アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2015年7月4日初土曜日に大阪で捧げた「聖母の汚れ無き御心の随意ミサ」でのお説教をご紹介します。
ここでは聖母マリアさまがイエズス・キリストの全てに付き従ったことを説明します。つまり、奇跡を起こすイエズス様だけではなく、十字架に苦しむイエズスを離れなかったことです。
御浄めの時に言われた、預言者シメオンの預言が実現し、人類は二つに分けられていること。イエズスに一致するか、イエズスに反対するか、の二つに。
「人類を何とか、苦しみを通して救いたい」というイエズスに付く側と、ポンシオ・ピラトに代表されるように「かかわりたくない。手を洗って、苦しみたくない」というイエズスの十字架に反対する側。
私たちは、マリア様のように、十字架の足下まで、イエズス様のあとを付き従うべきであること。
マリア様は、どれほど苦しまれたことであろうか! 聖母は、つねに、主に「主のはしためはここにおります!Ecce ancilla Domini 」と答えていたこと。
イエズスは、聖母と共に、御自分の苦しみを捧げられたこと。イエズスは、私たちが主の苦しみと一致して苦しむことを喜ばれること。
聖母マリア様は、私たちにも「十字架の下に行こう」と、「一緒においで」と招いていること。ファチマの聖母マリアも子供たちに、苦しみを捧げることをお願いしたこと。
多くの聖人が、イエズス様の元に行く為に「苦しみたい」と、思っていたこと。
では、お読み下さい。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2015年7月4日 初土曜日 聖母の汚れ無き御心の随意ミサ
小野田神父説教
聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は2015年7月4日、7月の初土曜日のミサをしております。聖母の汚れ無き御心の随意ミサです。今日のこの御ミサの直後に、いつものように公教要理があります。この前の続きをいたしましょう。
明日ではなくその一週間後の7月12日の主日には、午後6時30分から、レネー神父様がミサを捧げて下さいます。8月の御ミサは、7月31日から8月1日です。そして8月は11日から黙想会があり、15日までです。そして16日には、ここで午前中にミサがあります。どうぞお間違えのないようになさって下さい。
“Stabant juxta crucem Jesu mater ejus.”
「イエズスの十字架の下に、その母が立ち留まっていた。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、イエズス様の聖心は私たちに、罪の償いをする事を求めています。そしてその事について、私たちは昨日黙想しました。ところで、イエズス様が私たちの為に、「苦しみを捧げたい。自分の全てを、全く惜しみなく、限りなく、残すところなく、全てを私たちに与えたい、与え尽くしたい、苦しみぬきたい。」と、思っているにもかかわらず、人類はむしろ、喜びや楽しみや快楽を追及しています。それだけを一生懸命求めています。そして非常にしばしば、それだけの事に熱中しています。そして出来る限り、苦しみや辛い事から避けよう、不愉快な事から逃れよう、天主様の掟から逃れよう、教会の掟から解放されよう、という事だけを求めています。
人類はあたかも2つの部分に分けられているかのようです。1つは、イエズス様に代表される、「人類を何とか、苦しみを通して救いたい。」という人々と、もう1つは、ポンシオ・ピラトに代表されるように、「あぁ、一体何があっても俺はかかわりない。手を洗って、全然もう苦しみたくない、俺はもう責任を逃れたい。」という2つです。
イエズス様は、十字架を通して、極みまで私たちを愛して下さいました。
イエズス様は、福者アンジェラ・デ・フォリーニョという修道女に、ある時こう仰ったそうです、「私のお前に対する愛は、決して劇ではなかった。決して冗談ではなかった。見せかけではなかった。」と。
イエズス様が、本当の真実の、実際に苦しんだ愛の証拠を、私たちの目の前に突き出しているにもかかわらず、人類は、このイエズス様の十字架を憎んでいます。何とかそれから逃れようとしています。イエズス様は十字架を担いながら、私たちの胸のドアをノックして、ノックノック「もしも私のあとに従うなら、十字架をとって私に従え。私のあとに付いて来なさい。」と、仰るのですが、この世はそのイエズス様の声に、耳を傾けようともせず、ドアを開けようともせず、冷淡と無関心で応えています。
でも、イエズス様を愛したい、イエズス様のこの十字架の本当の愛を、少しでも理解するお恵みを受けた私たちは、このままこの世と一緒に、イエズス様の声に、イエズス様からの招きに耳をふさいで、「知らない。」と、言う事ができるでしょうか。私たちは、イエズス様が行かれる所にはどこでも、付いて行くべきではないでしょうか。
イエズス様は、タボル山で御光栄を見せました。私たちは、タボル山に付いて行きます。イエズス様は、カナで奇跡を行いました。もちろん、カナに付いて行きます。イエズス様は、最後の晩餐で御聖体を制定して、私たちに御聖体を下さいます。奇跡も行います。私たちはイエズス様に付いて行きます。イエズス様は、病人を治し、死者をよみがえらせました。もちろん、私たちはそこに付いて行きます。しかし、そこで留まってはなりません。私たちはゲッセマニの園、私たちはピラトの官邸、それから鞭打ちの台、それから十字架の足下まで、イエズス様のあとを付き従うべきではないでしょうか。
イエズス様は、最も愛する者にそのお恵みを与えます。一番イエズス様が愛された方はどなたでしょうか。それはマリア様でした。イエズス様は、マリア様にそのお恵みを与えました。
イエズス様がお生まれになって40日の後に、マリア様は、イエズス様を神殿に捧げました。それはモーゼの法律に従っての事でした。マリア様がイエズス様を両の腕に、両手で抱いて、エルサレムの神殿に登って、御潔めの式にあずかって、そしてイエズス様を聖父に捧げようとする時に、その時に、聖霊の息吹によって、ある老人がそこで待っていました。その老人の名前は、シメオンといいます。シメオンという人は、非常に聖なる立派な義人で、「イエズス・キリスト、救い主が来るまで、お前は死なない。お前は、必ず救い主を見るだろう。」という予言を受けていました。そこで、いつも祈りをして、犠牲を捧げながら、救い主が来るのを待っていました。
そしてその日には、特別の照らしがあったので、エルサレムの神殿で救い主が来る、というのを待っていました。すると見て下さい、あそこに貧しい恰好をしたお母さんが、赤ちゃんを連れて来るではないですか。その隣にはお父さんがいます。そしてお父さんは、小さなハトを2羽持って、捧げる為にやって来ました。お金持ちは子羊を捧げますけれども、貧しい人はハトを1つがい捧げる習慣でした。そういう決まりがありました。様子を見るに貧しい人です。しかしシメオンは、その聖家族を見るとすぐに分かりました、「あぁ!この子こそ、私たちの為に生まれたメシアだ。救い主だ。キリストだ。」
そしてシメオンは、その群衆の中をかき分けて、そのマリア様の所に近付きます、「奥さん、どうぞこの子供を私に抱かせて下さい。この子は、私たちの救いの、天主からの救いです。」マリア様はびっくりして、「どうぞ。ご自由に、どうぞ。」
イエズス様はきっと、マリア様のやわらかい手から、おじいさんのゴツゴツした腕に抱かれて、ちょっと寂しい思いをしたかもしれません。しかし、シメオンは非常に喜んで、感謝して、もう涙に溢れて、「主よ、今こそ主のしもべを逝かせて下さい。天の国に行かせて下さい。何故かというと、御身の救いを私はこの目が見たからです。これこそが、エルサレムの栄光、異邦人を照らす光、人類が待ちに待っていた救い主です。」と、預言の詩を謳いました。そしてシメオンはその後に、マリア様にこう言うのです、「奥さん、この子供は、多くの人の滅びと栄えの、逆らいのしるしとなるでしょう。この子に賛成するかこの子に付くか、或いはこの子に反対するかによって、人類が2つに分かれるでしょう。この子に付く者は救われ、この子供に逆らう者は、永遠に滅びてしまうでしょう。」「そしてお母さん、あなたの胸は、あなたの霊魂は、悲しみの剣で刺し貫かれるでしょう。」と、預言しました。
考えてもみて下さい。若いお母さんであったマリア様は、小さな生まれたばかりの、40日になった小さな赤ちゃん、イエズス様を連れて、神殿に捧げて行くと、はっきり預言の言葉を聞くのです、「この子は、苦しむ。この子は、贖いの為に、とてつもない苦しみを受けなければならない。そしてお母さん、マリア様、あなたも苦しみの母となるのですよ。この子が苦しむのを見て、どれほど苦しむでしょうか。」
本当にその様になりました。イエズス様が生まれた時には、生ける、生まれたばかりの幼子イエズス様を抱いたマリア様は、33年後の後には、十字架に付けられて、そして命を失った救い主、イエズス様を、また抱くようになります。
イエズス様が十字架を担いつつある、イエズス様が今、大変な事になっている、という時に、マリア様はヨハネに言いました、「さあヨハネ、我が子よ、行きましょう。イエズスの元に行きましょう。」そしておそらく、ピラトが、「あぁ、俺は関係ないよ。」と、言ってこの群衆に、「この男を見ろ。」と、言った時に、「Ecce homo.」と、言った時に、マリア様はおそらく、「ここに、主の婢女がおります。もしも私の苦しみが必要ならば、私の苦しみも使って下さい。私を道具として使って下さい。私も一緒に苦しみます。」と、言ったに違いありません。
そしてマリア様は、イエズス様の十字架のあとを慕って、そのあとを付いて、忠実に歩いて行きました。
「エフェゾの公会議」というのが、431年にありました。その時に、有名な聖チリロという教父は、その公会議に時に、「マリア様が十字架の下にいなかったら、十字架は倒れてしまっただろう。」と。「マリア様がいたからこそ、十字架は立つ事ができた」と。
マリア様は、イエズス様を直接にお慰めする事ができませんでした。どれほどそうしたかったことでしょうか。ヘロデの手から、イエズス様の命が危ない、という時には、ヘロデから守りました、エジプトにまで行きました。しかし今回は、自分の力でどうしてもする事ができませんでした。何故かというと、「それは御父の御旨ではない。」と、知っていたからです。
しかし、イエズス様を慰めようとする人々を見て、マリア様はどれほど嬉しく思われたでしょうか。見て下さい、十字架の道を行くイエズス様の所に、ある勇気のある女の方が出てきました。ヴェロニカという女の方で、その方はタオルを持って来てハンカチを持って来て、イエズス様に差し出すのです。するとイエズス様は、汗と血と傷でいっぱいになった顔をそのタオルで拭いて、そしてそのタオルをヴェロニカに返します。
イエズス様はそのようなタオルを受けて、どれほど喜ばれた事でしょうか。マリア様はそれを後ろで見て、「あぁ、ヴェロニカや。あぁ、娘よ。ありがとう。この御子を慰めてくれてありがとう。私はそれをしたくてもできないけれども、あなたが私の代わりにしてくれた。」と、どれほど喜んだ事でしょうか。
イエズス様はそうやって、ご自分が人類の為にこれほど苦しんだのですから、私たちがその苦しみに心を砕く事を、喜んで下さいます。
ある時、聖フィリッポ・ネリという有名な聖人がいました。そのフィリッポ・ネリという方は病気で、お医者さんから、「あぁ、フィリッポ神父様、神父様はちょっと今お熱があるので、ベッドで休んで下さい。神父様は今病気なので、おいしいお薬を飲んで下さい。おいしいご飯を食べて下さい。」そして神父様の周りに、先生や看護婦の方や、修道士の方がいて、「あぁ神父様、大丈夫ですか?早く良くなって下さい。」と、お見舞いに行ったそうです。すると、聖フィリッポ・ネリは涙を流して、「あぁ、私はこんなにつまらない者だけれども、温かい、やわらかいベッドに寝ている。でも、イエズス様は罪がなかったにもかかわらず、木の十字架に釘付けにせられていた。私は、『病気だ』といって、おいしいものを食べる事ができるけれども、イエズス様は、『もう苦しい、喉が渇いた』という時に、酢と苦いものを与えられた。私は、『ちょっと頭が痛い』というだけで、お医者さんや看護の方やブラザーやお友達が見舞いに来てくれて、優しい言葉をかけてくれるけれども、イエズス様は、もう『死に至る』という時に、悪口を言われたり、敵に囲まれていて、辛い思いをしていた。あぁ、イエズス様がかわいそうだ!」と、仰ったそうです。
イエズス様は、御母をいつも御自分の十字架の下に寄せて、そして共に、お母さんと共に、マリア様と共に、御自分の苦しみを捧げられました。
マリア様は、カナの奇跡の時にはおられました。しかし、その他の奇跡の時にはいらっしゃいませんでした。タボル山で栄光の姿を見せた時にも、マリア様はいらっしゃいませんでした。しかし、十字架の下の時には、「絶対に私が行く。」きっと、ヨハネは、「お母さん、行ってはいけません。きっと、どれほど辛い事でしょうか。きっと悲しみます。」「いや、ヨハネや、私は行かなければなりません。私は行って、イエズスを御父に捧げるのです。」と、仰ったに違いありません。
マリア様は、私たちにおそらく、「一緒においで。」と、言うに違いありません。多くの聖人たちが、そのきっとマリア様からの招きに応えて、聖ヨハネのように、「十字架の下に行こう。」と、招いたに違いありません。
色んな聖人の話があります。色んな聖人の話をしようと思ったのですけれども、でも話が長くなるので、2人の方だけにします。
1人は、聖マルガリタ・マリア・アラコックという方で、イエズス様がマルガリタ・マリア・アラコックという方に現れて、自分の、ご自分の御姿を見せたそうです。十字架に付けられた苦しんだイエズス様と、栄光のイエズス様、「どっちの方がいいですか?」と聞くと、聖マルガリタ・マリア・アラコックは、「十字架に付けられたイエズス様のその御影を下さい。」と、言ったそうです。
聖リドヴィナという方がいます。この方は幼い時から病気で非常に苦しんでいました。そしてこの聖人はいつもこう言っていたそうです、「私は、苦しいけれどもとても幸せです。何故かというと、イエズス様といつも一致している事ができるから。それで、もしも、一回『アヴェ・マリア』と、言うだけで病気が治るとしたとしても、私はその治る為のお祈りをしません。」と。「私はこの苦しみを、イエズス様と共に捧げたい。」と、言っていたそうです。
多くの聖人が、イエズス様の元に行く為に、「苦しみたい。」と、思っていました。
ファチマのマリア様も、最初に現れた時に、子供たちにこう言いました。ルチアは、「あなた様は、どちらからいらっしゃったのですか?」と、聞くと、「私は、天国からの者です。」マリア様は、「私は天国から来ました。」とは言わなかったのです。「私は天国の者です、天国からの者です。」と、言いました。子供たちがルチアがこう言うのです、「マリア様、私は天国に行けますか?」「はい、あなたは行くでしょう。」「では、ジャシンタは行きますか?」「はい、ジャシンタも行きます。」「では、フランシスコは天国に行きますか?」「はい、でもフランシスコはたくさんロザリオのお祈りをしなければなりません。」「では、私たちのつい最近亡くなったお友達の、マリア・ダス・ネヴェスさんは今どうなっていますか?」「ああ、あの子は今天国にいますよ。」「じゃあ、やっぱり亡くなったアメリアさんはどうですか?」「あぁ、あの子は世の終わりまで煉獄にいます。」
それでマリア様は、罪人の回心の為に、子供たちにこうやってお願いをしました、「あなたは、天主様があなたに送る事を選んだ全ての苦しみを耐え忍ぶ為に、天主様に自分を捧げる事を望みますか?そしてこの苦しみを捧げるのは罪の償いの為、そして罪人の回心の為です。望みますか?」と、聞くと、ルチアは子供たちを代表して、「はい、私たちはそうします。」と、答えました。するとマリア様は、「では、あなたたちはたくさん苦しまなければなりませんよ。でも、天主様の聖寵があなたたちの慰めとなるでしょう。」と、仰って、子供たちが天主様の光の中にいる、という事を見せてくれました。
マリア様は、今日ミサに与っている私たちに、きっと同じ事を言うに違いありません、「さあ、イエズス様の十字架の下に行きましょう。罪の償いをお捧げ致しましょう。この世は、ますますイエズス様の十字架を侮辱して、冷淡に、そして無関心で、愛に対して悪をもって返しています。だから償いをする霊魂が必要です。償いの為に、苦しみを捧げてくださる事ができますか?イエズス様の送る十字架を担ってくださいますか?一緒に私と共に、十字架の下に立つ事ができますか?」
私たちはマリア様と共に、「はい、主の婢女はここにおります。仰せの如く我になれかし。」と、答える事に致しましょう。
“Stabant juxta crucem Jesu mater ejus.”
「イエズスの十字架の下に、その母は立ち留まっていた。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
2015年7月4日初土曜日に大阪で捧げた「聖母の汚れ無き御心の随意ミサ」でのお説教をご紹介します。
ここでは聖母マリアさまがイエズス・キリストの全てに付き従ったことを説明します。つまり、奇跡を起こすイエズス様だけではなく、十字架に苦しむイエズスを離れなかったことです。
御浄めの時に言われた、預言者シメオンの預言が実現し、人類は二つに分けられていること。イエズスに一致するか、イエズスに反対するか、の二つに。
「人類を何とか、苦しみを通して救いたい」というイエズスに付く側と、ポンシオ・ピラトに代表されるように「かかわりたくない。手を洗って、苦しみたくない」というイエズスの十字架に反対する側。
私たちは、マリア様のように、十字架の足下まで、イエズス様のあとを付き従うべきであること。
マリア様は、どれほど苦しまれたことであろうか! 聖母は、つねに、主に「主のはしためはここにおります!Ecce ancilla Domini 」と答えていたこと。
イエズスは、聖母と共に、御自分の苦しみを捧げられたこと。イエズスは、私たちが主の苦しみと一致して苦しむことを喜ばれること。
聖母マリア様は、私たちにも「十字架の下に行こう」と、「一緒においで」と招いていること。ファチマの聖母マリアも子供たちに、苦しみを捧げることをお願いしたこと。
多くの聖人が、イエズス様の元に行く為に「苦しみたい」と、思っていたこと。
では、お読み下さい。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2015年7月4日 初土曜日 聖母の汚れ無き御心の随意ミサ
小野田神父説教
聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は2015年7月4日、7月の初土曜日のミサをしております。聖母の汚れ無き御心の随意ミサです。今日のこの御ミサの直後に、いつものように公教要理があります。この前の続きをいたしましょう。
明日ではなくその一週間後の7月12日の主日には、午後6時30分から、レネー神父様がミサを捧げて下さいます。8月の御ミサは、7月31日から8月1日です。そして8月は11日から黙想会があり、15日までです。そして16日には、ここで午前中にミサがあります。どうぞお間違えのないようになさって下さい。
“Stabant juxta crucem Jesu mater ejus.”
「イエズスの十字架の下に、その母が立ち留まっていた。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、イエズス様の聖心は私たちに、罪の償いをする事を求めています。そしてその事について、私たちは昨日黙想しました。ところで、イエズス様が私たちの為に、「苦しみを捧げたい。自分の全てを、全く惜しみなく、限りなく、残すところなく、全てを私たちに与えたい、与え尽くしたい、苦しみぬきたい。」と、思っているにもかかわらず、人類はむしろ、喜びや楽しみや快楽を追及しています。それだけを一生懸命求めています。そして非常にしばしば、それだけの事に熱中しています。そして出来る限り、苦しみや辛い事から避けよう、不愉快な事から逃れよう、天主様の掟から逃れよう、教会の掟から解放されよう、という事だけを求めています。
人類はあたかも2つの部分に分けられているかのようです。1つは、イエズス様に代表される、「人類を何とか、苦しみを通して救いたい。」という人々と、もう1つは、ポンシオ・ピラトに代表されるように、「あぁ、一体何があっても俺はかかわりない。手を洗って、全然もう苦しみたくない、俺はもう責任を逃れたい。」という2つです。
イエズス様は、十字架を通して、極みまで私たちを愛して下さいました。
イエズス様は、福者アンジェラ・デ・フォリーニョという修道女に、ある時こう仰ったそうです、「私のお前に対する愛は、決して劇ではなかった。決して冗談ではなかった。見せかけではなかった。」と。
イエズス様が、本当の真実の、実際に苦しんだ愛の証拠を、私たちの目の前に突き出しているにもかかわらず、人類は、このイエズス様の十字架を憎んでいます。何とかそれから逃れようとしています。イエズス様は十字架を担いながら、私たちの胸のドアをノックして、ノックノック「もしも私のあとに従うなら、十字架をとって私に従え。私のあとに付いて来なさい。」と、仰るのですが、この世はそのイエズス様の声に、耳を傾けようともせず、ドアを開けようともせず、冷淡と無関心で応えています。
でも、イエズス様を愛したい、イエズス様のこの十字架の本当の愛を、少しでも理解するお恵みを受けた私たちは、このままこの世と一緒に、イエズス様の声に、イエズス様からの招きに耳をふさいで、「知らない。」と、言う事ができるでしょうか。私たちは、イエズス様が行かれる所にはどこでも、付いて行くべきではないでしょうか。
イエズス様は、タボル山で御光栄を見せました。私たちは、タボル山に付いて行きます。イエズス様は、カナで奇跡を行いました。もちろん、カナに付いて行きます。イエズス様は、最後の晩餐で御聖体を制定して、私たちに御聖体を下さいます。奇跡も行います。私たちはイエズス様に付いて行きます。イエズス様は、病人を治し、死者をよみがえらせました。もちろん、私たちはそこに付いて行きます。しかし、そこで留まってはなりません。私たちはゲッセマニの園、私たちはピラトの官邸、それから鞭打ちの台、それから十字架の足下まで、イエズス様のあとを付き従うべきではないでしょうか。
イエズス様は、最も愛する者にそのお恵みを与えます。一番イエズス様が愛された方はどなたでしょうか。それはマリア様でした。イエズス様は、マリア様にそのお恵みを与えました。
イエズス様がお生まれになって40日の後に、マリア様は、イエズス様を神殿に捧げました。それはモーゼの法律に従っての事でした。マリア様がイエズス様を両の腕に、両手で抱いて、エルサレムの神殿に登って、御潔めの式にあずかって、そしてイエズス様を聖父に捧げようとする時に、その時に、聖霊の息吹によって、ある老人がそこで待っていました。その老人の名前は、シメオンといいます。シメオンという人は、非常に聖なる立派な義人で、「イエズス・キリスト、救い主が来るまで、お前は死なない。お前は、必ず救い主を見るだろう。」という予言を受けていました。そこで、いつも祈りをして、犠牲を捧げながら、救い主が来るのを待っていました。
そしてその日には、特別の照らしがあったので、エルサレムの神殿で救い主が来る、というのを待っていました。すると見て下さい、あそこに貧しい恰好をしたお母さんが、赤ちゃんを連れて来るではないですか。その隣にはお父さんがいます。そしてお父さんは、小さなハトを2羽持って、捧げる為にやって来ました。お金持ちは子羊を捧げますけれども、貧しい人はハトを1つがい捧げる習慣でした。そういう決まりがありました。様子を見るに貧しい人です。しかしシメオンは、その聖家族を見るとすぐに分かりました、「あぁ!この子こそ、私たちの為に生まれたメシアだ。救い主だ。キリストだ。」
そしてシメオンは、その群衆の中をかき分けて、そのマリア様の所に近付きます、「奥さん、どうぞこの子供を私に抱かせて下さい。この子は、私たちの救いの、天主からの救いです。」マリア様はびっくりして、「どうぞ。ご自由に、どうぞ。」
イエズス様はきっと、マリア様のやわらかい手から、おじいさんのゴツゴツした腕に抱かれて、ちょっと寂しい思いをしたかもしれません。しかし、シメオンは非常に喜んで、感謝して、もう涙に溢れて、「主よ、今こそ主のしもべを逝かせて下さい。天の国に行かせて下さい。何故かというと、御身の救いを私はこの目が見たからです。これこそが、エルサレムの栄光、異邦人を照らす光、人類が待ちに待っていた救い主です。」と、預言の詩を謳いました。そしてシメオンはその後に、マリア様にこう言うのです、「奥さん、この子供は、多くの人の滅びと栄えの、逆らいのしるしとなるでしょう。この子に賛成するかこの子に付くか、或いはこの子に反対するかによって、人類が2つに分かれるでしょう。この子に付く者は救われ、この子供に逆らう者は、永遠に滅びてしまうでしょう。」「そしてお母さん、あなたの胸は、あなたの霊魂は、悲しみの剣で刺し貫かれるでしょう。」と、預言しました。
考えてもみて下さい。若いお母さんであったマリア様は、小さな生まれたばかりの、40日になった小さな赤ちゃん、イエズス様を連れて、神殿に捧げて行くと、はっきり預言の言葉を聞くのです、「この子は、苦しむ。この子は、贖いの為に、とてつもない苦しみを受けなければならない。そしてお母さん、マリア様、あなたも苦しみの母となるのですよ。この子が苦しむのを見て、どれほど苦しむでしょうか。」
本当にその様になりました。イエズス様が生まれた時には、生ける、生まれたばかりの幼子イエズス様を抱いたマリア様は、33年後の後には、十字架に付けられて、そして命を失った救い主、イエズス様を、また抱くようになります。
イエズス様が十字架を担いつつある、イエズス様が今、大変な事になっている、という時に、マリア様はヨハネに言いました、「さあヨハネ、我が子よ、行きましょう。イエズスの元に行きましょう。」そしておそらく、ピラトが、「あぁ、俺は関係ないよ。」と、言ってこの群衆に、「この男を見ろ。」と、言った時に、「Ecce homo.」と、言った時に、マリア様はおそらく、「ここに、主の婢女がおります。もしも私の苦しみが必要ならば、私の苦しみも使って下さい。私を道具として使って下さい。私も一緒に苦しみます。」と、言ったに違いありません。
そしてマリア様は、イエズス様の十字架のあとを慕って、そのあとを付いて、忠実に歩いて行きました。
「エフェゾの公会議」というのが、431年にありました。その時に、有名な聖チリロという教父は、その公会議に時に、「マリア様が十字架の下にいなかったら、十字架は倒れてしまっただろう。」と。「マリア様がいたからこそ、十字架は立つ事ができた」と。
マリア様は、イエズス様を直接にお慰めする事ができませんでした。どれほどそうしたかったことでしょうか。ヘロデの手から、イエズス様の命が危ない、という時には、ヘロデから守りました、エジプトにまで行きました。しかし今回は、自分の力でどうしてもする事ができませんでした。何故かというと、「それは御父の御旨ではない。」と、知っていたからです。
しかし、イエズス様を慰めようとする人々を見て、マリア様はどれほど嬉しく思われたでしょうか。見て下さい、十字架の道を行くイエズス様の所に、ある勇気のある女の方が出てきました。ヴェロニカという女の方で、その方はタオルを持って来てハンカチを持って来て、イエズス様に差し出すのです。するとイエズス様は、汗と血と傷でいっぱいになった顔をそのタオルで拭いて、そしてそのタオルをヴェロニカに返します。
イエズス様はそのようなタオルを受けて、どれほど喜ばれた事でしょうか。マリア様はそれを後ろで見て、「あぁ、ヴェロニカや。あぁ、娘よ。ありがとう。この御子を慰めてくれてありがとう。私はそれをしたくてもできないけれども、あなたが私の代わりにしてくれた。」と、どれほど喜んだ事でしょうか。
イエズス様はそうやって、ご自分が人類の為にこれほど苦しんだのですから、私たちがその苦しみに心を砕く事を、喜んで下さいます。
ある時、聖フィリッポ・ネリという有名な聖人がいました。そのフィリッポ・ネリという方は病気で、お医者さんから、「あぁ、フィリッポ神父様、神父様はちょっと今お熱があるので、ベッドで休んで下さい。神父様は今病気なので、おいしいお薬を飲んで下さい。おいしいご飯を食べて下さい。」そして神父様の周りに、先生や看護婦の方や、修道士の方がいて、「あぁ神父様、大丈夫ですか?早く良くなって下さい。」と、お見舞いに行ったそうです。すると、聖フィリッポ・ネリは涙を流して、「あぁ、私はこんなにつまらない者だけれども、温かい、やわらかいベッドに寝ている。でも、イエズス様は罪がなかったにもかかわらず、木の十字架に釘付けにせられていた。私は、『病気だ』といって、おいしいものを食べる事ができるけれども、イエズス様は、『もう苦しい、喉が渇いた』という時に、酢と苦いものを与えられた。私は、『ちょっと頭が痛い』というだけで、お医者さんや看護の方やブラザーやお友達が見舞いに来てくれて、優しい言葉をかけてくれるけれども、イエズス様は、もう『死に至る』という時に、悪口を言われたり、敵に囲まれていて、辛い思いをしていた。あぁ、イエズス様がかわいそうだ!」と、仰ったそうです。
イエズス様は、御母をいつも御自分の十字架の下に寄せて、そして共に、お母さんと共に、マリア様と共に、御自分の苦しみを捧げられました。
マリア様は、カナの奇跡の時にはおられました。しかし、その他の奇跡の時にはいらっしゃいませんでした。タボル山で栄光の姿を見せた時にも、マリア様はいらっしゃいませんでした。しかし、十字架の下の時には、「絶対に私が行く。」きっと、ヨハネは、「お母さん、行ってはいけません。きっと、どれほど辛い事でしょうか。きっと悲しみます。」「いや、ヨハネや、私は行かなければなりません。私は行って、イエズスを御父に捧げるのです。」と、仰ったに違いありません。
マリア様は、私たちにおそらく、「一緒においで。」と、言うに違いありません。多くの聖人たちが、そのきっとマリア様からの招きに応えて、聖ヨハネのように、「十字架の下に行こう。」と、招いたに違いありません。
色んな聖人の話があります。色んな聖人の話をしようと思ったのですけれども、でも話が長くなるので、2人の方だけにします。
1人は、聖マルガリタ・マリア・アラコックという方で、イエズス様がマルガリタ・マリア・アラコックという方に現れて、自分の、ご自分の御姿を見せたそうです。十字架に付けられた苦しんだイエズス様と、栄光のイエズス様、「どっちの方がいいですか?」と聞くと、聖マルガリタ・マリア・アラコックは、「十字架に付けられたイエズス様のその御影を下さい。」と、言ったそうです。
聖リドヴィナという方がいます。この方は幼い時から病気で非常に苦しんでいました。そしてこの聖人はいつもこう言っていたそうです、「私は、苦しいけれどもとても幸せです。何故かというと、イエズス様といつも一致している事ができるから。それで、もしも、一回『アヴェ・マリア』と、言うだけで病気が治るとしたとしても、私はその治る為のお祈りをしません。」と。「私はこの苦しみを、イエズス様と共に捧げたい。」と、言っていたそうです。
多くの聖人が、イエズス様の元に行く為に、「苦しみたい。」と、思っていました。
ファチマのマリア様も、最初に現れた時に、子供たちにこう言いました。ルチアは、「あなた様は、どちらからいらっしゃったのですか?」と、聞くと、「私は、天国からの者です。」マリア様は、「私は天国から来ました。」とは言わなかったのです。「私は天国の者です、天国からの者です。」と、言いました。子供たちがルチアがこう言うのです、「マリア様、私は天国に行けますか?」「はい、あなたは行くでしょう。」「では、ジャシンタは行きますか?」「はい、ジャシンタも行きます。」「では、フランシスコは天国に行きますか?」「はい、でもフランシスコはたくさんロザリオのお祈りをしなければなりません。」「では、私たちのつい最近亡くなったお友達の、マリア・ダス・ネヴェスさんは今どうなっていますか?」「ああ、あの子は今天国にいますよ。」「じゃあ、やっぱり亡くなったアメリアさんはどうですか?」「あぁ、あの子は世の終わりまで煉獄にいます。」
それでマリア様は、罪人の回心の為に、子供たちにこうやってお願いをしました、「あなたは、天主様があなたに送る事を選んだ全ての苦しみを耐え忍ぶ為に、天主様に自分を捧げる事を望みますか?そしてこの苦しみを捧げるのは罪の償いの為、そして罪人の回心の為です。望みますか?」と、聞くと、ルチアは子供たちを代表して、「はい、私たちはそうします。」と、答えました。するとマリア様は、「では、あなたたちはたくさん苦しまなければなりませんよ。でも、天主様の聖寵があなたたちの慰めとなるでしょう。」と、仰って、子供たちが天主様の光の中にいる、という事を見せてくれました。
マリア様は、今日ミサに与っている私たちに、きっと同じ事を言うに違いありません、「さあ、イエズス様の十字架の下に行きましょう。罪の償いをお捧げ致しましょう。この世は、ますますイエズス様の十字架を侮辱して、冷淡に、そして無関心で、愛に対して悪をもって返しています。だから償いをする霊魂が必要です。償いの為に、苦しみを捧げてくださる事ができますか?イエズス様の送る十字架を担ってくださいますか?一緒に私と共に、十字架の下に立つ事ができますか?」
私たちはマリア様と共に、「はい、主の婢女はここにおります。仰せの如く我になれかし。」と、答える事に致しましょう。
“Stabant juxta crucem Jesu mater ejus.”
「イエズスの十字架の下に、その母は立ち留まっていた。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。