アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日9月8日は、聖母マリア様のお誕生日です。
さて、2015年8月15日、聖ピオ十世会アジア管区長のシュテーリン神父様が大阪で捧げて下さった聖伝のミサ(トリエント・ミサ、ラテン語のミサ)でのお説教の書き起こしをご紹介します。書き起こしをして区だっさった方には、心から感謝します。
マリア様の被昇天の神秘が深くよく分かるとても感動的なお説教です。聖母マリアさまのお誕生日に、聖母マリア様が天国に生まれたその祝日のお説教をお読み下さい。
特にその最後の言葉は、聖母マリア様からの私たちへの熱烈な訴えであり、希望であり、願望であり、望みであるので、私たちの心に訴えてきます。
どうぞお読み下さい。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2015年8月15日 聖母の被昇天の大祝日
シュテーリン神父様御説教
同時通訳:小野田圭志神父
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
親愛なる信徒の皆さん、今日は、私たちは一緒に、マリア様の偉大なる大勝利を祝う為に集っています。実に、私たちの聖母マリア様の被昇天の玄義は、私たちの主が、聖母に、何をどのように取り扱いたかったか、という事を示しています。天主が全地を、天と地を創り上げた時に、創造した時に、その目の前に傑作が既にありました。それがマリア様です。そしてこの大傑作は、全ての創造の業が終わった時に、最高の地位を占めて、最も偉大な業でなければなりません。そしてマリア様の偉大さを示す為に、天主は、マリア様がこの地上に生きている間、最も酷い、最も苦しい苦しみを耐え忍ぶ事を望まれました。例外は唯一、その御子イエズス・キリストだけでした。
マリア様は、イエズス・キリストの使命と、その生涯に、最も深く参与しなければなりませんでした。そしてそのマリア様よりも深い参与はなかったほどです。ですから、天主様の感嘆すべき愛の御業を見て下さい。そしてマリア様こそが、その愛の御業に全く深く参与した方です。
天主は、創造のその始めから、マリア様をその完全に持っていた、その目で見ていた、と申しましたが、悪魔が、創造の御業を、原罪を犯させる事によって破壊した時に、既にマリア様をその復興の対象として、そのマリア様を使う事を望みました。天主の計画はその最初から、勝利を収める女王が、悪魔の力に対して、悪の力に対して勝利を収める事でした。
どのようにしてこれを実現させようとしたのか、と申しますと、天主御父は、御子の、地上に救い主として来る事ができるかできないかを、マリア様のご意志に、ただ委ねたのです。天主様の計画は、このマリア様を最高のものとして高め、高揚する事でしたが、マリア様は自由でした。全く自由に、それに同意するか、同意しないかができました。
2つの事を感嘆しなければなりません。まず、天主様の素晴らしいご計画で、そのような存在を創りだそう、と思われた事です。「このマリア様は、天主の敵を全て、粉々に打ち砕くでしょう。」「マリア様は、天主の母となるべきでしょう。」「そして彼女は、御子の救い主の御業に参与して、新しいアダムと共に、新しいエワとならなければならない存在となるでしょう。」「そしてその様な英雄的なご生涯、英雄的な忠実の後に、その御体は、御霊魂と共に、天の栄光を受けるでしょう。」
私たちは、こう感嘆して言わなければなりません、「おお、天主よ、御身の御業は何と素晴らしい事でしょうか!」何故かというと、マリア様といえども、私たちと同じく無に等しいものであるからです。
このマリア様を、それほど絶対的に、究極的に、その最高の輝きまで、栄光まで高める事を望んだ天主の御計画は、私たちにも同じような計画を持っています。何故かというと、天主がマリア様を天主の御母と計画したその瞬間、マリア様が私たちの母である、という事も計画されたからです。つまり、マリア様の子供たちの運命は、その究極の行きつく先は、マリア様と同じだ、と言わなければならないからです。例え私たちがもう、マリア様よりはるかに下の存在ではあるけれども、マリア様の栄光に参与する、それに与る事ができる特権を下さったからです。
「天主の御言葉は、人となって我らの内に住み給えた。」「マリア様を通して我らの内に住み給えた。」と同じ様に、常に、マリア様を通して私たちの霊魂に住み給う事を計画されました。
天主は同時に、私たちも天主の御子の贖いの御業に参与する事を計画され、望まれました。まず、私たちが贖いの功徳を身に受けて、そして潔められ、新しいアダムとエヴァの子供たちとなる特権を得ます。次に、マリア様がイエズス様を助けて、贖いの業に参与したように、私たちも、マリア様とイエズス様を助けて、霊魂の救いの為に働く事を望まれます。天主の他の子供たちの、霊的な父と母となるように参与するように、招かれています。
もしも、マリア様がイエズス様に忠実であったように、私たちもマリア様のようにイエズス様に忠実であるならば、私たちにもマリア様に与えられたような、天国の永遠の報いが約束されています。
「おお、天主様、」私たちは、こう言わなければなりません、「おお、御身の御業は何と感嘆すべきでしょうか!御身の道は何と優れた事でしょうか!」私たちもまた、何でもありません、無に等しいものです。マリア様との違いは、無よりも酷い事です。つまり罪に汚れたものであるからです。天主様は、こんなような罪にまみれた、無以下の私たちをも、天主の御子として、しかも天主の永遠の喜びに参与する事を望まれます。
では、第2の感嘆すべき点をご覧下さい。マリア様がどうやってそれに、天主の計画に答えたかを見て下さい。これを見ても、私たちは本当に驚くばかりです。マリア様は聖寵に溢れて、そしてその御恵みに満ちて答えました。その答えはあまりにも完璧で、私たちは信じる事がもう出来ないほどの素晴らしさです。
マリア様は自由でしたから、もちろん「嫌だ、できません。」と、答える事もできました。少なくとも疑ったり、少なくともためらったりする事ができました。天主様は、マリア様が何も理解できなかった事を準備しました。最も聖なる人々でさえも、「え!?そんな事があるだろうか?」と、疑うような事を準備しました。しかしマリア様は、全く完璧に天主の御旨に一致していました。マリア様はいつでも、どこでも、完璧に御旨と同化していました。マリア様に於いては、天主の愛の妨害になるような、いかなる邪魔ものも妨害もありませんでした。ですからマリア様は、全く天主の聖寵によって聖化され、そして天主化されていたのです。「天主的なマリア」とは、聖マリア・グリニョン・ド・モンフォールの言葉です。
天使が、大天使がマリア様の元にやってきて、「御身は、天主の御母となるでしょう。天と地の元后となるでしょう。」という事を申します。マリア様にとって、もしかしたら非常に普通の事で、このように考える事は普通の事であったかもしれません。つまり、「私が天主の母となる。私が元后となる。私のそれは素晴らしい名誉のチャンスだ。」と。
マリア様は、ご自分のことを少しも考えませんでした。マリア様は、天主の御旨を果たす事だけに集中していたので、自分の事には一切構いませんでした。
そしてイエズス様が30歳になって、マリア様の元を離れて旅立って、公生活を始めた時、マリア様の態度は、全く素晴らしいものでした。3年間の公生活の間、イエズス様は見かけ上、マリア様をほぼ拒絶しているかのように見えます。例えば、イエズス様はマリア様の事を、「お母さん、」とは呼ばずに、「女よ、」と呼びます。マリア様が近くにいるにもかかわらず、イエズス様はこんな事を言います、「誰が私の母か。天主の御旨を果たす者が、私の母だ。」マリア様は全く不平を言いません。全て服従します、全て従います。そして最も素晴らしい御業は、マリア様が十字架の下に佇む事です。
十字架の下で、全てはもう終わってしまった、もうこれで何もかも終わってしまったように思われました。あたかも、イエズス・キリストは大失敗をしたかのようです。イエズス・キリストはこの世を救う為に来たはずなのに、その救うべきお方が殺されてしまって、救われなかったのです。人間的に言えば、十字架の上でイエズス様は、全く破壊し尽されてしまいました。そして弟子の使徒たちは、皆逃げて逃亡してしまいます。そして十字架の下に佇んで留まっていた人たちでさえも、何の事か分からず、理解ができませんでした。皆、信仰を失ってしまいました。
ただ、例外があります。それが、マリア様です。全世界が皆全て、「全てが終わった!」と、叫んだときに、マリア様は一人、「必ず復活がある。」と信じていました。マリア様は、気絶したり倒れたりしませんでした。十字架の下で、しっかりと立っていました。マリア様は、不平不満を言いませんでした。マリア様は、ためらったり疑ったりもしません。マリア様の確信を、1つも揺るがすものはありませんでした。この英雄的な信仰を、私たち誰もが理解できません。
希望の徳について言えば、イエズス・キリストの御国が来るという事、イエズス・キリストがこの世を救う、という事について、この全ての人たちは希望を失っていました。何故ならば、キリストは盗賊の間に十字架に付けられて、極悪人として死去されたからです。イエズス様の預言、大勝利の預言、大栄光の預言、そしてこの世を征服する預言、この世を救うという約束、それはもう目の前で、あたかもこれで万事休す、全く終わり尽くしてしまったかのように思えます。もう、希望は絶対的になかったかのように見えます。
しかしマリア様は、それにもかかわらず希望します。この全く最悪の状況に於いて、「必ず、イエズス・キリストは勝利する。」と、希望していました。
これこそが、そのマリア様を天国にイエズス様が連れて行かれた理由です。ただ単に、マリア様の御身体が罪の道具となる事がなかったり、或いは罪を犯した事がなかっただけではありません。マリア様がなさった事、そしてどのようになさったか、という事の報いとして、天に上げられたのです。マリア様は、イエズス様と共に、天のいと高き所、もう、被造物がもうこれ以上、上に上がる事ができない最高の高みまで上げられました。被造物がこれ以上下がる事がない深み、苦しみと、悲しみと、この十字架の苦しみの深みの極みまで行った方はなかったからです。
つまり他の言葉で言い換えると、天主様は、被造物に於けるこの最高の極みまで、極みの頂まで、マリア様を連れて行ったのです。マリア様は、イエズス様に連れて行かれる時に、「主よ、もうやめて下さい。もうこれ以上できません。」と、一言も言った事はありませんでした。マリア様はそこで、最も酷い境遇を忍耐し、そしてそれを捧げたので、最も素晴らしい栄光に参与しなければならない者となったのです。マリア様は、最も謙遜な御方であったので、天主は最も高き栄光に上げられたのです。だからマリア様は、天使たち、全ての天使たちよりも更に上げられました。何故ならば、マリア様は最も、もう全てを超えるような状況に於いて、信仰を保ったからです。
マリア様は、今まで被造物が受けた報いの全てを合わせても、それでも全然足らないほどの、更に素晴らしい、最高の、被造物がもうこれ以上受ける事ができない、と思えるほどの栄光を受けました。
マリア様の栄冠、マリア様が天と地の元后である、とはどういう意味でしょうか?例えば元后とか女王様と言うと、「ええ?天国では何かそういう偉い人が、何かこう信号で統治する何か法律を作ったり、何かそういう政治のビジネスがあるのでしょうか?」
「元后」というのは、「最高の素晴らしさ」という意味です。「マリア様が、最も高い、高きの高みに上がった」という事です。何故ならば、マリア様はその前に、生きている間に、最悪の、更にその最悪を生きたからです。
だから、この被昇天は、私たちにとって最も必要な祝日の1つです。何故なら、この祝日は、天主様がいかに寛大であるかを示しているからです。皆さんは仰るかも知れません、「イエズス様、天主様、私はそんなに何でこんなに苦しまなければならないのでしょうか?私の周りにいる人は、本当に変な事ばっかり。私は天主様から罰せられている。何で私ばっかりこんなに悪い事が起こっているのでしょう?」その理由は、この被昇天の祝日に隠されています。もしも、天主様が私たちにひどい境遇を許されるなら、最悪の境遇を許されるなら、実は天主様は私たちに、「最高のものを与えたい」というご計画があるからです。
私たちがどのように酷い境遇に置かれたとしても、更にひどい境遇に置かれた、私たちの御母がいらっしゃる、という事を知って下さい。この同じ母親は私たちにこう言います、「子よ、ご覧。もしも私と一緒にこの苦しみを通るなら、私と一緒に栄光に行く事ができるのよ。」と。
それから、もう1つ特別な点がこの祝日にはあります。実は、もっともっとこの祝日にはたくさんの点があって、私がもしもその事を皆さんに全部、こう話そう話そうとしたら、明日の朝までこうやって話しても、まだ皆さん座って聞いています。皆さんをまた拷問にかけるのは望みませんので、短くします。
マリア様は、御体と霊魂によって被昇天を受けました。何故ならば、私たちは人間であって、人間は肉体と霊魂でできているからです。現代、人間の肉体は非常に重要視されてきています。あまりにも肉体を重要視するので、霊魂の事をすっかり忘れています。現代の人々は、肉体に快楽とか楽しみを与える事だけを考えて、あまりにもそれを与えるので、体は病気になって死んでしまうほどです。現代、人々は肉体をあたかも神々のように礼拝しています。これは物質主義です。でも、皆さんよく知っているように、このかわいそうな肉体は病気になりますし、そして年を取りますし、そして遂にはウジ虫の餌になります。
ところで、肉体の世話をした事がない人もいます。その時間がないからです。興味がないからです。この体は、彼女の知性、そして意志、そしてその霊魂の道具でありました。例えば、マリア様がイエズス様を、夜中にエジプトへと連れて行く時に、その旅路は準備のないものでしたから、マリア様は全く疲れて、汚れて泥で、埃でまみれていました。しかしマリア様は、身体の事を特に気を使っていませんでした。
ところで現代の人は、この肉体にあまり無理をかけないで、若くしようとして、そして栄養物をやって、としているではないですか。そしてこの現代の人は、肉体に全てのものを与えて、もうちょっと健康でもうちょっと長生きするようにしています。もうちょっとだけ、この美しさと美貌が保たれるように頑張っています。特に女性の方は、年齢を重ねるにつれて問題が生じています。髪の毛が白くなったり落ちたりすると、この人間の終わりに近付いているのだ、という事が見えてきます。そしてこのような人々は、霊魂の事は一切構わず、肉体の事だけを考えて、肉体の事だけ、肉体の保存と美貌だけを考えて、そして遂には、ウジの餌になってしまいます。
しかし、私たちの望みは、全くそれとは違っています。私たちはいつも若々しくいたい、と思います。年をとったご老人達は、「若かった頃はこうだった。若かった頃は…。」と、いつも、若かった、美しい頃の時代の事を話して、夢見ています。老人の家には、若い人の写真があって、「この、おばあさん、誰ですか?このきれいな人。」と、聞くと、「これは、私がまだ20歳だった頃なの。」
私たちはいつも、「若くありたい」と、思っています。「美しくありたい」というのは、それは良い望みです。そして「力強くありたい」という事も良い望みです。しかし、このようなこの望みは、1回しか果たす事ができません。それには証拠があります。それは、1人の方が亡くなって、そして最も美しい体で、最も力強く、被造物の中で上げられているからです。
ルルドで、聖ベルナデッタがマリア様の姿をご覧になった時に、そのマリア様の美しさは、あまりにも美しかったので、ベルナデッタは、そのマリア様の現れたルルドを離れる事ができないほど、離れる事が非常に辛い事でした。それほど美しかったのです。
ファチマでマリア様を見たルチアに、「マリア様はどういうご様子でしたか?」と尋ねると、マリア様について、「マリア様は光の体を持っていました。」
このマリア様が、私たちの母です。このお母様であるマリア様は私たちに、「お前たちも、私と同じようになるのよ。」と約束します。「ここにいらっしゃるおばあさんも、若く、美しくなります。永遠に。」「ここにいるおじいさんも、私の子イエズス・キリストのように33歳の最も完成された年齢に戻るでしょう。」
若さ、力、そして美、それを全てマリア様は皆さんに約束されます。マリア様は、この被昇天の大祝日に、皆さんの前に、そのご自分の美しい肉体と霊魂を見せて、将来皆さんになる事を約束します。しかし、ここに到達する為には、マリア様と共に行かなければなりません。マリア様を真似しなければなりません。マリア様がご自分の体をそのように扱ったようにする時、ですから、私たちがマリア様に属して、マリア様と共にいるという事は、非常に重要で大切です。それは、このお母様が、私たちの全生涯に於いて、いつも、常に、共に、横にいて下さる為です。それは、マリア様が私たちの肉体をどうやって取り扱ったら良いかを、教えて下さる為です。それこそが、マリア様と共にいる事が、この世界にいる、私たちの人間の肉体を神々のように崇めている人たち、天主の敵に対する最高の勝利です。
「天に、大きなしるしが現れた。」と、ありますが、その「大きなしるし」として、マリア様は私たちの目の前に立っておられます。太陽をまとい、そして月を足に踏み、そして頭には12の星を冠にして立っておられます。マリア様は、この大きなしるしであるマリア様は、皆さんを招待して、招いています、「いらっしゃい。私の子供でありなさい。私の奴隷でありなさい。私の騎士でありなさい。もしもそうであれば、この世で生きている間に、いかなるものも、お前たちの邪魔ものはいないでしょう。」
今日、皆さん、マリア様の被昇天の深い玄義を理解できたでしょうか。マリア様はこの難しい現代の時代に於いて、単なる希望ではありません。私たちの、最後の希望です。もしもマリア様をお持ちでないならば、私たちは全てを失ってしまいます。もしもマリア様を持って、マリア様と共に、私たちが生きるならば、マリア様は私たちの最高の理想となって、最高の偉大なしるしとなるでしょう。悪魔が、サタンが皆さんの所に近寄って、誘惑しようとする時、誘う時に、マリア様は常にそのサタンの頭を踏み砕くでしょう。マリア様と共に皆さんは、全ての誘惑に打ち勝つでしょう。皆さんはマリア様と共に、天国に行くでしょう。天国で、マリア様は皆さんをお待ちです。
もう一度申します。マリア様は、今、天国で皆さんをお待ちです。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日9月8日は、聖母マリア様のお誕生日です。
さて、2015年8月15日、聖ピオ十世会アジア管区長のシュテーリン神父様が大阪で捧げて下さった聖伝のミサ(トリエント・ミサ、ラテン語のミサ)でのお説教の書き起こしをご紹介します。書き起こしをして区だっさった方には、心から感謝します。
マリア様の被昇天の神秘が深くよく分かるとても感動的なお説教です。聖母マリアさまのお誕生日に、聖母マリア様が天国に生まれたその祝日のお説教をお読み下さい。
特にその最後の言葉は、聖母マリア様からの私たちへの熱烈な訴えであり、希望であり、願望であり、望みであるので、私たちの心に訴えてきます。
どうぞお読み下さい。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2015年8月15日 聖母の被昇天の大祝日
シュテーリン神父様御説教
同時通訳:小野田圭志神父
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
親愛なる信徒の皆さん、今日は、私たちは一緒に、マリア様の偉大なる大勝利を祝う為に集っています。実に、私たちの聖母マリア様の被昇天の玄義は、私たちの主が、聖母に、何をどのように取り扱いたかったか、という事を示しています。天主が全地を、天と地を創り上げた時に、創造した時に、その目の前に傑作が既にありました。それがマリア様です。そしてこの大傑作は、全ての創造の業が終わった時に、最高の地位を占めて、最も偉大な業でなければなりません。そしてマリア様の偉大さを示す為に、天主は、マリア様がこの地上に生きている間、最も酷い、最も苦しい苦しみを耐え忍ぶ事を望まれました。例外は唯一、その御子イエズス・キリストだけでした。
マリア様は、イエズス・キリストの使命と、その生涯に、最も深く参与しなければなりませんでした。そしてそのマリア様よりも深い参与はなかったほどです。ですから、天主様の感嘆すべき愛の御業を見て下さい。そしてマリア様こそが、その愛の御業に全く深く参与した方です。
天主は、創造のその始めから、マリア様をその完全に持っていた、その目で見ていた、と申しましたが、悪魔が、創造の御業を、原罪を犯させる事によって破壊した時に、既にマリア様をその復興の対象として、そのマリア様を使う事を望みました。天主の計画はその最初から、勝利を収める女王が、悪魔の力に対して、悪の力に対して勝利を収める事でした。
どのようにしてこれを実現させようとしたのか、と申しますと、天主御父は、御子の、地上に救い主として来る事ができるかできないかを、マリア様のご意志に、ただ委ねたのです。天主様の計画は、このマリア様を最高のものとして高め、高揚する事でしたが、マリア様は自由でした。全く自由に、それに同意するか、同意しないかができました。
2つの事を感嘆しなければなりません。まず、天主様の素晴らしいご計画で、そのような存在を創りだそう、と思われた事です。「このマリア様は、天主の敵を全て、粉々に打ち砕くでしょう。」「マリア様は、天主の母となるべきでしょう。」「そして彼女は、御子の救い主の御業に参与して、新しいアダムと共に、新しいエワとならなければならない存在となるでしょう。」「そしてその様な英雄的なご生涯、英雄的な忠実の後に、その御体は、御霊魂と共に、天の栄光を受けるでしょう。」
私たちは、こう感嘆して言わなければなりません、「おお、天主よ、御身の御業は何と素晴らしい事でしょうか!」何故かというと、マリア様といえども、私たちと同じく無に等しいものであるからです。
このマリア様を、それほど絶対的に、究極的に、その最高の輝きまで、栄光まで高める事を望んだ天主の御計画は、私たちにも同じような計画を持っています。何故かというと、天主がマリア様を天主の御母と計画したその瞬間、マリア様が私たちの母である、という事も計画されたからです。つまり、マリア様の子供たちの運命は、その究極の行きつく先は、マリア様と同じだ、と言わなければならないからです。例え私たちがもう、マリア様よりはるかに下の存在ではあるけれども、マリア様の栄光に参与する、それに与る事ができる特権を下さったからです。
「天主の御言葉は、人となって我らの内に住み給えた。」「マリア様を通して我らの内に住み給えた。」と同じ様に、常に、マリア様を通して私たちの霊魂に住み給う事を計画されました。
天主は同時に、私たちも天主の御子の贖いの御業に参与する事を計画され、望まれました。まず、私たちが贖いの功徳を身に受けて、そして潔められ、新しいアダムとエヴァの子供たちとなる特権を得ます。次に、マリア様がイエズス様を助けて、贖いの業に参与したように、私たちも、マリア様とイエズス様を助けて、霊魂の救いの為に働く事を望まれます。天主の他の子供たちの、霊的な父と母となるように参与するように、招かれています。
もしも、マリア様がイエズス様に忠実であったように、私たちもマリア様のようにイエズス様に忠実であるならば、私たちにもマリア様に与えられたような、天国の永遠の報いが約束されています。
「おお、天主様、」私たちは、こう言わなければなりません、「おお、御身の御業は何と感嘆すべきでしょうか!御身の道は何と優れた事でしょうか!」私たちもまた、何でもありません、無に等しいものです。マリア様との違いは、無よりも酷い事です。つまり罪に汚れたものであるからです。天主様は、こんなような罪にまみれた、無以下の私たちをも、天主の御子として、しかも天主の永遠の喜びに参与する事を望まれます。
では、第2の感嘆すべき点をご覧下さい。マリア様がどうやってそれに、天主の計画に答えたかを見て下さい。これを見ても、私たちは本当に驚くばかりです。マリア様は聖寵に溢れて、そしてその御恵みに満ちて答えました。その答えはあまりにも完璧で、私たちは信じる事がもう出来ないほどの素晴らしさです。
マリア様は自由でしたから、もちろん「嫌だ、できません。」と、答える事もできました。少なくとも疑ったり、少なくともためらったりする事ができました。天主様は、マリア様が何も理解できなかった事を準備しました。最も聖なる人々でさえも、「え!?そんな事があるだろうか?」と、疑うような事を準備しました。しかしマリア様は、全く完璧に天主の御旨に一致していました。マリア様はいつでも、どこでも、完璧に御旨と同化していました。マリア様に於いては、天主の愛の妨害になるような、いかなる邪魔ものも妨害もありませんでした。ですからマリア様は、全く天主の聖寵によって聖化され、そして天主化されていたのです。「天主的なマリア」とは、聖マリア・グリニョン・ド・モンフォールの言葉です。
天使が、大天使がマリア様の元にやってきて、「御身は、天主の御母となるでしょう。天と地の元后となるでしょう。」という事を申します。マリア様にとって、もしかしたら非常に普通の事で、このように考える事は普通の事であったかもしれません。つまり、「私が天主の母となる。私が元后となる。私のそれは素晴らしい名誉のチャンスだ。」と。
マリア様は、ご自分のことを少しも考えませんでした。マリア様は、天主の御旨を果たす事だけに集中していたので、自分の事には一切構いませんでした。
そしてイエズス様が30歳になって、マリア様の元を離れて旅立って、公生活を始めた時、マリア様の態度は、全く素晴らしいものでした。3年間の公生活の間、イエズス様は見かけ上、マリア様をほぼ拒絶しているかのように見えます。例えば、イエズス様はマリア様の事を、「お母さん、」とは呼ばずに、「女よ、」と呼びます。マリア様が近くにいるにもかかわらず、イエズス様はこんな事を言います、「誰が私の母か。天主の御旨を果たす者が、私の母だ。」マリア様は全く不平を言いません。全て服従します、全て従います。そして最も素晴らしい御業は、マリア様が十字架の下に佇む事です。
十字架の下で、全てはもう終わってしまった、もうこれで何もかも終わってしまったように思われました。あたかも、イエズス・キリストは大失敗をしたかのようです。イエズス・キリストはこの世を救う為に来たはずなのに、その救うべきお方が殺されてしまって、救われなかったのです。人間的に言えば、十字架の上でイエズス様は、全く破壊し尽されてしまいました。そして弟子の使徒たちは、皆逃げて逃亡してしまいます。そして十字架の下に佇んで留まっていた人たちでさえも、何の事か分からず、理解ができませんでした。皆、信仰を失ってしまいました。
ただ、例外があります。それが、マリア様です。全世界が皆全て、「全てが終わった!」と、叫んだときに、マリア様は一人、「必ず復活がある。」と信じていました。マリア様は、気絶したり倒れたりしませんでした。十字架の下で、しっかりと立っていました。マリア様は、不平不満を言いませんでした。マリア様は、ためらったり疑ったりもしません。マリア様の確信を、1つも揺るがすものはありませんでした。この英雄的な信仰を、私たち誰もが理解できません。
希望の徳について言えば、イエズス・キリストの御国が来るという事、イエズス・キリストがこの世を救う、という事について、この全ての人たちは希望を失っていました。何故ならば、キリストは盗賊の間に十字架に付けられて、極悪人として死去されたからです。イエズス様の預言、大勝利の預言、大栄光の預言、そしてこの世を征服する預言、この世を救うという約束、それはもう目の前で、あたかもこれで万事休す、全く終わり尽くしてしまったかのように思えます。もう、希望は絶対的になかったかのように見えます。
しかしマリア様は、それにもかかわらず希望します。この全く最悪の状況に於いて、「必ず、イエズス・キリストは勝利する。」と、希望していました。
これこそが、そのマリア様を天国にイエズス様が連れて行かれた理由です。ただ単に、マリア様の御身体が罪の道具となる事がなかったり、或いは罪を犯した事がなかっただけではありません。マリア様がなさった事、そしてどのようになさったか、という事の報いとして、天に上げられたのです。マリア様は、イエズス様と共に、天のいと高き所、もう、被造物がもうこれ以上、上に上がる事ができない最高の高みまで上げられました。被造物がこれ以上下がる事がない深み、苦しみと、悲しみと、この十字架の苦しみの深みの極みまで行った方はなかったからです。
つまり他の言葉で言い換えると、天主様は、被造物に於けるこの最高の極みまで、極みの頂まで、マリア様を連れて行ったのです。マリア様は、イエズス様に連れて行かれる時に、「主よ、もうやめて下さい。もうこれ以上できません。」と、一言も言った事はありませんでした。マリア様はそこで、最も酷い境遇を忍耐し、そしてそれを捧げたので、最も素晴らしい栄光に参与しなければならない者となったのです。マリア様は、最も謙遜な御方であったので、天主は最も高き栄光に上げられたのです。だからマリア様は、天使たち、全ての天使たちよりも更に上げられました。何故ならば、マリア様は最も、もう全てを超えるような状況に於いて、信仰を保ったからです。
マリア様は、今まで被造物が受けた報いの全てを合わせても、それでも全然足らないほどの、更に素晴らしい、最高の、被造物がもうこれ以上受ける事ができない、と思えるほどの栄光を受けました。
マリア様の栄冠、マリア様が天と地の元后である、とはどういう意味でしょうか?例えば元后とか女王様と言うと、「ええ?天国では何かそういう偉い人が、何かこう信号で統治する何か法律を作ったり、何かそういう政治のビジネスがあるのでしょうか?」
「元后」というのは、「最高の素晴らしさ」という意味です。「マリア様が、最も高い、高きの高みに上がった」という事です。何故ならば、マリア様はその前に、生きている間に、最悪の、更にその最悪を生きたからです。
だから、この被昇天は、私たちにとって最も必要な祝日の1つです。何故なら、この祝日は、天主様がいかに寛大であるかを示しているからです。皆さんは仰るかも知れません、「イエズス様、天主様、私はそんなに何でこんなに苦しまなければならないのでしょうか?私の周りにいる人は、本当に変な事ばっかり。私は天主様から罰せられている。何で私ばっかりこんなに悪い事が起こっているのでしょう?」その理由は、この被昇天の祝日に隠されています。もしも、天主様が私たちにひどい境遇を許されるなら、最悪の境遇を許されるなら、実は天主様は私たちに、「最高のものを与えたい」というご計画があるからです。
私たちがどのように酷い境遇に置かれたとしても、更にひどい境遇に置かれた、私たちの御母がいらっしゃる、という事を知って下さい。この同じ母親は私たちにこう言います、「子よ、ご覧。もしも私と一緒にこの苦しみを通るなら、私と一緒に栄光に行く事ができるのよ。」と。
それから、もう1つ特別な点がこの祝日にはあります。実は、もっともっとこの祝日にはたくさんの点があって、私がもしもその事を皆さんに全部、こう話そう話そうとしたら、明日の朝までこうやって話しても、まだ皆さん座って聞いています。皆さんをまた拷問にかけるのは望みませんので、短くします。
マリア様は、御体と霊魂によって被昇天を受けました。何故ならば、私たちは人間であって、人間は肉体と霊魂でできているからです。現代、人間の肉体は非常に重要視されてきています。あまりにも肉体を重要視するので、霊魂の事をすっかり忘れています。現代の人々は、肉体に快楽とか楽しみを与える事だけを考えて、あまりにもそれを与えるので、体は病気になって死んでしまうほどです。現代、人々は肉体をあたかも神々のように礼拝しています。これは物質主義です。でも、皆さんよく知っているように、このかわいそうな肉体は病気になりますし、そして年を取りますし、そして遂にはウジ虫の餌になります。
ところで、肉体の世話をした事がない人もいます。その時間がないからです。興味がないからです。この体は、彼女の知性、そして意志、そしてその霊魂の道具でありました。例えば、マリア様がイエズス様を、夜中にエジプトへと連れて行く時に、その旅路は準備のないものでしたから、マリア様は全く疲れて、汚れて泥で、埃でまみれていました。しかしマリア様は、身体の事を特に気を使っていませんでした。
ところで現代の人は、この肉体にあまり無理をかけないで、若くしようとして、そして栄養物をやって、としているではないですか。そしてこの現代の人は、肉体に全てのものを与えて、もうちょっと健康でもうちょっと長生きするようにしています。もうちょっとだけ、この美しさと美貌が保たれるように頑張っています。特に女性の方は、年齢を重ねるにつれて問題が生じています。髪の毛が白くなったり落ちたりすると、この人間の終わりに近付いているのだ、という事が見えてきます。そしてこのような人々は、霊魂の事は一切構わず、肉体の事だけを考えて、肉体の事だけ、肉体の保存と美貌だけを考えて、そして遂には、ウジの餌になってしまいます。
しかし、私たちの望みは、全くそれとは違っています。私たちはいつも若々しくいたい、と思います。年をとったご老人達は、「若かった頃はこうだった。若かった頃は…。」と、いつも、若かった、美しい頃の時代の事を話して、夢見ています。老人の家には、若い人の写真があって、「この、おばあさん、誰ですか?このきれいな人。」と、聞くと、「これは、私がまだ20歳だった頃なの。」
私たちはいつも、「若くありたい」と、思っています。「美しくありたい」というのは、それは良い望みです。そして「力強くありたい」という事も良い望みです。しかし、このようなこの望みは、1回しか果たす事ができません。それには証拠があります。それは、1人の方が亡くなって、そして最も美しい体で、最も力強く、被造物の中で上げられているからです。
ルルドで、聖ベルナデッタがマリア様の姿をご覧になった時に、そのマリア様の美しさは、あまりにも美しかったので、ベルナデッタは、そのマリア様の現れたルルドを離れる事ができないほど、離れる事が非常に辛い事でした。それほど美しかったのです。
ファチマでマリア様を見たルチアに、「マリア様はどういうご様子でしたか?」と尋ねると、マリア様について、「マリア様は光の体を持っていました。」
このマリア様が、私たちの母です。このお母様であるマリア様は私たちに、「お前たちも、私と同じようになるのよ。」と約束します。「ここにいらっしゃるおばあさんも、若く、美しくなります。永遠に。」「ここにいるおじいさんも、私の子イエズス・キリストのように33歳の最も完成された年齢に戻るでしょう。」
若さ、力、そして美、それを全てマリア様は皆さんに約束されます。マリア様は、この被昇天の大祝日に、皆さんの前に、そのご自分の美しい肉体と霊魂を見せて、将来皆さんになる事を約束します。しかし、ここに到達する為には、マリア様と共に行かなければなりません。マリア様を真似しなければなりません。マリア様がご自分の体をそのように扱ったようにする時、ですから、私たちがマリア様に属して、マリア様と共にいるという事は、非常に重要で大切です。それは、このお母様が、私たちの全生涯に於いて、いつも、常に、共に、横にいて下さる為です。それは、マリア様が私たちの肉体をどうやって取り扱ったら良いかを、教えて下さる為です。それこそが、マリア様と共にいる事が、この世界にいる、私たちの人間の肉体を神々のように崇めている人たち、天主の敵に対する最高の勝利です。
「天に、大きなしるしが現れた。」と、ありますが、その「大きなしるし」として、マリア様は私たちの目の前に立っておられます。太陽をまとい、そして月を足に踏み、そして頭には12の星を冠にして立っておられます。マリア様は、この大きなしるしであるマリア様は、皆さんを招待して、招いています、「いらっしゃい。私の子供でありなさい。私の奴隷でありなさい。私の騎士でありなさい。もしもそうであれば、この世で生きている間に、いかなるものも、お前たちの邪魔ものはいないでしょう。」
今日、皆さん、マリア様の被昇天の深い玄義を理解できたでしょうか。マリア様はこの難しい現代の時代に於いて、単なる希望ではありません。私たちの、最後の希望です。もしもマリア様をお持ちでないならば、私たちは全てを失ってしまいます。もしもマリア様を持って、マリア様と共に、私たちが生きるならば、マリア様は私たちの最高の理想となって、最高の偉大なしるしとなるでしょう。悪魔が、サタンが皆さんの所に近寄って、誘惑しようとする時、誘う時に、マリア様は常にそのサタンの頭を踏み砕くでしょう。マリア様と共に皆さんは、全ての誘惑に打ち勝つでしょう。皆さんはマリア様と共に、天国に行くでしょう。天国で、マリア様は皆さんをお待ちです。
もう一度申します。マリア様は、今、天国で皆さんをお待ちです。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)