私たちの主イエズス・キリストの処女降誕についての説教
ドモルネ神父 2021年12月26日
はじめに
クリスマスの前の先週の主日には、イエズスが、童貞聖マリアのご胎内に、処女懐胎されたことについてお話ししました。今まさに、私たちはクリスマスをお祝いしていますから、今日はイエズスの処女降誕についてお話ししたいと思います。
1.処女降誕
イエズスの処女降誕とは、イエズスが、童貞聖マリアのご胎内から、童貞の封印を破ることなく、出て来られたことを意味します。マリアは、完全に童貞のままで、イエズスをお生みになったのです。教会の教父たちは、私たちがこの現実を理解するのをたすけるために、いくつかのたとえを用います。イエズスは、ご復活の時、石を取り除くことなく、墓から出て来られたように、あるいはまた、戸がすべて閉ざされていた高間に入られたように、マリアの封印されたご胎内から出て来られたのです。イエズスは、水晶を壊すことなく通り抜ける一筋の太陽光のように、マリアのご胎内から出て来られたのです。教会の教父たちは、次のたとえも用いました。「子なる天主は、聖母のご胎内に入られ、その後、鏡を壊すことなく、それに当たって反射する一筋の光のように、聖母のご胎内から出て来られたのである」と。
2.生みの苦しみではなく、崇高な喜びがあった
処女降誕の結果として、マリアに、生みの苦しみはありませんでした。聖トマス・アクィナスは、次のように言っています。「生みの苦しみは、子どもが胎内から出てくるときに通る身体器官が歪むことによって、引き起こされる。しかし、幼子イエズスは、マリアの封印されたご胎内から出て来られたのである。マリアの身体器官には、何の害も加えられていない。そのため、この出産には苦しみはなく、肉体的な傷もなかったのである」(神学大全第3部a第35質問a第6項)。その反対に、聖母は、人となられた天主がこの世にお生まれになるがゆえに、崇高な喜びに満たされていたのです。
3.この啓示の源泉
処女降誕は、自然には、あり得ません。自然の法則に従って胎内から出てくる子どもは、童貞の封印を必ず破ることになります。ですから、このご降誕は、奇跡だったのです。私たちは、どうして、そのことを知っているのでしょうか? それは、この奇跡を起こされた天主が、それを、私たちに啓示されたからです。では、その啓示は、どこにあるのでしょうか? それは、いつものように、聖書と聖伝にあります。聖書の中で、預言者イザヤは、こう言っています。「処女(おとめ)が身ごもり、一人の男の子を生む」(イザヤ7章14節)。これは明らかに、ある童貞の女性が、童貞のまま男の子を生むことを意味しています。そうでなければ、このような預言は無意味です。聖マテオと聖ルカは、各々の福音において、このイザヤの預言を、マリアとイエズスに、はっきりとあてはめています。さらに、聖ルカによれば、童貞聖マリアは、自ら、「初子(ういご)を生んだので、布に包んで、まぐさ桶に子を横たえた」(ルカ2章7節)のです。これは、イエズスのご誕生の際に産婆がいなかったこと、また、マリアが生みの苦しみに悩まされなかったことを示しています。
イエズスの処女降誕の啓示は、また、聖伝、すなわち、イエズスが使徒たちに教えられ、それが、教皇たちや司教たちによって、歴史を通じて忠実に伝えられてきた教えにも、見いだすことができます。たとえば、すでに390年に、教皇シリキウスは、童貞聖マリアについて、こう書いています。「この方は、ご自分のご胎内に子を宿した童貞であり、また、童貞として子を生んだお方である」。教会の歴史を通して、教皇たちや諸公会議は、常に同じことを教えてきました。
4.妥当性
私たちは、啓示によって、イエズスの処女降誕のことを知っています。しかし、それをよく考えてみると、イエズスが、このような形でお生まれになったことが、いかに適切であったかが分かります。それは、聖三位一体において、イエズスがどのようなお方であるかに、合致するのです。イエズスは、天主のみ言葉でいらっしゃいます。イエズスは、父なる天主に、何の変化もお与えになることなく、父なる天主からお生まれになりました。それは、ある考えが、頭自体を変化させることなく、その頭から出てくるのに、少し似ています。ですから、童貞に何の変化もお与えになることなく、童貞からこの世にお生まれになることが、適切だったのです。
また、処女降誕によって、イエズスは、両親を敬うことの良い模範を、私たちに示してくださいました。実際、処女降誕によって、イエズスは、ご自分の御母に、童貞の栄光と母の尊厳を、同時に持つことを、お許しになったのです。
結論
イエズスの処女降誕についてのこれらの考察から、どのような結論を導き出すことができるでしょうか? 三つの結論を、導き出しましょう。
第一の結論は、私たちが、私たちの主イエズス・キリストを自分の霊魂の中にお迎えし、主に身を任せることによって、何も失うものはない、ということです。それどころか、私たちの聖性と栄光が増すのです。聖母は、イエズスをご胎内にお迎えになり、イエズスのご意志に同意され、そして、童貞の栄光をいささかも失うことなく、天主の御母となられたのです。
第二の結論は、私たちは、両親を敬い、愛さなければならないということです。イエズスは、そのことを言葉で教えてくださっただけでなく、ご自分の御母を非常に思いやる行動でも、それを教えてくださったのです。
第三の結論は、私たちは、童貞聖マリアを特別に敬い、愛さなければならないということです。天主の御子であるイエズス・キリストが、処女降誕という特権をお与えになることによって、マリアを特別に敬われたのですから、イエズスは当然、私たちが、特別な信心をもって御母を敬うことを、期待しておられるのです。