準秘跡についての説教
ドモルネ神父
はじめに
この前の木曜日は、聖ブラジオの祝日でした。この祝日に、教会は、信者がのどの痛みや他の病気から解放されるように、特別の祝別を与えます。私は、このミサの後、その祝別を行うつもりです。この説教では、この祝別について、またさらに、準秘跡一般について、お話しします。
聖ブラジオと癒やしの賜物
聖ブラジオは、元々は医者でした。彼は、その後、アルメニアのセバステという町の司教になりました。天主は彼に、病気を癒やす賜物を授けられました。野生の動物さえもが、病気を治してもらうために、彼のもとにやってきました。後に、ローマ皇帝リキニウスのもとで、キリスト教徒に対する新たな迫害が始まりました。聖ブラジオは捕らえられ、牢獄に入れられました。しかし、人々は、聖ブラジオのもとに病人たちを連れてくることができたため、聖ブラジオはその病人たちを癒やしました。ある日、魚の骨を飲み込んでしまった幼い子どもが、彼のところに連れて来られました。この子どもは、息ができなくなり、今にも死にそうでした。聖ブラジオが、この子どものために私たちの主に祈ると、その子どもは、すぐに癒やされました。それからしばらくして、聖ブラジオは殉教し、死刑に処せられました。316年のことでした。聖ブラジオの死後、のどの痛みに苦しむ人々は、彼に祈り、その痛みから癒やされたのです。
のどの祝別
天主は、宇宙の主でいらっしゃいますが、ご自分だけで、宇宙を支配されるのではありません。世界の統治において、善い天使たちや、聖人たちと一緒に、統治なさいます。ですから、天主は、ある特定の恩寵については、特定の聖人たちの取り次ぎによってのみ、それを私たちに与えることになさいました。それはなぜでしょうか? 聖人たちは、天主の友人であるため、天主は、私たちが聖人たちに頼ることで、聖人たちを敬うことを望んでおられるからです。ですから、たとえば、天主は、特別な癒やしの恩寵を、特に、のどの痛みのための恩寵を配るよう、聖ブラジオを選ばれたのです。このことは、聖ブラジオが行った、数多くの奇跡的な癒やしから、明らかです。
教皇たちは、このことを理解していました。そこで、教皇たちは、聖ブラジオの取り次ぎによって、信者ののどの痛みや、その他の病気を癒やしてくださるよう、天主に求める特別な祝別を制定したのです。祝別とは、天主が、人、あるいは物に、恩恵を与えてくださるように求める、教会の祈りです。
のどの祝別では、司祭は2本のろうそくを取り、それを十字架の形に持ち、聖ブラジオの取り次ぎを祈り、十字架のしるしをしながら、それを人々ののどに当てます。ろうそくは、世の光である私たちの主を意味します。十字架の形をしたろうそくは、イエズスが、十字架上のいけにえによって、あらゆる恩寵を得られたことを意味します。同じ理由から、司祭は、祝別の言葉を発しながら、その人に、十字架のしるしをします。ろうそくを、人々ののどに当てるのは、特にのどの病気の癒やしを、求めるためです。
準秘跡一般
こののどの祝別は、準秘跡です。準秘跡とは、カトリック教会が恩恵、特に霊的な恩恵を得るために用いる、物や行為のことです。これらの物には、例えば、水、塩、オリーブオイル、ろうそく、ロザリオ、メダイ、スカプラリオなどがあります。これらの行為には、例えば、祝別、悪魔祓い、奉献などがあります。
教会は、これらの物や行為を用いて、教会の祈りの内容と、教会が求める恩寵を、外的に示すのです。実際、私たちは人間ですから、霊的で目に見えない現実をより良く理解するために、外的で、目に見えるしるしを必要とします。例えば、洗礼の秘跡について、私たちの主がなさったことを見てください。主は、頭の上に水を注ぐという行為によって、霊魂の浄めを、外的に示すことにされたのです。水が頭の上を流れるのを見ることによって、私たちは、霊魂が原罪の汚れから洗われることを、理解するのです。
教皇たちは、イエズスが示された例に倣います。教皇たちは、教会の祈りの内容と、教会がどのような恩寵を求めているかを、外的に示すために、目に見える物や行為を用います。これらの物や行為は、七つの秘跡と少し似て、霊的な現実を示すものであることから、「準秘跡」と呼ばれます。
準秘跡によって得られる恩寵
教会は、準秘跡を通して、私たちに、どのような恩寵を取り成すのでしょうか?
・教会は、私たちが良きキリスト的生活を送るための、助力の恩寵を取り成します。例えば、結婚式のミサで行われる、婚姻の祝別を通して、教会は、夫婦がキリスト的な結婚生活を送ることができるための恩寵を求めます。不思議のメダイを通して、教会は、それを身につける人々を守ってくださるよう、聖母に求めます。
・教会は、私たちのために、小罪の赦しの恩寵を取り成します。例えば、灰の水曜日の灰を通して、教会は、私たちが心から自分の罪を悔い改め、赦しを得るための恩寵を求めます。
・教会は、私たちのために、悪魔とその攻撃から私たちを守るための恩寵を取り成します。例えば、聖水、聖別された塩、聖ベネディクトのメダイ、悪魔祓いなどを通して、教会は、悪魔を追い払います。
・教会は、私たちのために、天主の栄光と、私たちの霊魂の救いに役立つ限り、私たちのこの世での生活に、健康と、保護と、繁栄の恩寵を取り成します。ですから、教会は、家、車、畑、食べ物などを、祝別するのです。
結論
準秘跡には、教会の祈りが込められています。しかし、教会の祈りは強力です。ですから、準秘跡を、信心深く、受け、使うことによって、私たちは、今述べたような多くの恩寵を、本当に得ることができるのです。ですから、準秘跡を、とるに足りないもの、あるいは、無知な人々のためだけのものなどとして、軽んじてはいけません。それは大きな間違いです。この説教の最後にあたって、教会が、カトリック教徒でない人たちにも、ほとんどの準秘跡を受けることを認めていることを、述べておきます。教会は、カトリック教徒でない人たちが、準秘跡を通して、「唯一のまことの天主と、その方が遣わされたイエズス・キリストを知る」(ヨハネ17章3節)ために、特別の恩寵を取り成すのです。
ドモルネ神父
はじめに
この前の木曜日は、聖ブラジオの祝日でした。この祝日に、教会は、信者がのどの痛みや他の病気から解放されるように、特別の祝別を与えます。私は、このミサの後、その祝別を行うつもりです。この説教では、この祝別について、またさらに、準秘跡一般について、お話しします。
聖ブラジオと癒やしの賜物
聖ブラジオは、元々は医者でした。彼は、その後、アルメニアのセバステという町の司教になりました。天主は彼に、病気を癒やす賜物を授けられました。野生の動物さえもが、病気を治してもらうために、彼のもとにやってきました。後に、ローマ皇帝リキニウスのもとで、キリスト教徒に対する新たな迫害が始まりました。聖ブラジオは捕らえられ、牢獄に入れられました。しかし、人々は、聖ブラジオのもとに病人たちを連れてくることができたため、聖ブラジオはその病人たちを癒やしました。ある日、魚の骨を飲み込んでしまった幼い子どもが、彼のところに連れて来られました。この子どもは、息ができなくなり、今にも死にそうでした。聖ブラジオが、この子どものために私たちの主に祈ると、その子どもは、すぐに癒やされました。それからしばらくして、聖ブラジオは殉教し、死刑に処せられました。316年のことでした。聖ブラジオの死後、のどの痛みに苦しむ人々は、彼に祈り、その痛みから癒やされたのです。
のどの祝別
天主は、宇宙の主でいらっしゃいますが、ご自分だけで、宇宙を支配されるのではありません。世界の統治において、善い天使たちや、聖人たちと一緒に、統治なさいます。ですから、天主は、ある特定の恩寵については、特定の聖人たちの取り次ぎによってのみ、それを私たちに与えることになさいました。それはなぜでしょうか? 聖人たちは、天主の友人であるため、天主は、私たちが聖人たちに頼ることで、聖人たちを敬うことを望んでおられるからです。ですから、たとえば、天主は、特別な癒やしの恩寵を、特に、のどの痛みのための恩寵を配るよう、聖ブラジオを選ばれたのです。このことは、聖ブラジオが行った、数多くの奇跡的な癒やしから、明らかです。
教皇たちは、このことを理解していました。そこで、教皇たちは、聖ブラジオの取り次ぎによって、信者ののどの痛みや、その他の病気を癒やしてくださるよう、天主に求める特別な祝別を制定したのです。祝別とは、天主が、人、あるいは物に、恩恵を与えてくださるように求める、教会の祈りです。
のどの祝別では、司祭は2本のろうそくを取り、それを十字架の形に持ち、聖ブラジオの取り次ぎを祈り、十字架のしるしをしながら、それを人々ののどに当てます。ろうそくは、世の光である私たちの主を意味します。十字架の形をしたろうそくは、イエズスが、十字架上のいけにえによって、あらゆる恩寵を得られたことを意味します。同じ理由から、司祭は、祝別の言葉を発しながら、その人に、十字架のしるしをします。ろうそくを、人々ののどに当てるのは、特にのどの病気の癒やしを、求めるためです。
準秘跡一般
こののどの祝別は、準秘跡です。準秘跡とは、カトリック教会が恩恵、特に霊的な恩恵を得るために用いる、物や行為のことです。これらの物には、例えば、水、塩、オリーブオイル、ろうそく、ロザリオ、メダイ、スカプラリオなどがあります。これらの行為には、例えば、祝別、悪魔祓い、奉献などがあります。
教会は、これらの物や行為を用いて、教会の祈りの内容と、教会が求める恩寵を、外的に示すのです。実際、私たちは人間ですから、霊的で目に見えない現実をより良く理解するために、外的で、目に見えるしるしを必要とします。例えば、洗礼の秘跡について、私たちの主がなさったことを見てください。主は、頭の上に水を注ぐという行為によって、霊魂の浄めを、外的に示すことにされたのです。水が頭の上を流れるのを見ることによって、私たちは、霊魂が原罪の汚れから洗われることを、理解するのです。
教皇たちは、イエズスが示された例に倣います。教皇たちは、教会の祈りの内容と、教会がどのような恩寵を求めているかを、外的に示すために、目に見える物や行為を用います。これらの物や行為は、七つの秘跡と少し似て、霊的な現実を示すものであることから、「準秘跡」と呼ばれます。
準秘跡によって得られる恩寵
教会は、準秘跡を通して、私たちに、どのような恩寵を取り成すのでしょうか?
・教会は、私たちが良きキリスト的生活を送るための、助力の恩寵を取り成します。例えば、結婚式のミサで行われる、婚姻の祝別を通して、教会は、夫婦がキリスト的な結婚生活を送ることができるための恩寵を求めます。不思議のメダイを通して、教会は、それを身につける人々を守ってくださるよう、聖母に求めます。
・教会は、私たちのために、小罪の赦しの恩寵を取り成します。例えば、灰の水曜日の灰を通して、教会は、私たちが心から自分の罪を悔い改め、赦しを得るための恩寵を求めます。
・教会は、私たちのために、悪魔とその攻撃から私たちを守るための恩寵を取り成します。例えば、聖水、聖別された塩、聖ベネディクトのメダイ、悪魔祓いなどを通して、教会は、悪魔を追い払います。
・教会は、私たちのために、天主の栄光と、私たちの霊魂の救いに役立つ限り、私たちのこの世での生活に、健康と、保護と、繁栄の恩寵を取り成します。ですから、教会は、家、車、畑、食べ物などを、祝別するのです。
結論
準秘跡には、教会の祈りが込められています。しかし、教会の祈りは強力です。ですから、準秘跡を、信心深く、受け、使うことによって、私たちは、今述べたような多くの恩寵を、本当に得ることができるのです。ですから、準秘跡を、とるに足りないもの、あるいは、無知な人々のためだけのものなどとして、軽んじてはいけません。それは大きな間違いです。この説教の最後にあたって、教会が、カトリック教徒でない人たちにも、ほとんどの準秘跡を受けることを認めていることを、述べておきます。教会は、カトリック教徒でない人たちが、準秘跡を通して、「唯一のまことの天主と、その方が遣わされたイエズス・キリストを知る」(ヨハネ17章3節)ために、特別の恩寵を取り成すのです。