第二バチカン公会議と教会の聖伝の「断絶のポイント」について―概要(その三)
“Points of Rupture” of the Second Vatican Council with the Tradition of the Church – A Synopsis
【その一】
【その二】
パオロ・パスクァルッチ氏の第二バチカン公会議の分析:第二バチカン公会議と教会の聖伝との断絶を示す26のポイント (続き) - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
25.近代思想の主観主義に影響を受けた「真理」という概念に代表される重大な問題がある。それゆえに、そのような「真理」は、【客観的な】啓示された真理という考え自体と相容れないものである。
a.啓示憲章(Dei Verbum)では、
信仰の真理の「把握」についての文章の結論で「理解が成長する」として次のように述べている。
「要するに、教会は、自分に神のことばが成就するまで、時代の推移に伴って、絶えず、神的真理の充満を目ざして進むのである。」(啓示憲章8条2項)
ここでは、教会は20世紀を経てもなお「天主の真理の充満」(神的真理の充満)を持っていないことが暗示されているが、それは教会がまだそれを目指して「絶えず、前進する」とされているからである。真理とは「(探求された)対象と(探求している)知性との一致である」(アリストテレス―聖トマス・アクィナス)という考えが、典型的に近代的な考えに置き換えられている。つまり、それによれば真理とは主観的で、果てしない真理の探求【とされるの】である。
しかし、このような考えは、他のすべての考慮事項を別にすれば、天主によって啓示された真理という概念に適用することはできない。私たちの知性はこの啓示された真理を恩寵の不可欠な助けを借りて認識しており、この真理は、まさに不変の信仰の遺産を構成しているのである。さらに、そのような近代的な考えは、信仰の真理とは一致しない。信仰の真理によれば、啓示は、最後の使徒【聖ヨハネ】の死によって閉じられた・完了したからである。
b.このような、人間が問うている真理に取って代わる「"真理の探求"としての真理」という考えが、「対話」の原理の基礎である。
この原理が保持しているのは、「宗教に関する真理」は、今や、「教導あるいは教育、交流および対話による自由な探求によって、求めなければならない。このような方法によって、真理探究の面で互いに協力するため、自分が発見したとか、あるいは発見したと思うことを他の者に説明する(alii aliis exponent veritatem quam invenerunt)。」これは「神が英知と愛をもって、全世界と人間社会に秩序を立て、これを指導し、統治するために設けた神的な、永遠の、客観的、普遍的な法」に関わる。(信教の自由に関する宣言3条1-2項)
「宗教に関する真理」は、その時、永続的な「対話」を通して「他の者」とともに探求する際に個人の良心によって「発見」され、見いだされた全てに存するとされる。「他の者」(alii)とは、他のカトリック信者のことだけではなく、一般的な他の者、つまり、自分の持つ信条が何であれ、すべての他の者を意味している。重要なことは、この探求は、天主によって人間の心に置かれた天主の永遠の法、つまり、理神論者のように自然道徳の「永遠の法」(lex aeterna)をその対象としていることである(すべての人を巻き込むということで、実際には、非キリスト信者によって完全に否定され、異端者によって大きく変形されている"啓示された真理"をその対象とすることはできない)。
この新しい教えは、常なる教えに公然と反している。常なる教えによれば、カトリック信者にとって、「宗教に関することがら」や「道徳」における真理は、天主によって啓示され、「信仰の遺産」にある教導権によって保持し続けられている真理である。
したがって、この真理は、私たちの知性と意志の同意を必要とし、それは恩寵の決定的な助けによって可能となる。この真理は、信じる者に知られて自分のものとされることを要求する。すなわち、自らの努力によって、「発見」されるものではない。
あるいは、さらに、異端者、離教者、非キリスト信者、異教徒と共同で --- すなわち、私たちの宗教に関する真理や私たちの基本的な道徳的原則を拒絶するすべての人々と共同で --- 探求(investigatio)することによって「発見」されるものでもない。ここにおいて、私たちは、信仰だけでなく、ごく初歩的な論理の限界を超えて、その外にいる。
c.非カトリック的な原理によれば、真理は、他の者との共同の「探求」の結果であるべきであり、関係する各個人の「良心に忠実に」追求されるべきであり、「多くの道徳的原理」の解決に関わる場合にもそうであるという。この非カトリック的な原理が、現代世界憲章16条2項で再確認されているが、これは、公会議が持っている新・近代主義的な「精神」(mens)を理解するための重要な条項の一つである。
26.この簡単な概略を締めくくるために、1962年10月11日のヨハネ二十三世の就任演説の中にある、教会の聖伝に適合していない三つの点を思い起こしたいと思う。これらの点が、公会議をそのとき採用した異常な方向に向かわせるのに寄与したことは確実である。それは以下の通りである。
1)教導権についての不完全な・切断された誤った概念。
「しかし、現在、キリストの浄配は、厳しさよりも憐れみという薬を使うことを好みます。このことが求めるのは、この浄配が現代の必要性に遭遇し、新たな断罪を行うのではなく、自分の教えの正当性を示すことです」。
「不完全な・切断された」というのは、教導権は誤謬を断罪したり、天主に由来する権威を用いて真理と誤謬の区別を揺るぎない方法で宣言したり押し付けたりすべきではないと考えることに至るからです。
「誤った」というのは、誤謬を断罪することは、私たちが皆知っているように、憐れみのわざそのものであるからです。その際、誤った者が自分自身のことを説明し、自分のやり方を考え直し、自分の霊魂を救うことができるように、誤った者に指摘したり、あるいは、断罪を発する権限、天主からの権利による(iure divino)権限を持つ権威者が、すべての誤謬を断罪することによって、誤謬の陰湿な言葉の綾から信者を守ったりするのです。
2)カトリックの教理と現代思想が深刻なほど混合されている。就任の訓話には、真正な教理は「現代思想の探求のやり方とその文学的言い回しを通して研究され、自分のものとされるべきです」と(ヨハネ二十三世自身が公に使用したラテン語版よりも大胆な翻訳版で)断言していることからもわかる。なぜなら、「一方では、信仰の遺産(depositum fidei)の古代の教理という実体があり、他方では、その外層(rivestimentoすなわち上塗り)の定式化した言い回しがあるからです。ですから、必要なら忍耐をもって、この外層について、細心の注意を払い、司牧的性格を優先させて、教導権の形式およびと重大さにおいて、すべてを測らなければならないのです。」(現代世界憲章62条とエキュメニズムに関する教令6条で再提案された概念)
しかし、これは教皇たちが常に否定してきた立場である。なぜなら、超自然的なものに聞く耳を持たず、内在性の原理に強く影響を受けた現代思想と、「古くからの教え」 -- この教えにおいて「実体」と「外層」とを分離することは不可能である -- との間に存在する、明白で避けられない矛盾があるからである。
3)人類の一致が教会の真の目的であるとする宣言、しかも、そのような一致が「地上の国」がこれまでにないほど「天上の国」のようになるための「必要な基盤」であるとまでみなしている。これは、千年王国的な色合いを持つ概念であり、教会の教理とは無縁である。このような不適切な目的を教会に帰属させているのを、教会憲章1条で見ることができる(上記5参照)。
パオロ・パスクァルッチ
カトリック哲学者