私たちの主イエズスの処女懐胎についての説教
ドモルネ神父 2021年12月19日
はじめに
今日は、待降節の最後の主日です。あと6日で、クリスマス、つまりキリストのご降誕をお祝いすることになります。私たちの主イエズス・キリストが、童貞聖マリアに処女懐胎されたことについて考えてみましょう。
1.カトリックの教義
イエズスの処女懐胎とは、童貞聖マリアが、男の種を介さず、かつ自らの童貞性を失うことなく、そのご胎内に、イエズス・キリストをやどされたことを意味します。これは明らかに奇跡、つまり自然法則の外で、天主の御力によって実現したみわざです。天主は、その創造の御力によって、通常は男の種が子を受胎させるところ、男の種の助けなしに、しかも童貞性の封印を解くことなく、童貞マリアのご胎内で、それを実現されたのです。童貞マリアの側では、自然の秩序は、完全に尊重されました。ですから、マリアは、完全に童貞のままで、まことにイエズス・キリストの御母となられたのです。
2.教義の源泉
私たちは、どのようにして、この奇跡のことを知っているのでしょうか? それは、天主が啓示されたからです。この啓示は、聖書と聖伝にあります。聖書では、預言者イザヤが、次のような言葉で、イエズスの処女懐胎を告知しました。「見よ、処女(おとめ)が身ごもり、一人の子を生み、それをエンマヌエルと呼ぶだろう」(イザヤ7章14節)。私たちは、この奇跡を、イエズス・キリストが使徒たちに教えられ、それが今日に至るまで、教皇たちや司教たちによって継承されてきた、聖伝からも、知っています。例えば、649年のラテラノ公会議は、イエズスの処女懐胎を宣言し、これに反することを言う者を断罪しました。
3.この教義の理性的妥当性[神学大全第3部a第28問題a第1項参照]
イエズスの処女懐胎は、天主によって決定され、実現されたものです。これについて考えてみると、この決定には、天主の知恵が垣間見られます。第一に、イエズスの処女懐胎によって、父なる天主だけが、イエズス・キリストの御父という称号と尊厳を、保持することがおできになります。もしイエズスに人間の父親がいたとすれば、イエズス・キリストについての父性の共有のようなものが、存在することになったでしょう。それは、不適切です。イエズス・キリストは、御子なる天主です。イエズス・キリストは、唯一の父を持っておられ、それは父なる天主です。
第二に、イエズスの処女懐胎によって、イエズスが、原罪とのいかなる接触をも避けられることが、可能になりました。実際、原罪は、アダムからそのすべての子孫に、自然の出産によって、継承されてゆくものです。イエズス・キリストは、男の種の助けなしに処女懐胎されたことにより、原罪の継承の法則を免れられたのです。
第三に、天主の御力によるイエズスの処女懐胎は、私たちに、御托身の目的を思い起こさせます。イエズスは、私たちを、天主の子としてもう一度生まれさせるために、この地上に来られました。しかし、私たちは、「血統(ちすじ)ではなく、肉体の意志ではなく、人の意志ではなく、ただ天主によって」(ヨハネ1章13節)、つまり、天主の御力によって、もう一度生まれるのです。マリアにおけるキリストの処女懐胎は、教会における私たちの霊的な新生のモデルなのです。
4.童貞性(処女性)
天主の御子イエズス・キリストは、童貞に、御托身されました。そして、その御母の童貞性を保つために、本当に唯一無二の奇跡を行われました。このことは、天主がいかに童貞性を喜ばれるかを示しています。奉献された童貞性とは、本質的に、肉の快楽を、たとえそれが婚姻内では合法的であるとしても、天主に、生涯にわたって、犠牲として捧げることを意味します。それは、何のためでしょうか? より完全に、天主のものとなるためです。実際、聖パウロはこう言っています。「独身の人はどうして主を喜ばせようかと、主のことを気づかい、結婚した人は、どうして妻を喜ばせようかと、世のことを気づかい、心が二つに分かれる。結婚していない女と処女は、体と心を聖とするために、主のことを気づかい、結婚している者は、どうして夫を喜ばせようかと、世のことを気づかう」(コリント前書7章32-34節)。
すべての人が、奉献された童貞性に召されるわけではありませんが、すべての人は、童貞性を尊敬しなければなりません。イエズス・キリストは一生童貞で、聖母は一生童貞で、聖ヨゼフは一生童貞で、洗者聖ヨハネは一生童貞で、愛された使徒ヨハネも一生童貞でした。童貞たちは、いわば、私たちの主イエズスのボディガードとなっているのです。黙示録では、童貞たちは、「小羊の行くところにどこにでもついて行く」(黙示録14章4節)と言われています。
すべての人が、奉献された童貞性に召されるわけではありませんが、すべての人は、もし天主がお召しになるなら、子どもたちがそのような完徳に達するのを助けるべきです。悪魔やこの世のキリストの敵は、奉献された童貞性の特別な価値を、よく知っています。ですから、彼らは、それを破壊するため、またその進展を妨げるために、あらゆることをします。彼らは、写真、映画、雑誌、マンガ、アニメ、悪い手本や、学校での倒錯した教育を通して、幼い子どもたちにたいして、肉の情欲を呼び覚まそうとするのです。彼らは、童貞である人々を嘲笑します。彼らは、肉の快楽を経験することが、成熟のしるしであるかのように見せかけます。実際は、その逆なのです。自分の情欲を抑え、天主への愛のために、自分自身を犠牲にする人は、自分の情欲に支配される人よりも、ずっと強く、ずっと成熟した人なのです。
結論
子どもたちの両親や、子どもたちに責任を持つ皆さんには、このような倒錯から、子どもたちを守る義務があります。では、どのようにすればよいでしょうか? 貞潔の徳を損なうものをすべて、家庭から追放することによってです。家でも外でも、子どもたちの服装の慎み深さに目を配ることによってです。皆さんの子どもたちが、悪い友達と一緒に出かけないようにすることによってです。子どもたちに、真実のもの、美しいもの、善いものを選び、偽りのもの、醜いもの、悪いものを拒絶するように、教えることによってです。最後に、これも重要なことですが、犠牲の精神を、子どもたちに教えることによってです。奉献された童貞性は、自分自身と、家族を持つという自然な欲求を犠牲にすることであり、また肉の情欲との全面的な戦いでもあるのです。もし子どもが、日常生活のささいなことで自分を犠牲にすることを最初に学ばなければ、このような栄光ある自己犠牲と、天主への愛のための戦いを実践することができないことは、明らかです。
童貞にして母なる聖母が、その童貞のマントで皆さんの家族を覆い、あらゆる不純さから、皆さんを守ってくださいますように。