ヴィガノ大司教「待降節の黙想」
Abp. Viganò: Meditation for the Season of Advent
2021年11月28日
Veni ergo, Domine Jesu, quaere servum tuum, quaere lassam ovem tuam.
故に主イエズスよ、来給え、御身のしもべを探し出し給え、御身の疲れた羊を探し出し給え。
―ミラノの聖アンブロジオ
“Quaere, inquit, servum tuum, quoniam mandata tua non sum oblitus. Veni ergo, Domine Jesu, quaere servum tuum, quaere lassam ovem tuam; veni, pastor, quaere sicut oves Joseph. Erravit ovis tua, dum tu moraris, dum tu versaris in montibus. Dimitte nonaginta novem oves tuas, et veni unam ovem quaerere quae erravit. Veni sine canibus, veni sine malis operariis, veni sine mercenario, qui per januam introire non noverit. Veni sine adjutore, sine nuntio, jam dudum te expecto venturum; scio enim venturum, quoniam mandata tua non sum oblitus. Veni non cum virga, sed cum caritate spirituque mansuetudinis.”[1]
「御身のしもべを探し出し給え。私は御身の掟を忘れない。故に主イエズスよ、御身の羊を探し出し給え、御身の疲れた羊を探し出し給え。牧者よ、ヨゼフが羊を探し出したように、来て探し出し給え。御身が遅れる間、御身が山の中を歩き回っている間、御身の羊は道を誤った。御身の99匹の羊を残して、道に迷った1匹を探しに来給え。犬を連れずに来給え、悪を行う者を連れずに来給え、門を通って入ることを知らない雇い人を連れずに来給え。助け手なしに、使者なしに来給え。私は長い間、御身の到来を待ちのぞむなり。私は御身が来られることを知るなり。私は御身の掟を忘れない。【鞭の】棒ではなく、愛と柔和の心をもって来給え」。[1]
待降節という聖なる期間は古代に制定されたものです。5世紀頃からは、私たちの主イエズス・キリストの「肉による」(secundum carnem)ご降誕の準備のための典礼暦年の一時期として言及されているのが分かっています。実際、待降節は典礼暦年の始まりであり、私たちが、聖なる決心をもって教会の声に従う機会を得られるようにしてくれます。
復活祭の準備期間である四旬節の間に行う苦行と断食という規律が使徒に由来するのは確かですが、他方で「主を待ち望む」(in expectatione Domini)規律は、前者に霊感を受けて後に生まれたもので、何世紀も過ぎるうちに厳しさが減り、週のうちの特定の数日だけに小斎を行うようになりました。「11世紀に聖ペトロ・ダミアノは、待降節の断食が40日間であったと考えており、2世紀後に聖ルイが、この方法で断食を続けていたのは事実ですが、おそらくこの聖王は特別な信心からこの方法で断食を行っていたのでしょう」[2]。現代人の弱さが教会の母なる知恵を誘発し、かつての時代の厳しい規律を軽くしていますが、それを自発的に実践することを妨げるものではありません。しかし、もしかしたら、現在の状況は、まさにその規律が義務付けられていないからこそ、私たちの祖先が教会の戒律に従うために行った苦行を、適切であると私たちに考えさせることになるのかもしれません。
待降節の季節の典礼は、大聖グレゴリオの功績に負うところが大きく、聖務日課やミサのテキストだけでなく、単旋律聖歌の作曲そのものにも大聖グレゴリオが貢献しています。待降節第一主日の入祭文「アド・テ・レヴァーヴィ」(Ad te levavi)の前の導入部にある古代のトロープス「サンクティッシムス・ナムクェ」(Sanctissimus namque)は、鳩の形で現れた聖霊によって、この聖なる教皇の霊感を思い起こさせます[3]【参考】。
聖なるご降誕祭の準備のための週は、最初は6週間、その後5週間ありましたが、9世紀末から10世紀初頭にかけて、4週間に短縮されました。アンブロジオ典礼の教会では、四旬節に倣って現在も6週間、計42日の準備期間を維持しています。
待降節をテーマにした説教の最初の作者の中には、教会博士にして教父である聖アンブロジオがいます。私がこの黙想を始めたいと思うのは、「詩篇118解説」(Commentary on Psalm 118)にある祈りからです。この祈りの「始まりの言葉」(incipit)は「クアーレ・インクィト・セルヴム・トゥウム」(Quaere, inquit, servum tuum)です。皆さんもご覧になれるように(下の注[1])、テキスト全体に聖書からの引用が散りばめられていますが、これはこのミラノの聖なる司教が持っていた聖書の専門知識を誇示するためではなく、空気が呼吸に不可欠であるように、霊魂にとって親密で不可欠な勤勉さの実りである天主のみ言葉を理解するためです。このため、聖アンブロジオは、この聖なる作者【天主】の言葉を使って自ら話したり書いたりするようになりました。それは、天主の知恵を盗用しようという意図ではなく、その言葉を十分に自分のものとし、ほとんど意識せずに何度も繰り返していたからです。
聖人たちの著作に接するとき、私たちはある意味、平信徒のように混乱したり、戸惑ったりすることがあります。しかし、もし私たちが聖伝の形式で、聖なるミサにあずかり、聖務日課を唱えることによって、典礼の祈りに自分自身を一致させるという恩寵を持っているならば、私たちは、朝課の招詞(Invitatorium)からすぐ、聖書についてのこの黙想において、教会自身の声が私たちとともにあることに気づくのです。そしてこれは、待降節の典礼にも当てはまります。「来たれよ、われら拝まん、来り給う主なる王を」(Regem venturum Dominum, venite adoremus)という第一の祈りの歌は、真の征服されざる太陽【キリスト】の昇るのを期待して、真夜中に唱えられるものです。この天主なる王を礼拝するための荘厳な招きに続いて、預言者イザヤの書の冒頭が、主の民への厳しい叱責として鳴り響きます。
「天よ、聞け、地よ、耳を傾けよ、主が語られる。『私は子らを養い育てたが、彼らは私に逆らった。牛はその飼い主を知り、ろばは主人のかいばを知るのに、イスラエルは知らず、私の民は悟らない』。ああ、罪の人々よ、悪を追う民よ、凶悪者の子ら、彼らは主を捨て去り、イスラエルの聖なるものをあなどり、背を向けた。そのために打たれてよいのか。なぜ、背きに背くのか。その頭は病み、その心は弱りはて、足の裏から頭まで、健やかなところはない。手当もせず、巻きもせず、油を塗りもしない、生傷と、打ち身と、ただれだらけだ」(イザヤ1章2-6節)。
預言者の啓示は、主の聖なる律法に反抗する頑固な主の民の不忠実さに対する主の憤りを示しています。しかし、ユダヤ人に関するイザヤの文章の文字通りの意味、あるいは歴史的な意味[4]には、道徳的な意味、つまり私たちが何をしなければならないかが伴っています。それゆえ、天主の御稜威(みいつ)がご覧になっているのは、私たちです。ですから「主が語られる」(同2節)と、再び主は私たちを戒め、私たちの裏切りを示し、私たちを回心へと駆り立てるのです。
このように、私たちは、主に「獅子の口から、また深い淵から」(de ore leonis et de profundo lacu)【死者ミサの奉献文】私たちをお救いくださいと願いながら、自分たちがいかに天主の御あわれみにふさわしくないか、いかに天主の御あわれみに値しないか、いかに天主の罰に値するかを自覚するのです。「われらの罪によってあなどられても、われらの悔い改めによって御心をなごませ給う天主よ」(Deus, qui culpa offenderis, pœnitentia placaris...)【灰の水曜日の後の木曜日の集祷文】と。
ユダヤ人が陥った、聖書が言うところの売春には、今では新たな、そしてはるかに悪い売春が加わっています。それは、贖い主の約束をいただいた民によってではなく、贖い主の脇から生まれた民、すなわち、贖い主ご自身の神秘体であり、あるいはむしろ、カトリックと名乗っていながら、その不忠実によって、聴従教会【信者ら】と教導教会【司教ら】の両方の神秘体の肢体として、小羊の花嫁【教会】を汚しているその種の人々によってです。新しいイスラエルは、古いイスラエルに劣らず反抗的であることを示しており、新しいローマの最高法院(サンヘドリン)は、金の子牛を作りそれをユダヤ人の礼拝のために捧げた者たちに劣らず、罪深いのです。それゆえ、預言者【イザヤ】が、来るべきメシアを見ることなく主に背いた者たちを恐ろしい懲罰で脅すのならば、その天主なるメシアの血によって贖われ、預言の成就と至聖なる三位一体の第二位のペルソナのご托身を見ることができた人類の反抗心を考慮したとき、「終末の時代の」預言者の言葉はどれほど激しいものでなければならないでしょうか。
この60年間、キリストの教会を苦しめてきて、今日、その深刻さをあらわにしている劇的な危機において、「小さな群れ」(pusillus grex)が主に願い出ます。腐敗と背教が、閉ざされた神聖な囲いの中にまで入り込み、最高位の玉座にまで達しているときに、道を踏み外した人類を救ってくださいと。しかし、その群れが「小さい」(pusillus)のは、"洗礼によって再生され、それによって「天主の子」と呼ばれるにふさわしい人々の大多数"が、雇い人や偽牧者の指導の下で、その洗礼の約束を日々否んでいるからです。
カテキズムにあずかったにもかかわらず、信仰の基本を全く知らずに育ち、異端の哲学的・神学的教理に染まり、すべての宗教は同等であると確信し、"人間は原罪によって傷ついているのではなく本来は善良である"と確信し、"国家は真の宗教を無視して誤謬を容認しなければならない"と確信し、教会の使命は霊魂の永遠の救いとキリストへの回心ではなく、環境の保護と移民の無差別な受け入れであると【間違って】確信している信者がどれほどいるかを考えてみてください。主日の義務を果たしているにもかかわらず、主の御体、御血、ご霊魂、ご神性が聖なるホスチアに含まれていることを知らず、それを単なる象徴と考えている人々のことを考えてみてください。
また、主の御体と御血をふさわしくない形で受けた人々にかかる苦悩を思い起こすことなく、自分自身で悔い改めるだけでご聖体に近づくことができると確信している人々のことを考えてみてください。公会議が教会に刷新の息吹をもたらしたとか、あるいは、聖書の知識を育んだとか、あるいは、これまで大衆に無視され、硬直した不寛容な教会のカーストに嫉妬深く守られてきた典礼を、信者が理解できるようにしたとか信じている、どれだけ多くの司祭、どれだけ多くの修道士、すべての修道女や修道士がいるのかを考えてみてください。
「現在の」メンタリティーの攻撃や蔓延する不道徳に直面して、この世の闇に対する不滅の道しるべを、生命の誕生から自然な最後までを守るための具体的で難攻不落な要塞を、典礼に見いだした人々のことを考えてみてください。最後に、キリストの敵が、死のイデオロギー、国家や権力や金銭の偶像崇拝、偽りの科学の神話などで、この世の前に主の教会が平伏するのを見て、どうしようもない満足感に浸っていることを考えてみてください。最悪のフリーメーソン員による最もひどい妄想のたわごとでさえ、ヴォルテールの叫び「Écrasez l'infame!」(恥知らずを粉砕せよ!)が実現することを望むことはできませんでした。
待降節には、私たちは、四旬節の灰の水曜日のように、象徴的に神殿の門に身を置き、祭壇で起こることを遠くから見守っています。ここ【待降節】ではイスラエルの王の誕生があり、そこ【四旬節】では王の受難と死と復活があるのです。私たちは、個々の信者として、また教会の体の一部として、聖なる場所に入ることが許される前に、良心の糾明をしなければならないと想像してみましょう。
私たちが、一方で、まぐさ桶の中で産着に包まれて私たちに差し出された無限の善を理解して初めて、他方で、自分の絶対的な無価値を理解してようやく、私たちは王の王、主の主への礼拝に近づくことができるのです。そのためには、私たちの罪の恐ろしさ、天主を無限に怒らせてしまったことの痛み、苦行と善行によって、行った悪の償いをするという願いを必ず伴わなければなりません。また、教会の生きた肢体として、私たちは他の信者や牧者の過ちに対して集団的な責任を負い、市民として、国の公的な過ちに対して責任を負うということも理解しなければなりません。
なぜなら、諸聖人の通功(Communion of Saints)によって、私たちは、清められつつある【煉獄の】霊魂たちと、天国にいる祝福された霊魂たちの功徳を分かち合うことができるからです。諸聖人の通功は、自分たちの悪い行いの影響を隣人、特に天主の敵である他の人々に及ぼす「悪人らの交わり」("communion of the wicked")とは比べ物にならないほど効果的な方法で【償いの負債を】相殺することができるからです。
聖アンブロジオは叫びます。"Ad me veni, quem luporum gravium vexat incursus. Ad me veni, quem eiectum de paradiso serpentis diri ulceris venena pertentant; quia erravi a gregibus tuis illis superioribus."
「私のもとに来たり給え、危険な狼の攻撃は私を苦しめた。私のもとに来たり給え、楽園を追われ、蛇の毒に長い間侵された私のもとに。何故なら、私はあの高い山々にいる御身の群れから遠く離れて道を誤ちたり」。
私たちは、貪欲な狼に包囲されていることに気づき始めています。誤謬を種蒔く者たち、道徳を汚す者たち、死と絶望を広める者たち、体を殺す前に霊魂を殺そうとする者たちにです。私たちは、この世の、肉の、そして悪魔の、偽りの約束に騙されることを許してしまった自分たちが、いかに浅はかで愚かで高慢であったかを理解するようになりました。私たちの最初の祖先【アダムとエワ】が追放されて以来、同じ誘惑を繰り返し、私たちの弱点を利用し、私たちを貶めて地獄に引きずり込むために私たちの高慢と悪徳を利用し続けている者たちの言葉が、いかに真実でなかったかを理解するようになりました。私たちは、自分たちが地上の楽園から追放されたこと、蛇の毒針の痕跡を負っていること、真の信仰という安全な牧場を捨てて、この世や肉や悪魔に誘惑されることで罪を犯したことを忘れてしまいました。
もしも私たちが、集団的かつ遺伝的な罪でもある自分の原初の罪を意識し、そして、自分が犯すすべての悪、自分が容認するすべての悪を意識して生きていたならば、---- またもし、天主が恩寵によって私たちに与えてくださる超自然の助けによらなければ、自分を救うことができないということを私たちが黙想していたならば、---- さらにもし私たちが、自分の行為の多くが天主の御稜威に対する重大な罪であること、私たちがソドムとゴモラの住民に起こったことよりもはるかに悪い方法で地上から一掃されるに値するような者であることを自認しないのならば、--- その時、「危険な狼が攻撃できない」あの高い山々に99匹の羊を残して、私たちを探しに善き牧者が来ることはなかったことでしょう。
聖なる司教【アンブロジオ】はこう付け加えます。「犬を連れずに来給え、悪を行う者を連れずに来給え、門を通って入ることを知らない雇い人を連れずに来給え。助け手なしに、使者なしに来給え。」なぜなら、犬も悪を行う者も雇い人も、つかの間の存在であり、散っていく運命にあるからです。たとえ今、この瞬間、この世が彼らの所有物であるように見えたとしても、天主の口から吐き出される息吹によって滅び去る運命にあるからです。
Veni ergo, et quaere ovem tuam iam non per servulos, non per mercenarios, sed per temetipsum.「故に、来給え、御身の羊を探し求め給え。しもべでもなく、雇い人でもなく、御身自ら、探し求め給え。」不忠実なしもべたちは、私たちに「回復力のある」「包括的である」ように招き、「母なる大地の叫び」[5]に耳を傾けるように、中絶された胎児で作られた血清を使ったワクチン接種を受けるように招きます。雇い人は「自分の羊を持たず」(cujus non sunt oves propriæ)【ヨハネ10章12節】、…私たちを散らし、見捨て、獰猛な狼を追い払わず、悪しき者を罰せず、むしろ励ますのです。
では、なぜ主は来られるべきなのでしょうか? なぜ私たちは主に「御身自ら、来給え」とお願いできるのでしょうか。聖アンブロジオは祈りの中で詩篇作者を引用して、「私はあなたの掟を忘れない」から(詩篇118篇176節)と答えています。私たちの救いのために御自らご托身になり、苦しみ、死ぬことを受け入れられた、永遠に続く御父の永遠の御子の従順において、天主のみ旨への私たちの従順は、完全な一致と、天主の模範を見いだすでしょう。「そこで私は、『私について書物に書き込まれているとおり、天主よ、私はあなたのみ旨を行うために来る』と言った」(ヘブライ10章7節)。主は御父への従順によって来られ、私たちは「私はあなたの掟を忘れない」と、聖三位一体のみ旨に従順であることで主の来臨を待たなければなりません。
主が私たちを探し求めてきて、狼の猛攻や悪を行う者や雇い人の悪意ある影響から私たちを救ってくださると確信できる動機は、主が私たちに命じられたことを忘れてはならないこと、何が善で何が悪であるかを決定するという主の役割を私たちが横領してはならないこと、私たちは世間体のために、あるいは臆病や加担・共犯のために、奈落の底にまで大勢の人々に従い続けてはならないこと、そうではなく、99匹の羊のように、聖なる教会という安全な牧場に留まらなければならないことです。地上のものから離れて天主に近づき「山々にいる限り、猛獣に襲われることはない」からです。
さらに、自分が罪人であることを認識して、聖なる謙遜を実行しなければなりません。「来て迷った一匹の羊を探し求め給え」なぜなら「御身だけが、迷った羊を連れ戻すことができ、御身は残して離れた羊らを悲しませることはありません」つまり、高地の牧場で狼から守られ、忠実であり続けた、全時代のカトリック信者のことです。「そして、彼らもまた、罪人が帰るのを喜ぶでしょう」。Veni, Domine; quia et ovem erraticam solus es revocare qui possis: et quos reliqueris, non moestificabis; et ipsi enim peccatoris reditu gratulabuntur.
聖アンブロジオの祈りは、非常に深遠で意味深い表現で続きます。「アダムにおいて堕落した肉において私を受け入れ給え。サラではなく、マリアから私を受け入れ給え。そうすれば、私は汚れなき童貞であるだけでなく、恩寵の効果によって、あらゆる罪の汚れを免れた童貞となるであろう」。
Suscipe me in carne, quae in Adam lapsa est. Suscipe me non ex Sarra, sed ex Maria; ut incorrupta sit virgo, sed virgo per gratiam ab omni integra labe peccati.
「聖なる童貞中の童貞」(Sancta Virgo virginum)である聖なるマリアに、私たちはすべての恩寵の仲介者を見るのです。いと清き被造物である聖なるマリアに、天主の永遠のみ言葉がご托身になり、マリアから救い主がこの世にお生まれになり、マリアを通して私たちは天主なる御子に差し出され、御子の功徳によって、私たちは「アダムにおいて堕落した肉によって」受け入れられるのですが、それは天主との友情を回復する恩寵のおかげです。聖なる降誕祭を迎える準備をする際に、黙想のために最もふさわしい霊感を与えてくれるものです。
しかし、もう一つの非常に重要な考察があります。これを、聖アンブロジオは、説教の最後に残しておきました。「道を誤る者たちに救いを与え、疲れた者たちにとって唯一の休息の場所となり、誰でも死ぬ者が生きる唯一の場所である十字架によって、私を運び給え」。
Porta me in cruce, quae salutaris errantibus est, in qua sola est requies fatigatis, in qua sola vivent quicumque moriuntur.
すべてがキリストの十字架を中心に回っています。その十字架は、時と永遠に、逆らいのしるしとして現れ、このしるしによって私たちは、十字架が贖いの道具であり、迷う者には救いを、疲れた者には休息を、死にゆく者には命を与えるものであることを思い起こすのです。
14世紀のパチーノ・ディ・ボナグイダ[6]の細密画には、非常に珍しく大いに象徴的なイメージが描かれています。それは、主がはしご―「徳のはしご」(scala virtutum)―で十字架に上っている姿であり、主が進んで犠牲となられるご意志と、主の二重の本性【神性と人性】の持つ「逆説」【矛盾しているように見えながらも真実であること】を強調しています。
17世紀の図像では、十字架の上で眠る幼子イエズスの姿が繰り返し描かれており[7]、天主の愛とキリストの犠牲の明確な暗示となっています。降誕祭と復活祭は本質的に結びついています。ですから、救い主の誕生の準備として、私たちは常に十字架が中心であり本物の支点であることを観想しなければなりません。その十字架には幼子イエズスが休息していて、神秘的なはしごを使って汚れなき小羊が上っています。私たちも、到達しなければならないのは、そこ【十字架】です。なぜなら、主を追い求めて救いを見いだすのは、十字架の上しかないからです。「また一堂に向かい、『私のあとに従おうと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って従え』と言われた」(ルカ9章23節)。
Veni, ut facias salutem in terris, in coelo gaudium.
「来りて、地には救い、天には喜びを実現し給え」。
私たちを待ち受ける試練に霊的に準備するために、待降節という神聖な時期に、これを私たちの祈りとしましょう。
+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
Dominica I Adventus
2021年11月28日
待降節第一主日
[1] 「御身のしもべを探し出し給え。私は御身の掟を忘れない(詩篇118篇176節)。故に主イエズスよ、御身の羊を探し出し給え、御身の疲れた羊を探し出し給え。牧者よ、ヨゼフが羊を探し出したように(創世記37章14節)、来て探し出し給え。御身が遅れる間、御身が山の中を歩き回っている間、御身の羊は道を誤った。御身の99匹の羊を残して、道に迷った1匹を探しに来給え(マテオ18章12節~、ルカ15章4節)。犬を連れずに来給え、悪を行う者を連れずに来給え、門を通って入ることを知らない雇い人を連れずに来給え(ヨハネ10章1-7節)。助け手なしに、使者なしに来給え。私は長い間、御身の到来を待ちのぞむなり。私は御身が来られることを知るなり。私は御身の掟を忘れない(詩篇118篇176節)。【鞭の】棒ではなく、愛と柔和の心をもって来給え(コリント前書4章21節)。―聖アンブロジオ「詩篇118解説」22、28
[2] Dom Prosper Guéranger, L’Anno liturgico, I. Avvento — Natale — Quaresima — Passione, trad. it. P. Graziani, Alba, 1959, pp. 21-26.
[3] “Sanctissimus namque Gregorius cum preces effunderet ad Dominum ut musicum donum ei desuper in carminibus dedisset, tunc descendit Spiritus Sanctus super eum, in specie columbæ, et illustravit cor ejus, et sic demum exortus est canere, ita dicendo: Ad te levavi…” Trope to the Introit of the First Sunday of Advent — Cfr. https://gregobase.selapa.net/chant.php?id=4654.
[4] Littera gesta docet, quid credas allegoria, moralis quid agas, quo tendas anagogia (The letter teaches what has happened, the allegory what you have to believe, the moral what you have to do, the anagogy the goal you have to aim for) — Nicola di Lyra, Postilla in Gal., 4:3.
[5] Cfr. https://www.vaticannews.va/it/papa/news/2021-10/ebook-papa-francesco-laudato-si.html and https://www.avvenire.it/opinioni/pagine/il-grido-della-terra-e-dei-poveri.
[6] Cfr. https://scriptoriumdaily.com/ladder-at-the-cross — A painting of the Giotto school with an identical subject is in the Monastery of Sant’Antonio in Polesine, Ferrara. See also by Anna Eörsi, Haec scala significat ascensum virtutum. Remarks on the iconography of Christ Mounting the Cross on a Ladder — https://arthist.elte.hu/Tanarok/EorsiA/Fulltexts/Idegen/l%E9tra_a.htm.
[7] See, for example, Guido Reni’s painting, Gesù Bambino addormentato sulla Croce, oil on canvas, c. 1625.
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