Quantcast
Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
Viewing all articles
Browse latest Browse all 4247

ローマ公教要理(トリエント公会議による公教要理)主祷文(「天にまします」)の解説 第6の願い 我らを試みに引き給わざれ

$
0
0
アヴェ・マリア・インマクラータ! 愛する兄弟姉妹の皆様!   トリエント公会議による公教要理の「主祷文」について 第12章 主祷文 天に在す我らの父よ
第1の願い「願わくは御名の尊まれんことを」
また
第2の願い「御国の来たらんことを」
さらに
第3の願い「御旨の天に行われる如く、地にもおこなわれんことを」
第4の願い 我らの日用の糧を今日我らに与え給え 第5の願い 我らが人に赦す如く、我らの罪を赦し給え を既にご紹介いたしました。   今回は、その続き 第6の願い 我らを試みに引き給わざれ についての箇所の説明(本邦初の日本語訳)をご紹介します。

第6の願い 我らを試みに引き給わざれ

202.天主の子らが、罪の赦しを得た後に、この同じ天主に礼拝と崇敬を捧げる強い望みに燃え立ち、天の御国を希求し、天主の御稜威(みいつ)に対する敬神(徳)の義務をことごとく果たしつつ、その御旨と御(み)摂理とに全く依り頼む際、まさにその時、人類の敵があらゆる術策を練り出し、千万の兵器を準備して、戦いを挑むことは、疑問の余地がありません。こうして、せっかく立てた決心を覆(くつがえ)し、変えてしまい、再び悪徳に立ち返り、以前よりもはるかに悪い者になってしまう【1】ことが懸念されます。かかる者には、使徒の長(おさ)たる聖ペトロの、「彼らにとっては、伝えられた聖なる掟を、義の道を知って後に離れるよりは、知らない方が良かったであろう【2】」、という言葉がまさしく当てはまってしまうでしょう。

§ I. 主が私たちにこの祈願を唱えることをお命じになった理由

さればこそ、主はこの祈願を為すことをお命じになり、かくして私たちが己が身を天主に委ね、その助力なしには、狡知にたけた敵の罠にかかってしまうことを確信するがゆえに、その父らしいご配慮とご保護とを乞い願うようなさるのです。

204.しかるに主が、(罪の)試みないしは誘惑に陥ることのないよう天主に祈ることを私たちにお命じになったのは、主祷文の祈りを使徒らにお教えになったときだけでなく、ご死去の時が迫る折に、使徒らに、彼らが清い者であることを仰せられた【3】後、「誘惑に落ちないように、目覚めて祈れ【4】」と仰せになって当の義務を思い起こされた際でもあります。主キリストが重ねてこの訓戒をお与えになったため、司牧者は信徒がこの祈願を頻繁に為すよう、切に促す必要があります。かくして彼ら信徒が、人類の敵である悪魔によって常時備えられるかくも大きな(誘惑という)この種の危険を前にして、唯一かかる危難を排除することがおできになる天主に、「我らを試みに引き給わざれ」と、たゆまず唱えるよう図らねばなりません。

205.一方信徒は、もし彼らが自らの弱さと無知とを思い起こし、また主キリストの仰せられた、「霊ははやっても肉は弱いものだ【5】」という言葉を想起し、かつ天主の御手の支えなしには、悪魔の攻撃を受ける者たちの破綻(はたん)がいかに重大で破滅的なものになるかを鑑(かんが)みるならば、自分たちがどれほど天主のご助力を必要とするかを悟るでしょう。
主の御受難における聖なる使徒団のふるまいほど、人間の弱さを如実に示す例があるでしょうか。実に使徒らは、今し方勇み立っていたと思えば、最初の危難の前兆が見えるやいなや、主を打ち捨てて逃げ去ったのでした。【6】しかるに使徒らの長(おさ)の例は、これよりもさらに顕著です。実に聖ペトロは、自分がどれほど怖れ知らずで、主キリストをこの上なく愛慕している旨あからさまに公言し、自らの力に信頼して、「たとえあなたと共に死ななければならないとしても、私は決してあなたを否(いな)みません」【7】と言い放った後で、下女の声に震えおののき、自分は主を知らないと呪いを交えて誓ったのでした...。実に彼において意志の力は、霊ないしは精神の高揚に釣り合わなかったのです。しかるに、もしいとも聖なる者たちが、頼みとしていた人間本性の弱さのために重大な罪を犯したとすれば、彼らの聖性にはるか遠く及ばぬ者たちは、どれほどの怖れを抱くべきことでしょうか。

§ II. 誘惑とその原因

206.したがって司牧者は、信徒に彼らが常に瀕する戦いと危険とを指し示すべきです。なぜなら霊魂がこの死すべき身体(からだ)に住まうかぎり、この身体を肉【8】と世、悪魔とがこぞって攻め立てるからです。【9】
怒り、ならびに貪(どん)欲が私たちにおいてどれほどのことをなし得るかを、苦い経験をとおして体験しなかった人が誰かいるでしょうか。誰がこれらの情念の刺激を感じ、これに傷つけられ、その炎に燃やされないでしょうか。しかるにこの種の打撃ないしは攻撃は、かくも多種多様であるため、どこかに深い傷を受けないでいることは至難の業です。
しかしながら、私たちと共に住まい、生きるこれらの敵に加えて、使徒パウロが、「我々が戦うのは、血肉ではなく、首長と権勢【10】、この世の闇の支配者、天空に徘徊する悪の霊である【11】」という言葉で指す、残忍きわまりない敵が存します。

207.事実、私たちは、内的な戦いに加えて、外部からの攻撃、悪魔の襲撃にみまわれるのですが、当の悪霊は、ある時には真っ向から私たちに攻めかかり、またある時には密(ひそ)かに私たちの心に入り込む【12】ため、これに対して充分用心することは、およそ不可能なほどです

§ III. 悪魔

208.使徒パウロはこれらの悪霊を、その自然本性の卓越性のために(なぜなら、当の霊は本性上、人間および目に見える全ての被造物に優っているからです)「首長【13】Principes」と呼び、また本性上の優位のみならず、権力においても私たち人間を凌駕(りょうが)するゆえに「権能【14】Potestas」と名付けています。さらに、当の霊は、輝かしく光明に満ちた世界、すなわち敬虔な義人の世ではなく、闇の世、つまり影の差した暗い世、すなわち放埒(ほうらつ)で悪行に満ちた生活の汚れと闇によって盲目となり、闇の君主たる悪魔にすすんで従う者たちを支配するがために、闇の支配者と称しています。
使徒はまた、悪魔を「悪(意)の霊」と呼んでいますが、これは肉の悪があると同様に霊の悪(意)が存するからです。

209.肉的な悪(意)と呼ばれる悪は、感覚によって捉えられる情欲ならびに快楽へと、人の欲情を焚(た)きつけるのですが、一方霊的な悪(意)は、霊魂の上位の部分に属する悪い願望、乱脈な欲求を指しますが、当の悪(意)は、理性が感覚に優り、より高貴なものである分だけ、肉的な悪(意)より、さらに悪いものとなります。
しかるにサタンの悪意は、私たちから天の遺産を奪うことに主に向けられるため、その意味で使徒パウロは彼を「天に徘徊する悪霊【15】」と呼ぶのです。

210.以上のことから、私たちの敵の力がいかに大きく、かつその(悪い)意志がどれほど不屈のものであるか、また私たちに対する憎しみがいかに凶悪で限りのないものであるかが推し量られます。事実、これの悪霊は私たち人間に対して絶えることのない戦いを挑むのであり、したがって彼らと平和を保ち、休戦をすることは不可能です。彼らがどれほど大胆不敵に私たちに攻め寄せるかは、「我は天に昇らん【16】」という、預言者イザヤ書中のサタンの言葉に如実に示されています。事実彼は、楽園にいた人祖を誘(いざな)い、預言者たちに挑みかかり、果ては主が福音書で仰せられているように、使徒らを「麦をふるいにかけるように【17】」攻め立てたのでした。さらには他ならぬ主キリストの御前(みまえ)に現れることさえはばかりませんでした【18】。聖ペトロは、サタンの飽くことのない願望と果てのない奮励を、「敵である悪魔は、吠える獅子のように、食い荒らすものを捜しながら、あなたたちの周りを巡っている【19】」と述べて表しています。

211.サタンは単独で私たちを攻撃することもありますが、時には悪魔の集団が私たちの一人々々に襲いかか留のですが、これは、主キリストにその名を問いただされた悪魔が、「私の名は集団である【20】」と答えて示していることに他なりません。事実、大勢の悪魔が群れを成してこのあわれな人を苦しめていたのでした。またもう一人の悪魔について、マタイによる福音書中に、「自分より質(たち)の悪い他の7人の悪魔を連れに行き、帰ってきて、そこに住む【21】」という章句が見受けられます。

212.悪魔による誘(いざな)いおよび攻撃を己が身にいささかも感じず、これら一切のことは偽りであると思いなす者が少なからずいますが、かかる人々を悪魔が攻撃しないということは、全く驚くに値しません。なぜなら彼らは自らからすすんで悪魔に身を委ねたのだからです。彼らの中(うち)には敬虔心も愛徳も、キリスト教信者にふさわしい何らの徳も見出されません。したがって彼らはことごとく悪魔の支配下にあるのであり、そのため彼らを打ち負かすためには何の誘惑も必要ではありません。なぜなら悪魔はこれらのものの霊魂の中に、彼ら自身の承諾を得て、すでに住みついているからです。 

213.しかるにサタンが誰にもまして攻撃するのは、天主に己が身を奉献し、地上にありながら天上の如き生活を送る者たちです。サタンは彼らをこの上なく忌み嫌い、四六時中彼らに罠をしかけます。
聖書には、[正しく生き、悪を避ける]固い心構えを抱きつつも、悪魔により力ずくで、あるいは奸計によって悪の道に陥れられた義人の例が多々見受けられます。アダム、ダビド、サロモンおよびその他枚挙のいとまのないほど多くの者たちは、人間の知慮も力も抗(あらが)い得ない悪魔の猛烈な攻撃と聡(さと)い術計にかけられたのです。
したがって誰があえて、自らの力に頼って安全であると思いなすことができるでしょうか。それゆえ敬虔で清い心をもって天主に、私たちが自分の「力以上の試みに遭うのをお許しにならず、却って当の試みを耐え、それに打ち克つ方法を備えてくださる【22】」よう祈り求めねばなりません。

214.しかるに信徒の中に、あるいは臆病な気質のため、あるいは無知のために、悪魔の力を過度に恐れる者があるならば、彼らが誘惑の荒波にもてあそばれるとき、祈りの避難港に身を隠すよう促して勇気づけねばなりません。

215.事実、人類に対する執拗な憎しみに駆られるサタン【23】は、その恐るべき権勢と不動の意志にも関わらず、自らが望むだけ(程度の面でも期間の面でも)私たちを試み、責めさいなむことができないのです。彼の一切の力は、天主のご意志と許しとによって律されているからです。
よく知られた義人ヨブの例は、この点を如実に示すものです。なぜなら、もし天主がサタンに「彼の持ち物全てをおまえの手に任せる」【24】と仰せにならなければ、彼はヨブの所有物のただ一つにも手をかけることができなかったからです。反対に、もし主が、「ただ彼の身には手を伸ばしてはならない」と付言されなかったとすれば、サタンは一撃でヨブをその子らと財産と共に打ち滅ぼしたことでしょう。
事実、悪魔の力はかくも束縛されているため、天主の許しがなければ、福音記者が述べるところの豚の群に入ることさえできないほどです。【25】

§ IV. 「試みに引く」という言葉の意味

216.しかるに、当の祈願の性質を正しく理解するために、ここで言う「試み」ならびに「試みに引く」という言葉の意味するところを説明しなければなりません。

217.「試みる」という言葉は第一に、特定の事物に関しての真実を知るために、ある人を試練にかけることを意味しますが【26】、この意味で天主が誰かを試みられることは決してありません。実際、天主がご存知でないことが何かあるでしょうか。実に「天主のみ前に、全ては明らかであり、開かれている【27】」からです。
しかるに何かを「試みる」もう一つの、より一歩進んだ仕方がありますが、それは、ある物(者)の本質を知るために、善い目的または悪い目的のためにこれを試みにかける場合です。

218.善い目的のために試みにかけるというのは、ある人を、その美徳を明らかにし、知らしめて、これに利典と栄誉とを与え、かつ彼の模範を他の者らに示して、皆がこぞって天主を讃えるよう促すために試練に合わせる場合に言います。しかるに天主が誰かを試みられるのは、この意味でしかありませんが、第二法の書における、「あなたたちの天主である主は、あなたたちが真実に主を愛しているか否かを知るために、あなたたちを試みられる【28】」というくだりに、その一例を見受けることができます。
同様に、天主が窮乏、病苦およびその他の災厄によってご自分の愛する子らを打ちひしがれる際も、天主は彼らを試みられるのですが、それはあくまでも彼らの忍耐を試し、彼らを他の者らにキリスト教信徒にふさわしい忠誠の模範となすという善い目的を目してのことに他なりなりません。
まさにこの意味で、アブラハムは独り子を屠(ほふ)るよう天主から命じられたとき【29】、主から試みられたと言われるのですが、この命令に従うことをとおして、同大祖は従順と忍耐の顕著な模範を末代、末世まで残したのです。
大天使ラファエルがトビアに告げた「あなたは天主に嘉(よ)みされていたために、試みられる必要があった【30】」という言葉も、同様の意味に解さねばなりません。

219.反対に、人が罪又は霊魂の滅びとに駆り立てられる場合、悪い目的のために試みられることとなりますが、これは悪魔に固有のはたらきです。実に悪魔は人を騙(だま)し、深淵に突き落とすためにこれを試みにかけるのであり、そのため、「試みる者【31】」と聖書中で呼ばれています。

220.かかる試みないし誘惑において、悪魔は、ある時は私たちの心中に潜む衝動、すなわち霊魂(たましい)の愛着や情動を巧みに用いて、又ある時は外的な事物を用いて私たちを外から攻撃するのですが、後者の場合、順境によって私たちを思い高ぶらせ、逆境によって私たちの気をくじきます。またある時は、悪魔は身持ちの悪い者ら、殊に「悪疫の座に座り【32】」、悪い教えの致命的な害悪を蒔(ま)き散らす異端者を自らの使いないしは手先として用いて、善徳と悪徳とを区別し、そのいずれを選ぶべきかも知らず、常に戸惑い、倒れかかり、悪へと自然に流される類(たぐい)の者たちを滅ぼそうとします。

221.「試みに引かれる」ということは、試みないしは誘惑に屈することを意味しますが、しかるに二とおりの仕方で人は試みに引かれます。第一の場合、私たちは、他人によって悪に誘(いざな)われ、自分の元いた[正しい]状態から脱落してしまいます。しかるに誰一人として、天主からこの意味で試みに引かれる者はいません。実に、天主は何人に対しても、罪の発起人【33】たり得ないからです。却って「天主は、不正を行う者を忌み嫌われる【34】」のです。聖ヤコボの書簡中に、「試みのときに、『天主が私を試みられる』と言ってはならない。天主は悪に誘われることもできず、また人を誘(いざな)うこともないからである【35】」と記されているとおりです。
第二の意味で、ある人が私たちを「試みに引く」と言われるのは、
たとえ当人自身が私たちを試みることも、また試みに荷担することもないとは言え、かかる試みを妨げることも、またこの試みに私たちが屈するのを防ぐことも、そうすることが充分可能でありながら、あえてしない場合です。
この意味で、仁慈なる天主は敬虔な者らを試みられるのですが、しかるに恩寵によって彼らを支え、けっしてお見捨てになることがありません。
しかしながら、時として、天主の正しく、計り知れぬ裁きによって、私たちの悪業がこれを求めるがゆえに、天主は私たちを自らの身に委ね、かくして私たちは誘惑に屈するということがあります。
また私たちが、私たちの救霊のために天主がお与えになった諸々の恵みを、自らの滅びのために悪用し、放蕩息子の如く、情欲の趣(おもむ)くままに放縦な生活を送って、父の財産を蕩尽(とうじん)する際にも、天主は私たちを試みに引かれると言われますが、この場合、使徒パウロが律法について述べたことを当てはめて言うことができます。すなわち、「私にとっては、命を与えるための掟が、かえって死の元となった【36】」のです【37】。エルサレムの都は、このことの格好の例証となります。預言者エゼキエルが、「我が汝にまとわせた飾りによって、汝は完全に美しいものとなった【38】」という言葉で言い表しているように、天主により、あらゆる種類の装飾と恩典とをもって飾られ、豊かにされたたこの街は、天主からかつて受け、また引き続き受けていた恵みについて感謝をささげ、至福を得るために天の賜を用いる ―そのためにこそ、当の恵みを受けていたのですが― どころか、父なる天主の恩を忘れ、天的利善に対する希望(のぞみ)も思いも打ち捨てて、現世の富を放埒(ほうらつ)で淫蕩(いんとう)な生き方で享受することしか考えず、同預言者の度重なる叱責の的となったのです。【39】
同様に、善業を為すべく天主から与えられた豊かな資質を、同じ天主の許しにより、悪徳と化してしまう者らは、天主に対して甚だ恩知らずな者であると言わなければなりません。

222.しかるに天主による、かかる「許し」ないしは許可が、聖書中しばしば、文字通りに解せば、天主による積極的な行為を示す言葉で言い表されるという事実によく注意すべきです。例えば出エジプトの書において天主は「私はファラオの心を頑(かたく)なにする【40】」と、またイザヤ書では、同預言者に「彼らの目を盲(めしい)にせよ【41】」と仰せられています。さらに使徒パウロは、ローマ人への手紙で、「天主は彼らを恥ずべき欲情と、自らの曲がりきった了見とに打ちまかせられた【42】」と述べています。しかるにこれらの章句およびその他これに類したくだりは、天主の積極的な行為の意味にではなく、あくまで[消極的な]許可の意味に解すべきものです【43】。

§ V. この祈願をとおして天主に求める恵み

223.以上のことから、「我らを試みに引き給わざれ」という祈願をとおして何を願うかが明らかとなります。すなわち、この祈りによって私たちは、全く何の試みにも遭(あ)わないことを願うのではありません。実に「この世における人の生活は試練である【44】」からです。
しかるにこれは、人類にとって有益かつ実り多いことです。なぜなら試みに遭うときにこそ、私たちは自らを、すなわち自分の力を知るのであり、かくして天主の力強い御手の下(もと)に謙(へりくだ)り【45】、雄々しく戦って、「朽ちることのない光栄の冠【46】」を受けるよう励むこととなるからです。実に、「闘技に臨む者は、[競技の]きまりにしたがって戦わなければ冠を受けることができない【47】」のであり、また聖ヤコボが述べるように、「試みを耐え忍ぶ者は幸いです。それに打ち勝てば、主がご自分を愛する人々に約束された生命の冠を受けるのだから【48】」です。そしてもし、私たちが時として敵の誘惑に責め悩まされるなら、私たちは助け手として、「罪以外の全てにおいて私たちと同様に試みに遭われたために、私たちの弱さに同情してくださる大司祭を持つ【49】」ものであることを思い起こすことは、大きな慰めとなります。

224.したがって、当の祈願において私たちは、天主の助力を失って、誘惑に、あるいは騙(だま)されて、あるいは打ちひしがれて屈してしまうことのないように願います。また、天主の恩寵が私たちに伴い、私たちの力が艱難において衰えてしまうとき、これを回復し、再生するよう願うのです。
したがって、私たちは一般的に全ての誘惑において助けていただくよう、天主に乞う必要がありますが、誘惑に襲われるとき、特にこの誘惑から救われるよう、明示的に祈らねばなりません。実に、ダビドはおよそ全ての誘惑においてこのように為したのであり、嘘をつく誘いに遭うときは、「私の口から、真理のことばを取り去り給(たも)うな【50】」と、貪欲(どんよく)の誘惑に対しては、「私の心を利得にではなく、御身の御(み)証(あかし)【51】に傾かせ給え【52】」と、また現世のはかない事物に執着し、欲情に惹(ひ)きつけられそうになるときには、「私たちの目をそらせて、空しいものを見せ給うな【53】」と祈ったのでした。
したがって私たちは、欲情に従うことも、種々の誘惑に抵抗することに疲れ果てて【54】、主の道から離れてしまう【55】こともなく、却って順境においても逆境においても内心の平静と堅実さを保ち、私たちの存在のいかなる部分も、天主のご保護から、もれ出てしまうことがないよう祈り求めるのです。
最後に私たちは、天主がサタンを私たちの足の下に打ち砕いてくださるよう【56】願います。

§ VI. いかなる考察と手段によって悪魔に抵抗するべきであるか

225.司牧者が次に為すべきことは、信徒がこの祈願を唱えるにあたって特に思いなし、鑑(かんが)みるべき事柄を示し、かかる省察に励むよう促すことです。
この点、人間がいかに弱いものであるかを慮(おもんばか)って自力に頼らず、己が安全についての希望をことごとく天主の仁慈に置き、かつそのご保護の下に、いかに大きな危難にあっても、かかる希望ならびに勇気を持った多くの人を、天主がサタンの牙から救い出したことを思って、気概を保つことに優るものはありません。
実に、天主こそ、情欲に燃え立つ狂女によって窮地に陥れられた旧約の義人ヨゼフを救い出し、栄誉の極みにまで引き上げられたのではありませんか【57】。また天主は、悪魔の手先に責め立てられ、不正きわまりない判決によって死刑に処されかけていたスザンナを救われた【58】のではありませんか。しかるにこれは、驚くに値しません。聖書に記されているように、「彼女の心は、主に依り頼んでいた【59】」からです。
また、世と肉と悪魔とに打ち勝ったヨブの栄誉と光輝は、異彩を放つものです。
しかるに、この種の例は枚挙にいとまがなく、司牧者は、それらを用いて、信徒がかかる希望ならびに信頼を育むよう、尽力すべきです。
一方、信徒らも、敵の誘惑に遭うとき、かかる戦いにおいて勝利を収められた主キリストを頭(かしら)としていだいていることを思い起こすべきです。実に、主は悪魔に打ち勝たれたのであり、また主は、福音書中の「武装した強者を打ち倒し、その身につけていた武具と戦利品を奪い取った、さらに強い人【60】」に他なりません。主が世に対して収められた勝利については、聖ヨハネによる福音書中、「信頼せよ、私はこの世に勝ったのだ【61】」という主ご自身の言葉があります。また黙示録において、主は「勝利を収める獅子【62】」と呼ばれ、「勝つ者であり、さらに勝つために勝ち誇って出て行った【63】」旨記されていますが、それは主が、ご自分の勝利において、おん自らに従う者らにも、(誘惑に)勝つ力をお与えになったからです。
使徒パウロのヘブライ人への手紙には、信仰によって国々を破り、獅子の口をふさぎ、およびその他の栄えある業(わざ)を成し遂げた義人らの勝利が列挙されています。【64】
しかるに聖書中に見られるこれらの偉業は、信仰、希望、愛徳に長ける者たちが毎日、悪魔との内的、外的な戦いにおいて収める勝利について考える助けとなります。かかる勝利は、かくも頻繁で、かくも顕著なものであるため、もし肉眼で見ることができたならば、これ以上頻繁に、かつめざましい仕方で起こることはおよそないと思われることでしょう。かかる敵の敗北について使徒聖ヨハネは、「若者よ、私があなたたちに書き送るのは、あなたたちが強い者であり、天主のみ言葉があなたたちの中に留まり、またあなたたちが悪者に勝ったからである。【65】」と記しています。

226.しかるにサタンを打ち破ることができるのは、無為、安眠、飲酒、美食、淫乱遊蕩によってではなく、却って祈り、労働、徹夜、節制、禁欲、貞節によってです。先に見たように【66】、主は、「誘惑に陥らないように、目覚めて祈れ【67】」と仰せになっているからです。これらの武器を持って戦いに挑む者は、諸々の敵を討ち散らすことができます。「悪魔に抵抗する者たちから、悪魔は逃げ去る【68】」ものだからです。

227.しかるに誰も、上述した聖人らの勝利を鑑みて、悦に入って高ぶり、自力で悪魔の誘惑と攻撃に抗(あらが)い得ると思いこむことがないようにしなければなりません。そのようなことは、私たちの自然本性ならびに人間の弱さに適うものではないからです。

228.サタンとその手先を打ち負かすための力は、天主からのみ与えられます。天主こそ、「私たちの腕を青銅の弓のようにされ【69】」、その仁慈によって「強者(つわもの)の弓は折られ、弱い者が力を帯びる【70】」からです。実に天主は、「救いの楯で私たちを守り、その右腕で私たちを支え【71】」、「私たちの手を戦(いくさ)に、私たちの指を闘いに鍛えられ【72】」るのです。
したがって私たちが敵に打ち勝つ場合、唯天主にのみ感謝の念を抱きかつ示すべきです。唯天主によって、その助力を受けてのみ私たちは勝利を得ることができるからです。この意味で、使徒パウロは、「主イエズス・キリストによって私たちに勝利をお与えになった天主に感謝しよう【73】」と述べているのであり、また黙示録においても、天から響く声は、次のように叫んで、当の勝利を同じく天主に帰しています。「天主の救いと力と統治、ならびにそのキリストの権勢の時はすでに到来した。私たちの兄弟を[罪に]訴えていた者は突き落とされたからである。兄弟たちが勝ったのは、小羊の御血によってである。【74】」また同書中に見られる、「彼らは小羊と戦い、小羊は彼らに勝つであろう【75】」と言う章句も、主キリストが世と肉とに対して収められた勝利を証し立てています。以上、何によって、またいかにして霊魂の敵に打ち勝つことができるかを見てきました。

229.次いで、司牧者は、天主によって勝者に備えられた栄冠と、はかり知れぬ永遠の報いとを信徒に示さねばなりませんが、これについての天主ご自身のみ言葉を、同じく黙示録から引くべきです。すなわち、「勝つ者は、第二の死を受けることがなく【76】」、また他の箇所では、「勝つ者は白い衣をまとい、私はその名を命の書から消すことなく、御父のみ前と天使たちの前でその名を宣言する【77】」と天主は宣(のたも)うておられます。またそのすぐ後で、天主なる我らの主イエズス・キリストご自身が、使徒ヨハネに、「勝つ者を私は天主の神殿の柱とし、彼はもうそこから出ることがない【78】」と、さらに、「勝つ者は、私と共に私の王座に座らせよう。私が勝って、父と共にその王座に座したのと同様に。【79】」と仰せになっています。最後に、聖人らの栄光と、彼らが天で永遠に浴するあふれるばかりの諸善を示した後に、主は「勝つ者は、これら全てを受ける【80】」と述べて、結んでおられます。

1: ルカ 11章21-26節参照 (四旬節第3主日の福音)
2: 聖ペトロの後の手紙 2章21節
3: ヨハネ 13章11節
4: マタイ 26章41節
5: 同上
6: マタイ 26章56節
7: マタイ 26章35節
8: 訳者注: 主キリストおよび使徒聖ヨハネと聖パウロによって度々用いられた(マタイ16章17節、26章41節、ヨハネ3章6節、6章64節、ローマ人への手紙8章12節以下、ガラツィア人への手紙5章16節等々)この言葉は、同じ聖パウロの書簡中に見られる「古い人」と言う表現と同じ意味を持つものである。「新しい人」ないしは「霊の人」が恩寵の助けによって超自然的な傾きに従って、天主の法を守り、その御旨に沿って行動するよう促すのに反し、「古い人」ないしは「肉の人」は、自然的な傾向にのみ従い、洗礼を受けた後も依然として残る悪い傾き、すなわち肉の欲、目の欲、生活の傲りという3つの欲情に律され、支配されるものであり、世と悪魔とは、これに拍車をかける。キリスト者の生活は、己が中にあるこの2つの傾きの間でめぐらされる、たゆまぬ戦いである。(Ad. Tanqérie 著 « Précis de théologie ascétique et mystique » を参照した。)
9: ヨブ書 7章1節参照
10: 訳者注:このくだりは、従来「権勢と能力」と訳されてきたが、原語の意味および当教理の文脈に即して、あえて「首長と権能」という言葉で訳した。(この2位階に属する善天使は、それぞれ「首天使」、「能天使」とよぶことができるだろう。)以下注13および14を参照のこと。
11: エフェゾ人への手紙 6章12節
12: 訳者注:ここで言う「心に入り込む」( influunt in animas nostras)という表現は、あくまで比喩的に解すべきものである。悪魔のみならずいかなる天使も、人の知性と意志とに直接働きかけることができないからである。(神学大全第1部第57問4項参照)
13: ラテン語では <Principes>、ギリシャ語原文では<αρχαι>。(自らに備わった秀でた資質のために)第一の座を占め、他の者らを治め、指導する者を示す語である。英仏語では、それぞれ<Principalities>および<Principautés>と訳される。聖トマス・アクィナスによると、同位階の天使は、「能天使」によって伝えられた天主の命令を、下位の天使、すなわち天使と大天使を指揮して遂行する役目をもつ。「首長」という言葉を構成する2つの漢字は、「首位」、「長所」ないしは「長ける」といった言葉にみられるように、他者に優って秀でた資質(性質)を有することを示すものであり、また聖トマス・アクィナスが神学大全中(第1部、第108問、第6項)同位階の天使の職務を、為政者のそれになぞらえていることもふまえて、このように訳することが適当であると思われる。( « haec ordinatio statim in nomine principatum designatur, qui sunt primi in executione divinorum ministeriorum utpote praesidentes gubernationi gentium et regnorum ») ただし、ある位階の善天使は、当の位階名の一字をとって、天使という一般的名称に付け加えて呼ばれるのが常であるため(「勢力」→「力天使」、「主座」→「座天使」等々)、「主権」(Dominationes)の位階に存する善天使すなわち「主天使」と同音語となる(「首天使」と「主天使」)のを避けるために、後者を「権天使」と呼ぶことが必要となろう。
14: ラテン語では <Potestates>、ギリシャ語原文では<εξουσιαι>。公の権力、権勢を指す言葉。英仏語では、それぞれ<Powers>、<Puissances>ないしは<Authorités>と訳される。「能力」という従来の訳語は、ヴルガタ訳聖書で用いられているラテン語の<potestas>という語に基づくものであると思われるが、しかるにこの言葉は、原語ギリシャ語の<εξουσια>と同様、主として政治的、法的な権力、権能を表す語であるため、(*1)その意味で、特定の所作、行為ないしは活動を為すための、より具体的な意味での力を示す「能力」(*2)をもってその訳語とするのは、不適当であると思われる。聖トマス・アクィナスによると、同位階の天使は、「権天使」(Dominationes)によって定められた、果たすべき務めが、どのようにして下位の天使らによって完遂されるべきかを決定し、かつ悪霊を牽制することを役職とする。 (神学大全前掲箇所参照)(*1)A. Ernout & A. Meillet : « Dictionnaire étymologique de la langue latine » Paris, 1979 (p.528) « Potestas : Pouvoir, puissance. En particulier «pouvoir politique», «pouvoir du magistrat». (「Potestas : 権力、権威。特に「政治的権力」および「行政官、司法官の権能」を指す。」)(*2)この意味での「力」は、むしろ<virtus>もしくは<vis>といった語に相当する。
15: エフェゾ人への手紙 6章12節
16: イザヤ書 14章12節
17: ルカ 22章31節
18: マタイ 4章参照
19: ペトロの前の手紙 5章8節
20: ルカ 8章30節
21: マタイ 12章45節
22: コリント人への前の手紙 10章13節
23: 黙示録 2章20節参照 
24: ヨブ書 1章12節
25: マタイ8章31節/マルコ5章11節/ルカ8章32節
26: 神学大全 第1巻第114問2項 第2反論に対する解答および第2巻第2部第97問1項参照
27: ヘブライ人への手紙 4章13節
28: 第二法の書 13章3[4]節
29: 創世の書 22章
30: トビア書 12章13節
31: マタイ 4章3節
32: 詩編1 1節
33: 訳者注 ラテン語原文では、< peccati auctor >
34: 詩編5 7節
35: ヤコボの手紙 1章13節
36: ローマ人への手紙 7章10節
37: 訳者注: つまり、本来人間の利益となるべきもの(例えば天主の掟)が、それを悪用することによって、却ってその滅びの元となってしまうということ。
38: エゼキエルの書 16章14節
39: エゼキエルの書 16章15節以下
40: 出エジプトの書 4章21節および7章3節
41: イザヤ書 6章10節
42: ローマ人への手紙 1章26節
43: 神学大全第2巻第2部第87問2項および第15問参照。また次の教会博士の著作をも参照することができる。Iren. lib.4 contra hæret. cap.48 / Tert. lib.2 contra Marc. 14 / August. lib. de Prædestin. et Gratia cap.5. et de Prædestin. sanct. cap.9. et de libro arbitr. cap.21, 22, 23 
44: ヨブの書 7章1節(ヴルガタ訳聖書による)
45: 聖ペトロの前の手紙 5章6節
46: 同上4節
47: ティモテへの後の手紙 2章5節
48: 聖ヤコボの手紙 1章12節
49: ヘブライ人への手紙 4章15節
50: 詩編118 43節
51: 訳者注:主の掟のこと。
52: 詩編118 36節
53: 同詩編 37節
54: ヘブライ人への手紙 12章3節参照
55: 第二法の書 31章29節および詩編24 4節参照
56: ローマ人への手紙 16章20節
57: 創世の書 39章7節
58: ダニエルの書 13章61節
59: 同箇所 31節
60: ルカ 11章22節
61: ヨハネ 16章33節
62: 黙示録 5章5節
63: 黙示録 6章3節
64: ヘブライ人への手紙 11章
65: ヨハネの第1の手紙 2章14節
66: 当章206項
67: マタイ 26章41節
68: ヤコボの手紙 4章7節
69: 詩編17 35節
70: サムエルの書上 2章4節
71: 詩編17 36節
72: 詩編143 1節
73: コリント人への前の手紙 15章57節
74: 黙示録 12章10節
75: 黙示録 17章14節
76: 黙示録 2章11節
77: 黙示録 3章5節
78: 黙示録 3章12節
79: 黙示録 3章21節
80: 黙示録 21章7節

 


Viewing all articles
Browse latest Browse all 4247

Trending Articles