アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
先日の主日に東京で捧げた聖伝のミサのお説教をご紹介します。
2015年7月5日 聖霊降臨後第6主日
小野田神父説教
聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。今日は2015年7月5日、聖霊降臨後第6主日のミサを捧げています。今日は会場の都合で、午前中のミサができなくて不便な時間帯になった事をお詫び申し上げます。今日のこの御ミサの後には、残念ながら公教要理の時間をつくることができないのですが、しかし16時から、晩課を皆さんで捧げたいと思っています。明日は朝7時から、月曜日のミサがあります。8月は、8月3日午前10時30分から、4日には午前7時にいつものようにあります。・・・
“Circuibo et immolabo hostiam jubilationis”
「私は祭壇に廻って、喜びの生贄を屠ろう。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
今日、聖霊降臨後第6主日のミサでは、福音ではイエズス様が群衆をあわれんで、「彼らは私のあとを付いて、3日も砂漠にやって来て、私の話を聞きに来た。しかし、食べる物がなくて、こんなこのまま家に帰らせては、道で倒れてしまうだろう。何とか彼らを養う方法はないか。」と、弟子に聞きます。
弟子は、「あぁ、こんな砂漠でどこで物を買ったら良いでしょうか。」
セブンイレブンもないし、自動販売機も無いし。それで、「ここにあるのはパンが7つ、魚が数匹、一体こんなに4000名の大群衆をどうして養う事ができるだろう。」イエズス様は憐れみのあまりに、この手元にあったパンを増やして、皆に食べさせて、余りがありました。
これは歴史上本当にあった事ですけれども、イエズス様はこの事を以って、何か別の事を意味しようとしていました。イエズス様がこれを、この奇跡を行ったというのは、将来私たちに御聖体という奇跡を起こして、私たちを霊的に養おう、という奇跡の前兆でした。それと同時に、イエズス様はこの世では、イエズス様の御言葉によって、人々は満足するけれども、イエズス様が与えるパンでは、人々は満足する事ができるけれども、この世のいかなる食べ物も、この世のいかなる富も、人々を本当に満足させる事はできない。イエズス様だけが、真の天主だけが、天主の為に創られた霊魂を、本当に満足させる事ができる。
イエズス様は、「私の食べ物は、聖父の御旨を果たす事だ。」と、仰る時がありますが、「この世の名誉も快楽も、官能の喜びも肉の楽しみも、一切、本当の意味で人間を満足させる事はできない。天主様だけだ。」と、いう霊的な意味を教えてくれようとしました。これは、聖アルフォンソ・デ・レゴリオの説明です。
すると、今日この福音では、イエズス様が憐れみを元に、文字通りのパンの奇跡を、本当に物質的に起こして下さった、という事が分かります。実は、その深い意味があって、実は御聖体につながるものであって、御聖体の事を理解できなければ、パンの奇跡が一体なぜ起こったか、という事が分からない。イエズス様の厚い深い、意味の厚みをみなければ、イエズス様がここでなさった奇跡の本当の意味が分からない、という事を教えています。
ちょうど書簡書でも、聖パウロは同じ事を言おうとしています。洗礼式、洗礼について聖パウロは語ります、洗礼はもしかしたら、非常に薄っぺらい浅い理解をすれば、「あぁ、これはカトリック教会に入会する式だ、入会式だ。」と、思うかもしれません。或いはもう少し深くなると、「あぁ、洗礼というのは、私たちの罪を赦される、罪の赦しの為の秘跡だ。私たちは天主様から憐れみを受けて、罪が赦される事だ。私たちはものを貰うのだ。イエズス様が私たちに恵んで下さるのだ。ハッピー。」と、いう理解ができますが、聖パウロは、「いや、もっと深いものがある。」
「洗礼というのは特に、水の中に、深くどっぷりと浸かって洗礼を受けるのだから、これはちょうど、イエズス様と共に、墓に葬られた事である。洗礼というのは、イエズス・キリストと共に、『死』に与る事である。私たちは、この自分の罪と、肉の欲と、この世の欲において死んだものとなるのだ。全ての罪を、十字架に付けるのだ。古い人間を、十字架に付けて死なせるのだ。私たちは、主の『死』に与ることだ。主の身体の一部となる事だ。罪に死に、主に生きる事だ。」と、深い意味を教えています。
「つまり、洗礼というのは、『ただ赦されるだけ』というのではなくて、『私たちが積極的に、罪に死ななければならない。罪を放棄しなければならない。』という事を意味する。」と、言っています。
今日はこのミサをみると、「御聖体の深い意味がもっとある。」という事に気が付きます。「御聖体の深い意味がもっとある」という事が黙想できます。そこで、それを紹介するのを許して下さい。
御聖体というのは、私たちがイエズス様の御体を受ける事です。つまりこのパンの奇跡が本当に実現して、その深い意味が実現して、イエズス・キリストの真の体を霊魂に受ける事です。キリストの生命に与る事です。しかし、今日の御聖体拝領の聖体拝領誦をご覧下さい。ここにカトリック教会の深い、御聖体に対する理解が書かれています、「私は、喜びの生贄を屠ろう。“immolabo hostiam jubilationis.”」
聖パウロの教えによれば、「私たちは、キリストの生命に与るのみならず、私たちは御聖体を拝領する時に、キリストの『生贄』に、『死』に与る者である。」という事です。
私たちは、御聖体拝領する時に、私たち自身を生贄として、イエズス様と共に捧げられた生贄として捧げて、イエズス様と1つの生贄となる、という事です。
確かに新しいミサでは、御聖体変化の時に、その言葉を私たちに言わせて、私たちがあたかも、「イエズス様は御聖体には来られておられない。イエズスが来られるのは世の終わりであって、それまで私たちは別の事をしている。」という印象を受けさせるような言い方をするので、私たちには、何故そのように新しいミサでは、御聖体変化のその直後に、それを変な文脈で、変に誤解させるような使い方をするので、それを残念に思っています。
しかし、私たちが御聖体拝領する時には、私たちはイエズス様の「死」に与って、主がこの世に肉を以って見える形で裁く為に再臨されるまで、私たちは主の「死」に与って、主の「死」を告げ知らさなければなりません。
カトリックの典礼は、全てこの事を教えています。私たちがミサを捧げる時に、ただブドウ酒だけを捧げるのではないのです。水をどうしても1滴入れなければなりません。必ず水を1滴。
1滴入れると入れないとで何の違いがあるのか。どうせ水の1滴はブドウ酒に混じってしまって、ブドウ酒となるではないですか。たかが1滴入れたから、ブドウ酒のアルコールの濃度が低くなるでもなければ、高くなるでもないし、一体何の違いがあるのか。
物質的に於いては違いはないかもしれませんが、ほとんど。あっても0.000001%の違いかもしれませんが、霊的には深い意味があります。このカリスの中に落とされる1滴は、「私たちの生贄」を表しているからです。イエズス様の捧げた十字架の生贄だけでは、イエズス様は、「足りない。」と、思っているのです。どうしても、私たちの生贄が、そのイエズス様の生贄の中に入らなければなりません。
聖パウロは、「キリストの神秘体の苦しみの欠ける所を、私たちの苦しみで満たさなければならない。」と、言います。
イエズス様は、私たちがイエズス様の贖いの業に、苦しみを以って参与しなければならない、参与する事を求めています。ですから、司祭が生贄の捧げものを準備して、皆さんの方にグルリと廻って、「Orate, fratres」と、言います。このラテン語の意味は、「兄弟たちよ、祈れ、私とあなたたちの生贄が、主に嘉されるものとなりますように。」と。
どうしても、司祭と、皆さんの生贄が捧げられなければいけません。そうしなければ、イエズス様の為そうとした業が完成されないのです。イエズス様は、どうしても皆さんからの十字架を必要としています。
私たちが御聖体拝領をする時に、もしも私たちが、御聖体拝領でイエズス様から貰うだけ、という事を期待していただけでは、何も頂く事はできません。何故かというと、イエズス様に私たちが犠牲をお捧げして初めて、主と一致して初めて、私たちは主からそれを頂く事ができるからです。私たちはブドウ酒の中に入って初めて、ブドウ酒と同化する事ができるからです。
聖アウグスティヌスはこう言いました、「キリスト者の本当の生贄というのは、キリストと共に、私たちが1つの体を、生贄を形成する事である。」
ボスエというフランスの有名な人は作家は聖職者は司教様は、プロテスタントの人々の為に、カトリックの教えとは何か、という本を書いて、たくさん本を書いて、こう説明しました、「私たちは、イエズス・キリストと共に、私たちを生贄として、天主に捧げるのだ。これがミサの正しい与り方だ。」「もしも、私たちがこの生贄として、私たちを捧げる事をしないならば、それはミサに対する薄っぺらな理解でしかない。」と、いう事を教えています。
聖変化の後に、ミサの典文というミサのカノンが、終わりに、司祭は御聖体を取って、御血の上で、十字架の印をたくさん切ります。その時に司祭はこう言います、「Per ipsum, et cum ipso, et in ipso 《キリストを通して、キリストと共に、キリストに於いて》」これは、「私たちが全て、生贄であるキリストを通して、生贄であるキリストと共に、生贄であるキリストに於いて、私たちは全てをしなければならない。生贄であるキリストを、決して離れてはいけない。」と、いう事を教えています。
イエズス様は、今から350年前に、聖マルガリタ・マリア・アラコックに現れてこう言いました。今月7月は、イエズス様の聖血の月なので、この話をするのを許して下さい。イエズス様は、聖心をこう持って来て、そのタラタラ御血の滴り落ちる聖心を、マルガリタ・マリアに見せて、「見よ、人々をこれほどまでに愛して、愛の火に燃える私の聖心を見よ。私の心臓を見よ。しかし、人類はこの愛の御礼として、冷淡と、屈辱と、冒瀆でしか返事をしない。少なくとも、お前は私を慰めて欲しい。」
聖女マルガリタ・マリア・アラコックはそれを見て、いつもイエズス様を慰める為に、苦しみを選びました。もしも選ぶ事ができたならば、「イエズス様の為に苦しみたい。」と、思っていました。
聖フィリッポ・ネリという有名な聖人がいます。その聖人はある時病気になって、熱があって、先生がやって来て、修道士のブラザーたちがやって来て、お友達がやって来て、「あぁ、神父様。どうぞ熱がありますから、ゆっくり休んで下さい。その良い薬がありますから、これを飲んで下さい。美味しい食べ物で栄養をつけて下さい。ゆっくり休んで下さい。神父様は働き過ぎです。」と言われた時に、涙を流して、「あぁ、私たちの主イエズス・キリストは、死の熱に冒されている時に、十字架の木の寝台しかなかった。それなのに私はこんなにふかふかの、温かい、きれいなベッドで寝ている。イエズス様が、死の苦しみで喉が渇いた時に、私たちの主は、苦い物と酢しか、お酢しか飲まされなかった。しかし私は、こんなに美味しいものを食べさせてもらっている。イエズス様が亡くなろうとして苦しんでいる時には、敵が悪口を言ったり、嫌がらせを言ったり、罵っていたけれども、私には友達がこんなに慰めの言葉をかけてくれている。イエズス様は、私をこんなに愛して、こんなに苦しんでいるにもかかわらず、私はイエズス様に、何も苦しみを捧げる事ができない。」と、仰ったそうです。
聖人たちは、「イエズス様の為に苦しみを捧げ、生贄として自分自身を、自分を与えたい、イエズス様の為に何か苦しみたい。」と、いう事をいつも思っていました。
この「生贄となりたい」という願いこそが、まさにカトリックの聖伝の教えであり、カトリック文明を築いてきたのであり、キリスト教文明を豊かに発展させてきました。
「この私たちの通る道は1つしかない。」と、いいます。「それは十字架の道であって、王の通る道だ。」と。
では私たちは、この今日のパンの増加の奇跡を黙想した後に、どのような遷善の決心を立てたら良いでしょうか。
私は是非、マリア様の、ファチマのマリア様のお言葉を黙想する事を提案します。
マリア様は、イエズス様、完璧なイエズス様を知っていました。一部の人はもしかしたら、パンの増加をさせたイエズス様、或いは最後の晩餐のイエズス様だけには付いて行くけれども、十字架までは付いて行かないかもしれません。しかし、マリア様はそうではありませんでした。マリア様は十字架の下で佇み、真のイエズス様を愛するとは何か、という事を良く知っていました。
ファチマのマリア様は5月13日に、3人の子供たちにこう尋ねました、「天主が、あなたたちに送る事を選ぶ全ての苦しみを、天主様がそれによって侮辱される罪の償いとして、また罪人の回心の為の懇願として耐え忍ぶ為に、あなたたち自身を天主様にお捧げする事を望みますか?天主が、あなたたちに送る事を選ぶような全ての苦しみを、天主様がそれによって侮辱される罪の償いの為に、また罪人の回心の為の懇願として耐え忍ぶ為に、あなたたち自身を天主にお捧げする事を望みますか?」
ルチアは、子供たちを代表して、「はい、望みます。」と、答えました。
マリア様は天主の御母となって、これは、自分はたくさん苦しまなければならないけれども、苦しみの御母とならなければならないけれども、「人類の贖いの為に苦しむ事を望みますか?」と、大天使から聞かれた時に、「はい、主の婢女はここにおります。仰せの如く、我になれかし。」と、仰いました。
マリア様は、私たちが生贄として、私たちを捧げる事をお望みになっております。これこそが、まさに完璧なイエズス様の教えの真髄です。「もしも私の弟子となりたいのならば、十字架をとって我に従え。」
十字架のないキリスト教はありません。私たちが生贄とならない聖体拝領は有り得ません。ですから、マリア様の言葉を黙想しつつ、どうぞ今日は、ご自分を生贄としてお捧げ下さい。御聖体拝領を罪の償いとして、罪人たちの回心の為にお捧げ下さい。私たちがマリア様のように、この十字架と一致している事ができるように、マリア様に特にお祈り致しましょう。
“Circuibo et immolabo hostiam jubilationis”
「私は祭壇に廻って、喜びの生贄を屠ろう。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
先日の主日に東京で捧げた聖伝のミサのお説教をご紹介します。
2015年7月5日 聖霊降臨後第6主日
小野田神父説教
聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。今日は2015年7月5日、聖霊降臨後第6主日のミサを捧げています。今日は会場の都合で、午前中のミサができなくて不便な時間帯になった事をお詫び申し上げます。今日のこの御ミサの後には、残念ながら公教要理の時間をつくることができないのですが、しかし16時から、晩課を皆さんで捧げたいと思っています。明日は朝7時から、月曜日のミサがあります。8月は、8月3日午前10時30分から、4日には午前7時にいつものようにあります。・・・
“Circuibo et immolabo hostiam jubilationis”
「私は祭壇に廻って、喜びの生贄を屠ろう。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
今日、聖霊降臨後第6主日のミサでは、福音ではイエズス様が群衆をあわれんで、「彼らは私のあとを付いて、3日も砂漠にやって来て、私の話を聞きに来た。しかし、食べる物がなくて、こんなこのまま家に帰らせては、道で倒れてしまうだろう。何とか彼らを養う方法はないか。」と、弟子に聞きます。
弟子は、「あぁ、こんな砂漠でどこで物を買ったら良いでしょうか。」
セブンイレブンもないし、自動販売機も無いし。それで、「ここにあるのはパンが7つ、魚が数匹、一体こんなに4000名の大群衆をどうして養う事ができるだろう。」イエズス様は憐れみのあまりに、この手元にあったパンを増やして、皆に食べさせて、余りがありました。
これは歴史上本当にあった事ですけれども、イエズス様はこの事を以って、何か別の事を意味しようとしていました。イエズス様がこれを、この奇跡を行ったというのは、将来私たちに御聖体という奇跡を起こして、私たちを霊的に養おう、という奇跡の前兆でした。それと同時に、イエズス様はこの世では、イエズス様の御言葉によって、人々は満足するけれども、イエズス様が与えるパンでは、人々は満足する事ができるけれども、この世のいかなる食べ物も、この世のいかなる富も、人々を本当に満足させる事はできない。イエズス様だけが、真の天主だけが、天主の為に創られた霊魂を、本当に満足させる事ができる。
イエズス様は、「私の食べ物は、聖父の御旨を果たす事だ。」と、仰る時がありますが、「この世の名誉も快楽も、官能の喜びも肉の楽しみも、一切、本当の意味で人間を満足させる事はできない。天主様だけだ。」と、いう霊的な意味を教えてくれようとしました。これは、聖アルフォンソ・デ・レゴリオの説明です。
すると、今日この福音では、イエズス様が憐れみを元に、文字通りのパンの奇跡を、本当に物質的に起こして下さった、という事が分かります。実は、その深い意味があって、実は御聖体につながるものであって、御聖体の事を理解できなければ、パンの奇跡が一体なぜ起こったか、という事が分からない。イエズス様の厚い深い、意味の厚みをみなければ、イエズス様がここでなさった奇跡の本当の意味が分からない、という事を教えています。
ちょうど書簡書でも、聖パウロは同じ事を言おうとしています。洗礼式、洗礼について聖パウロは語ります、洗礼はもしかしたら、非常に薄っぺらい浅い理解をすれば、「あぁ、これはカトリック教会に入会する式だ、入会式だ。」と、思うかもしれません。或いはもう少し深くなると、「あぁ、洗礼というのは、私たちの罪を赦される、罪の赦しの為の秘跡だ。私たちは天主様から憐れみを受けて、罪が赦される事だ。私たちはものを貰うのだ。イエズス様が私たちに恵んで下さるのだ。ハッピー。」と、いう理解ができますが、聖パウロは、「いや、もっと深いものがある。」
「洗礼というのは特に、水の中に、深くどっぷりと浸かって洗礼を受けるのだから、これはちょうど、イエズス様と共に、墓に葬られた事である。洗礼というのは、イエズス・キリストと共に、『死』に与る事である。私たちは、この自分の罪と、肉の欲と、この世の欲において死んだものとなるのだ。全ての罪を、十字架に付けるのだ。古い人間を、十字架に付けて死なせるのだ。私たちは、主の『死』に与ることだ。主の身体の一部となる事だ。罪に死に、主に生きる事だ。」と、深い意味を教えています。
「つまり、洗礼というのは、『ただ赦されるだけ』というのではなくて、『私たちが積極的に、罪に死ななければならない。罪を放棄しなければならない。』という事を意味する。」と、言っています。
今日はこのミサをみると、「御聖体の深い意味がもっとある。」という事に気が付きます。「御聖体の深い意味がもっとある」という事が黙想できます。そこで、それを紹介するのを許して下さい。
御聖体というのは、私たちがイエズス様の御体を受ける事です。つまりこのパンの奇跡が本当に実現して、その深い意味が実現して、イエズス・キリストの真の体を霊魂に受ける事です。キリストの生命に与る事です。しかし、今日の御聖体拝領の聖体拝領誦をご覧下さい。ここにカトリック教会の深い、御聖体に対する理解が書かれています、「私は、喜びの生贄を屠ろう。“immolabo hostiam jubilationis.”」
聖パウロの教えによれば、「私たちは、キリストの生命に与るのみならず、私たちは御聖体を拝領する時に、キリストの『生贄』に、『死』に与る者である。」という事です。
私たちは、御聖体拝領する時に、私たち自身を生贄として、イエズス様と共に捧げられた生贄として捧げて、イエズス様と1つの生贄となる、という事です。
確かに新しいミサでは、御聖体変化の時に、その言葉を私たちに言わせて、私たちがあたかも、「イエズス様は御聖体には来られておられない。イエズスが来られるのは世の終わりであって、それまで私たちは別の事をしている。」という印象を受けさせるような言い方をするので、私たちには、何故そのように新しいミサでは、御聖体変化のその直後に、それを変な文脈で、変に誤解させるような使い方をするので、それを残念に思っています。
しかし、私たちが御聖体拝領する時には、私たちはイエズス様の「死」に与って、主がこの世に肉を以って見える形で裁く為に再臨されるまで、私たちは主の「死」に与って、主の「死」を告げ知らさなければなりません。
カトリックの典礼は、全てこの事を教えています。私たちがミサを捧げる時に、ただブドウ酒だけを捧げるのではないのです。水をどうしても1滴入れなければなりません。必ず水を1滴。
1滴入れると入れないとで何の違いがあるのか。どうせ水の1滴はブドウ酒に混じってしまって、ブドウ酒となるではないですか。たかが1滴入れたから、ブドウ酒のアルコールの濃度が低くなるでもなければ、高くなるでもないし、一体何の違いがあるのか。
物質的に於いては違いはないかもしれませんが、ほとんど。あっても0.000001%の違いかもしれませんが、霊的には深い意味があります。このカリスの中に落とされる1滴は、「私たちの生贄」を表しているからです。イエズス様の捧げた十字架の生贄だけでは、イエズス様は、「足りない。」と、思っているのです。どうしても、私たちの生贄が、そのイエズス様の生贄の中に入らなければなりません。
聖パウロは、「キリストの神秘体の苦しみの欠ける所を、私たちの苦しみで満たさなければならない。」と、言います。
イエズス様は、私たちがイエズス様の贖いの業に、苦しみを以って参与しなければならない、参与する事を求めています。ですから、司祭が生贄の捧げものを準備して、皆さんの方にグルリと廻って、「Orate, fratres」と、言います。このラテン語の意味は、「兄弟たちよ、祈れ、私とあなたたちの生贄が、主に嘉されるものとなりますように。」と。
どうしても、司祭と、皆さんの生贄が捧げられなければいけません。そうしなければ、イエズス様の為そうとした業が完成されないのです。イエズス様は、どうしても皆さんからの十字架を必要としています。
私たちが御聖体拝領をする時に、もしも私たちが、御聖体拝領でイエズス様から貰うだけ、という事を期待していただけでは、何も頂く事はできません。何故かというと、イエズス様に私たちが犠牲をお捧げして初めて、主と一致して初めて、私たちは主からそれを頂く事ができるからです。私たちはブドウ酒の中に入って初めて、ブドウ酒と同化する事ができるからです。
聖アウグスティヌスはこう言いました、「キリスト者の本当の生贄というのは、キリストと共に、私たちが1つの体を、生贄を形成する事である。」
ボスエというフランスの有名な人は作家は聖職者は司教様は、プロテスタントの人々の為に、カトリックの教えとは何か、という本を書いて、たくさん本を書いて、こう説明しました、「私たちは、イエズス・キリストと共に、私たちを生贄として、天主に捧げるのだ。これがミサの正しい与り方だ。」「もしも、私たちがこの生贄として、私たちを捧げる事をしないならば、それはミサに対する薄っぺらな理解でしかない。」と、いう事を教えています。
聖変化の後に、ミサの典文というミサのカノンが、終わりに、司祭は御聖体を取って、御血の上で、十字架の印をたくさん切ります。その時に司祭はこう言います、「Per ipsum, et cum ipso, et in ipso 《キリストを通して、キリストと共に、キリストに於いて》」これは、「私たちが全て、生贄であるキリストを通して、生贄であるキリストと共に、生贄であるキリストに於いて、私たちは全てをしなければならない。生贄であるキリストを、決して離れてはいけない。」と、いう事を教えています。
イエズス様は、今から350年前に、聖マルガリタ・マリア・アラコックに現れてこう言いました。今月7月は、イエズス様の聖血の月なので、この話をするのを許して下さい。イエズス様は、聖心をこう持って来て、そのタラタラ御血の滴り落ちる聖心を、マルガリタ・マリアに見せて、「見よ、人々をこれほどまでに愛して、愛の火に燃える私の聖心を見よ。私の心臓を見よ。しかし、人類はこの愛の御礼として、冷淡と、屈辱と、冒瀆でしか返事をしない。少なくとも、お前は私を慰めて欲しい。」
聖女マルガリタ・マリア・アラコックはそれを見て、いつもイエズス様を慰める為に、苦しみを選びました。もしも選ぶ事ができたならば、「イエズス様の為に苦しみたい。」と、思っていました。
聖フィリッポ・ネリという有名な聖人がいます。その聖人はある時病気になって、熱があって、先生がやって来て、修道士のブラザーたちがやって来て、お友達がやって来て、「あぁ、神父様。どうぞ熱がありますから、ゆっくり休んで下さい。その良い薬がありますから、これを飲んで下さい。美味しい食べ物で栄養をつけて下さい。ゆっくり休んで下さい。神父様は働き過ぎです。」と言われた時に、涙を流して、「あぁ、私たちの主イエズス・キリストは、死の熱に冒されている時に、十字架の木の寝台しかなかった。それなのに私はこんなにふかふかの、温かい、きれいなベッドで寝ている。イエズス様が、死の苦しみで喉が渇いた時に、私たちの主は、苦い物と酢しか、お酢しか飲まされなかった。しかし私は、こんなに美味しいものを食べさせてもらっている。イエズス様が亡くなろうとして苦しんでいる時には、敵が悪口を言ったり、嫌がらせを言ったり、罵っていたけれども、私には友達がこんなに慰めの言葉をかけてくれている。イエズス様は、私をこんなに愛して、こんなに苦しんでいるにもかかわらず、私はイエズス様に、何も苦しみを捧げる事ができない。」と、仰ったそうです。
聖人たちは、「イエズス様の為に苦しみを捧げ、生贄として自分自身を、自分を与えたい、イエズス様の為に何か苦しみたい。」と、いう事をいつも思っていました。
この「生贄となりたい」という願いこそが、まさにカトリックの聖伝の教えであり、カトリック文明を築いてきたのであり、キリスト教文明を豊かに発展させてきました。
「この私たちの通る道は1つしかない。」と、いいます。「それは十字架の道であって、王の通る道だ。」と。
では私たちは、この今日のパンの増加の奇跡を黙想した後に、どのような遷善の決心を立てたら良いでしょうか。
私は是非、マリア様の、ファチマのマリア様のお言葉を黙想する事を提案します。
マリア様は、イエズス様、完璧なイエズス様を知っていました。一部の人はもしかしたら、パンの増加をさせたイエズス様、或いは最後の晩餐のイエズス様だけには付いて行くけれども、十字架までは付いて行かないかもしれません。しかし、マリア様はそうではありませんでした。マリア様は十字架の下で佇み、真のイエズス様を愛するとは何か、という事を良く知っていました。
ファチマのマリア様は5月13日に、3人の子供たちにこう尋ねました、「天主が、あなたたちに送る事を選ぶ全ての苦しみを、天主様がそれによって侮辱される罪の償いとして、また罪人の回心の為の懇願として耐え忍ぶ為に、あなたたち自身を天主様にお捧げする事を望みますか?天主が、あなたたちに送る事を選ぶような全ての苦しみを、天主様がそれによって侮辱される罪の償いの為に、また罪人の回心の為の懇願として耐え忍ぶ為に、あなたたち自身を天主にお捧げする事を望みますか?」
ルチアは、子供たちを代表して、「はい、望みます。」と、答えました。
マリア様は天主の御母となって、これは、自分はたくさん苦しまなければならないけれども、苦しみの御母とならなければならないけれども、「人類の贖いの為に苦しむ事を望みますか?」と、大天使から聞かれた時に、「はい、主の婢女はここにおります。仰せの如く、我になれかし。」と、仰いました。
マリア様は、私たちが生贄として、私たちを捧げる事をお望みになっております。これこそが、まさに完璧なイエズス様の教えの真髄です。「もしも私の弟子となりたいのならば、十字架をとって我に従え。」
十字架のないキリスト教はありません。私たちが生贄とならない聖体拝領は有り得ません。ですから、マリア様の言葉を黙想しつつ、どうぞ今日は、ご自分を生贄としてお捧げ下さい。御聖体拝領を罪の償いとして、罪人たちの回心の為にお捧げ下さい。私たちがマリア様のように、この十字架と一致している事ができるように、マリア様に特にお祈り致しましょう。
“Circuibo et immolabo hostiam jubilationis”
「私は祭壇に廻って、喜びの生贄を屠ろう。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。