がまだ残っているからです。しかし今、私は上で触れたシヨンの誤謬が彼らの実際の行動および社会活動にどのような影響を及ぼしているかを検証することとしたいと思います。
27.シヨンの組織
シヨンの教説は抽象的な哲学の領域にとどまるものではありません。かかる教説はカトリックの青少年に教えられ、さらに悪いことには、それを日常生活に適用すべく努力が払われています。シヨンは未来の国家の核として考えられており、したがってその理想の目的に可能な限り近づくように形作られています。事実、シヨンにはいかなる位階制もありません。この組織を統治するエリートは一般庶民の中から、その道徳的権威ならびに徳のために選ばれ、現れ出てきた者たちです。シヨンには自由に参加できますし、また自由に脱退することができます。勉強会は教師なしで開かれ、せいぜい顧問がつくことがあるくらいです。こうした勉強会は一人々々のメンバーが同時に生徒であり教師である知的な協同組合のようなものです。メンバーの間にはきわめて徹底した仲間意識が存在し、彼らの心を親密な交わりへと促します。そしてこれがシヨンに共通の精神であり、「友情」と呼ばれているものです。司祭でさえシヨンに入る際には、自らの司祭職の卓越した尊厳を低め、奇妙にも役割を取り替えて生徒となり、自分を若い「友」と同じレベルに置き、単なる一人の同志に過ぎない者となります。
28.誤った原理から生ずる危険をはらんだ実践
尊敬する兄弟たちよ、あなた方も容易に察されることと思いますが、こうした民主主義に根差した実践および「理想の国家」の理論から規律の欠如の隠れた原因が生じてきます。この規律の欠如について、あなた方はこれまで再三にわたってシヨンをとがめてきました。上で示したような線に沿って養成されるシヨンの指導者たちおよびその同胞たちの間に、たとえそれが神学生であろうと司祭であろうと、あなた方の権威ならびにあなた方自身に対して示すべき尊敬、素直さ、従順が見られないのは驚くに値しません。またあなた方が、彼らの側に根本的な対立の姿勢を感じ取ったとしても、また悲しむべきことに彼らがシヨンと関係のない仕事からまったく身を引いてしまう、あるいは従順のためにそうせざるよう強いられる際も、不承不承に従うのを目の当たりにしたとしても、やはりそれは驚くに値しません。[彼らにとっては]あなた方は過去のものであり、自分たちこそが未来の文明の先駆者なのです。[彼らの目には]あなた方は位階制、社会不平等、権威ならびに従順、つまり、別の理想にとらわれている彼らの心には到底従うことのできない古臭い体制の代表に他ならないのです。涙なしには思い出すことのできない悲しい一連の出来事がこのような心がまえの存在を証ししています。私は忍耐のかぎりを尽くしても、なお義憤の念を抑えることができません。そしてあろうことか今やカトリックの青少年の心に、彼らの母である教会に対しての不信の念が注ぎ込まれています。彼らは19世紀を経た今に至るまで教会はこの世界に真の基盤に基づいた社会を築くことができずにいる、なぜなら教会は権威、自由、平等、博愛、人間の尊厳といった社会についての概念を正しく理解せずにきたからだ、と言うのです。また彼らは、フランスを今ある形につくりあげ、見事に統治した偉大な司教や王たちはシヨンの抱く理想を有していなかったために、民衆に真の正義と真の幸福とを与えることができなかったとも教えているのです!
29.1789年の革命の名残
フランス革命の息吹は、そこ、シヨンを通り過ぎました。したがって、シヨンの社会教説は誤っており、その精神は危険きわまりなく、その教育は破滅的な害をもたらすものであると結論することができます。
30.とがむべき教義およびとがむべき活動
さてそれでは、教会の中におけるシヨンの活動をどう考えるべきでしょうか。彼らは自己流のカトリック精神にかくもこだわり、もしその大義を支持しないものがいれば、それは教会内部に潜む敵であり、福音とイエズス・キリストについて何一つわかっていない者と見なされる程です。一体、このような運動についてどのように考えればよいでしょうか。この疑問について強調しておく必要があると私は考えます。なぜなら、ごく最近までシヨンが価値ある励ましや素晴らしい支持を得てきたのは、まさにそのカトリックとしての熱意だったからです。ところが、その言行から判断して、シヨンの活動と教説とは教会を満足させるものではないと言わざるを得ません。
31.教会は民主主義にこだわらない
第一に、シヨンのカトリック主義は、ただ民主的な統治形態のみを受け容れ、かかる統治形態が教会にとっても最も好ましいものとし、さらにそれを教会といわば同一視します。ですから、シヨンは自らが奉じる宗教を一つの政治的な党派と結びつけてしまうのです。ここで普遍的民主主義の到来が世界における教会の活動にとって重要なことではないということをあえて証明する必要はないでしょう。すでに私たちは、教会が常に諸国家に、自らの必要に最も適合した統治形態を選ぶ自由を認めてきたという事実を思い起こしました。[ですから]ここで私が前任者にならい、もう一度確認しておきたいことは、カトリックの教えを原理的に特定の統治形態に結び付けるのは誤謬であり、かつ危険であるという点です。この誤謬と危険は、宗教が誤った教義にもとづいた民主制に関連付けられるとき、ことさら大きくなります。しかるに、これこそシヨンが行っていることに他なりません。特定の政治形態のためにシヨンは教会に汚名を着せ、カトリック信者の間に分裂の種をまき、青年および司祭や神学生までをも純粋にカトリック的な活動から引き離し、国の生き生きとして力にみなぎった部分を不毛なものと変えてしまいます。
32.宗教を守るために政治を用いる義務
そしてごらんなさい、尊敬する兄弟たちよ。何という矛盾でしょうか!宗教はあらゆる党派を超越すべきものであるという、正にこのことの故に、そしてシヨンが四方から取り囲まれ、[攻撃されている]教会を守る務めから身を引くのは、この原則に基づかせているからです。無論、教会は自ら進んで政治的な分野に乗り出したわけではありません。彼らが[教会を攻撃する者らが]教会を骨抜きにし、略奪するために教会をそこへと引きずり込んだのです。したがって、教会を守るため、また政治をその固有の領域にとどめ、政治が教会にふさわしい物を与える場合をのぞいて教会の事に関与しないようにさせるために、自分が持っている政治的な武器を用いるのは全てのカトリック信者の義務ではないでしょうか。さて、このようにかくも激しく攻撃を受けている教会を目前にして、シヨニストたちが何もしないでいるのをしばしば見て悲しい思いをします。もし彼らが教会を守るとしたら、それは自分たちの利益になるときだけです。また、彼らがカトリックとはいかなる程度においても一切関係ないプログラムを命じそれを指示しているのを目の当たりにします。政治における戦いにおいて、挑発を受けたのなら、人は自分の信仰を公に表明することに妨げはありません。一人のシヨニストにおいては二人の人がいると言わなければならないのではないでしょうか。つまり、一人はカトリックの個人であり、もう一人は宗教のない活動家シヨニストです。
33.小さなシヨンからより大きなシヨンへ
実際シヨンが真の意味でカトリックだった時期がありました。その時、シヨンはカトリックのみを道徳的な原動力として認め、民主主義こそがカトリック化しなければならず、さもなくば全く存在しない方がよいと公言していました。しかし、ある時彼らは考え方を変えてしまったのです。シヨン主義者は、誰でも自分の宗教ないし哲学を保持してよいということにしました。彼らはカトリックと名乗るのをやめ、「民主主義がカトリックになるように」というスローガンの代わりに「民主主義が、反カトリックとならないように」 ――― それが反ユダヤ教、反仏教でないのと同様、 ――― と言うようになりました。そしてこのときに「より大きなシヨン」という思想が生まれたのです。未来の国家をつくるために彼らはあらゆる宗教および宗派の労働者に呼びかけました。これら労働者はただ一つのこと、すなわち同じ社会的理想を抱き、あらゆる宗教的信条を尊重し、そして彼ら自身を支えるべき何らかの道徳的原動力を携え持つようにするということだけでした。シヨン主義者たちはこう公言してはばからなかったのです。「シヨンの指導者たちは宗教的信仰を何ものにもまして尊重するものである。しかし、彼らは他の人々が自らの道徳的原動力を彼らが元来から有している源泉から汲む権利を認めずにいることができるだろうか。そのかわりに彼らシヨンの指導者たちは自分たちがカトリックの信仰から道徳的原動力を汲み取る権利を他の人々が認めてくれるものと期待することができる。したがって、彼らが今日の社会を民主主義に向けて変革することを望む全ての人々に、互いを隔ててしまう元となり得る哲学的ないし宗教的信念のために互いに対立するのではなく、かえって手を取り合って前進すること、そしてその際、自らの信念を捨て去ってしまうのではなく、現実的な状況に則して、かかる個人的信念の卓越性を証しすることを求めるのである。そうしておそらく、異なった宗教的ないし哲学的信念を抱く人々の間でなされるこの競い合いを基盤として、ある種の一致が生ずるだろう。」と言うのです。そして彼らは同時にこう付け加えるのです。「小さなカトリックのシヨンは世界人的なより大きいシヨンの魂となるだろう。」しかし、どうしてこのようなことが成され得るでしょうか。
34.「より大きなシヨン」から真にエキュメニカルな一致へ
近年、「より大きなシヨン」という言葉はもはや用いられず、新たな組織が従来どおりの精神と基盤をそのまま保ちながら生まれました。「活動に含まれる異なった原動力を秩序だった仕方でまとめるために、シヨンは依然として当の様々なグループに浸透し、それらのはたらきを照らし導く魂、精神として残る。」こうしてカトリック、プロテスタント、自由思想といったそれぞれ自律的な多くのグループが活動に取りかかるよう呼びかけられているのです。「カトリックの同朋は特別な組織の中でまとまって働き、互いに学び合い、教えあうのである。[一方]プロテスタントや自由思想の民主主義者は、自分たちの間で同様に行う。しかし、我々全てはカトリックであろうと、プロテスタントであろうと、自由思想家であろうと、若者を兄弟同士の争いのためにではなく、社会的、市民的な徳の[自らが属する集団の]利害抜きの競い合いのために武具をまとわせることを目するのである。」
35.きわめて厳粛な論評
これらの宣言およびシヨンの活動の新しい組織はきわめて厳粛な考察に値するものです。
36.シヨンの活動はその哲学を反映している
このようにして私たちの眼前には、文明の改革のために働くべく、カトリック信者によって創設された超教派の組織が存在しています。しかるに、この文明の改革ということは宗教的な性格を帯びたことがらです。なぜなら、道徳的文明なしにはいかなる真の文明も存在せず、また真の宗教なしには、いかなる真の道徳的文明も存在しないからです。これは証明された真理であり、歴史的事実です。新しいシヨン主義者は、自分たちがただ宗教的信条の違いはもはや問題とならないような「実際的な現場」だけで働いていると言い訳をすることは出来ません。彼らのリーダーはどのような宗教に属するものであれ彼らを招待し、「彼らの個人的な確信の素晴らしさの証明を実際的な現場でしてもらう」という活動の結果について、精神が持つ確信の影響をよく感じ取っています。それは理に適っています。丁度或る一つの体の肢体はその末端まで体を生かす生命原理の形相を受けているように、実際的な実現は宗教に関する確信の性格を纏っているからです。
37.誤った政治的エキュメニズム
さて、それではカトリックの青年たちがこの種の活動に携わるにあたって異端および不信の徒と相交じってしまうことになるという点について何と言うべきでしょうか。このような状況は中立的な団体と関わるより、千倍も危険なことではないでしょうか。一体私たちは、あらゆる異端者および信仰をもたない者らに対してなされる呼びかけ、すなわち彼らの信条のすぐれていることを社会状況の中で一種の護教的競争を通して証しするようにとの呼びかけをどう考えるべきでしょうか。[しかし]このような競い合いは19世紀にわたり、カトリック信者の信仰にとって危険のより少ない条件の下で成されて来なかったでしょうか。そして、その結果はことごとくカトリック教会にとって有利なものではなかったでしょうか。あらゆる誤謬に対して抱くべきとされるこの敬意の念、また新しい力のより豊かな源泉を持つことができるよう、自分たちの信念を研究をとおして深めるようにとカトリック信者が進んで、カトリック教会に逆らう者たちを招いているのをどう考えるべきでしょうか。また、あらゆる宗教および自由思想までもが自らの考え・信念を公然と、しかもまったく自由に表明することができるような組織についてどう考えるべきでしょうか。と言うのも、公の講演会などで胸を張って自分たちの個人としての信仰を宣言するシヨン主義者は、確かに他の人々を黙らせることを意図しないのであり、プロテスタントが自分のプロテスタント信仰を、あるいは懐疑主義者が自らの懐疑主義を公言すること正しいものとして公言することを妨げようとはしないのです。最後に、勉強会に参加するにあたって[党派的]利害にとらわれない社会活動を目指し、かかる活動がいかなる利害、グループ、ないしは信条にさえも貢献することを欲しない同志たちに懸念を起こさせないために、自分のカトリック信仰を戸口に残しておくカトリック信者についてどう考えるべきでしょうか。
新たに生まれた「社会的活動のための民主主義委員会」の信仰宣言は以上のようなものです。これはそれ以前の組織の目的となっていたものに取って代わり、また ――― 彼らの言うところによると、 ――― シヨンが反動的な保守派の目にも、反聖職者主義のグループの目にも有していた「あいまいさ」を打ち破り、今や「道徳および宗教の持つ力を尊重し、広い心に根ざした理想主義のパン種なくしてはいかなる真の社会的解放も有り得ないと確信している」全ての人々が取り入れることができるものです。
38.伝統的な価値観の転倒
そうです。実際「あいまいさ」は打ち消されました。シヨンはもはやカトリックではなくなってしまいました。シヨン主義者は[もはや]グループのためには働かず、そして彼の言うには「教会は私の活動が呼び起こす同感、賛同からいかなる利益も得ることはできない」のです。まったく奇妙なことです。彼らはシヨンの社会活動を通じて教会が利己的で利害づくめの目的の成就を助けられて益することを恐れているのです。まるで教会に益するところのものは同時に人類全体をも益することがないかのようにです。教会が社会活動から利益を得ることができるなどと考えるのは何と奇妙な概念の転倒でしょう!あたかもただ社会活動のみが ――― もしそれが真摯かつ実りを生むものであるならば ――― 教会からの利益・恩恵を得る必要があることを最もすぐれた経済学者たちが認め、かつ証明しなかったかのように!
しかし、さらに奇妙であり、同時に懸念と悲しみとを呼び起こさずにはおかないのはカトリックと自称し、上で述べたような条件の下で社会の再編を図る者たちの大胆不敵かつ軽薄さです。彼らはカトリック教会の枠を越え出たところで、あらゆる所からの労働者と共に、たとえ彼らがどんな宗教を奉じていてもあるいは一切奉じていなくても、たとえ信仰を持っていようともいなくとも、彼らが互いを隔て分けてしまうもの ――― 即ち宗教的および哲学的信念 ――― を放棄し、[反対に]互いの一致をもたらすもの ――― 即ち「その源を問わず、広い心に根ざした理想主義と道徳的力」――― を共有するかぎりにおいて、彼らと共に「愛と正義の支配」を地上に打ち立てることを夢見ています。しかるに私たちがキリスト教国家を築くために必要とされた力、知識、超自然的徳を考えてみるとき、また何百万という殉教者の苦難、教会の教父ならびに博士たちの光、愛徳の英雄たちの献身、天から生まれた強固な位階秩序、天主の聖寵の大河、天主の知恵であり人となった御言葉、イエズス・キリストの命と精神によって建てられ、固められ、染み渡った全てを思うとき、そうです、これら全てを思うとき、新しい使徒たちが、あいまいな理想論と市民道徳を共通項に持って更によい業ができると夢中になっているのも見てぞっと震え増す。彼らは一体、何を生み出そうとしているのでしょうか。かかる共同作業の結果として、何が生じてくるのでしょうか。それは単に言葉の上だけの幻想的な構築物に過ぎません。そしてその中には、誤って理解された「人間の尊厳」に基いた自由・正義・博愛・愛・平等および人間の発揚という言葉が混ざりながら映し出され、混沌のうちにも人の心を誘っています。これは騒乱をまき起こす種となり、意図されている目的のためには効果がありません。これはまたあまり理想郷を追い求めず人民を攪乱する者たちをして利得を得させるでしょう。確かに、シヨンは空想上の産物を追い求めようと目を凝らし、社会主義を擁護しているのだと言うことができます。
39.人間中心主義的幻想
私はさらに悪い事態が生じはしないかと恐れます。仕事におけるこの[あらゆる信条・主張の]混合から最終的に生ずるもの、また、この世界市民的な社会活動から利益を被るのは、カトリック的でもプロテスタント的でもユダヤ教的でもない民主制です。それはカトリック教会よりも普遍的な宗教(なぜならシヨン主義とはシヨンの指導者らが述べるところによれば一つの宗教なのですから)であり、ついに兄弟、同志となった全ての人々を「天主の御国」において一つにまとめる別の宗教です。彼らは言います。「我々は教会のためにではなく、人類のために働く」と。
40.世界統一宗教に向けて
そして今、尊敬する兄弟たちよ、深い悲しみに沈んだ心で私たちはシヨンのカトリック主義はどうなってしまったのかと自問します。嗚呼、以前は非常に明るい期待を抱かせてくれたこの組織、活き活きとして勢いがみなぎっていたこの流れは、現代における教会の敵どもによって利用されてしまいました。今やあらゆる国々で企てられつつある世界統一宗教を打ち立てるために、ある大きな棄教的運動の中のあわれな一支流と化してしまいました。そしてこの世界統一宗教とは、いかなる教義、位階制も持ち合わせず、精神の規律も無く、情念に歯止めをかけるものも無く、自由と人間の尊厳の名のもとに(もしもそのような「教会」が立ち行ってゆけるならば)合法化された狡知と力の支配[する状態]ならびに弱者および労苦するものらの圧迫を世界にもたらしてしまうでしょう。
41.革命の福音
こういった悪質な教説 ――― もっともそれらは明晰な思考力をもつ人たちを惑わし得るものではありません ――― が練り上げられる闇の工房について私たちは知りすぎるほど知っています。シヨンの指導者たちは、これらの教説から免れることができませんでした。自らの感情の礼賛、盲目的な彼らの善意、哲学的神秘主義、およびそれに付け加えられるいくぶんの啓蒙主義のために、私たちの救い主の真の福音であると彼らが誤って信じた新しい福音へと彼らは運び去られてしまいました。こうして彼らは、私たちの救い主イエズス・キリストについて、この上なく横柄、かつ馴れ馴れしい態度で話します。またフランス革命と似かよった理想を抱き、彼らは、福音と革命との間に冒涜的にも似たものがあるとし、このような即興的で反抗的な発言をしたことについて彼らは良いわけをすることができない。
42.愛徳は妥協を正当化する理由たり得ないこと
尊敬する兄弟たちよ、私はシヨンならびにその他の所において席巻しているこの歪曲、天主にして人なる私たちの主イエズス・キリストの福音と主が聖なる方であることとを彼らが歪曲していることに、あなた方の注意を喚起したいと思います。社会問題の話となるやいなや、ある種の所ではまずイエズス・キリストの神性を横に置き、そしてただその限りない仁慈、人間のあらゆる惨めさに対する共感、隣人愛、ならびに人々の兄弟的連帯へと駆り立てる呼びかけについてしかふれようとしません。確かにイエズスは私たちを広大無限の愛でお愛しになり、苦難と死とを忍ぶべくこの地上に来られたのでした。それは状態と愛のうちに主を囲んで集い、互いへの愛徳という同一の心情に動かされて全ての人が平和と幸福を享受しつつ生きることができるためでした。しかし地上の生活ならびに永遠にわたるこの幸福の実現のために、主イエズスは至高の権威をもって私たち[人間が]ご自分の群れに属さなければならないこと、御自分の教えを受け容れねばならないこと、徳を実践しなければならないこと、またペトロとその後継者の教えと導きに服さなければならないという条件をお示しになりました。さらに、イエズスは罪人ならびに正しい道から逸れてしまった人々に対して優しくあられたのですが、一方そういった人たちの抱いている誤った考えについては、たとえそれがどれほど誠実な心から出たもののように見受けられたとしても、尊重されることはありませんでした。イエズスは彼らを皆お愛しになりましたが、しかし彼らを回心させ救いへと導くために教えを垂れられたのです。主は重荷を負い労苦する人たちを慰めようと御自分のもとにお呼びになりましたが、それは彼らに変節した平等を説くためではありませんでした。
イエズスは身分の低い人たちを高められましたが、それは彼らの心に従順の義務から独立し、またそれに反抗する感情をふき込むためではありませんでした。イエズスの御心は善意の人々への優しさにあふれていましたが、同時に天主の家を汚す者たち、小さい者らにつまずきを与える邪な者たち、また人々を重荷で押しつぶし、自分はそれを持ち上げるために指一本貸そうとはしない権威者たちに対して聖なる憤りに燃えて断固とした態度をとることもおできになったのです。イエズスは、優しい方であると同時に強い方だったのです。イエズスはたしなめ、おどし、罰を下されました。それは怖れこそが知恵の始まりであり、時として人は体全体を救うために肢体の一部を切り落としたほうが良いということを知っておられ、私たちにそのことを教えようとされたからでした。最後に、イエズスは苦しみがはや除き去られた理想の幸福の状態の未来の社会の到来をお告げになったのではなく、かえってご自分の教訓と模範とによって、この地上で味わい得る幸福と天国における完全な幸福とへの道 ――― すなわち十字架の道 ――― をお示しになったのです。これらの教えをただ永遠の救いを得るために自分自身の個人としての生活にだけ当てはめるのは誤りです。これらはすこぶる社会的な教えであり、主イエズス・キリストにおいて「一貫性に欠き権威のない人道主義」とはかけ離れたものを示しています。
43.優しくかつ勇敢でありなさい
あなた方尊敬する兄弟たちに関して言えば、あなた方は人々の救い主の御業をその優しさと強さとを模倣を通して、これを継続してください。あらゆる種類の惨めな境遇に奉仕の手を差し伸べてください。あなた方の司牧的配慮の及ばない悲痛が一つとしてありませんように。あなた方が関心を寄せない嘆きがありませんように。しかし他方、恐れることなく権力者および身分の低いものに、彼らが有している義務について説くようにしてください。人々および国家の権威者の良心を形づくることはあなた方の義務です。[実際]社会問題が解決に近づくのは、それに関わる人々が各自の権利についてはより少なく求め、他方自らの義務についてはそれをより厳格に果たすときに他なりません。
44.建設的な代替案
利害の衝突において、殊に実直さを欠いた勢力に対する戦いにおいて、人の徳ないし人の聖性までもは、彼に日毎の糧を常に保証するに足りるものではありません。諸々の社会的機構は、それらの間で自然に生ずる相互作用をとおして良心の呵責を感じない者たちの働きをくつがえし、善意の人々すべてが地上的幸福の正当な分け前に与ることができるよう調えられる必要があります。それゆえ私はあなた方がこの目的を念頭において社会の構築のため積極的な役割を果たすことを強く望みます。
そしてこの目的のために、人々の霊魂の聖化、教会の防護、ならびに厳密な意味での愛徳の業に励むあなた方のもとの司祭の中から、冷静であると同時に活動的な性質をもち、哲学と神学の博士号を有し、古代ならびに現代の文明に精通した者を若干名選び、彼らをそれほど高貴ではないにしても、より現実的な社会科学の研究にあたらせ、そうして適宜にカトリック・アクションにおけるあなた方の活動を指揮させるようにしてください。しかしながら、これらの司祭が今日まかり通っている教説の渦に巻き込まれ、奇跡的な効果を有するとされる偽りの民主主義の幻想によって惑わされることのないよう注意してください。彼らが教会および人民の最大の敵が用いるレトリックから、響きは良くとも実現不可能な約束だらけの大言壮語を借りてくることのないようにしてください。
また、これらの司祭に次のことを確信させてください。すなわち、社会問題ならびに社会科学は、つい最近になって生まれたものではないこと、教会と国家は全ての時代にわたって健全な協調のうちにこの目的を達すべく種々の実り豊かな組織を育成してきたこと、教会は妥協に満ちた協定で一度として人々の幸福に対する裏切りを為したことがなく、したがって、過去をうち捨てる必要がないこと、また必要なただ一つのことは、真の意味で社会の復興のために働く人たちの助けを借りて、フランス革命がうちくだいた諸々の機構を再び採用し、それらを生み出したのと同じキリスト教的精神において、現代社会の物質的発展に由来する新たな環境にそれらを適合させることです。事実、人民の真の友は革命家でも革新派でもなく、伝統主義者なのです。
45.この営みはシヨン主義者にも開かれていること
私はシヨンの青年たちが自らの抱く誤謬から解き放たれ、あなた方の司牧的配慮をすぐれて集めるべきこの事業を妨げるどころか、これに対して秩序だったやり方でふさわしい恭順のうちに忠実かつ実り多い貢献をなしてくれることを望みます。
46.シヨン主義者に対する父としての訓戒
今、私はシヨンの指導者たちに自分の子供に語りかける父親の抱くような信頼をもって向き直ります。そして私は彼らに、彼ら自身の善益のため、また教会とフランスの善益のために自らの指揮権をあなた方司教に譲りわたすよう願います。無論私はこれがどれほど彼らにとって犠牲となるかを承知していますが、しかし同時に彼らがそれを受け容れるに足るだけの寛大さを備えていることをも知っているので、私がその代理であるところの主イエズス・キリストの御名において前もって彼らをこの犠牲[的行為]のゆえに祝福します。シヨンのその他の構成員については、彼らが司教区ごとに結集し、めいめいの司教の権威の下に彼ら自身の境遇の改善のみならず、人民のキリスト教的かつカトリック的再生のために働いてくれるよう望みます。こういった司教区ごとのグループは当面の間、互いから離れ、独立したものとなるべきです。そして過去の誤りに決別したことをはっきりと示すために、彼らは「カトリック・シヨン」の名を自らに冠し、各成員はシヨンのメンバーとしての呼称にカトリックであることを示す要素を付け加えるようにしなければなりません。言うまでもなく、このようなカトリックのシヨン主義者が各々、政治に関する自分の好みを、それが教会の教理にまったく合致しない要素から浄められているかぎり、自由に保持することができます。もしあるグループがこれらの条件に服することを拒むのであれば、尊敬する兄弟たちよ、あなた方はまさにこの事実によって、彼らはあなた方の権威に服従することを拒否しているのだと見なすべきです。その際あなた方は彼らが純粋に政治あるいは経済の領域にとどまっているのか、それとも以前抱いていた誤謬に固執しているのかを見極めねばなりません。前者の場合、あなた方は彼らに対して、ちょうど普通の信者一般に対するのと同じように対処するだけで充分であるということは明らかです。後者の場合、あなた方は適切な手段を賢明に、しかし断固として用いねばならないでしょう。司祭らはかかる反抗的グループとは全く関わりを持たないようにし、ただその個々の成員に対し、自らの神聖な役務による助力を個人的に施すことでよしとしなければなりませんが、それは告解の秘跡という裁きの場において教理ならびに行為に関する道徳の一般規則を適用することを通してなされます。カトリックの[他の]グループについて言えば、司祭および神学生はそれらに対して行為を示し援助の手を差し伸べることはできますが、そのメンバーとして参加することを避けねばなりません。なぜなら、聖職者の陣営は一般信徒の組織から、たとえそれがきわめて有益であり、かつ最良の精神によって営まれているものであろうと一線を画していることがふさわしいからです。
47.祈りと願い
上に挙げたような実践的手段によってシヨンならびにシヨン主義者についてのこの書簡を確固としたものとすることが必要だと私は考えました。心の底から私は主に、これらの人々、青年たちがこの手紙が何故書かれる必要があったのか、その重大な理由を悟らせてくださるよう祈ります。願わくは主が彼らに素直な心と勇気とをお与えになり、こうして彼らが教会に対して自らのカトリック的熱心さの真なることを示すことができますように。あなた方については、尊敬する兄弟たちよ、願わくは主があなた方の心を彼らへと真の父親としての愛を向けるよう促してくださいますように。
48.結びの祝福
かかる望みを示しつつ、またこれらの大いに望ましい結果を得られるよう、私はあなた方、またあなた方の司祭、およびあなた方の信徒に心からの使徒的祝福を送ります。
49.執筆の時期と場所
教皇在位第8年目となる1910年8月25日、ローマの聖ペトロ大聖堂にて。
ピオ十世教皇