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洗者聖ヨハネの謙遜:聖ヨハネにとって最も大切なことは、人々が、自分ではなく、イエズス・キリストのもとに行くことだった。

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洗者聖ヨハネの謙遜についての説教

ドモルネ神父

はじめに

待降節の典礼で、教会は、特に洗者聖ヨハネを取り上げます。聖ヨハネは、救い主の先駆者でした。聖ヨハネは、その説教と模範によって、救い主の到来を準備しました。今日の福音で、聖ヨハネは、私たちに謙遜の模範を示しています。童貞聖マリアは、マグニフィカトのなかで、「天主はおごる人々を散らされる」と言われました。ですから、救い主の到来のお祝いを実りあるものとし、クリスマスのすべての恩寵を受けたいのであれば、私たちは高慢と戦い、謙遜の徳を実践しなければなりません。

1.高慢の誘惑一般

高慢とは、自分の優越性を過度に望むことであり、自分を、本当の自分よりも、より偉く見せたいという望みです。高慢はルチフェルの罪です。高慢は、人間、特に聖性を追求する人間に対する、ルチフェルのお気に入りの武器です。ルチフェルは、この武器をアダムに対して使って、成功しました。またルチフェルは砂漠で、私たちの主イエズスに対して、この武器を使いましたが、失敗しました。ルチフェルは、ユダヤの宗教指導者たちが洗者聖ヨハネに使者を送ったときにも、聖ヨハネに対して、この武器を使ったのです。

2.高慢の第一の誘惑

洗者聖ヨハネに対する高慢の第一の誘惑は、自分にはない尊厳を、聖ヨハネに受け入れさせようとするものでした。この誘惑は、ユダヤ人たちの次の質問にありました。「あなたは誰ですか?」。この質問は、暗黙の答えをもとめており、実際には、「あなたはメシアですか?」という意味でした。ユダヤ人たちは、洗者聖ヨハネの尊厳に、感銘を受けていました。その尊厳とは、高貴な生まれ、質素な暮らし、この世のものの軽蔑、砂漠での生活、人々の間での人気でした。そのため、ユダヤ人たちは、聖ヨハネを待望のメシアとして認めよう、と申し出たのです。

洗者聖ヨハネは、この質問の意味と、その中に含まれている誘惑を、よく理解していました。そこで聖ヨハネは、すぐにその誘惑を拒絶しました。「ヨハネは次のように証明した。彼は否定することなく、『私はキリストではない』と宣言した」(ヨハネ1章20節)。聖ヨハネ・クリゾストモは、これについて、こう言っています。「忠実なしもべの義務は、自分の主人から栄光を奪わないことだけでなく、自分自身に差し出されたものを拒むことでもある」。

3.高慢の第二の誘惑

洗者聖ヨハネに対する高慢の第二の誘惑は、曖昧な称号で、彼をおだてることでした。この誘惑は、ユダヤ人たちの次の質問にありました。「あなたはエリアですか?」。私たちの主イエズスは、洗者ヨハネがエリアの精神と力を持っていたため、彼はエリアである、と言われました(ルカ1章17節)。しかし、ユダヤ人たちが話していたのは、本物の預言者エリアが地上に戻ってくることについてだったのです。

次の質問にも、同じ誘惑があります。「あなたはあの預言者ですか?」(ヨハネ1章21節)。洗者聖ヨハネは、預言者であり、預言者よりも優れた人でした(マテオ11章9節)。しかし、ユダヤ人たちが話していたのは、モーゼが死ぬ前に告知した預言者、つまり、メシアのことだったのです。

そのため、この誘惑は、「エリア」という名前と、「預言者」という称号の曖昧さを利用して、洗者聖ヨハネに、人々の間で、自分自身を、より高貴な者だと思わせよう、とさせるものでした。聖ヨハネは、その罠を理解していました。聖ヨハネは、謙遜と、明確で単純な真理への愛のゆえに、これらの曖昧さを利用して自分をおだてようとする人々に、素っ気なく、「いいえ」と 答えたのです。

4.高慢の第三の誘惑

洗者聖ヨハネに対する高慢の第三の誘惑は、彼を、自己満足に浸らせることでした。この誘惑は、ユダヤ人たちの次の質問にありました。「あなたはだれですか?私たちを遣いによこした人々に何か返事をもっていかしてください。あなたは自分を何者だと言われるのですか?」(ヨハネ1章22節)。

洗者聖ヨハネは、この罠を理解し、真摯で深い謙遜によって、その罠を見事にくじきました。「預言者イザヤの言っている『主の道を正しくせよと荒野に叫ぶ者の声』とは私のことである」(ヨハネ1章23節)。洗者聖ヨハネは、真理を、否定はしませんでした。聖ヨハネは、自分の卓越した使命と、その結果としての、卓越した尊厳を認めました。しかし、それと同時に、自分自身は何者でもないことを宣言しました。聖ヨハネは、自分のことを、「声」と呼びました。声は、それだけでは存在せず、それだけでは意味がありません。ですから、洗者聖ヨハネは、自分を「声」と呼ぶことによって、自分が私たちの主イエズス・キリストに完全に依存していることを断言したのです。

5.高慢の第四の誘惑

洗者聖ヨハネに対する高慢の第四の誘惑は、洗礼を授けるという彼のわざの価値を貶めることによって、聖ヨハネが自分を正当化し、誇示するように、聖ヨハネを挑発することでした。ユダヤ人たちは、聖ヨハネに、「あなたがキリストでもなく、エリアでもなく、あの預言者でもないとしたら、なぜ洗礼を授けるのですか?」と言いました。これは、ねたみ深く、人を傷つける言葉であり、自己愛の反応を引き起こすためのものでした。

しかし、洗者聖ヨハネは、その罠に嵌まりませんでした。聖ヨハネは、少しも自分を正当化しようとは、しませんでした。聖ヨハネは、自分への侮辱を受け入れ、そしてすぐに、すべての焦点を、私たちの主イエズス・キリストに向けたのです。「私は水によって洗礼を授けているが、あなたたちの中に、見知らぬ人が一人立っている」(ヨハネ1章26節)。聖ヨハネにとって最も大切なことは、人々が、自分ではなく、イエズス・キリストのもとに行くことでした。

結論

洗者聖ヨハネは、鳥が猟師の網から逃れるように、高慢のすべての誘惑から逃れました。謙遜は、私たちを自由にします。この世の栄光を求めることからも、他人からの評価を求めることからも、自己中心的な考えや自己憐憫からも、思い上がりや絶望からも、私たちを自由にします。謙遜は、私たちから自己愛を取り去り、それによって、私たちは、心を込めて、私たちの主イエズスを愛することができるようになるのです。


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