アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
フランソワ・レネー神父様が、エレイソン・コメンツ「間違った議論 Arguing awry」へ次のように回答しているので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。
ウィリアムソン司教は、現在のローマ当局者たちの新近代主義(neo-modernism)は腐敗の極みに達し、程度の差はあれ、全ての司教、枢機卿らは全く腐敗しきっているので、積極的に彼らを全て避けなければならない、ローマが第二バチカン公会議を完全に棄てるまで、一切コンタクトを取ってはならない、彼らは背教者どもだ、背教のローマが聖ピオ十世会を認めることは出来ない、と主張します。
しかし、レネー神父様は、それは間違っている、何故なら、カトリックの最も基本原則にあるように「教会内の悪人たち──あるいは彼らは知られていないか、あるいは彼らは、平和の一致の目的のために善人たちによって黙認されている──は、その悪に同意しない善い人々に害を及ぼすことはあり得ない」からだ、と明確に説明します。
ルフェーブル大司教様は、パウロ六世が第二バチカン公会議を発布し、新しいミサを作った後でも、コンタクトを取り続けました。ヨハネ・パウロ二世によって、新教会法典が発布され、アシジのエキュメニカル集会が行われた後にも、コンタクトを取り続けました。
聖ピオ十世会は、不当な立場に追いやられています。その悪を是正することは善です。聖伝を代表する聖ピオ十世会こそ、ローマによってはっきりとその正統性を宣言されなければならない存在だからです。カトリック教会は、その2000年の過去と自らの聖伝とを、自分のものであると宣言しなければならないからです。これ以上、過去と断絶しよう、聖伝と断絶しようとすることは出来ないからです。
聖ピオ十世会が公式な立場を持つことを望まない人々が存在します。一つは、カトリック教会の過去を憎む人々、近代主義者、カトリック教会を改革させようとする人々です。もう一つは「レジスタンス」と自称する人々です。
ウィリアムソン司教が、these Roman officials, appointees perhaps, apostates certainly (拝命者かもしれないが、確かに背教者である、これらローマからの聖職者ら)と呼ぶ一人に、たとえば、シュナイダー司教様(Bishop Athanasius Schneider)がいます。何故なら、シュナイダー司教様は、教皇様からの拝命を受け、聖ピオ十世会の二つの神学校を訪問したからです。
ところで、ウィリアムソン司教が、カスパール枢機卿などと同じレベルに見ているシュナイダー司教様は、カトリック教会の聖伝の信仰についてそれを取り戻そうと努力しています。たとえば来るローマでの家族についてのシノドゥスについて聖伝のために闘おうとしています。
シュナイダー司教様は、聖ピオ十世会は第二バチカン公会議を受け入れなくとも、ルフェーブル大司教様が要求していたように聖ピオ十世会の今あるままをそのままに完全な裁治権を与えるべきだ、さもなければ、カトリック教会はその信憑性(credibility)を失い、歴史は将来現在の教会当局を批難するだろう(the history will one day reproach to the ecclesiastical authorities of our days)と言っています。
シュナイダー司教様は、聖ピオ十世会が何かをするべきだと言うのではありません。ただ、聖ピオ十世会が正当な地位をもっていないように取り扱われているのは、正当な理由がない、聖ピオ十世会が正当な地位をもっていると言うことを宣言するのはローマの義務であり、責任であり、それが必要である、と言うのです。さもなければ「使徒達のやっていた司牧方法に反する」と言うのです。シュナイダー司教様は、もう聖ピオ十世会を妨害するのを止めるときが来た、もしそれをし続けるなら、カトリック教会こそが信憑性を失う、と警告しています。
このようなカトリック的な主張をする勇気のある司教を、十把一絡げに「背教者」だと断罪することは現実的ではありません。
次の文章は、レネー神父様が韓国の信徒から質問を受けてお答えになったものです。既に日本語に訳されていましたが、黙想会その他の仕事で時間が取ることが出来ずブログにアップすることが出来ないでいました。今、少し時間が取れて、ようやくご紹介することが出来るようになりました。では、レネー神父様の文書をお読み下さい。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
エレイソン・コメンツ「間違った議論 Arguing awry」へのフランソワ・レネー神父の回答
いくつもの間違った原則
今回に限り、ウィリアムソン司教は自身の執筆するエレイソン・コメンツの中で正しい疑問を提示しています。が、間違った原則から始めたために、彼は間違った結論に達しています。
正しい疑問とは、聖ピオ十世会は自らの教会法的状況を正しくさせるために、ローマ当局者たちと話し合いをするべきかどうか、という正にそのものです。
この状況は異常ですが、聖ピオ十世会の側に過ちはありません。なぜなら、ルフェーブル大司教の聖伝の信仰と典礼への忠実が原因で、大司教はイレギュラーな状況へと追いやられ、"主流から外され"、不当にも離教であると糾弾されさえしました。1975年、大司教は、あるいはこの戦いから手を引いて神学校を閉鎖し叙階式の執行を断念するか、従ってご自分が受け取ったものを伝えるのをやめるか、あるいは現代主義者たちの激しい怒りと制裁措置を被るか、いずれかの選択を迫られました。この制裁措置の数々は教会法に反していました。なぜならこの制裁措置の根底になったものは、マミー司教による聖ピオ十世会の廃止であり、従って間違いなく教会法に反しているものだからです。ルフェーブル大司教の二つの不服申し立ては、回答もないまま闇に葬られました。この起訴は状況をそのままにとどめる「停止」の効果があるので、聖ピオ十世会は見かけ上非合法であっても、現実には合法的に存続しています。
1988年には同じジレンマがありました。すなわち、大司教様が受け取ったものを伝えていくのをやめるか、いかなる地元の権威を持たない異国人であるにも関わらず、救う必要のある霊魂たちを保護した善きサマリア人の模範に倣うこと、のどちらかを迫られました。これこそ、いつの日か正される必要のある見かけ上の非合法性です。
いや、正されることは善いことです。教会内における秩序はすぐれた善であるからです。そして無秩序のままとどまることは── 一方がそれに対する責任がないとはいえ──正されなければならない悪です。
この問題こそが、ウィリアムソン司教の反逆のまさに中心なのです。実際のところ、この問題に関する不一致が両者の間になかったならば、ウィリアムソン司教はこれほど多くの間違った非難 [1] をフェレー司教に浴びせかけることはなかったはずです(2013年のウィリアムソン司教による聖ピオ十世会会員への公開書簡に対する私の公開回答を参照のこと)。
ウィリアムソン司教が軽視した最初の原則、これは聖アウグスティノによって教えられたことです。「教会内の悪人たち──あるいは彼らは知られていないか、あるいは彼らは、平和の一致の目的のために善人たちによって黙認されている──は、その悪に同意しない善い人々に害を及ぼすことはあり得ない」[2] と。
二年以上前、私は聖アウグスティノのこの原則をすでに指摘し、こう説明しました。「聖アウグスチノの原則を理解するためには、カルメル神父様がたびたび喚起させていた「教会のかしらはキリストであり、教皇はキリストの代理者にすぎない」という偉大な真理を忘れてはなりません。
教会のメンバーたちとの交わりは、まず第一にキリストとの交わりであるがために、善い人々は悪に同意しない限り害を被ることはありません。そして、ある人々は、キリストが教会のかしらであることを忘れてしまい、教会の人間的側面だけに注意を払い、キリストの教会で万事を支配されるイエズスの聖心を忘れ、この交わりをとても恐れています。彼らの苦々しい熱心──ルフェーブル大司教様の精神とは正反対の──は、このイエズスの聖心を軽視していると告白しています。彼らのために祈りましょう」 [3]
ウィリアムソン司教は次のように書いて、これを「論駁」したつもりになっています。
「腐敗した教会の役人たちの堕落からは、霊的生命を引き出すことは決してできない」と。
このような非難には欠陥があるとわからない人がいるでしょうか。つまり、霊的生命を与えることのできるのは、腐敗した教会の役人たちの堕落であるなどと誰も主張しておらず、堕落において彼らに従いたいなどとは誰も思っていない、ということです。聖アウグスティノはその反対に、堕落に同意しないことを主張しています! そうではなくその反対に、彼らが使徒の後継者たちである限りにおいて──そして堕落している限りにおいてではなく──彼らとの交わりの中にいることが不可欠だ、と言っています。
しかし、ウィリアムソン司教が、彼らのことを使徒たちの後継者であると言及している箇所はどこにも見当たりません。結果、司教の結論が間違っていることを驚くにはあたりません。フェレー司教と聖ピオ十世会全体が、教義において一切の妥協なく、ふさわしい関係と教会法上の立場にあることを望んでいるのは、明白に、使徒らの後継者としてのカトリック教会の高位聖職者たちとのことであって、堕落したものとしての彼らとのことではありません。
そして教会の交わり、教会との一致は、副次的なものでも選択自由な善でもありません。それどころか、救霊のために不可欠な善です。なぜなら「教会の外に救いなし」であり、従って──私たちは自分たちの異常な状況について責任がないとはいえ──これを修正するために、教会の善のために、働くことは善であり不可欠なのです。
聖アウグスティノの原則は、ここで、このような堕落した高位聖職者の人々とのカトリック教会における交わりは、その堕落に同意しない善人たちに害を与えない、ということを保証しています。
明らかに、聖アウグスティノが教えたことをウィリアムソン司教は信じていません。司教は実際こう書いています。カトリック信者は絶対的なやり方で「積極的にこのような高位聖職者たちを避けなければならない」と。これは確かに、事実上、教皇聖座空位論者(セデヴァカンティスト)の態度です。実際、あらゆるコンタクトを実際に避けるならば、どうやって現実的に交わりの中にいるのでしょうか?
もちろん、信者はこのような[堕落した]司祭たちからの直接の接触から守られるべきであり、司祭たちもこのような長上たちから守られるべきです。が、いかなるレベルでも一切のコンタクトを断つならば、まことの交わりはどうやって可能なのでしょうか? ウィリアムソン司教は理論上は教皇を認めていますが、実際には教皇といかなるコンタクトを取ることも望んでいません。ウィリアムソン司教のこの態度に、リベラル主義者たちのやり方を認めることができます。リベラル派は、カトリックの命題を認めていますが、実際には、それとまったく反対の仮説に従うからです。
同様に、彼は権威の有益性を理論上認めていますが、実際にはあらゆる権威を、自分の上にも下にも拒絶しています! 権威の拒絶はリベラル派の特徴です。ウィリアムソン司教はフェレー司教を批判する前に善き良心の究明をするべきであり、己を正すべきです。私たちはこのために祈ります。
ルフェーブル大司教がなさったことを、ウィリアムソン司教はフェレー司教にしてもらいたくありません。事実、ルフェーブル大司教はローマ当局者たちと会うことを決して拒絶しませんでした。彼らが要求するたびに、ルフェーブル大司教は聖伝を促進するために──聖ピオ十世会の教会法上の状況のために働くことを含む──ローマに赴きました。もし1988年5月5日のプロトコル(議定書)を受諾したためにルフェーブル大司教が自分は「行き過ぎた」と言ったとしても、ルフェーブル大司教は、試してみること、承認を獲得するために議論することは、良くなかった、などとは決しておっしゃいませんでした。まったくの反対です! 大司教は、ローマとの接触が三年以内に再開することを期待すらしていました。コンタクトは12年後に開始されました。そして、少なくとも私たちは、フェレー司教が早すぎたのではない、フェレー司教は時間をたっぷり使った、と言うことが出来ます。
ウィリアムソン司教は「ローマの司教たちに聖ピオ十世会の神学校を訪問することを許した」ことを非難しています。司教一人一人の区別をすることもせず、まるで彼らが全員カスパー枢機卿と同じくらいの近代主義者であるかのようにです。これには事実、トミスト的(=聖トマス・アクィナスによる神学的)な現実主義が大いに欠落しています! ですが、ウィリアムソン司教が、2012年12月に「いろいろな『教会』」と題したエレイソン・コメンツ281号で明らかにした、基本的に間違ったこの原則のもとに、彼の言説が存在しています。
「眼に見える教会の、この一部分だけが、聖なる、一なる、カトリックの、使徒継承の教会です。残りは腐敗している種々のその他いろいろです」と。
別の言い方をすれば、カトリック教会とは腐ったりんごの(小さな)健全な一部分であり、ローマから派遣されたこの司教たちは腐った部分に属しているため、彼らはカトリックではない、ということです。
ここに基本的に誤った原則、深刻な誤謬が存在します。これがウィリアムソン司教の、そしていわゆる「レジスタンス」の神学全体と現実の行為を蝕んでいるのです。「眼に見える教会の健全な一部分として存在するカトリック教会」という原則です。これは私が新カタリ派と呼ぶ原則です。カトリック教会を眼に見える一部分、少なくとも彼らの信仰において、潔白な部分に縮小してしまうのです(確かに、彼らは自分たちの道徳においてはこのようには主張していません)。これは現実的にカトリック教会を眼に見えるものではない状態にしてしまいます。なぜなら健全な部分と腐った部分との境界の線引きをすることは不可能だからです。従ってこの説は教会が眼に見えるものであるということを否定します。ウィリアムソン司教は現実的に自分たち以外の人々、彼が腐敗していると呼ぶ人々との交わりを拒絶し、この残りの部分はカトリック教会ではないと考えることで自らを正当化しています。
ですが、ウィリアムソン司教には次のことがわからないのでしょうか? つまり、現在の状況下でウィリアムソン司教は、教皇のいない──彼によれば現在の教皇は腐った残りの部分にいるのであり、健全な部分にいるのではないのですから──「小さな教会 (Petite Eglise)」に結論としてたどり着いていることが。
こうしてウィリアムソン司教は──これと反対のことをいくつもいくつも主張しているにも関わらず──少なくとも事実上、教皇聖座空位論へと陥っています。いわゆるこの「レジスタンス」の苦々しい実りを通して、私たちはこのような間違った原則の悪を理解できるでしょう。つまり、この間違った原則をもとにした司教聖別は正統ではあり得ないということです。
聖なるカトリック教会は、このような間違った原則を決して教えてきませんでしたし、常に拒絶してきました。聖ピオ十世会はこのような間違った原則を決して教えず、またはっきりと拒絶します。
聖ピオ十世会の偉大な原則とは、もっととても単純で健全です。つまり、忠実ということです! あらゆる時代の信仰に忠実であること、あらゆる時代の典礼に忠実であること、聖人たちの道徳に忠実であり、かつ、あらゆる時代の教会──聖人たちと罪人たちが聖職者たちの間にさえも入り混じっている──に、彼らの罪には同意することなく、妥協することなく忠実である、ということです。
聖なる童貞マリアが、このご訪問の祝日に私たちが忠実なままとどまれるよう助けてくださいますように。聖母は、いとも忠実なる童貞女であられました!
フランソワ・レネー神父
脚注
[1] たとえば、引用すると「聖ピオ十世会の指導者たちは、真理、特にカトリックの真理の首位性について、理解力を失ってしまったかのようです」/2013年のウィリアムソン司教の聖ピオ十世会司祭たちへの公開書簡
[2] « Malos in Ecclesia, qui vel ignorantur vel pro unitate pacis tolerantur a bonis, non eis ad mala consentientibus obesse non posse » Breviculus Collationis cum Donatistas, I:10
[3]2013年3月8日「偽りの反リベラル主義者の錯覚」
愛する兄弟姉妹の皆様、
フランソワ・レネー神父様が、エレイソン・コメンツ「間違った議論 Arguing awry」へ次のように回答しているので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。
ウィリアムソン司教は、現在のローマ当局者たちの新近代主義(neo-modernism)は腐敗の極みに達し、程度の差はあれ、全ての司教、枢機卿らは全く腐敗しきっているので、積極的に彼らを全て避けなければならない、ローマが第二バチカン公会議を完全に棄てるまで、一切コンタクトを取ってはならない、彼らは背教者どもだ、背教のローマが聖ピオ十世会を認めることは出来ない、と主張します。
しかし、レネー神父様は、それは間違っている、何故なら、カトリックの最も基本原則にあるように「教会内の悪人たち──あるいは彼らは知られていないか、あるいは彼らは、平和の一致の目的のために善人たちによって黙認されている──は、その悪に同意しない善い人々に害を及ぼすことはあり得ない」からだ、と明確に説明します。
ルフェーブル大司教様は、パウロ六世が第二バチカン公会議を発布し、新しいミサを作った後でも、コンタクトを取り続けました。ヨハネ・パウロ二世によって、新教会法典が発布され、アシジのエキュメニカル集会が行われた後にも、コンタクトを取り続けました。
聖ピオ十世会は、不当な立場に追いやられています。その悪を是正することは善です。聖伝を代表する聖ピオ十世会こそ、ローマによってはっきりとその正統性を宣言されなければならない存在だからです。カトリック教会は、その2000年の過去と自らの聖伝とを、自分のものであると宣言しなければならないからです。これ以上、過去と断絶しよう、聖伝と断絶しようとすることは出来ないからです。
聖ピオ十世会が公式な立場を持つことを望まない人々が存在します。一つは、カトリック教会の過去を憎む人々、近代主義者、カトリック教会を改革させようとする人々です。もう一つは「レジスタンス」と自称する人々です。
ウィリアムソン司教が、these Roman officials, appointees perhaps, apostates certainly (拝命者かもしれないが、確かに背教者である、これらローマからの聖職者ら)と呼ぶ一人に、たとえば、シュナイダー司教様(Bishop Athanasius Schneider)がいます。何故なら、シュナイダー司教様は、教皇様からの拝命を受け、聖ピオ十世会の二つの神学校を訪問したからです。
ところで、ウィリアムソン司教が、カスパール枢機卿などと同じレベルに見ているシュナイダー司教様は、カトリック教会の聖伝の信仰についてそれを取り戻そうと努力しています。たとえば来るローマでの家族についてのシノドゥスについて聖伝のために闘おうとしています。
シュナイダー司教様は、聖ピオ十世会は第二バチカン公会議を受け入れなくとも、ルフェーブル大司教様が要求していたように聖ピオ十世会の今あるままをそのままに完全な裁治権を与えるべきだ、さもなければ、カトリック教会はその信憑性(credibility)を失い、歴史は将来現在の教会当局を批難するだろう(the history will one day reproach to the ecclesiastical authorities of our days)と言っています。
シュナイダー司教様は、聖ピオ十世会が何かをするべきだと言うのではありません。ただ、聖ピオ十世会が正当な地位をもっていないように取り扱われているのは、正当な理由がない、聖ピオ十世会が正当な地位をもっていると言うことを宣言するのはローマの義務であり、責任であり、それが必要である、と言うのです。さもなければ「使徒達のやっていた司牧方法に反する」と言うのです。シュナイダー司教様は、もう聖ピオ十世会を妨害するのを止めるときが来た、もしそれをし続けるなら、カトリック教会こそが信憑性を失う、と警告しています。
このようなカトリック的な主張をする勇気のある司教を、十把一絡げに「背教者」だと断罪することは現実的ではありません。
次の文章は、レネー神父様が韓国の信徒から質問を受けてお答えになったものです。既に日本語に訳されていましたが、黙想会その他の仕事で時間が取ることが出来ずブログにアップすることが出来ないでいました。今、少し時間が取れて、ようやくご紹介することが出来るようになりました。では、レネー神父様の文書をお読み下さい。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
エレイソン・コメンツ「間違った議論 Arguing awry」へのフランソワ・レネー神父の回答
いくつもの間違った原則
今回に限り、ウィリアムソン司教は自身の執筆するエレイソン・コメンツの中で正しい疑問を提示しています。が、間違った原則から始めたために、彼は間違った結論に達しています。
正しい疑問とは、聖ピオ十世会は自らの教会法的状況を正しくさせるために、ローマ当局者たちと話し合いをするべきかどうか、という正にそのものです。
この状況は異常ですが、聖ピオ十世会の側に過ちはありません。なぜなら、ルフェーブル大司教の聖伝の信仰と典礼への忠実が原因で、大司教はイレギュラーな状況へと追いやられ、"主流から外され"、不当にも離教であると糾弾されさえしました。1975年、大司教は、あるいはこの戦いから手を引いて神学校を閉鎖し叙階式の執行を断念するか、従ってご自分が受け取ったものを伝えるのをやめるか、あるいは現代主義者たちの激しい怒りと制裁措置を被るか、いずれかの選択を迫られました。この制裁措置の数々は教会法に反していました。なぜならこの制裁措置の根底になったものは、マミー司教による聖ピオ十世会の廃止であり、従って間違いなく教会法に反しているものだからです。ルフェーブル大司教の二つの不服申し立ては、回答もないまま闇に葬られました。この起訴は状況をそのままにとどめる「停止」の効果があるので、聖ピオ十世会は見かけ上非合法であっても、現実には合法的に存続しています。
1988年には同じジレンマがありました。すなわち、大司教様が受け取ったものを伝えていくのをやめるか、いかなる地元の権威を持たない異国人であるにも関わらず、救う必要のある霊魂たちを保護した善きサマリア人の模範に倣うこと、のどちらかを迫られました。これこそ、いつの日か正される必要のある見かけ上の非合法性です。
いや、正されることは善いことです。教会内における秩序はすぐれた善であるからです。そして無秩序のままとどまることは── 一方がそれに対する責任がないとはいえ──正されなければならない悪です。
この問題こそが、ウィリアムソン司教の反逆のまさに中心なのです。実際のところ、この問題に関する不一致が両者の間になかったならば、ウィリアムソン司教はこれほど多くの間違った非難 [1] をフェレー司教に浴びせかけることはなかったはずです(2013年のウィリアムソン司教による聖ピオ十世会会員への公開書簡に対する私の公開回答を参照のこと)。
ウィリアムソン司教が軽視した最初の原則、これは聖アウグスティノによって教えられたことです。「教会内の悪人たち──あるいは彼らは知られていないか、あるいは彼らは、平和の一致の目的のために善人たちによって黙認されている──は、その悪に同意しない善い人々に害を及ぼすことはあり得ない」[2] と。
二年以上前、私は聖アウグスティノのこの原則をすでに指摘し、こう説明しました。「聖アウグスチノの原則を理解するためには、カルメル神父様がたびたび喚起させていた「教会のかしらはキリストであり、教皇はキリストの代理者にすぎない」という偉大な真理を忘れてはなりません。
教会のメンバーたちとの交わりは、まず第一にキリストとの交わりであるがために、善い人々は悪に同意しない限り害を被ることはありません。そして、ある人々は、キリストが教会のかしらであることを忘れてしまい、教会の人間的側面だけに注意を払い、キリストの教会で万事を支配されるイエズスの聖心を忘れ、この交わりをとても恐れています。彼らの苦々しい熱心──ルフェーブル大司教様の精神とは正反対の──は、このイエズスの聖心を軽視していると告白しています。彼らのために祈りましょう」 [3]
ウィリアムソン司教は次のように書いて、これを「論駁」したつもりになっています。
「腐敗した教会の役人たちの堕落からは、霊的生命を引き出すことは決してできない」と。
このような非難には欠陥があるとわからない人がいるでしょうか。つまり、霊的生命を与えることのできるのは、腐敗した教会の役人たちの堕落であるなどと誰も主張しておらず、堕落において彼らに従いたいなどとは誰も思っていない、ということです。聖アウグスティノはその反対に、堕落に同意しないことを主張しています! そうではなくその反対に、彼らが使徒の後継者たちである限りにおいて──そして堕落している限りにおいてではなく──彼らとの交わりの中にいることが不可欠だ、と言っています。
しかし、ウィリアムソン司教が、彼らのことを使徒たちの後継者であると言及している箇所はどこにも見当たりません。結果、司教の結論が間違っていることを驚くにはあたりません。フェレー司教と聖ピオ十世会全体が、教義において一切の妥協なく、ふさわしい関係と教会法上の立場にあることを望んでいるのは、明白に、使徒らの後継者としてのカトリック教会の高位聖職者たちとのことであって、堕落したものとしての彼らとのことではありません。
そして教会の交わり、教会との一致は、副次的なものでも選択自由な善でもありません。それどころか、救霊のために不可欠な善です。なぜなら「教会の外に救いなし」であり、従って──私たちは自分たちの異常な状況について責任がないとはいえ──これを修正するために、教会の善のために、働くことは善であり不可欠なのです。
聖アウグスティノの原則は、ここで、このような堕落した高位聖職者の人々とのカトリック教会における交わりは、その堕落に同意しない善人たちに害を与えない、ということを保証しています。
明らかに、聖アウグスティノが教えたことをウィリアムソン司教は信じていません。司教は実際こう書いています。カトリック信者は絶対的なやり方で「積極的にこのような高位聖職者たちを避けなければならない」と。これは確かに、事実上、教皇聖座空位論者(セデヴァカンティスト)の態度です。実際、あらゆるコンタクトを実際に避けるならば、どうやって現実的に交わりの中にいるのでしょうか?
もちろん、信者はこのような[堕落した]司祭たちからの直接の接触から守られるべきであり、司祭たちもこのような長上たちから守られるべきです。が、いかなるレベルでも一切のコンタクトを断つならば、まことの交わりはどうやって可能なのでしょうか? ウィリアムソン司教は理論上は教皇を認めていますが、実際には教皇といかなるコンタクトを取ることも望んでいません。ウィリアムソン司教のこの態度に、リベラル主義者たちのやり方を認めることができます。リベラル派は、カトリックの命題を認めていますが、実際には、それとまったく反対の仮説に従うからです。
同様に、彼は権威の有益性を理論上認めていますが、実際にはあらゆる権威を、自分の上にも下にも拒絶しています! 権威の拒絶はリベラル派の特徴です。ウィリアムソン司教はフェレー司教を批判する前に善き良心の究明をするべきであり、己を正すべきです。私たちはこのために祈ります。
ルフェーブル大司教がなさったことを、ウィリアムソン司教はフェレー司教にしてもらいたくありません。事実、ルフェーブル大司教はローマ当局者たちと会うことを決して拒絶しませんでした。彼らが要求するたびに、ルフェーブル大司教は聖伝を促進するために──聖ピオ十世会の教会法上の状況のために働くことを含む──ローマに赴きました。もし1988年5月5日のプロトコル(議定書)を受諾したためにルフェーブル大司教が自分は「行き過ぎた」と言ったとしても、ルフェーブル大司教は、試してみること、承認を獲得するために議論することは、良くなかった、などとは決しておっしゃいませんでした。まったくの反対です! 大司教は、ローマとの接触が三年以内に再開することを期待すらしていました。コンタクトは12年後に開始されました。そして、少なくとも私たちは、フェレー司教が早すぎたのではない、フェレー司教は時間をたっぷり使った、と言うことが出来ます。
ウィリアムソン司教は「ローマの司教たちに聖ピオ十世会の神学校を訪問することを許した」ことを非難しています。司教一人一人の区別をすることもせず、まるで彼らが全員カスパー枢機卿と同じくらいの近代主義者であるかのようにです。これには事実、トミスト的(=聖トマス・アクィナスによる神学的)な現実主義が大いに欠落しています! ですが、ウィリアムソン司教が、2012年12月に「いろいろな『教会』」と題したエレイソン・コメンツ281号で明らかにした、基本的に間違ったこの原則のもとに、彼の言説が存在しています。
「眼に見える教会の、この一部分だけが、聖なる、一なる、カトリックの、使徒継承の教会です。残りは腐敗している種々のその他いろいろです」と。
別の言い方をすれば、カトリック教会とは腐ったりんごの(小さな)健全な一部分であり、ローマから派遣されたこの司教たちは腐った部分に属しているため、彼らはカトリックではない、ということです。
ここに基本的に誤った原則、深刻な誤謬が存在します。これがウィリアムソン司教の、そしていわゆる「レジスタンス」の神学全体と現実の行為を蝕んでいるのです。「眼に見える教会の健全な一部分として存在するカトリック教会」という原則です。これは私が新カタリ派と呼ぶ原則です。カトリック教会を眼に見える一部分、少なくとも彼らの信仰において、潔白な部分に縮小してしまうのです(確かに、彼らは自分たちの道徳においてはこのようには主張していません)。これは現実的にカトリック教会を眼に見えるものではない状態にしてしまいます。なぜなら健全な部分と腐った部分との境界の線引きをすることは不可能だからです。従ってこの説は教会が眼に見えるものであるということを否定します。ウィリアムソン司教は現実的に自分たち以外の人々、彼が腐敗していると呼ぶ人々との交わりを拒絶し、この残りの部分はカトリック教会ではないと考えることで自らを正当化しています。
ですが、ウィリアムソン司教には次のことがわからないのでしょうか? つまり、現在の状況下でウィリアムソン司教は、教皇のいない──彼によれば現在の教皇は腐った残りの部分にいるのであり、健全な部分にいるのではないのですから──「小さな教会 (Petite Eglise)」に結論としてたどり着いていることが。
こうしてウィリアムソン司教は──これと反対のことをいくつもいくつも主張しているにも関わらず──少なくとも事実上、教皇聖座空位論へと陥っています。いわゆるこの「レジスタンス」の苦々しい実りを通して、私たちはこのような間違った原則の悪を理解できるでしょう。つまり、この間違った原則をもとにした司教聖別は正統ではあり得ないということです。
聖なるカトリック教会は、このような間違った原則を決して教えてきませんでしたし、常に拒絶してきました。聖ピオ十世会はこのような間違った原則を決して教えず、またはっきりと拒絶します。
聖ピオ十世会の偉大な原則とは、もっととても単純で健全です。つまり、忠実ということです! あらゆる時代の信仰に忠実であること、あらゆる時代の典礼に忠実であること、聖人たちの道徳に忠実であり、かつ、あらゆる時代の教会──聖人たちと罪人たちが聖職者たちの間にさえも入り混じっている──に、彼らの罪には同意することなく、妥協することなく忠実である、ということです。
聖なる童貞マリアが、このご訪問の祝日に私たちが忠実なままとどまれるよう助けてくださいますように。聖母は、いとも忠実なる童貞女であられました!
フランソワ・レネー神父
脚注
[1] たとえば、引用すると「聖ピオ十世会の指導者たちは、真理、特にカトリックの真理の首位性について、理解力を失ってしまったかのようです」/2013年のウィリアムソン司教の聖ピオ十世会司祭たちへの公開書簡
[2] « Malos in Ecclesia, qui vel ignorantur vel pro unitate pacis tolerantur a bonis, non eis ad mala consentientibus obesse non posse » Breviculus Collationis cum Donatistas, I:10
[3]2013年3月8日「偽りの反リベラル主義者の錯覚」