灰の水曜日についての説教
ドモルネ神父
はじめに
次の水曜日は、四旬節の初日である、「灰の水曜日」です。この日、ミサの前に、司祭は灰を祝別し、信者の額に灰をつけ、こう言います。「人よ、おぼえよ、あなたはちりであって、また、ちりに帰るであろう」。この儀式は、準秘跡です。教会は、あるものを表して、この灰を受ける人たちのために、特別な恩寵を天主に求めます。
灰の意味
灰は、どういう意味をもっているのでしょうか? 灰は、何かを燃やしたときに出るちりです。したがって、灰は、破壊と火を表します。教会は、私たちが、自分の罪のためにこうむることとなった、肉体的な死と、霊的な死を表すために、灰を使うのです。
灰は、私たちの肉体的な死を表します。私たちの体は、時とともに消耗し、ついには機能しなくなるのですから、私たちが死ぬのは、当然のことです。金持ちでも貧乏人でも、容姿が良くても悪くても、知的でも狭量でも、学者でも無知な人でも、みな、いつかは死ななければなりません。そして、死んだ後、私たちの体のうちで残るものは、ほんの少しのちりに過ぎません。天主は、私たちを創造されたとき、私たちに不死をお与えになりました。私たちは、死なずに、永遠の命に入るはずだったのです。しかし、アダムは原罪を犯し、その罰として、私たちは、不死という賜物を失いました。ですから、私たちの肉体的な死と腐敗は、私たち自身の罪の罰なのです。
灰はまた、私たちの霊的な死、すなわち、私たちが地獄の火の中で永遠に焼かれることを表します。聖ヨハネは、黙示録の中で、こう言っています。「これは第二の死である。命の書に記されていなかった者は、みな、火の池に投げ込まれた」(黙示録20章14-15節)。地獄の火は、反逆の天使たちを罰するために作られました。福音書の中で、イエズスは、「呪われた者よ、私を離れて、悪魔とその使いたちのために備えられた永遠の火に入れ」(マテオ25章41節)と言っておられます。しかし、私たちは、原罪と、私たち個人の罪によって天主の法に背くことで、悪魔の手本に従うことを選んだのです。ですから、私たちは、地獄で悪魔の罰を受けるべきことをしたのです。
教会は、私たちの頭に灰をつけることによって、私たちが罪人であることと、自分の罪によって私たちが受けるべき罰を、私たちに思い起こさせるのです。そして、私たちの側では、額に灰を受けることによって、この教会の忠告を、公に受け入れるのです。私たちは、天主の御前で、そして人の前で、自分が罪人であることを認めます。これは美しい謙遜の行為です。ですから、私がお勧めするのは、ミサが終わってもすぐに額から灰を落とさず、外の人に見てもらうことです。
灰に関わる教会の祈り
灰に関わる教会の祈りは、どんなものでしょうか? 教会は、二つのことを天主にお願いします。それは、私たちの罪の赦しと、私たちが、自分の罪を心から反省することのできる恩寵です。天主は正しいお方です。ですから、天主は、罪による侮辱や、無秩序を受け入れることは、おできになりません。しかし、天主はまた、善きお方にして、慈悲深いお方です。私たち人間の弱さをご存じです。それゆえ、天主は、いつでも私たちを赦す用意をしておられます。天主は、預言者エゼキエルを通して、こう言われました。「私が悪人の死を喜ぶだろうか―と主なる天主は、仰せられる―。むしろ、彼が、その生き方を変えて生きることをこそ望む」(エゼキエル18章23節)。しかし、天主の赦しには、条件があります。「悪人が、反省して、犯した悪を退けるなら、彼は生き延びて、再び死ぬことはない」(エゼキエル18章28節)。ここで、「反省する」とは、自分の罪を自覚し、天主の御前で、謙虚に自分の悪い行いを認めることです。「犯した悪を退ける」とは、自分の犯したすべての罪を心から悔い、生き方を改めることです。マグダラの聖マリアは、大いなる罪人でした。しかし、自分の罪の悪を理解する恩寵を受け、この恩寵の助けによって、自分の生き方を完全に改めたのです。そして、偉大な聖人の一人となりました。聖パウロは、キリスト教徒を激しく迫害していましたが、ダマスコへの道で、自分の行っている悪を理解する恩寵を受け、この恩寵の助けによって、自分の生き方を完全に改めたのです。そして、使徒たちと等しい者となりました。教会が、私たちに灰をつけることによって天主にお願いするのは、これと同じような恩寵なのです。
結論
親愛なる信者の皆さん、この私たちのための教会の祈りが効果をもつためには、私たちに、十分な心構えができていなければなりません。では、どうしたら、そのような心構えができるでしょうか。それは、灰の儀式を通して、教会が私たちに与える指示に従うことです。自分の死を思い起こしましょう。死は、日々近づいているのですから。自分の死を思い起こすことで、私たちは、永遠の観点から、物事の真の価値を認識することができます。地獄が存在し、私たちは自分の罪によって、地獄に落ちるべきことをしたこと、また、今も地獄に落ちる危険の中にいることを、思い起こしましょう。地獄を思い起こすことは、私たちが誘惑を拒絶する助けになります。天主は、罪を心から痛悔し、キリストの教えに従って、生き方を改める人にのみ、罪を赦してくださることを、思い起こしましょう。ですから、私たちは、教会が法で命じるものだけを行うことは、しないようにしましょう。教会は、灰の水曜日と聖金曜日には大斎を守り、金曜日には肉を食べないように命じています。しかし、これらは、たいしたことではありません。私たちは、それに加えて、自分の罪を償い、また、私たちが自分自身よりも天主を愛していることを、天主にお見せするために、何らかの個人的な償いも、するべきです。私たちは、自分が最も頻繁に犯してしまう罪がどんなものであるかを自ら確認し、自分を改めるために、その罪にに対して、真剣に取り組まなければならないのです。
マグダラの聖マリアが、この四旬節の間、天において私たちを導き、取り成してくださいますように。
ドモルネ神父
はじめに
次の水曜日は、四旬節の初日である、「灰の水曜日」です。この日、ミサの前に、司祭は灰を祝別し、信者の額に灰をつけ、こう言います。「人よ、おぼえよ、あなたはちりであって、また、ちりに帰るであろう」。この儀式は、準秘跡です。教会は、あるものを表して、この灰を受ける人たちのために、特別な恩寵を天主に求めます。
灰の意味
灰は、どういう意味をもっているのでしょうか? 灰は、何かを燃やしたときに出るちりです。したがって、灰は、破壊と火を表します。教会は、私たちが、自分の罪のためにこうむることとなった、肉体的な死と、霊的な死を表すために、灰を使うのです。
灰は、私たちの肉体的な死を表します。私たちの体は、時とともに消耗し、ついには機能しなくなるのですから、私たちが死ぬのは、当然のことです。金持ちでも貧乏人でも、容姿が良くても悪くても、知的でも狭量でも、学者でも無知な人でも、みな、いつかは死ななければなりません。そして、死んだ後、私たちの体のうちで残るものは、ほんの少しのちりに過ぎません。天主は、私たちを創造されたとき、私たちに不死をお与えになりました。私たちは、死なずに、永遠の命に入るはずだったのです。しかし、アダムは原罪を犯し、その罰として、私たちは、不死という賜物を失いました。ですから、私たちの肉体的な死と腐敗は、私たち自身の罪の罰なのです。
灰はまた、私たちの霊的な死、すなわち、私たちが地獄の火の中で永遠に焼かれることを表します。聖ヨハネは、黙示録の中で、こう言っています。「これは第二の死である。命の書に記されていなかった者は、みな、火の池に投げ込まれた」(黙示録20章14-15節)。地獄の火は、反逆の天使たちを罰するために作られました。福音書の中で、イエズスは、「呪われた者よ、私を離れて、悪魔とその使いたちのために備えられた永遠の火に入れ」(マテオ25章41節)と言っておられます。しかし、私たちは、原罪と、私たち個人の罪によって天主の法に背くことで、悪魔の手本に従うことを選んだのです。ですから、私たちは、地獄で悪魔の罰を受けるべきことをしたのです。
教会は、私たちの頭に灰をつけることによって、私たちが罪人であることと、自分の罪によって私たちが受けるべき罰を、私たちに思い起こさせるのです。そして、私たちの側では、額に灰を受けることによって、この教会の忠告を、公に受け入れるのです。私たちは、天主の御前で、そして人の前で、自分が罪人であることを認めます。これは美しい謙遜の行為です。ですから、私がお勧めするのは、ミサが終わってもすぐに額から灰を落とさず、外の人に見てもらうことです。
灰に関わる教会の祈り
灰に関わる教会の祈りは、どんなものでしょうか? 教会は、二つのことを天主にお願いします。それは、私たちの罪の赦しと、私たちが、自分の罪を心から反省することのできる恩寵です。天主は正しいお方です。ですから、天主は、罪による侮辱や、無秩序を受け入れることは、おできになりません。しかし、天主はまた、善きお方にして、慈悲深いお方です。私たち人間の弱さをご存じです。それゆえ、天主は、いつでも私たちを赦す用意をしておられます。天主は、預言者エゼキエルを通して、こう言われました。「私が悪人の死を喜ぶだろうか―と主なる天主は、仰せられる―。むしろ、彼が、その生き方を変えて生きることをこそ望む」(エゼキエル18章23節)。しかし、天主の赦しには、条件があります。「悪人が、反省して、犯した悪を退けるなら、彼は生き延びて、再び死ぬことはない」(エゼキエル18章28節)。ここで、「反省する」とは、自分の罪を自覚し、天主の御前で、謙虚に自分の悪い行いを認めることです。「犯した悪を退ける」とは、自分の犯したすべての罪を心から悔い、生き方を改めることです。マグダラの聖マリアは、大いなる罪人でした。しかし、自分の罪の悪を理解する恩寵を受け、この恩寵の助けによって、自分の生き方を完全に改めたのです。そして、偉大な聖人の一人となりました。聖パウロは、キリスト教徒を激しく迫害していましたが、ダマスコへの道で、自分の行っている悪を理解する恩寵を受け、この恩寵の助けによって、自分の生き方を完全に改めたのです。そして、使徒たちと等しい者となりました。教会が、私たちに灰をつけることによって天主にお願いするのは、これと同じような恩寵なのです。
結論
親愛なる信者の皆さん、この私たちのための教会の祈りが効果をもつためには、私たちに、十分な心構えができていなければなりません。では、どうしたら、そのような心構えができるでしょうか。それは、灰の儀式を通して、教会が私たちに与える指示に従うことです。自分の死を思い起こしましょう。死は、日々近づいているのですから。自分の死を思い起こすことで、私たちは、永遠の観点から、物事の真の価値を認識することができます。地獄が存在し、私たちは自分の罪によって、地獄に落ちるべきことをしたこと、また、今も地獄に落ちる危険の中にいることを、思い起こしましょう。地獄を思い起こすことは、私たちが誘惑を拒絶する助けになります。天主は、罪を心から痛悔し、キリストの教えに従って、生き方を改める人にのみ、罪を赦してくださることを、思い起こしましょう。ですから、私たちは、教会が法で命じるものだけを行うことは、しないようにしましょう。教会は、灰の水曜日と聖金曜日には大斎を守り、金曜日には肉を食べないように命じています。しかし、これらは、たいしたことではありません。私たちは、それに加えて、自分の罪を償い、また、私たちが自分自身よりも天主を愛していることを、天主にお見せするために、何らかの個人的な償いも、するべきです。私たちは、自分が最も頻繁に犯してしまう罪がどんなものであるかを自ら確認し、自分を改めるために、その罪にに対して、真剣に取り組まなければならないのです。
マグダラの聖マリアが、この四旬節の間、天において私たちを導き、取り成してくださいますように。