【参考情報】ヴィガノ大司教「教会の当局の専制的行為への対応は、抵抗と不従順でなければならない」
アルド・マリア・ヴァッリによるブログ掲載
«REDDE RATIONEM VILLICATIONIS TUÆ»
《支配人として会計の報告を出せ》【ルカ16章2節】
「トラディティオーニス・クストーデス」に関する「質問への回答」について
Vos estis qui justificatis vos coram hominibus :
Deus autem novit corda vestra :
quia quod hominibus altum est,
abominatio est ante Deum.
あなたたちは人々の目の前で義人ぶっている。
だが天主はその心を見抜いておられる。
人間にとって尊いと思われるものは、
天主に嫌われるものである。
ルカ16章15節
カルロ・マリア・ヴィガノ大司教
最近、典礼秘跡省から発表された「質問への回答」(Responsa ad Dubia)を読むと、教会の最も従順で忠実な部分に対する残酷で冷酷な戦争において、ローマ教皇庁が、これほど卑屈な態度でベルゴリオを支持しなければならないほど、ひどいレベルにまで落ち込んでしまったのかと不思議に思います。
過去数十年間にわたる教会の非常に深刻な危機の中で、教会の権威が、これほど断固とした厳しい態度を示したことはありませんでした。教皇庁立の大学や神学校にはびこる異端の神学者たちに対しても、姦淫する聖職者たちや高位聖職者たちに対しても、司教たちや枢機卿たちのスキャンダルを模範的なやり方で罰することにおいても、そうはしてきませんでした。しかし、トリエント典礼の聖なるミサが行われるようにと願う信者、司祭、修道者に対しては、同情も、あわれみも、包括性もないのです。「フラテッリ・トゥッティ」(Fratelli tutti)は、どうなったのでしょうか?
この「教皇職」の下ほど、権威による権力の濫用が目につくことはありません。二千年にわたる「祈りの法」(ex orandi)が、パウロ六世によって第二バチカン公会議の祭壇で犠牲にされ、公会議が偽善的なのと同じくらいあいまいな典礼を教会に義務づけたときでさえ、これほどではありませんでした。このときの義務づけには、古代の典礼による祭儀の禁止と反対者への迫害が含まれていましたが、少なくとも、世俗化が進むこの世に直面して、変化することがカトリックの可能性を高めるだろうという幻想の言い訳がありました。
50年にわたる恐ろしい災害と、14年にわたる自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)の後の今日、【公会議の】弱々しい正当化はもはや有効でないだけでなく、事実という証拠による矛盾で拒絶されています。公会議がもたらした多くの新しいことが、有害であることが証明されました。つまり、教会や神学校、修道院を空っぽにし、司祭召命、修道者召命を台無しにし、カトリック信者から霊的、文化的、市民的衝動をすべて枯渇させ、キリストの教会を辱めて社会の周辺に追いやりました。この世を喜ばせようとする不器用さにおいて、教会をあわれなものにしてしまったのです。
その逆に、ベネディクト十六世が、聖伝の典礼の完全な権利を認めてその傷(vulnus)を癒やそうとして以来、聖ピオ五世のミサに結びついた共同体が増え、エクレジア・デイ団体の神学校が成長し、召命が増え、信者の出席回数が増え、多くの若者と多くの家族の霊的生活が予想外の推進力を見いだしたのです。
マルセル・ルフェーブル大司教が当時願ったこの「聖伝の経験(実験)」から、どのような教訓を引き出すべきでしょうか。最も明白で、同時に最も単純な教訓は、天主が教会にお与えになったものは成功するよう定められており、人間がそれに付け加えたものは無惨に崩壊する、ということです。
イデオロギー的な怒りに目がくらんでいない霊魂ならば、過ちを認めたうえで、損害を修復して、その間に破壊されたものを再建し、放棄されたものを復興させようとしたことでしょう。しかし、これには、謙虚さや超自然的な眼差し、そして天主の御摂理的なご介入への信頼が必要です。また、牧者たちの側には、自分たちは主の財産の管理人であって、主人ではないという意識が必要です。司牧者たちには、これらの財産を遠ざけたり、隠したり、自分の発明品で置き換えたりする権利はありません。司牧者たちは、「いかなる注釈も加えずに」(sine glossa)、天主の群れのすべての羊と小羊について天主の御前でお答えしなければならないことを常に考えながら、その財産を守り、信者が利用できるようにすることに自らを制限しなければならないのです。使徒聖パウロはこう戒めています。「Hic iam quæritur inter dispensatóres, ut fidélis quis inveniátur」―「管理者に要求されるのは忠実である」(コリント前書4章2節)。
「質問への回答」は「トラディティオーニス・クストーデス」と一致しており、この「教皇職」の転覆的性質を明らかにしています。この教皇職においては、教会の最高権力が、私たちの主が聖なる司牧者と地上の代理人を制定なさった目的とは正反対の目的を達成するために横取りされています。
これは、その権力を制定され、正当化しておられるお方に対する不従順で反抗的な権力です。これはまた、内在的に革命的な原理、それゆえ異端の原理による、いわば、「信仰によって赦された」(fide solutus)と信じる権力です。忘れてはならないのは、革命は、権力が自らにあると主張するのですが、打倒しようとする正統な権力に対し、革命的で、転覆的で、陰謀的で、反抗的であるという事実だけで、権力奪取を正当化するのです。これはまた、制度的な役割を果たすようになるやいなや、専制的な権威主義で行使される権力です。何故なら、まさに天主にも人民にも承認されていないからです。
見た目はつながりのないと思われる、二つの状況の間にある並行関係を指摘させてください。ちょうどパンデミックに直面して、実際には有害で致命的でさえある役に立たない「ワクチン」を押し付けることによって、効果的な治療が否定されているように、霊魂の真の薬であるトリエント・ミサが、非常に深刻な道徳的疫病のときに、罪深いことに信者に対して否定され、ノブス・オルドに置き換えられています。
医者は、治療法が容易に手に入るにもかかわらず、その義務を果たさず、健康な人と同様に病気の人にも実験的な血清を押し付け、その全く効果のないことや、多くの副作用の証拠があるにもかかわらず、頑なにそれを投与しています。同様に、霊魂の医者である司祭は、二千年以上にわたって実験された無謬の「薬」が簡単に手に入るにもかかわらず、その使命を裏切り、その効果を体験した人々が罪から癒やされるためにそれを使うのを全力で阻止しています。
第一のケースでは、体の免疫防御が、製薬会社に依存することになる慢性的な病気の患者を作り出すために、弱められたり取り消されたりしますが、第二のケースでは、霊魂の免疫防御が、世俗的な精神(メンタリティー)によって、また超自然的かつ超越的次元が取り消されることによって、損なわれます。そうなることで、悪魔の襲撃に直面した霊魂は、無力のままにとりのこされてしまうのです。
ですから、このことは、宗教的危機と並行している社会的かつ政治的危機を考慮しないで、宗教的危機【だけ】に直面することを主張する人々への回答として有効です。
なぜなら、まさにこの攻撃の二面性のゆえに、この攻撃を恐ろしいものにし、この攻撃が一つの同じ犯罪者の心によって導かれていることを明らかにしています。
「回答」というせん妄(deliriums 精神錯乱)の本案(価値)に触れるつもりはありません。「トラディティオーニス・クストーデス」を拒否できるこの法の趣旨(ratio legis)を知っているだけで十分です。「トラディティオーニス・クストーデス」これは、イデオロギー的で党派的な文書であり、執念深く不寛容な人々によって作成され、虚栄的な野心と重大な教会法上の誤謬に満ちており、二千年にわたる聖人と教皇たちによって列聖された典礼を禁止して、その代わりに偽の典礼を押し付けようと意図しています。この偽の典礼は、ルター派【の儀式】からコピーされて近代主義者によってつぎ当てされたものであり、50年の間に教会共同体に恐ろしい災害を引き起こし、まさにその破壊的な効果のために、いかなる例外も許容することができないものなのです。ここには過失だけでなく、悪意もあり、天主なる立法者と信者に対する二重の裏切りがあります。
司教、司祭、修道者、信者は、またもや、自らが一方の側を選ばなければならない立場にあることに気づきます。カトリック教会とその二千年の不変の教理か、あるいは誤謬と世俗化した典礼を持つ、公会議の教会にしてベルゴリオの教会か、のどちらかです。このことは、逆説的な状況の中で起こっています。何故なら、カトリック教会とその偽物が同じ位階階級において重なっており、この位階階級に対して、信者は天主の権威の表れとして従順でなければならないと感じると同時に、裏切り者、反逆者として不従順でなければならないからです。
暴君に逆らうのが容易でないのは確かです。暴君の反応は冷酷で残酷です。しかし、もっとひどかったのは、アリウス主義、聖像破壊運動、ルターの異端、英国国教会の離教、クロムウェルのピューリタニズム、フランスとメキシコのメーソン世俗主義、ソ連の共産主義、スペインやカンボジア、中国での共産主義などに直面しなければならなかったカトリック信者が、数世紀に渡って苦しまなければならなかった迫害でした。
どれだけ多くの司教や司祭が殉教し、投獄され、追放されたことでしょう。どれだけ多くの修道者が虐殺され、どれだけ多くの教会が冒涜され、どれだけ多くの祭壇が破壊されたことでしょう。では、なぜこれらすべてが起こったのでしょうか? それは、聖なる役務者たちが、私たちの主が私たちに与えてくださった最も尊い宝である聖なるミサを放棄したくなかったからです。主が使徒たちに教えられ、使徒たちが後継者たちに伝え、教皇たちが守り、復興させたミサは、常にキリストと教会の敵どもの地獄の憎悪の中心にありました。
プロテスタントの地に送られた宣教師や収容所に投獄された司祭が、命の危険を冒して行った同じ聖なるまさにそのミサが、今日、聖座によって禁じられていると考えるだけでも、痛みとつまずきを起こす原因です。それと同時に、この禁止はこのミサを最後の息の尽きるまで守った殉教者たちに対する侮辱でもあります。しかし、これらのことは、信じる人々、愛する人々、希望する人々だけが理解できることなのです。天主によって生きる人々だけが理解できることなのです。
「トラディティオーニス・クストーデス」と「回答」に対して同意を留保することや批判を表明するだけにとどまっている人々は、敵対者の罠にはまります。なぜなら、そうすることによって、この人々は、不法で無効な法の正当性を認めることになるからです。しかしこの法は、教会とその信者を辱めるために望まれ、公布され、また、第二バチカン公会議以前には断罪されていた異端的な教理に勇気をもって反対しているのに他ならない「聖伝主義者」を悩ませるために発布されたもの、にすぎません。
この法は公会議を自らのものにし、公会議は今日ではベルゴリオの教皇職の暗号を解く鍵となりました。「トラディティオーニス・クストーデス」と「回答」は、単に無視しなければならず、送り主に返さなければなりません。彼らの意向は、忠実にとどまっているカトリック信者を罰し、分散させ、消滅させることなのは明らかですから、それらを無視しなければなりません。
ベルゴリオを喜ばせるために、天主の権利と自分たちの世話に委ねられた霊魂たちの権利を踏みにじり、また「公会議前の」典礼に対する嫌悪を見せて、自分たちが公的称賛とバチカンの承認に値すると考えている非常に多くの枢機卿たちや司教たちの卑屈さに、私は落胆しています。主の次の言葉は彼らに向けられています。「あなたたちは人々の前で自ら義人ぶっている。だが天主はその心を見抜いておられる。人間にとって尊いと思われるものは、天主に嫌われるものである」(ルカ16章15節)。
教会の当局の専制的行為に直面したときの首尾一貫した勇気ある対応は、受け入れられない命令に対する抵抗と不従順でなければなりません。何度目になるか分からないほどのこの抑圧も諦めて受け入れるならば、それはこれまで忍耐して許容してきた長い一連の濫用にもう一つの悪しき前例を加えることになります。自らの隷属的な従順によって、それ自体が目的と化した権力の維持に対する責任を自らもが負うことになります。
使徒たちの後継者である司教たちが、神秘体のかしらへの従順と忠実によって、私たちの目の前で起こっているこの教会のクーデターに終止符を打つために、その神聖な権威を行使することが必要です。教皇職の名誉がそれを必要としています。何故なら、今日、ペトロの玉座を占める者により、信用失墜と屈辱にさらされているからです。霊魂たちの善がそれを必要としています。その救いこそが教会の「最高の法」(sumrema lex)ですから。天主の栄光がそれを必要としています。それに関してはいかなる妥協も容認されませんから。
ポーランド人のヤン・パーヴェル・レンガ大司教【ヨハネ・パウロ・レンガ大司教】は、傭い人や裏切り者の異端や悪徳の下に教会が沈むのを私たちが見たくないのならば、今こそカトリック反革命の時だと言っておられます。「地獄の門も教会に勝てぬ」(Non prævalebunt)の約束は、少なくとも勇気ある確固とした行動を排除するものではありません。それどころか、司教や司祭、そして信徒たちからも、そのような行動を求め、要求しているのです。
信徒たちは、「能動的参加」(actuosa participatio)や教会における自分たちの役割などといった実体のないアピールを受けているにもかかわらず、今日ほど隷属民(sudditi)として扱われたことはありませんでした。「聖職者主義 clericalism」がその頂点に達したのは、正に、偽善的にも聖職者主義に汚名を着せることしかしない人物の「教皇職」の下であることに注意しましょう。
+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
In Nativitate Domini 2021
2021年の主のご降誕の祝日