原罪についての説教
ドモルネ神父 2021年11月28日
はじめに
今日は、待降節の第一主日です。新しい典礼暦年の始まりです。カトリック教会が、私たちに、カトリック信仰の主要な真理を思い出させてくれる一年間の期間を、「典礼暦年」と呼びます。待降節は、今日から、クリスマスまでです。待降節は、原罪から、私たちの主イエズス・キリストのご降誕までの、人々が救い主を待ち望んでいた、歴史上の期間を象徴しています。ですから、待降節の、まさに始まりである今日は、原罪について、お話ししたいと思います。
1.原罪
天主は、最初の男であるアダムと、最初の女であるエバを、創造されました。天主は、この二人を、全く必要としておられませんでした。しかし天主は、善意から、また二人の幸せのために、二人を創造されました。天主は二人を、私たちが楽園、あるいはエデンの園と呼ぶ、素晴らしい場所に置かれました。天主は、アダムとエバが苦しみや情欲や死から、免れるようになさいました。また、二人に、すべてのものごとについての深い知識をお与えになりました。しかし、天主は、それ以上に、ご自分の天主なる命にあずかる特権、すなわち、私たちが成聖の恩寵と呼ぶもの、を、アダムとエバに与えられました。そして、いつの日か、二人を、聖三位一体の無限の至福の中に導き入れることを、約束されました。
天主は、アダムに、「ある木の実を食べてはいけない」という掟を与えられました。それは単純で、簡単なことでした。この掟の目的は、アダムを罠にはめることではなく、アダムに、自分の上に立つ、創造主であり、主であるお方がいらっしゃることを、思い起こさせることでした。この掟の目的は、アダムを、従順という謙遜の状態に保ち、アダムが天主を愛していることを示す機会を、お与えになることでした。実際、天主を愛するということは、天主の掟を守ることです。しかし、皆さんご存じのように、アダムとエバは、悪魔に誘惑されて、禁断の実を食べました。それは、人類の原初において、人間が犯した最初の罪でした。私たちは、その罪を、「原罪」と呼びます。
しかし、原罪の話は、実際に起こった、歴史的事実なのでしょうか、それとも単なる伝説なのでしょうか? それは、本当にあった、歴史的事実です。私たちには、どうして、それがわかるのでしょうか? 口伝があったのです。アダムとエバは、自分の子どもたちに、何が起こったかを話しました。その子どもたちが、自分の子どもたちにそれを話す、ということが繰り返されました。しかし、この口伝は、時の経過とともに、歪められてしまいました。今では、古代の異教の迷信のなかに、その痕跡が見いだされるだけです。では、原罪の話が確実に真実であることが、どうしてわかるのでしょうか? 天主が、それを啓示されたからです。天主は、それをモーゼに啓示され、モーゼはそれを、創世記(創世記3章)に書き記しました。天主は、それを聖パウロにも啓示され、聖パウロは、ローマ人にこう書き送りました。「一人の人間によって、罪がこの世に入り、罪によって、死がこの世に入った」(ローマ5章12節)。私たちの主イエズスは、それを使徒たちに啓示され、使徒たちとその後継者たちは、何世紀にもわたって、全教会にそれを教えました。トリエント公会議は、原罪の存在は教義である、と宣言しました。
2.原罪の結果
原罪とは、高慢という、非常に重い罪でした。アダムは、自分の意志を、天主のご意志に逆らわせたのです。その結果、アダムは、天主から与えられた特別な賜物を失いました。アダムは、成聖の恩寵と、聖三位一体の無限の至福に入る可能性を失いました。情欲や無知、苦しみ、死を免れる特権を失ったのです。
アダムは、これらのすべてを、自分自身、失っただけでなく、すべての人にも、失わせたのです。アダムの罪は、個人の罪であっただけではなく、実に、全人類の罪でもありました。アダムは、一番最初の人間で、人類の父でした。すべての人間は、道徳的に、アダムとともにあったのです。そのため、アダムの行為は、全人類の行為ということになったのです。ですから、アダムがこの罪を犯したとき、全人類が罪を犯した、ということになったのです。この理由から、聖パウロは、ローマ人にこう言ったのです。「アダムにおいてすべての人が罪を犯したので、死がすべての人の上に及んだ」(ローマ5章12節)。原罪以降、すべての人間は、罪の状態で生まれているのです。
3.霊的な戦い(霊戦)
洗礼によって、天主は、私たちの霊魂から罪の汚れを洗い流し、私たちに、再び、成聖の恩寵を与えてくださいます。しかし、原罪以前にアダムに与えられていた特別な賜物を、再び私たちに与えられるわけではありません。洗礼の後も、私たちは、苦しみと死の支配下にあります。私たちは、真理を学び、真理と誤謬を見分けるために、多くの努力をする必要があります。私たちは、支配欲、物欲、肉欲、という、三つの歪んだ欲望に対して、厳しい霊的な戦いをしなければなりません。
しかし、天主は、私たちを助けに来てくださいます。天主は私たちに、御独り子である、私たちの主イエズス・キリストを送ってくださいました。主において、主とともに、主によって、私たちは情欲に打ち勝ち、真理を見いだし、苦しみや死に耐える力を得て、最後には、永遠の命と至福へと到ることができるのです。しかし、私たちは、どのようにして私たちの主イエズスに一致し、主から、御助けを受ければよいのでしょうか? それは特に、ご聖体を受けることによってです。
結論
親愛なる信者の皆さん、聖体拝領は報酬ではなく、私たちを癒やしてくれる薬であり、私たちを霊的に強めてくれる食べ物であることを、忘れないでください。「もう罪を犯さないようになれば、ご聖体を受けます」と言う人たちは、大きな勘違いをしています。それは、病人が、「私の病気が治ったら、薬を飲みます」と、言っているようなものです。私たちは、自分の罪を心から反省し、二度と罪を犯さないという強い意志を持ち、大罪を犯す機会に近づかないようにしなければなりません。そして、頻繁に、ご聖体にまします私たちの主イエズスを、受けなければなりません。これは、私たちが強くあるため、そして霊的な戦いに勝利するために、必要なことです。イエズスはこう言われました。「まことにまことに、私は言う。人の子の肉を食べず、その血を飲まなければ、あなたたちの中には命がない」(ヨハネ6章54節)。
今日、私には、また初聖体を、マヌエル泰珠君というお子さんに授ける、喜びがあります。マヌエル泰珠君、私たちの主イエズスが、君の霊魂に来られます。イエズス様が来られるのは、君を霊的に強くして、君がどんな誘惑にも負けないで、天主の掟を守れるように、助けてくださるためです。君の愛全部で、イエズス様を、お迎えしてください。君がいつもイエズス様に忠実だったら、イエズス様は、君を、少しずつ、聖人にしてくださるでしょう。そして最後には、イエズス様が、君を、永遠の幸福に導いてくださるでしょう。私は、皆さん全員にも、同じことを願っています。アーメン。