アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
9月の初金曜日に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
カトリック教会の教えによると、イエズスの至聖なる聖心への信心の核心は、私たちがイエズス・キリストと共に世の贖いに参与する、ということです。ここにカトリック教会の教えの中核があります。
聖伝のミサがまさにそれであり、マリア様の御生涯もそれでした。イエズス・キリストの御心の信心の奥深くに入り込みましょう。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2015年9月4日 初金曜日 至聖なるイエズスの聖心
小野田神父説教
「私は、私と共に悲しむ者を探したが、それはいなかった。
私を慰める者を探したが、それを見つけなかった。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日、9月の初金です。私たちのイエズス様の嘆きに耳を傾ける事に致しましょう。イエズス様は、共に苦しみを捧げる者を、イエズス様の苦しみを慰める者をお探しでおられます、求めておられます。
イエズス様はこの事を、フランス革命の100年前、1673年から始まった70回の御出現で、聖マルガリタ・マリア・アラコックに、既にその事を求めていました。イエズス様は、ちょうど物貰いが家の前をノックして、「恵んで欲しい。」私たちの償いと、私たちの愛と、私たちの祈りと犠牲を捧げて欲しい、という事をお願いしつつ、私たちの胸を叩いておられます。しかし、世の多くの人々はそれに冷たい反応をして、或いはドアを閉じたままか、或いは追い払うか、或いは嫌な顔をするか。イエズス様の受けるのは、ただ冷淡や冒瀆、そして無関心だけです。そこでイエズス様は、「少なくともお前は、」と、聖女マルガリタ・マリア・アラコックに、「少なくともお前は、私の心を慰めて欲しい。」「この人類を、これほどまでに愛する心を慰めて欲しい。」と、言われます。
イエズス様の人生は、「Ecce」「見よ、主よ、ここにおります。」というその言葉で始まり、この言葉で終わる人生でした。この世にいらっしゃる、そのマリア様の御胎内に入るその瞬間、「見よ、ご覧ください、私は参ります。御身の御旨を果たす為に。」と、言われました。イエズス様は、ヨルダン川にいる時に、洗者聖ヨハネからも言われました、「見よ、天主の子羊を。」つまり、「生贄の為に捧げられる天主の子羊を見よ。」そしてポンシオ・ピラトも言います、「Ecce rex. Ecce homo.」「この人を見よ。」
イエズス様はそして、カトリックの司祭から、ミサのごとに、「天主の子羊を見よ。“Ecce Agnus Dei”」、御聖体を捧げられて、「ここに、イエズス様の天主の子羊、私たちの為に、生贄となった犠牲がおられる、これこそが、真の私たちの罪の償いの生贄である。」と言われます。そしてそれと同時に私たちも、イエズス様の生贄に一致する事を求めておられます。一体何故でしょうか?
第2の点は、何故かというと、それはイエズス様が私たちに、その神秘体全体として、その苦しみの欠けた所を、私たちが神秘体の、キリストの神秘体の一部として、キリストの苦しみの欠けた所を満たす事を望まれるからです。何故ならば、イエズス様は私たちが、本当の意味でキリスト者となる事をお望みになるからです。何故かというと、聖パウロが言ったように、「私が生きるのは、私ではなく、キリストが私に於いて生きる。」私たちが第2のキリスト、もう一人のキリストとなる事を、お望みであるからです。
では、キリストとは何でしょうか?つまりキリストとは、「救世主」の事です。イエズス様は、私たちがイエズス様と共に、この世を救う救い主、救いの御業に一致して、協力する事をお望みになるのです。その為にこそ、イエズス様は私たちから罪の償いと、イエズス様の苦しみにますます参与する事をお望みになっておられます。
イエズス様は、苦しむ為に、苦しみを通してこの世を救う為に、この世に来られました。そして私たちも、キリストと一致する為に、苦しみを通して、イエズス様の救いの御業に参与する事をお望みです。ここに、イエズス様の聖心の信心の核心があります。つまり、償いの精神。「償いの精神によって、私たちの苦しみ、十字架、犠牲、祈りを捧げる。霊魂の救いの為に、天主の光栄の為に、これを償いをもって捧げる。」という事です。
最後に、マリア様に、私たちの目を向ける事に致しましょう。マリア様は、天使のお告げを受けて、すぐさま、イエズス様と同じ言葉を仰います、「ご覧ください、主の婢女はここにおります。仰せの如く我になれかし。」マリア様こそ、イエズス様と一心同体、そしてご自分の全ての生涯を、償いの為に捧げた方でした、共贖者となられた方でした。そしてマリア様の御取り次ぎによって私たちも、共に贖う、世の罪を共に贖う者となりますように、お祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
9月の初金曜日に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
カトリック教会の教えによると、イエズスの至聖なる聖心への信心の核心は、私たちがイエズス・キリストと共に世の贖いに参与する、ということです。ここにカトリック教会の教えの中核があります。
聖伝のミサがまさにそれであり、マリア様の御生涯もそれでした。イエズス・キリストの御心の信心の奥深くに入り込みましょう。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2015年9月4日 初金曜日 至聖なるイエズスの聖心
小野田神父説教
「私は、私と共に悲しむ者を探したが、それはいなかった。
私を慰める者を探したが、それを見つけなかった。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日、9月の初金です。私たちのイエズス様の嘆きに耳を傾ける事に致しましょう。イエズス様は、共に苦しみを捧げる者を、イエズス様の苦しみを慰める者をお探しでおられます、求めておられます。
イエズス様はこの事を、フランス革命の100年前、1673年から始まった70回の御出現で、聖マルガリタ・マリア・アラコックに、既にその事を求めていました。イエズス様は、ちょうど物貰いが家の前をノックして、「恵んで欲しい。」私たちの償いと、私たちの愛と、私たちの祈りと犠牲を捧げて欲しい、という事をお願いしつつ、私たちの胸を叩いておられます。しかし、世の多くの人々はそれに冷たい反応をして、或いはドアを閉じたままか、或いは追い払うか、或いは嫌な顔をするか。イエズス様の受けるのは、ただ冷淡や冒瀆、そして無関心だけです。そこでイエズス様は、「少なくともお前は、」と、聖女マルガリタ・マリア・アラコックに、「少なくともお前は、私の心を慰めて欲しい。」「この人類を、これほどまでに愛する心を慰めて欲しい。」と、言われます。
イエズス様の人生は、「Ecce」「見よ、主よ、ここにおります。」というその言葉で始まり、この言葉で終わる人生でした。この世にいらっしゃる、そのマリア様の御胎内に入るその瞬間、「見よ、ご覧ください、私は参ります。御身の御旨を果たす為に。」と、言われました。イエズス様は、ヨルダン川にいる時に、洗者聖ヨハネからも言われました、「見よ、天主の子羊を。」つまり、「生贄の為に捧げられる天主の子羊を見よ。」そしてポンシオ・ピラトも言います、「Ecce rex. Ecce homo.」「この人を見よ。」
イエズス様はそして、カトリックの司祭から、ミサのごとに、「天主の子羊を見よ。“Ecce Agnus Dei”」、御聖体を捧げられて、「ここに、イエズス様の天主の子羊、私たちの為に、生贄となった犠牲がおられる、これこそが、真の私たちの罪の償いの生贄である。」と言われます。そしてそれと同時に私たちも、イエズス様の生贄に一致する事を求めておられます。一体何故でしょうか?
第2の点は、何故かというと、それはイエズス様が私たちに、その神秘体全体として、その苦しみの欠けた所を、私たちが神秘体の、キリストの神秘体の一部として、キリストの苦しみの欠けた所を満たす事を望まれるからです。何故ならば、イエズス様は私たちが、本当の意味でキリスト者となる事をお望みになるからです。何故かというと、聖パウロが言ったように、「私が生きるのは、私ではなく、キリストが私に於いて生きる。」私たちが第2のキリスト、もう一人のキリストとなる事を、お望みであるからです。
では、キリストとは何でしょうか?つまりキリストとは、「救世主」の事です。イエズス様は、私たちがイエズス様と共に、この世を救う救い主、救いの御業に一致して、協力する事をお望みになるのです。その為にこそ、イエズス様は私たちから罪の償いと、イエズス様の苦しみにますます参与する事をお望みになっておられます。
イエズス様は、苦しむ為に、苦しみを通してこの世を救う為に、この世に来られました。そして私たちも、キリストと一致する為に、苦しみを通して、イエズス様の救いの御業に参与する事をお望みです。ここに、イエズス様の聖心の信心の核心があります。つまり、償いの精神。「償いの精神によって、私たちの苦しみ、十字架、犠牲、祈りを捧げる。霊魂の救いの為に、天主の光栄の為に、これを償いをもって捧げる。」という事です。
最後に、マリア様に、私たちの目を向ける事に致しましょう。マリア様は、天使のお告げを受けて、すぐさま、イエズス様と同じ言葉を仰います、「ご覧ください、主の婢女はここにおります。仰せの如く我になれかし。」マリア様こそ、イエズス様と一心同体、そしてご自分の全ての生涯を、償いの為に捧げた方でした、共贖者となられた方でした。そしてマリア様の御取り次ぎによって私たちも、共に贖う、世の罪を共に贖う者となりますように、お祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。