Quantcast
Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
Viewing all articles
Browse latest Browse all 4247

元クール司教区(スイス)の教区長ウォンダー司教「ここ(聖ピオ十世会の神学校)には教会のモデルがある。教会の指導者たちは聖ピオ十世会で行われている養成教育に立ち戻るのがよい。」

$
0
0

ヴィトゥス・ウォンダー司教とのインタビュー

An Interview with His Excellency Bishop Vitus Huonder

2021年10月1日 聖ピオ十世会アメリカ管区

このインタビューは、2021年8月26日にスイスのヴァングスで、ルーカス・ウェーバー神父によって行われました。文章を修正・翻訳しなければなりませんでしたが、それでも可能な限り、話し言葉の形を維持するように努めました。

【問い】ウォンダー司教様、司教様は今年、司祭職50周年をお迎えですね。おめでとうございます。また、インタビューに応じてくださったことに感謝申し上げます。これで、私たちは、司教様のことをもう少しよく知ることができると思います。その50周年の機会ですので、もちろん、ご出身の(スイスの)グラウビュンデン州トルンでの少年時代に、司祭になりたいと思われたころのことを振り返っていただけますか。いかがでしょうか?

【ウォンダー司教】私は1942年、ベネディクト会修道院で有名なディセンティス(Disentis)から程遠くないトルン(Trun)に生まれました。私が洗礼を受けたのは、そこの、トルンの聖マルティン教会ででした。私はそこで信仰を得たと言えるでしょう。この頃、特に印象的だったのは、母と一緒に早い時間からミサにあずかっていたことです。私はまだ3、4歳の子どもでしたが、ミサに行くのが大好きでした。また、トルンからマリア・リヒトまで続く十字架の道行きも印象に残っています。この十字架の道行きをよく黙想し、心の奥底に刻みました。これらは、私を特徴づけた外側からの要素です。

私は幼い頃から、司牧者になりたいという強い思いを持っていました。単なる司祭ではなく、司牧者です。実際、そこで役務を果たしておられたのは、教区司祭で、司教代理でもある方でした。ごく早い時期に私にミサ仕えを始めさせてくださったのは、その方でした。7歳のときにはもう侍者をしており、26~27歳まで続けました。このことは私の信仰の第一歩であり、それは母に負うところが大きいと思います。母が、私の信仰教育に重要な役割を果たしてくれたのですから。

【問い】司教様の証言は、召命の目覚めのために、家庭内の教育と司祭との接触が重要であることを確認するものです。

【ウォンダー司教】はい、その通りです。それは、今日でも非常に重要です。

【問い】その後、学業、神学教育を経て、1971年9月25日に司祭に叙階されたのですね。この儀式について、どのような思い出がおありですか?

【ウォンダー司教】そこまでは、長い道のりでした。私が8歳の時に、一家はチューリッヒ州のタルヴィル(Thalwil)に引っ越しました。私はそこで小学校に通い、その後ディセンティスの高校に通いましたが、まだ司祭になりたいという望みを心の中に抱いていました。そして、さまざまな段階を経て、1971年9月25日に司祭に叙階されました。叙階式で特に印象的だったのは、もちろん、司教様の按手と両手の塗油でした。そのとき、この両手は聖なるいけにえのために聖別され、油を塗られたのだと実感しました。叙階式では、このことがとても印象に残っています。

【問い】司教様の司祭職の50年間に、私たちはいろいろなことが起こるのを見てきました。おそらく読者の皆さんは、司教様の豊かな経験の中から、2、3の逸話をお聞かせいただけると、うれしいのではないでしょうか。

【ウォンダー司教】司祭生活は全体として美しい経験です。これは強調しておきたいと思います。しかし、逸話があるとすれば、司教として、ある小教区での堅振式のとき、11歳か12歳の少年が式の後に私のところに来て、「僕は司祭になりたいんです」と言ったことを思い出します。司教が小教区を訪問することで、必ずしも司祭の召命が生まれるとは限りませんが、少なくともそれを強化するために重要であることを教えてくれたのです。私の司祭生活の中で、特にこの後期において、いつも印象に残っているのは、ミサを捧げるときです。典文の沈黙の間、そこにいる多くの若者が本当にこの沈黙に加わっているのを感じます。それがとても印象的です。11歳から15歳の若者たち…彼らの中でこの沈黙に対する理解がすでに深まっていることが感じられます。特にこの沈黙が、私たちを主の御苦しみと死に入り込ませるときに、です。そのことに私は毎回感動しています。

【問い】司祭の人生には間違いなく多くの経験がありますが、もちろん十字架や試練もあります。司祭としても司教としても、司教様の人生にそういったことが欠けていたわけではありません。このような十字架を背負い、試練を乗り越える力は、どこから湧いてきたのでしょうか?

【ウォンダー司教】まず、ミサの聖なるいけにえそのものからです。試練に耐えるために必要な力を常に見いだすことができるのは、そこです。そしてまた、祈り、特に教会の祈りによってです。私はいつもよく祈り、教会の祈りである聖務日課をとても忠実に守ってきました。そして、私が常に感じることができたのは、多くの困難な状況で、祈りがいかに私を支え、助け、強め、元気づけてくれるかということです。その困難な状況は、司祭の人生で、耐え抜くことができるための非常に重要な瞬間です。なぜなら、それは簡単ではないからです。さらにまた、兄弟的な関係を持つこと、同じ人生を生き、同じ道を歩む同僚を持つことも重要です。これらは司祭生活における強力な支えとなります。

【問い】お話しくださったことは、日々の生活に追われながらも、本当に祈りの生活を送るようにという司祭たちへの励まし、あるいはおそらく呼びかけのようにも聞こえます。司教様が強さを見つけられたのは、そこなのですね。

【ウォンダー司教】そうです。司祭は祈りの生活に忠実であることがとても重要だと、私は本当に強調しようと思っています。そうです。

【問い】司教としての標語は当然、「Instaurare omnia in Christo」、つまり、キリストのうちにすべてを刷新する、強化する、ということですね。これは、教皇聖ピオ十世と同じ標語ですね。なぜこれを選ばれたのでしょうか?

【ウォンダー司教】それは本当に、教皇聖ピオ十世とのつながりです。教皇ピオ十世が列聖されたのは、私が12歳の時、1954年のことです。カテキズムの時にもらった教皇の絵のことは、今でも覚えています。その絵の下に、この標語が書かれていました。それがとても印象的で、それ以来、ずっと心に残っています。1960年、61年、公会議の開催が発表されたばかりで、公会議の問題が騒がれていた頃、高校では公会議について、公会議に期待することなど、いろいろな議論があったのを覚えています。そして、みんなが「教会は自分自身を刷新しなければならない」などと言っていたのを、私は覚えています。私はこの標語で、彼らに答えてこう言いました。「そうだ、教会は自分自身を刷新しなければならないよ。でも、教皇聖ピオ十世の標語『キリストにおいてすべてを刷新する』に従ってね」。

【問い】その後、12年間クール教区の教区長を務められたのですね。教皇の決定でその職を去られるときが来たとき、つまり2年余り前のことですが、司教様は勇気をお出しになって、この聖ピオ十世会の修道院に隠棲することを決意されました。今日、司教様はこの選択に満足なさっていますか、それとも後悔なさっていますか?

【ウォンダー司教】確実に、この選択にはとても満足しています。どうしてこのようなことが起こったのかを知ることは、おそらく重要なことでしょう。なぜなら、そこには全体的な進化があったからです。まず第一に、司祭としてのごく初期に、私は聖ピオ十世会に結びついた信者と散発的な接触をしていました。しかし、それはあまり定期的な接触ではありませんでした。しかし、その時、私はすでに聖ピオ十世会のことを知るようになっていました。その後、聖伝を支持する運動、「ウナ・ヴォーチェ」ですべてが起こっていたのです。そしてついに、司教として、聖伝の信者たち、また司祭たちとも接触することを役立てることができたのです。聖ピオ十世会のメンバーの何人かが私を訪ねて来るのを受け入れもしました。私が彼らを知ったのは、そのときです。その後、ここヴァングスの学校を発見し、聖母像に冠をかぶせるよう招待されたこともありました。これは後のことで、2012年、2013年ごろのことです。

そしてもちろん、決定的だったのは、世界中の他の司教と同じように、聖ピオ十世会と対話する用意があるかどうかという要請が私にあったことです。これは2014年ごろのことです。私は「はい」と答えました。それは、特に私の心に近いものでした。そこで私は連絡を取り、この対話を始め、そこからこの問題についてより深い知識を身につけることができました。その後、聖ピオ十世会と聖伝に関するあらゆることに関わるようになり、「絶対にこの道を続けなければならない」と分かったのです。そしてついに、私は聖ピオ十世会との接触を深めなければならないと説得され、ヴァングスを司教引退の地に選ぶことで、そうしたのです。この選択は、教皇様にも歓迎されさえしました。教皇様は、ある司祭にこう打ち明けられました。「彼がそこで行っていることは良いことだ」と。

ですから今、私はここにいて、とても満足だと言わなければなりません。この宗教的な環境は、私を真に支え、名誉司教であっても熱心に信仰生活を送るのを助けてくれるのです。

【問い】司教様のお話を聞いていると、司教様は自分自身を進化させ、聖ピオ十世会との接触が増える中で、私たちを結びつける精神の類似性、私たちが共有し、司教様が生きたいと願う同じ信仰をますます認識なさるようになったと結論づけることができるでしょう。私は司教様を正しく理解したでしょうか?

【ウォンダー司教】まさにそうです、はい。しかし、忘れてはならないのは、私は青春時代をすべてこの信仰で過ごしてきたということです。1968年以降、確かに大きな変化がありましたが、その時私はすでに26歳か27歳でした。

【問い】…ということは、教会を揺るがし、司教様が目撃者となってこられた問題にもかかわらず、司教様は老齢になるまで、青春時代の信仰を実践的に維持することがおできになったのですね。

【ウォンダー司教】そうです! 忘れてはいけないのは、これらの変化が起こったとき、私たちはまだ若かったということです。私たちは若かったのです。教皇様に関しても、位階階級に関しても、私たちはとても確信を持っていました。目の前で起きていることは良いことだと考えていました。私たちは区別するすべを持っていませんでした。それ自体を見て、それ自体を勉強して…典礼、神学…それらは後からついてきたものなのです。当時、全面的な確信を持っていたからこそ、まだ問題の状態になっていなかったのです。年をとった今、私たちは多くのものを奪われたと、私は認めざるを得ません。まさに聖伝と接触、聖ピオ十世会と接触、聖ピオ十世会の関心事と接触しているからこそ、今、ますますそのことを実感しています。

【問い】それで、司教様は思い切って、ここヴァングスの聖マリア学院(Institut Sancta Maria)で、騒がずに、慎重に、ご自分の性格と完全に一致したことをしておられるようにお見受けします。司教様は公の場で宣言する必要はないとお考えでしたが、確信を持ってこれを実行され、こうおっしゃっているかのようです。「ここに私がいること、私の行いが、私の内的な信念と信仰の強さを証ししています」。

【ウォンダー司教】はい、間違いなくそうです。一方で、私は自分の信念を生き、信念を見せることが、とても重要だと思っています。しかし、他方では、この模範が、聖ピオ十世会の支えにもなっているという感覚が同会の中にあることも、私にとっては重要なことなのです。私は、聖ピオ十世会自体のためだけでなく、聖伝を探し求める司祭たちのためにも言いたいと思います。そうすれば、この模範が自分たちを強くしてくれるということが彼らに分かるでしょうから。もちろん、他のこと、会話などもあります。例えば、そういったものを通して、私は証しすることができます。しかし、何よりも、私の生き方そのものが証しとなることが重要です。

【問い】他の場所、他の団体を選ぶこともできたはずです。しかし、司教様は、聖ピオ十世司祭会のあるこの地を、お考えになって選んでおられます。

【ウォンダー司教】そうです、考えた上で選びました。そのことは、私があなたにお話しした進化を明確に示しています。また、この会は――おこがましく思われたくないのですが――この会は、私を必要としているかもしれないとも申し上げました。ですから、私はこの会を支援したいと思っています。これがまさに、私がこの選択をするときに、私を導いた思いだったのです。ほかにも理由はあります。若い人々がいる環境に自分がいられるのはいいことだと思います。少し元気になることができるでしょうし。私には歩くだけでも大変ですから、簡単だとは言えませんが。信仰がまだ若いという感じられる環境に入るということは、私にとって重要なことなのです。

【問い】霊的な面だけでなく、肉体的な面でもこの若さを求め続けておられるのは素晴らしいことです! 私は、このご決断に対して、司教様に感謝する機会を逃すわけにはいきません。なぜなら、私たち司祭や修道者の多くにとって、一人の司教が私たちと一緒にくつろぎ、私たちの活動を支援し、信仰に忠実であり続けるよう、その存在によって私たちを励まそうとしてくださっていることを知ることは、励みであるからです。ありがとうございます。

【ウォンダー司教】そう言ってくださると、とてもうれしいです。

【問い】司教様がここに来る選択をなさったことを、誰もが喜んでいるわけではありません。それは、あえて言わせていただくと、スイスのいくつかの教区では、否定的に受け取られています。もし、司教様がまったく別の、あるいは普通とは違う選択をしておられたとしても、おそらくもっと良い受け止め方をされていたことでしょう。この反応をどう説明なさいますか?

【ウォンダー司教】もちろん、これは聖伝の価値に関する、多くの現代人の一般的な反応です。聖ピオ十世会だけに当てはまることではありません。後者【聖ピオ十世会】にそれなりの利があるのは確かですが、本当に重要なのは聖伝の問題なのです。その問題の説明を見いだすのは難しいものです。一方では、おそらく教会の一部の信者を苦しめる歴史的な良心なのでしょう。なぜなら、彼らは、これが実際のところ、直近の時代までの自分たちの過去であることを知っており、その過去を取り除きたいと思っているからです。他方では、社会があまりにも変わってしまったため、「これは私たちの時代には全く合わない」と感じています。そのほかにも、いろいろな要因があります。ここスイスの教会では、私はいつも矢面に立たされてきました。多くのサークルで、私はいつも否定的な批判をされてきました。この観点からすれば、この反応は理解できるものでした。ですから、私が単に個人的な願望からここにいるのではなく、カトリックの司教として、母なる教会の前で、そして聖ピオ十世会の前で、聖伝に対する私の深い愛着を証しすることが、非常に重要な責務であると考えているためだというまさにそのことを、人々に知ってもらうことが重要なのです。私が聖伝を非常に重要視していることを、皆さんに知っていただかなければなりません。しかし、このすべてをもってしても、肯定的な反応を引き出すのに十分ではありません。なぜなら、この否定的な態度の原点には、他の要因があるからです。

【問い】司教様が私たちの中にいてくださることで、私たちに大きな励ましを与えてくださることは貴重なことです。司教様はおそらく、聖ピオ十世会の司祭たちの使徒職をどのように受け止めているかをお伝えくださることで、彼らを励ます言葉をお持ちではないでしょうか? さらに、聖ピオ十世会の司祭が、教区司祭に行うべき援助や、教区司祭と接触を図って聖伝の価値を教えることについて、どのようにお考えでしょうか?

【ウォンダー司教】まず何よりも、聖ピオ十世会自身の問題です。ここだけでなく、他の場所でも素晴らしい司牧活動をしていることを認めなければなりません。このようなカトリック学校が教区内にあることは、当時の私の夢でした。しかし、このような学校は、もはや私たちの地方では見られません。特にヨーロッパ、中央ヨーロッパについてですが、世界全体ではどうか分かりませんが、この地域にはもうないと言わざるを得ません。私は、このような学校を運営している聖ピオ十世会のことを祝福したいと思いますし、もっと一般的には、聖ピオ十世会の司祭が信者の近くにいることを祝福したいと思います。私たちはこのような牧者を必要としていますし、信者もこのような牧者を待っており、頼りにしています。

先日、ツァイツコーフェンの神学校を訪れました。司祭たちが受けている養成教育を見させていただきました。私はその時、校長先生にこうお話ししました。「ここには教会のモデルがあります。教会の指導者たちは、ここで、つまり聖ピオ十世会で行われている養成教育に立ち戻るのがよいでしょう。司祭や若者の教育においても、司祭の日々の司牧や共同体生活においても、これは非常に重要なことです。理想的には、司祭が一人のままになることがなく、司祭を支えてくれる小さな共同体の中にいることです。これらの要素はすべて、実際、今日の教会のモデルであり、教会自身をどのように刷新するかを教えてくれます。これが、私が聖ピオ十世会について申し上げたいことです」。

他の司祭について言えば、最近の若い司祭の多くは、聖伝に憧れていると思いますね。これは単純に観察できることです。私はその理由を知ろうと探ることはしませんが、聖伝に対する願望、つまり、全時代のミサに対するこの願望があることには気づいています。私はこの司祭たちに、この聖伝の感覚の中で生きてみようとするように、その証しをするように勧めたいと思います。恐れてはいけません。ただ、現状では問題に遭遇しなければならないでしょう。しかし、その問題で気落ちしてもいけません。なぜなら、そうすることで、おそらく50年、60年、70年後に報われる行為をすることになるからです。

【問い】共同生活に話を戻しましょう。この生活の中で、司教様が私たち司祭や、ここに勉強に通う若者たちと同じハウスにおられることも大きなポイントであるように思えますから。司教様が、共同の祈りのための時間厳守の模範であることは周知の事実です。一日のうち、司教様がチャペルで祈りに没頭しておられるお姿を、頻繁に目にすることができます。ですから、私たちは、司祭がその役務に実りをもたらすことができるためには、このように常に変わらないこと、このように規則正しいこと、そして霊的生活にもたらされるこのような配慮が、非常に重要であるということに同意します。

【ウォンダー司教】そうです! 司教が手本にならないとすれば重大な問題です。これは絶対に必要なことだと思います。そして、もし私がそこにいることができるなら、模範を示すことができることに、それは司教の義務の一部ですが、感謝します。祈りの生活は、私にとって常に重要な意味をもっています。それは司祭の生活、司教の生活を維持させるものです。また、信者の生活の支えにもなります。私は聖務日課の祈り、つまり教会の祈りが、特に好きです。チャペルで祝されし秘跡の前にいると、幸せな気持ちになります。祈りは、三位一体の天主への永遠の賛美を【天国に行く前に】前もって行っているようなものだと理解すれば、私たちは、きっと祈ることが好きになることでしょう。本当にそう実感すれば、もっともっと進んで祈りに行くのではないでしょうか。祈りによって、ミサによって、私たちはすでに永遠の中に足を踏み入れているのです。

【問い】ここで教育を受ける若者たちにとって、このような司祭、司教の模範を目の前にすることは貴重なことだと思います。このことは、彼らを教育するとともに、将来へ向けての準備となり、おそらくは司祭職への新たな召命を呼び起こすことにもつながるでしょう。このように、この学校では、教育の領域で聖ピオ十世会の成し遂げた仕事をご覧いただくことができるのです。私が司教様のご返事を理解するならば、そのご返事から、司教様が、聖ピオ十世会が使徒職において学校も重視することは当然であり、また重要であるとおっしゃる点について、私たちの意見と完全に一致しておられるものと推論します。

【ウォンダー司教】それはとても重要なことです。それは選択肢にすぎないのではなく、まさに優先事項だと言えるでしょう。もし私たちが目標に到達するならば、しかし、もしここで教えられているような信仰で若者を教育せず、学問だけでなく(これも重要ですが)、特に宗教教育、宗教の知識、そして特に宗教の実践を身につけるためでないのなら、召命はなくなるでしょう。なぜなら、司祭の召命がやって来るのは、そこ【宗教教育・知識・実践】からなのですから。それは非常に重要なことです。そして、このことが、残念ながら私たちの世界、ヨーロッパに欠けているものなのです。

今日の不満は、司祭があまりにも少ないということですが、事態がここまでになった理由の一つは、真に宗教的な教育がおろそかになっていたこと、少なくともこの宗教性が生徒に深く浸透できない形で伝えられていたということにあります。まず申し上げたいのは、教育が信仰の核心に迫っていないということです。このため、私は司祭会に心から感謝し、司祭の皆さんには、このしばしば困難な仕事に、これまで以上の新たな喜びを持って取り組んでいただければと思います。なぜなら、子どもや若者を教育するのは簡単なことではないからです。もちろん、そのことは、私がごく身近にいる今、いっそう強い印象を私に与えています。

【問い】司教様は、ここの若者たちが真の教会の精神を受けていることを証しすることも、おできになりますか? 私たちの会は、実際、しばしば離教的な態度や意向を持っていると非難されます。言い換えれば、この仕事が、何世紀にもわたって教会が常に望んできたことであり、今日もなお望んでいることだと、本当に確証することがおできになりますか?

【ウォンダー司教】もちろん、私自身がこの教育による恩恵を受けていますから、よりいっそう証しすることができます。そして、もし誰かが、私がそのとき、離教者の共同体の一員であり、そこでそれらの理論を採用したと主張するならば、私はその人に反論しないわけにはいかないでしょう。当時は、そのような教育を受けることはごく普通のことだったのです。ある点では、私たちの教育はもっと厳しかったのです。まず第一に、私たちには毎日ミサがありました。これは皆の義務でした。この国の子どもたちのように、頻繁に親に会いに行くことはできませんでした。ですから、私の時代の体制は、実際、もっと厳しかったのです。このため、ここで行われていることは、極めてシンプルにカトリック的であり、他の人もシンプルにカトリック的であると考えるべきだと、私は躊躇することなく言えるのです。

また、離教だという非難に関しては、逸話があるのですが、私が教皇様と、聖ピオ十世会のことに関しても何度も接触してきたことはご存じでしょう。離教の問題が持ち上がったとき、教皇様は何度かこうおっしゃいました。「ここは離教の共同体ではない」と。教皇フランシスコ自身が、私的な謁見の際にそうおっしゃったのです。この話題に何度も立ち戻る人々、あるいはこの誤った非難に苦しむ人々を安心させるためにも、ついでに指摘しておくことにします。

【問い】司教様、私たちを確証してくださってありがとうございます。今は引退した司教として、ここヴァングスにお住まいですが、何もしておられないのではなく、まだまだ活発に活動されているのですね。今はどんなことをなさっているのですか?

【ウォンダー司教】これらは、どちらかというと控えめな活動ですが、何よりも祈りと毎日のミサです。このことは、すべての司祭にとって非常に重要ですが、司教にとってはなおさらです。また、生徒たちとの交流もあります。限定的な接触と言えるかもしれません。生徒の告解を聞くこともありますし、カテキズムの授業を訪問したり、自分で宗教の授業をしたりすることもあります。めったにないことですが、そういうこともあります。そして、このハウスの司祭たちと共同生活をしているので、彼らと話をすることもあります。時には講演をすることもあり、聖書にどっぷりと浸かる機会にもなっています。私はこの時間をとても大切に思っています。聖書を非常に重視していますし、さらに言えば、聖書についての博士論文を書いたこともあるほどです。このように、小さな仕事から、時には修道院でミサを捧げたり説教をしたりすることもあります。ここでも、ときどき説教をします。このような活動で、私は忙しくしています。

【問い】司教様は、ここヴァングスでは、毎日ミサも捧げておられますが、もっぱら聖伝のローマ典礼でなさっていますね。この聖伝の典礼を捧げるようになられたのは、どうしてでしょうか?

【ウォンダー司教】もちろん、新しい典礼と聖伝の典礼をよく研究しました。この研究は、私に重要な違いを教えてくれました。例えば、司祭にとって非常に重要な祈りなど、あるテキストが短くされたり、廃止されたりしていることです。今、私は聖伝の典礼にあるこれらの祈りによってのみ生きることができるのです。これらの祈りは司祭を強め、特に信仰を強化し、さらにはミサで自分の賜物を強化することは明らかです。人は真に天主の御前、イエズスの御前にいるのであり、単に共同体の前にいるのではありません。私が聖伝の典礼で再発見できることのすべて、それはとても貴重で、言ってみれば、大きく時を超えているため、もう後戻りしたくないのです。

【問い】司教様のご発言から、もはやノブス・オルドを捧げることを全く望んでおられないと結論付けてもよいでしょうか。

【ウォンダー司教】もう捧げたくありません。私はもう、ノブス・オルドを捧げることはできないと感じています。なぜなら、あなたが聖伝のミサに浸っていると、もう他のことは何もできないと感じるようになるところにまで来ているでしょうから。【私も同じです。】

【問い】感情や美意識からだけでなく、信仰からですか?

【ウォンダー司教】そうです、信仰の深遠さからです。私はいつも言っているのですが、私たちの持つ典礼は信仰宣言であり、信仰宣言は簡単に脇へ追いやられることはあり得ないのです。もし、私が司教として使徒信経を祈るのをやめたら、どう言われるでしょうか? 信者は私について何と言うでしょうか? 彼らは私にこう言うでしょう。

「いったいどうしたのですか、そんなことあり得ないことです!」。私たちは聖伝の典礼が、特に年月の重みや、この成熟を持つがゆえに、信仰宣言でもあることを忘れてはなりません。彼らは、信者がこの信仰宣言を脇に置くように要求することはできません。

【問い】司教様、司教様の笑顔と出会う人々への優しさは、いつも人々の心を打ちます。どのようにして、若い心と魂の均衡を保っておられるのでしょうか?

【ウォンダー司教】おっしゃっていることは、とても重大です。この若い心、これは本当に信仰から来るものです。また、特に主との絶え間ない接触から来るものです。ですから、そのことが、私が重要視している理由です。私はすでに生徒たちに何度も言っていますが、皆さんがイエズスと良い関係、友情の関係を持つことが重要なのです。そのためには、救い主の絵、主の良い絵、美しい絵があることが重要です。そして、この絵を何度も何度も見て、まるでそこに主がおられるかのように主を見ていれば、他の人と一緒にいても、常に主との対話が保たれるでしょう。そしてそのことが、皆さんがイエズスと非常に個人的な関係を持つのを助けるでしょう。そのような関係は、常に美しいもの、啓発的なもの、人を幸せにするものなのです。

【問い】司教様がそこに注意しておられるのは美しいことです。毎朝、司教様がミサをお始めになり、詩篇の言葉の「われ天主の祭壇に上らん、わが若さを喜びで満たし給う天主のもとへ」(Introibo ad Altare Dei. Ad Deum Qui laetificat juventutem meam.)を唱えられるときに、そう思います。

【ウォンダー司教】その通りです!

【問い】これは、すでにご高齢の司教であっても、嘘ではないのですね?

【ウォンダー司教】(司教は笑う)司教は嘘を言ってはいけません。常に真実を語らなければなりません。

【問い】司教様の司教紋章は別にして、司教様はとても質素な方で、ここで同僚に囲まれてお暮らしですね。スイスの大きな教区の元司教でありながら、公の場に姿をお見せにならないのはどうしてでしょうか?

【ウォンダー司教】詩篇には、繰り返し強調されている、非常に重要な部分がいくつもあります。それは、すべてははかないものであること、常に心の中で死を思っていなければならないことであり、司教の栄光も、存在するものである以上は、やはり過ぎ去るものなのです。ですから、職務に就いているときでさえも、いつかは終わること、そのときには、別の方法で物事を整理する必要があること、全く別の方法で主の前に立つことになることを、絶え間なく思い起こすのは良いことです。この思いはこれまでずっと私の中にあって、常に自分に、「今行っていることが一番美しくても、いつ終わるか分からない」と言い聞かせているのです。そして、司教の義務は、いつか、教皇様から、あるいは、主ご自身からのお呼びによって、終わるのです。この思いを常に心に留め、それを貫かなければなりません。別の見方をすれば、自分の信仰、自分の神学、自分の聖書の知識をさらに深めるのに専念するために、重荷を捨てることができるということも、好ましいことです。これは一人の元司教の人生の美しい面です。物事の良い面でもあるのですから。人生も同じです。主が私たちをお呼びになる日、主が私たちに「時が来た」とおっしゃる日に、私たちは仕事を離れる用意がなければなりません。知恵の書は、実にうまく、こう言っています。「この世には、すべてに時があり、それぞれ時期に、すべてが天の下を過ぎ去る」(集会書3章1節)。同様に、司教職にも時があり、司教職を引き継ぐ時、名誉司教の時もあるのです。

【問い】こうして、司教様は教区司教としての尊厳と責任を離れられましたが、司教様が常に司教でいらっしゃるのは確かですから、その意味で、司教様は常に教会で活動しておられます。司祭や信者が、司教様を訪ねたり、助言を求めたり、たぶん困難な状況を少し明確にしたりするために、ここに来ることが非常に多いと聞いています。秘密を漏らさずに、そのような人々にどのような言葉をかけられますか?

【ウォンダー司教】ああ、そうですね、そういう人々の多くは、実生活や教会で起こっていることなどで困難に遭遇しているから来るのです。ほとんどの場合、彼らを安心させ、この方向に進むべきだ、自分の信仰や信念を手放してはならない、などと言わなければなりません。ほとんどの人は、励ましの言葉や支援の言葉を必要としています。また、単に司教は今何をしているのか、どうなっているのかを確認しに来る人もいますし、その後、日常的なことを話すような軽い会話もあります。しかし、ほとんどの場合、これらの人々は自分の霊魂のための霊的な助けを求めており、私は司教として、この仕事に真剣に取り組む義務があるのです。司教というものは、牧者のように振る舞う必要性を常に感じます。それが仕事の一部です。私たちは牧者なのですから。このため、年齢を重ねても、何らかの形でこの司牧の機能を行使できることは、実際ありがたいことなのです。これもまた、天主からの御恵みです。

【問い】司教様が、ここヴァングスに来られる選択をなさったからこそ、このハウスに住む多くの霊魂たちの間でも、すべてが可能になったのです。司教様は、今でも教会の公式な位階階級の機関、すなわちバチカンと連絡を取り合っておられるのではないでしょうか?

【ウォンダー司教】もちろん、一定の接触を維持する努力はしています。しかし、当然ながら、職務にある司教で、その使命のために時々ローマに行かなければならない司教よりも、名誉司教の方が連絡を維持するのは難しいのです。ですから、少なくはなっていますが、可能な限り、ローマの関心を維持するように努めています。実際、司教であることは変わりありませんし、司教として、ある意味、教会の生活に対する責任を常に背負うのです。

【問い】教会が直面している危機を踏まえ、教会の近未来をどのように見ておられますか?

【ウォンダー司教】私は、明らかに私たちの地域の危機を判断することしかできません。アフリカの状況は分かりません。アジアはどうなのか分かりません。しかし、私がここで繰り返したいのは、聖伝という古い価値観に立ち戻る限りにおいて、私たちは危機を脱することができるということです。それなくして、私たちは前に進めないのです。多少の改善はあっても、それは未来がなく、失望を残すだけでしょう。彼らは、危機の原因がどこにあるかを認識して、それを根本から攻撃するというのではなく、司祭の数が十分ではない、信者はそれに耐えなければならない、などと言うだけでしょう。

【問い】教会の最高権威の側からでさえ、そのしるしは、聖伝という源流に立ち戻ることを本当に示唆するものではありません。ごく最近、教皇フランシスコは自発教令「トラディティオーニス・クストーデス」(Traditionis Custodes)を発表し、それによって聖伝の典礼に従ったミサの挙行を大きく制限しています。教皇は、聖伝の典礼を、ほとんど完全に阻止しようとしていると考えざるを得ません。この文書についてどう思われますか?

【ウォンダー司教】このことが私に非常に大きな影響を与え、私を悲しませ、そうです、泣かせたことは想像できるでしょう。まさかこんなことになるとは思ってもいませんでした。原因は何なのか分かりません。もし私がまだ教皇様とよく連絡の取れる職務にある司教であれば、この措置によって影響を受けた人々から、もっと情報を得るようお願いするでしょう。これによって影響を受けた非常に多くの人々がいます。司祭だけでなく、影響を受けている信者、子ども、若者、家族です。聖伝には数多くの家族がいると、私は言うことができるからです。教皇様のアドバイザーたちは、自分たちがこの人々に何をしているのか分かっているのでしょうか。彼らはこの家族に何ということをしているのでしょうか? だめです、これは非常に悲しいことです。司教である同僚の皆さん、特に枢機卿である同僚の皆さんに、このこと全体を、起きたことを再考し、必要な要望をもって教皇様にアプローチするよう、心からお願いします。これは単なる教会法ではなく、教令なのですから、それが、この方々の義務です。それは信仰の核心に触れるものです。信仰の核心です。ですから、こういったやり方で、信者の信仰の核心を攻撃することは、単に良くないというだけではありません。そこから良いものは何も生まれません。

【問い】それが信仰の核心に関わることであれば、人間、霊魂、カトリック信者だけでなく、教会そのものにも影響を与えると言われるのですね。

【ウォンダー司教】それは教会そのものに関わることです、そうです。なぜなら、結局のところ、教会はこの信仰によって生きているからです。

【問い】信仰は教皇が自由にできるものではありませんし、教皇のものでもありません。

【ウォンダー司教】そうです、信仰は与えられたものであり、それはまた、すべての権威の上にあります。むしろ、すべての権威は、信仰の権威に服従します。そして、すべての権威は、この点(つまり、自発教令「トラディティオーニス・クストーデス」)に関して等しく、主にお答えしなければなりません。このような条文を採択する際に、引き受ける責任がいかに大きいかを理解しなければなりません。

【問い】この文書による措置は、たとえそれが暗示されているように見えても、信仰によって動機づけられたものではなく、むしろ教会の一致に対する懸念によって動機づけられたことが明らかであるように思われるのです。教皇は、この自発教令「トラディティオーニス・クストーデス」を通して、教会の一致を促進することを望むことができるでしょうか。

【ウォンダー司教】この理由付けはおかしいと思います。なぜなら、カトリック教会では、常に多様な典礼が共存してきたことを、私たちはよく知っているからです。この多様性によって、教会の一致が脅かされることはありませんでした。教会の一致の問題は別のところ、つまり、信仰への、信仰への忠実さにあるのです。私は、今日、教会の一致が脅かされているのは、ほとんどの場合、神学者たちの中でさえ、私はあまりはっきりと言いたくないのですが、忠実さ、主への信仰への忠実さが存在しないか、あるいは薄れてしまっているという事実によるものだと信じています。繰り返しますが、信仰は私たちの主から、それを伝えた使徒たちを通して与えられており、この信仰が私たちに義務づけられているのです。さて、これが今日の教会に大きく欠落しているものであり、一致を脅かすものなのです。

【問い】司教様は今、重大な点を指摘されているところです。私たちの会も、事態を同じように見ています。信仰の後に、そして信仰から流れてくるのは、道徳的な問題です。教会に不満を持つ多くの現代人は、教会をこのような道徳的な問題に矮小化しようとしています。司教様は司教として、カトリックの道徳的原則を勇敢に守ってこられましたが、そのためにマスコミからの多くの反対キャンペーンにさらされてこられました。今にして思えば、このことをなさったのを後悔しておられますか、それとも、このことは今日的な問題だとお思いですか?

【ウォンダー司教】いいえ、後悔はしていません。それどころか、いつの日か主の御前に立ち、このことについてどうしたかと問われることの方が気になります。私が言ったりしたりしたことを、主にお話ししなければならないのですから。例えば、私は信仰の基本である聖書に基づいて教え、天主のみ言葉、天主の啓示を知ろうとしました。このように伝えようとしたからこそ、私は自信と落ち着きを持っていられるのです。確かに、政治的なこと、公衆道徳のことなど、あらゆることの進化は別の方向に進んでいますが、だからといって、私たちは、道徳的生活について聖書が語ること、啓示が語ることを絶え間なく思い起こすことを免除されるわけではありません。なぜなら、それは信仰から来るものだからです。例えば、聖パウロの書簡には、常に教えの部分があり、それは信仰に関するものですが、そこから生き方、言い換えれば道徳を推論して導いています。このように、生き方は信仰から流れてくるのです。聖パウロはそれを非常に重要視し、すべての書簡で、私たちが信仰に適合して生きなければならないと繰り返しています。このことは、今の世がもう一度学ばなければならないこと、もう一度考えなければならないことです。その場合、ある種の発展はもう望めなくなります。このため、たとえ古めかしいと非難されようとも、勇気と忍耐が必要なのです。よく「中世だ」と言われます。ある日、ある信者がこう言ったんです。「司教様は中世に留まっている」と。このことは、中世の時代ではありません。このことは、単に私たちの信仰の結果なのです。ですから、それは継続しなければなりません。私は彼にこう言いました。「私は何も後悔していませんし、特に司教である私の同僚たちに、この方向で働くようお願いします」。

【問い】9月25日、司教様は金祝をお迎えになります。その翌日、スイス国民は「すべての人のための結婚」を導入する法案について投票箱で投票するよう要求されます。言い換えれば、同性同士の自然に反する結合は、天主によって制定された男女間の結婚の秘跡と同じレベルに位置づけられるべきだということです。社会の進化をどのようにとらえ、どのように対抗すればよいのでしょうか。

【ウォンダー司教】まず、私たちの信仰が、そのような進化に「はい」と言うことを常に禁じていることは明らかだと言わなければなりません。このことは、もちろん、私たちが相応に公的な生活の場に身を置き、その進化を防ぐためにできる限りのことをしなければならない、ということです。これは難しいことですが、すべてのキリスト信者は、その信仰を義務づけられています。信者が自分の信仰を真剣に受け止めているならば、すべてが天主の法に反している、ということを断言しなければならないのです。

今日、天主の法はもはや真剣に受け止められておらず、自然法もまたそうであり、法が存在せず、時代遅れの神学者の想像の実とみなされている、ということがまったく明らかになっています。しかし、私たちの信仰は私たちの確信であり、天主の法に反するものは自然法にも反するのです。私たちは、公的な場を含め、相応に行動し、そのような発展が社会を奈落の底に落としてしまうことがないように、力を尽くさなければなりません。もうそれ以上は言えません。

【問い】もっと気分のいい話に移りましょう。司教としてのご経歴やご自身の経験を通じて、ますます多くの若者が、召命でも、聖伝へと、全時代のミサへと、教会の永続する信仰へと向かいつつあることを指摘されていますね。これが本当に司教様の観察なさったことですか?

【ウォンダー司教】すぐに観察しなければなりませんが、それは、聖伝には若い人が多く、家族連れも多いということです。言い換えれば、聖伝は若いのです。このことは、私たち司教、つまり教会の指導者の責任をより一層重くするものです。なぜなら、ここで何かが起こり、それが成長していることは否定できません。この動きは―それ以外には考えられませんが―聖霊の働きの下にあるということです。これは、人間の働きではなく、聖霊の働きなのです。聖伝についてほとんど知らない若い司祭たちが来ていることを考える限り、疑問が生じます。どうしてその司祭たちがそこに来ているのでしょうか? 私の唯一の説明は、天主の霊がここで働いておられるということです。ですから私は、これらの人々をこう励ましています。たとえ司祭候補者で、今後非常に困難な状況に置かれるとしても、この道を歩み続け、聖霊に忍耐と、とりわけより深い理解を与えてくださるようお願いするように、と。なぜなら、これらの信仰の真理に対する理解が深まれば深まるほど、信仰はさらに強固なものとなるからです。そして、さらに確信と力をもって働くことができるようになるのです。

【問い】聖パウロは、「信仰は聞くこと【宣教】による」と言っています。ですから、私たちには、それを言葉や証しを通して聖職者に伝えるという仕事があります。

【ウォンダー司教】そうです、これこそがすべての説教の目標です。そして司祭は、特にこのテーマについて、その責任を目の前に突きつけられているのです。

【問い】聖ピオ十世会の多くのミサ・センターで、コロナウイルス感染症対策が顕著なこの時期、ますます多くのカトリック信者が公式の小教区からやって来て、聖伝を発見し始めたのを見ることができました。おそらくその理由は、秘跡を受けるのを厳しく制限することになった、この対策を扱う牧者たちの対応に、信者たちがしばしば失望したからでしょう。信者たちは、私たちのチャペルやハウスで秘跡を受けたいと思ってやって来ており、彼らの多くは、この機会に、その小教区で受けた信仰の知識がいかに少なく、自分たちの信仰についていかに無知であったかを思い知ることになったのです。司教様は、このことが、教会とカトリックが陥っている危機を説明する一つの要因になっているとお考えですか? これもまた、信仰の危機でしょうか?

【ウォンダー司教】そうです、これはあなたが思っておられる意味での信仰の危機であり、信仰が深く教えられていないことが分かるのです。カテキズムでは、特にカテキズム教育においてですが、残念ながら、この50年間、私たちはこのようにその教育がなされていないのを目の当たりにしてきた、と私は言わなければなりません。この信仰を深く伝達することは、数多くの小教区や、教えられるはずの数多くの教育機関で、もう行われていません。このような信仰に対する無知は、そこから生まれるのです。そのため、カテキズム、つまり、カテキズム教育という目的のための指導が、非常に重要なのです。そして、私はそこで、聖ピオ十世会において、また他の聖伝の運動においても、カテキズム教育が非常に真剣に受け止められ、非常に真剣に教えられていることを指摘しなければなりません。このような環境で信仰が高まっているのは、そこから生まれるのです。私たちが再び信仰を完全に教えることが絶対に必要なのです。人に喜ばれるような、あるいは、人に喜ばれるような印象を与えるような特定のテーマだけでなく、本当にその深さにおいて、そのすべての幅においてです。

【問い】司教様、本日していただいた証言と、その中にある励ましに対して、本当に感謝申し上げます。司教様が、信仰に満ちて、この信仰の伝える証言をされ、また司教として働くことができるということに満足されながら、救い主がお望みになる限り、長生きされるよう願っております。

【ウォンダー司教】本当にありがとうございます。あなたの願いが本当に実現するよう希望します。天主に感謝!


Viewing all articles
Browse latest Browse all 4247

Trending Articles