アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
イエズス様の人生は、天主に対する「Ecce」の人生でした。
人間となってこの世に来られるとき、そのマリア様の御胎内に入るその時、「見よ、ご覧ください、私は参ります。御身の御旨を果たす為に。」と、言われました。
イエズス様は、ヨルダン川にいる時に、洗者聖ヨハネからも言われました、「見よ、天主の子羊を」、「生贄の為に捧げられる天主の子羊を見よ」と。
これについて、レネー神父様が昨年12月に韓国で素晴らしいお説教をして下さいました。それを日本語でご紹介いたします。どうぞ、イエズス・キリストの御心の神秘の中にお入り下さい。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2014年12月7日ソウル/全州(チョンジュ)の説教―見よ、天主の小羊を
レネー神父様説教
洗者聖ヨハネはあらゆる預言者の中で最も偉大です。なぜなら、彼はキリストの来臨を告げ知らせるだけでなく、その指でキリストを指し示すという役割が与えられたからです。これについて教会は、洗者聖ヨハネの祝日の晩課の聖歌で歌います。では、彼はキリストをどのように言い表したのでしょうか。「見よ、天主の小羊を。見よ、世の罪を除く御者を」(ヨハネ1章29節)。
この出来事を思い出している使徒聖ヨハネは、洗者聖ヨハネの二人の弟子のうちの一人で、この言葉を聞いて彼のもとを去り、私たちの主イエズス・キリストに従うようになりました。もう一人の使徒は聖アンドレアでした。
福音書は言います。聖アンドレアが「最初に自分の兄弟シモンに出会って、『メシアに会った』と言った」(ヨハネ1章41節 Invenit hic primum fratrem suum Simonem, et dicit ei: Invenimus Messiam)。この「最初に」という言葉に注意してください。ここから、別の弟子も、後で自分の兄弟に出会ったということが分かるようになります。ですから、この第二の弟子は使徒聖ヨハネ以外の何者でもないことを示しています。なぜなら、使徒たちの中にいた兄弟は二組だけだったからです。兄たちは生計を立てる仕事で忙しくしていた一方、弟たちは預言者である洗者聖ヨハネの言葉を聞いていたのです。ここにいるペトロ、ヤコボ、ヨハネ、アンドレアは最初の四人の使徒たちで、聖書にある使徒たちの名簿のすべてに彼らの名前があります。
では、洗者聖ヨハネは、のちに獄につながれたとき、なぜ二人の弟子をイエズスに遣わして、こう尋ねさせたのでしょうか。「来るべきお方はあなたですか、それとも他の人を待たねばなりませんか」(マテオ11章3節)。聖ヨハネはイエズスが何者かを知っていました。では、なぜそんな質問をさせたのでしょうか。それは、聖ヨハネが非常に聖なる人であったため、多くの人々が彼、洗者聖ヨハネが多分メシアではないかと思っていたからです(ルカ3章15節)。また、その中には彼にあまりにも執着していた人々がいたため、彼、聖ヨハネであっても、自分のところを去ってキリストに従うようにさせることができないほどだったからです。ですから、聖ヨハネは考えました。たとえ自分が彼らに説明できなくても、キリストご自身なら、自分ができなかったことを成功させてくださるのではないか。キリストに、自らがキリストであると彼らに説明していただこう。そしてこれが、きょうの福音で私たちの主イエズス・キリストがなさることなのです。主はイザヤの予言を述べられます。「主は救いに来られる。その時、盲人は目を開け、耳しいは耳をひらく。その時、足なえはしかのように飛び、おしの舌は喜び叫ぶ」(イザヤ35章4-6節)。
このように、私たちの主イエズス・キリストは、ご自分がメシアだと証明する二つの基本的な理由を示されました。預言と奇跡です。イザヤによって預言された奇跡を行うことによって、主は固い基礎、不動の岩の上に弟子たちの信仰を打ち立てられました。来臨の前に預言され、また大変多くの奇跡を行った宗教創設者はイエズス・キリストだけです。これは、洗者聖ヨハネが「見よ、天主の小羊を」と指し示した指以上に力強い天主の指(の業)なのです。
しかし、洗者聖ヨハネの役割は非常に重要でした。実際、私たちの主の最初の来臨はへりくだりの来臨でした。「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた」(フィリッピ2章8節)とき、メシアであると理解するのは難しかったのです。このへりくだりが洗者聖ヨハネによって預言されたという事実が、私たちの信仰を強めてくれ、私たちは、十字架のいけにえにおける天主の御子、天主の小羊ということを理解できるようになります。実際、このなだめのための無垢な天主の小羊は、天主の御子ご自身以外の何者でもありません。まことの天主であり、まことの人間であって、ご自身を完全な犠牲のいけにえとして捧げることによって、私たちを罪から救うために来られたお方なのです。聖ペトロは美しく書いています。「あなたたちが祖先から受け継いだむなしい生活から贖われたのは、金銀などの朽ちる物によるのではなく、傷もなく汚点(しみ)もない小羊のような、キリストの尊い御血によることをあなたたちは知っている」(ペトロ第一1章18-19節)。
私たちの主が小羊として、なだめのいけにえになられるだろうということは、旧約ですでに告知されていました。「彼は屠所にひかれる小羊のように、毛を刈る人の前でもだす羊のように、口を開かなかった」(イザヤ53章7節。使徒行録8章32節を見よ)。
旧約において、犠牲のいけにえに必要とされる特徴は、傷や汚点(しみ)のないこと、無垢(immaculate)であることでした。私たちの主は無垢のいけにえです。聖パウロがヘブライ人への手紙でこう言うように。「聖霊によって、けがれのないご自分を天主に捧げられたキリストの御血が、私たちの良心を死の業から清めて、生きる天主に奉仕させえないであろうか?」(ヘブライ9章14節)。聖母は新しいエバとして、「彼に似合った助け手」(創世記2章18節)であり、十字架の下での無垢ないけにえの霊魂でした。教会の歴史においては、幼きイエズスの聖テレジアのように、多くの人もまた、主と聖母ほど完全に無垢ではなかったものの、無垢である「イエズスの慈悲深い愛へのいけにえ」でした。13歳の若い殉教者だった聖なる童貞アグネスは、このことによって、初期の教会の教父たちに強い印象を与えました。聖アンブロジウスは、聖アグネスの名前それ自体が無垢ないけにえ、天主の小羊になることを彼女に運命づけていた、と言います(「アグネス」の語源「アグヌス」はラテン語で「小羊」の意味です)。
私は、小羊の特徴をもう一つ挙げてみたいと思います。それは喜び、飛び跳ねるような喜びです。まことのキリスト教徒もまた、聖霊の実であるこの天主の喜びを持たなければなりません。実際、聖パウロは「霊の実は、愛、喜び、平和、忍耐、寛容、親切、善意、柔和、信仰、節度、節制、貞潔である」(ガラツィア5章22-23節)と言っています。
小羊のさらにもう一つの特徴は、そのやさしさ、柔和であることです。私たちの主イエズス・キリストは「心の柔和なへりくだった者」(マテオ11章29節)です。私たちもまた、この柔和とへりくだりをまねるべきです。それがなければ誰も救われません。なぜなら、「天主はおごる者に逆らい、へりくだる者を恵まれる」(ヤコボ4章6節)からです。
私たちの主は、主の群れの小羊すべてが主に似た者になるよう望んでおられます。実際、主はペトロに「私の小羊を牧せよ」(ヨハネ21章16節)と言われました。また、「私があなたたちを送るのは、ちょうど狼の中に小羊を送り込むようなものである」(ルカ10章3節)と言われましたが、これは悪に対して悪で報いるのではなく、自分たちの力を信頼するのでもなく、私たちの主イエズス・キリストの恩寵を信頼することなのです。羊を守ること、特に小羊を守ることは、牧者の義務です。牧者は雇人のようであってはなりません。つまり、世が聞きたいことを言ったり、羊が聞かねばならないことを言わなかったり、狼が来たとき逃げてしまったりしてはなりません。「良い牧者は羊のために自分の命を捨てる」(ヨハネ10章11節)のです。
黙示録において、聖ヨハネは私たちの主イエズス・キリストを小羊として見ました。また、小羊として32回言及しています。「また私は、一方には玉座と四つの動物、また一方には老翁、その間に七つの角(つの)と七つの目のあるほふられたような小羊が立ってうるのを見た。それは全世界に遣わされた天主の七つの霊である」(黙示録5章6節)。小羊としての主は、すべての天使によって礼拝されます。「彼[小羊]が巻物を手にしたとき、四つの動物と二十四人の老翁は小羊の前にひれ伏した彼らはおのおのの竪琴と香に満ちた金の杯を持っていた。香は聖人たちの祈りである」(黙示録5章8節)。「そして、天に、地に、地の下に、海にあるすべての被造物、その中にあるすべてのものが、『玉座に座るお方と小羊に、讃美と誉れと力あれ、代々に』と言うのを聞いた」(黙示録5章13節)。
主はすべての聖人に至福直観の喜びをお与えになります。「彼らは再び飢えることなく、渇くことなく、太陽にも熱風にも悩まされない。玉座の中にまします小羊は彼らを牧し、命の水の泉に連れていき、天主は彼らの目から涙をすべてぬぐわれる」(黙示録7章16-17節)。
「彼ら[十四万四千人=天における奉献された霊魂]は女にけがされない童貞であって、小羊の行くところにどこにでもついていく。彼らは天主と小羊のために初穂として人々の中から贖われたのであって、口に偽りなく、天主の玉座の前にいるけがれのない人々である」(黙示録14章4-5節)。
まことに、「小羊の婚宴に招かれた者は幸いである」(黙示録19章9節)。「自分の服を洗う者は幸いである。彼らは命の木について権利を持ち、門を通って町に入る権利を持つであろう」(黙示録22章14節)。
この「小羊の婚宴」は、この地上では、聖なるミサにおいて始まります。ミサの中で司祭が天主の小羊をいとも聖なる三位一体に奉献するのは、小羊の無限の完全性を礼拝し、私たちに与えられた驚くべき賜物すべてに感謝し、私たちの過去のすべての罪を償い、私たちの必要とするすべての恩寵を得られるようにするためです。犠牲を奉献したのち、司祭とすべての信者は、良い心構えのうちに、「世の罪を除く天主の小羊」を拝領するでしょう。小羊として、完全な犠牲のいけにえとして、私たちの霊魂の食べ物として、私たちの主イエズス・キリストがご聖体のうちにまことに現存されるという素晴らしい信仰を持ちましょう。主を拝領する準備をするために、いつも霊魂を清く保ちましょう。いつも主をふさわしく拝領し、その後はそれに応じて生活しましょう。ご聖体における私たちの主イエズス・キリストの御体、御血、ご霊魂、天主性を自分の霊魂に拝領したカトリック信者は、この世的な霊魂のように生きることはできません。地上にいるうちからすでに、天国の命、小羊の婚宴の客にふさわしい命を生きなければならないのです。つまりキリストが必ずその人と共に生きておられるのです。
親愛なる兄弟の皆さん、洗者聖ヨハネが言ったように天主の小羊である私たちの主イエズス・キリストに従いましょう。また、主の徳、清さ、やさしさ、柔和とへりくだり、喜びをまねるようにしましょう。よい告解と聖なる生活をすることによって、小羊の血で私たちの霊魂を清めましょう。そして、聖母とすべての聖人たちと共にいることのできる、この小羊の婚宴を待ち望みましょう。
アメン
愛する兄弟姉妹の皆様、
イエズス様の人生は、天主に対する「Ecce」の人生でした。
人間となってこの世に来られるとき、そのマリア様の御胎内に入るその時、「見よ、ご覧ください、私は参ります。御身の御旨を果たす為に。」と、言われました。
イエズス様は、ヨルダン川にいる時に、洗者聖ヨハネからも言われました、「見よ、天主の子羊を」、「生贄の為に捧げられる天主の子羊を見よ」と。
これについて、レネー神父様が昨年12月に韓国で素晴らしいお説教をして下さいました。それを日本語でご紹介いたします。どうぞ、イエズス・キリストの御心の神秘の中にお入り下さい。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2014年12月7日ソウル/全州(チョンジュ)の説教―見よ、天主の小羊を
レネー神父様説教
洗者聖ヨハネはあらゆる預言者の中で最も偉大です。なぜなら、彼はキリストの来臨を告げ知らせるだけでなく、その指でキリストを指し示すという役割が与えられたからです。これについて教会は、洗者聖ヨハネの祝日の晩課の聖歌で歌います。では、彼はキリストをどのように言い表したのでしょうか。「見よ、天主の小羊を。見よ、世の罪を除く御者を」(ヨハネ1章29節)。
この出来事を思い出している使徒聖ヨハネは、洗者聖ヨハネの二人の弟子のうちの一人で、この言葉を聞いて彼のもとを去り、私たちの主イエズス・キリストに従うようになりました。もう一人の使徒は聖アンドレアでした。
福音書は言います。聖アンドレアが「最初に自分の兄弟シモンに出会って、『メシアに会った』と言った」(ヨハネ1章41節 Invenit hic primum fratrem suum Simonem, et dicit ei: Invenimus Messiam)。この「最初に」という言葉に注意してください。ここから、別の弟子も、後で自分の兄弟に出会ったということが分かるようになります。ですから、この第二の弟子は使徒聖ヨハネ以外の何者でもないことを示しています。なぜなら、使徒たちの中にいた兄弟は二組だけだったからです。兄たちは生計を立てる仕事で忙しくしていた一方、弟たちは預言者である洗者聖ヨハネの言葉を聞いていたのです。ここにいるペトロ、ヤコボ、ヨハネ、アンドレアは最初の四人の使徒たちで、聖書にある使徒たちの名簿のすべてに彼らの名前があります。
では、洗者聖ヨハネは、のちに獄につながれたとき、なぜ二人の弟子をイエズスに遣わして、こう尋ねさせたのでしょうか。「来るべきお方はあなたですか、それとも他の人を待たねばなりませんか」(マテオ11章3節)。聖ヨハネはイエズスが何者かを知っていました。では、なぜそんな質問をさせたのでしょうか。それは、聖ヨハネが非常に聖なる人であったため、多くの人々が彼、洗者聖ヨハネが多分メシアではないかと思っていたからです(ルカ3章15節)。また、その中には彼にあまりにも執着していた人々がいたため、彼、聖ヨハネであっても、自分のところを去ってキリストに従うようにさせることができないほどだったからです。ですから、聖ヨハネは考えました。たとえ自分が彼らに説明できなくても、キリストご自身なら、自分ができなかったことを成功させてくださるのではないか。キリストに、自らがキリストであると彼らに説明していただこう。そしてこれが、きょうの福音で私たちの主イエズス・キリストがなさることなのです。主はイザヤの予言を述べられます。「主は救いに来られる。その時、盲人は目を開け、耳しいは耳をひらく。その時、足なえはしかのように飛び、おしの舌は喜び叫ぶ」(イザヤ35章4-6節)。
このように、私たちの主イエズス・キリストは、ご自分がメシアだと証明する二つの基本的な理由を示されました。預言と奇跡です。イザヤによって預言された奇跡を行うことによって、主は固い基礎、不動の岩の上に弟子たちの信仰を打ち立てられました。来臨の前に預言され、また大変多くの奇跡を行った宗教創設者はイエズス・キリストだけです。これは、洗者聖ヨハネが「見よ、天主の小羊を」と指し示した指以上に力強い天主の指(の業)なのです。
しかし、洗者聖ヨハネの役割は非常に重要でした。実際、私たちの主の最初の来臨はへりくだりの来臨でした。「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた」(フィリッピ2章8節)とき、メシアであると理解するのは難しかったのです。このへりくだりが洗者聖ヨハネによって預言されたという事実が、私たちの信仰を強めてくれ、私たちは、十字架のいけにえにおける天主の御子、天主の小羊ということを理解できるようになります。実際、このなだめのための無垢な天主の小羊は、天主の御子ご自身以外の何者でもありません。まことの天主であり、まことの人間であって、ご自身を完全な犠牲のいけにえとして捧げることによって、私たちを罪から救うために来られたお方なのです。聖ペトロは美しく書いています。「あなたたちが祖先から受け継いだむなしい生活から贖われたのは、金銀などの朽ちる物によるのではなく、傷もなく汚点(しみ)もない小羊のような、キリストの尊い御血によることをあなたたちは知っている」(ペトロ第一1章18-19節)。
私たちの主が小羊として、なだめのいけにえになられるだろうということは、旧約ですでに告知されていました。「彼は屠所にひかれる小羊のように、毛を刈る人の前でもだす羊のように、口を開かなかった」(イザヤ53章7節。使徒行録8章32節を見よ)。
旧約において、犠牲のいけにえに必要とされる特徴は、傷や汚点(しみ)のないこと、無垢(immaculate)であることでした。私たちの主は無垢のいけにえです。聖パウロがヘブライ人への手紙でこう言うように。「聖霊によって、けがれのないご自分を天主に捧げられたキリストの御血が、私たちの良心を死の業から清めて、生きる天主に奉仕させえないであろうか?」(ヘブライ9章14節)。聖母は新しいエバとして、「彼に似合った助け手」(創世記2章18節)であり、十字架の下での無垢ないけにえの霊魂でした。教会の歴史においては、幼きイエズスの聖テレジアのように、多くの人もまた、主と聖母ほど完全に無垢ではなかったものの、無垢である「イエズスの慈悲深い愛へのいけにえ」でした。13歳の若い殉教者だった聖なる童貞アグネスは、このことによって、初期の教会の教父たちに強い印象を与えました。聖アンブロジウスは、聖アグネスの名前それ自体が無垢ないけにえ、天主の小羊になることを彼女に運命づけていた、と言います(「アグネス」の語源「アグヌス」はラテン語で「小羊」の意味です)。
私は、小羊の特徴をもう一つ挙げてみたいと思います。それは喜び、飛び跳ねるような喜びです。まことのキリスト教徒もまた、聖霊の実であるこの天主の喜びを持たなければなりません。実際、聖パウロは「霊の実は、愛、喜び、平和、忍耐、寛容、親切、善意、柔和、信仰、節度、節制、貞潔である」(ガラツィア5章22-23節)と言っています。
小羊のさらにもう一つの特徴は、そのやさしさ、柔和であることです。私たちの主イエズス・キリストは「心の柔和なへりくだった者」(マテオ11章29節)です。私たちもまた、この柔和とへりくだりをまねるべきです。それがなければ誰も救われません。なぜなら、「天主はおごる者に逆らい、へりくだる者を恵まれる」(ヤコボ4章6節)からです。
私たちの主は、主の群れの小羊すべてが主に似た者になるよう望んでおられます。実際、主はペトロに「私の小羊を牧せよ」(ヨハネ21章16節)と言われました。また、「私があなたたちを送るのは、ちょうど狼の中に小羊を送り込むようなものである」(ルカ10章3節)と言われましたが、これは悪に対して悪で報いるのではなく、自分たちの力を信頼するのでもなく、私たちの主イエズス・キリストの恩寵を信頼することなのです。羊を守ること、特に小羊を守ることは、牧者の義務です。牧者は雇人のようであってはなりません。つまり、世が聞きたいことを言ったり、羊が聞かねばならないことを言わなかったり、狼が来たとき逃げてしまったりしてはなりません。「良い牧者は羊のために自分の命を捨てる」(ヨハネ10章11節)のです。
黙示録において、聖ヨハネは私たちの主イエズス・キリストを小羊として見ました。また、小羊として32回言及しています。「また私は、一方には玉座と四つの動物、また一方には老翁、その間に七つの角(つの)と七つの目のあるほふられたような小羊が立ってうるのを見た。それは全世界に遣わされた天主の七つの霊である」(黙示録5章6節)。小羊としての主は、すべての天使によって礼拝されます。「彼[小羊]が巻物を手にしたとき、四つの動物と二十四人の老翁は小羊の前にひれ伏した彼らはおのおのの竪琴と香に満ちた金の杯を持っていた。香は聖人たちの祈りである」(黙示録5章8節)。「そして、天に、地に、地の下に、海にあるすべての被造物、その中にあるすべてのものが、『玉座に座るお方と小羊に、讃美と誉れと力あれ、代々に』と言うのを聞いた」(黙示録5章13節)。
主はすべての聖人に至福直観の喜びをお与えになります。「彼らは再び飢えることなく、渇くことなく、太陽にも熱風にも悩まされない。玉座の中にまします小羊は彼らを牧し、命の水の泉に連れていき、天主は彼らの目から涙をすべてぬぐわれる」(黙示録7章16-17節)。
「彼ら[十四万四千人=天における奉献された霊魂]は女にけがされない童貞であって、小羊の行くところにどこにでもついていく。彼らは天主と小羊のために初穂として人々の中から贖われたのであって、口に偽りなく、天主の玉座の前にいるけがれのない人々である」(黙示録14章4-5節)。
まことに、「小羊の婚宴に招かれた者は幸いである」(黙示録19章9節)。「自分の服を洗う者は幸いである。彼らは命の木について権利を持ち、門を通って町に入る権利を持つであろう」(黙示録22章14節)。
この「小羊の婚宴」は、この地上では、聖なるミサにおいて始まります。ミサの中で司祭が天主の小羊をいとも聖なる三位一体に奉献するのは、小羊の無限の完全性を礼拝し、私たちに与えられた驚くべき賜物すべてに感謝し、私たちの過去のすべての罪を償い、私たちの必要とするすべての恩寵を得られるようにするためです。犠牲を奉献したのち、司祭とすべての信者は、良い心構えのうちに、「世の罪を除く天主の小羊」を拝領するでしょう。小羊として、完全な犠牲のいけにえとして、私たちの霊魂の食べ物として、私たちの主イエズス・キリストがご聖体のうちにまことに現存されるという素晴らしい信仰を持ちましょう。主を拝領する準備をするために、いつも霊魂を清く保ちましょう。いつも主をふさわしく拝領し、その後はそれに応じて生活しましょう。ご聖体における私たちの主イエズス・キリストの御体、御血、ご霊魂、天主性を自分の霊魂に拝領したカトリック信者は、この世的な霊魂のように生きることはできません。地上にいるうちからすでに、天国の命、小羊の婚宴の客にふさわしい命を生きなければならないのです。つまりキリストが必ずその人と共に生きておられるのです。
親愛なる兄弟の皆さん、洗者聖ヨハネが言ったように天主の小羊である私たちの主イエズス・キリストに従いましょう。また、主の徳、清さ、やさしさ、柔和とへりくだり、喜びをまねるようにしましょう。よい告解と聖なる生活をすることによって、小羊の血で私たちの霊魂を清めましょう。そして、聖母とすべての聖人たちと共にいることのできる、この小羊の婚宴を待ち望みましょう。
アメン