光の玄義についての説教
2021年10月24日 ドモルネ神父
はじめに
今日も、ロザリオについてお話しします。先週の主日は、聖ドミニコが制定したロザリオの十五の玄義、すなわち、五つの喜びの玄義、五つの苦しみの玄義、五つの栄えの玄義を黙想することについて、お話ししました。ところで、2002年、教皇ヨハネ・パウロ二世は、使徒的書簡によって、光の玄義と呼ばれる五つの新しい玄義を制定しました。この光の玄義は、キリストの洗礼、カナでのキリストの最初の奇跡、福音宣教、キリストのご変容、最後の晩餐です。聖ピオ十世会の会員は、ロザリオを、この光の玄義を含まない、聖伝の形式でのみ祈ります。なぜ聖ピオ十世会の会員はそのようにするのでしょうか?
1.ロザリオを改善する試みについての疑い
教皇ヨハネ・パウロ二世は、ロザリオの祈りを改善し、信者がロザリオをよりよく理解し、ロザリオをよりよく、より効果的に祈ることができるように、五つの光の玄義を加えることを決定しました(使徒的書簡28章)。教皇に、ロザリオを変更する権限があるのは、事実です。しかし、十五玄義からなるロザリオは、聖母と聖ドミニコからもたらされたものです。それは、諸教皇、特に偉大な神学者として有名なレオ十三世によって、公式に認可され、幾度もたたえられてきたものです。例えば、1571年、レパントでイスラム軍の攻撃を打ち破るなど、その非常に大きな力が、劇的に示されてきました。そのため、ロザリオを改善して、その効果を確実なものにするためにロザリオに変更を加える、という教皇の意向には、およそ説得力はありません。
2.ロザリオの変性
光の玄義を加えることは、ロザリオを変質させることです。
教皇ヨハネ・パウロ二世は、ロザリオを、福音の要約にしたいと考えます(同19章)。ですから、イエズスの公生活をそこに反映させるために、ロザリオに光の玄義を加えるのです。しかし、ロザリオは福音の要約のためのものではなく、私たちのカトリック信仰の主要な真理を毎日黙想するためのものです。このことは、私たちが栄えの玄義で黙想している聖母の被昇天と天国での戴冠が、福音のなかでは述べられていないことからも、証明されます。
また、ロザリオはイエズスとマリアの詩篇であり、聖書の詩篇の百五十篇にならって、百五十回の「めでたし」でできています。そこに光の玄義を加えると、ロザリオは二百回の「めでたし」になってしまいます。そのため、聖書の詩篇との象徴的、かつ構造的な関係が崩れてしまうのです。
またロザリオは、毎日祈られるべきものです。喜びの玄義、苦しみの玄義、栄えの玄義という十五の玄義で構成されているのは、キリスト信者が、キリスト教生活の本質的な真理を、毎日黙想することを目的としているからです。しかし、光の玄義が加わると、ロザリオを毎日唱えることが難しくなります。人々が毎日、十五の玄義を唱えることさえ難しいのですから、二十の玄義を唱えるのはどれほど難しいことでしょうか。
また、ロザリオの十五の玄義は、秩序あるサイクルを作り出しています。つまり、私たちは、喜びの玄義から苦しみの玄義へ至り、苦しみの玄義から栄えの玄義へ至り、栄えの玄義から、すべての始まりであり終わりである天主の命へと至るのです。私たちは、ロザリオの諸玄義を一週間に分散して祈ることによって、この秩序あるサイクルを保っているのです。私たちは、月曜日に喜びの玄義を、火曜日に苦しみの玄義を、水曜日に栄えの玄義を祈ります。そして、木曜日・金曜日・土曜日にも、同じサイクルを繰り返します。主日には、栄えの玄義を祈ります。しかし、光の玄義が加わると、このサイクルが崩れてしまいます。実際、教皇ヨハネ・パウロ二世は、木曜日に光の玄義を、金曜日に苦しみの玄義を、土曜日に喜びの玄義を、主日に栄えの玄義を祈るように勧めますが、この流れには秩序がありません。
3.ロザリオを通じて第二バチカン公会議の教えを推進すること
しかし、光の玄義の最大の問題は、次のことです。教皇ヨハネ・パウロ二世が光の玄義を導入したのは、ロザリオを通じて、エキュメニズムと人間中心主義に関する第二バチカン公会議の教えを推進するためだったのです。教皇は、自らの書簡の中でそれを明確に述べており、また第二バチカン公会議の文書「教会憲章」(Lumen Gentium)と「現代世界憲章」(Gaudium et Spes)に言及しているのです。
光の玄義が、第二バチカン公会議のエキュメニズムを、どのように推進するのでしょうか? このエキュメニズムとは、カトリック、オーソドックス、プロテスタントのすべてのキリスト教徒が、教理上の違いにかかわらず、キリストの同じ教会に属している、とすることです。
教皇ヨハネ・パウロ二世は、光の玄義を通じて、キリストが人間にご自身を啓示される、幾つかの手段を提示したいと考えます。その手段とは、キリストの洗礼式、キリストの神性を信じること、キリストを他人に証しすること、キリストに耳を傾けること、最後の晩餐を祝うことです。しかし、これら五つの手段は、キリスト教のすべての宗派のうちに見つけることができるものです。そのため、キリストは、キリスト教のあらゆる宗派を通じてご自身を啓示され、よって、すべてのキリスト教徒はキリストの教会に属し、教理上の違いにかかわらず、すべてのキリスト教徒は一致しなければならない、というのです。
ただし、このエキュメニズムは、第二バチカン公会議以前の諸教皇によって、はっきりと断罪されていました。私たちは、カトリックの信仰を裏切ることなしには、このエキュメニズムを受け入れることはできません。
光の玄義が、第二バチカン公会議の人間中心主義を、どのように推進するのでしょうか? この人間中心主義とは、人間の尊厳を高め、人間をすべての中心とする、というものです。この人間中心主義によれば、イエズス・キリストは、人間に対して、人間の尊厳を啓示される、というのです。教皇ヨハネ・パウロ二世は、光の玄義を通じて、私たちが、自分自身の人間としての尊厳をよりよく知るようになるために、私たちがキリストの啓示を考えることを望むのです。ただし、この人間中心主義は、偽りの教理です。イエズス・キリストは、人間に対して、人間の尊厳を示すために来られたのではありません。そうではなく、人間に対して、天主と、天主の完全性を啓示するために、来られたのです。
結論
これらのすべての理由から、聖ピオ十世会の会員は、ロザリオを、光の玄義を除いた、聖伝の形式でのみ祈ります。そして、信者の皆さんすべてにも、同じようになさることを、お勧めします。