教皇崇拝と教皇至上主義は同じではない:私が教皇至上主義者であることを誇りに思う理由
ロベルト・デ・マッテイ著
ここ数カ月、「Rorate Caeli」などで教皇至上主義(ウルトラモンタニズム、ultramontanism)に関する議論が始まり、スチュアート・チェスマン(こちら)、ピーター・クワスニュスキ(こちら)、ホセ・アントニオ・ウレタ(こちらとこちら)が興味深い議論への参加を行っています。
私はこれらの著者を個人的に知っており、彼らに尊敬の念と友情を持っています。しかし、ラテン語の格言「Amicus Plato, sed magis amica veritas」(プラトンはわが友、されど真理はさらに大いなるわが友)に忠実に、私は自分にとって真理だと思われることにこだわりたいと思います。
この点で、私は、ホセ・アントニオ・ウレタ(José Antonio Ureta)と教理的立場を同じくすると言わなければなりません。しかし、ウレタと私を他の著者たちと分けているのは、おそらく何よりも「教皇至上主義」"ultramontanism"という用語の使用に関する意味上の問題なのでしょう。このため、私は歴史的なレベルで、教皇至上主義者とは何者であったのか、そしてなぜ私が彼らを敬愛し、自分が彼らの知的後継者であると考えるのかを説明したいと思います。
「教皇至上主義」【ultramontanism 直訳:山の向こう側主義】という用語は、19世紀に否定的な意味合いで作られて使われるようになったもので、「アルプスの向こう側」【主にドイツ地方】のカトリック信者が教皇職の教理や制度に忠実な態度を取ることを指しています。リチャード・コスティガン神父(イエズス会)は、その著書「Rohrbacher and the Ecclesiology of Ultramontanism」(Gregoriana, Rome 1980, pp. XIV-XXVI)[「ロールバシェと教皇至上主義の教会論」、グレゴリアン大学、ローマ、1980年、14-26頁]で、この概念をうまく説明しています。
教皇至上主義者が反対したのは、教皇職の権力を制限して司教団の権力を優先させることを主張するガリカン主義【フランス】、フェブロニウス主義【ドイツ】、ヨーゼフ主義【オーストリア】の教理でした。もっと一般的に言えば、教皇至上主義者が戦ったのは、フランス革命に反対することを拒否して近代世界との融和を図ろうとする、リベラル派のカトリック信者でした。この教皇至上主義者、あるいは反革命派を代表するのが、フランスの政治哲学者ジョゼフ・ド・メーストル伯爵(1753年-1821年)、スペインの政治家ファン・ドノソ・コルテス(1809年-1853年)ほか、多数の人々でした。
ド・メストルは、何百回も再版された「Du Pape」[教皇について](1819年)の著者であり、これは教皇の不可謬権という教義を先取りした作品でした。
ドノソ・コルテスは、「Ensayo sobre el Catolicismo, el liberalismo y el socialismo」[カトリシズム、リベラリズム、社会主義に関するエッセー](マドリード、1851年)で、現代社会とキリスト教の間の絶対的対立を糾弾しています。
また、ルネ・フランソワ・ロールバシェ(1789年-1856年)の「Histoire universelle de l'Église catholique」[カトリック教会の全歴史](全28巻)は、1842年から1901年までに7版を重ね、イタリア語、英語、ドイツ語に翻訳されたと記憶しています。この作品は、ジョゼフ・ド・メーストルやファン・ドノソ・コルテスの作品に劣らず、19世紀のカトリック思想に影響を与えました。
19世紀後半、特にフランスでは、教皇至上主義者のカトリック信者とリベラル派のカトリック信者の対立が激化しました。
リベラル派の擁護者は、雑誌「ル・コレスポンダン Le Correspondant」を発行したシャルル・ルネ・ド・モンタランベール伯爵(1810年-1870年)とオルレアン司教のフェリックス-アントワーヌ・フィリベール・デュパンルー司教(1802-1878)です。
教皇至上主義者の指導者は、「自由主義のハンマー」と呼ばれたポワティエ司教のルイ・ピ枢機卿(1815年-1880年)と、日刊紙「ユニヴェール L'Univers」を発行したルイ・ヴイヨ(1813年-1883年)でした。
教皇ピオ九世は、回勅「クァンタ・クーラ」(Quanta cura)と、無原罪の御宿りの教理が公布されてから10周年にあたる1864年12月8日に発表した「現代の主要な誤謬に関するシラブス[Syllabus](誤謬表)」で、教皇至上主義運動を支持し、カトリックのリベラル主義を断罪しました。これらの文書の作成にあたっては、ピ枢機卿、ルイ・ヴイヨ、ドノソ・コルテスが相談を受けました。それ以来、シラブスは、リベラル派のカトリックの相対主義に対抗する「教皇至上主義者」あるいは「統合的 integral」なカトリックのマニフェストとなるのです。
5年後、ピオ九世が【第一】バチカン公会議開催を発表すると、リベラル派のカトリック信者は表に出てくることにしました。最初に戦闘を仕掛けたのはモンシニョール・デュパンルー(Dupanloup)で、不可謬権について短い著作を発表し、それを宣言するのは「時宜を得ていない」と述べました。ドイツでは、ミュンヘン大学学長のイグナス・フォン・デリンガー(von Döllinger 1799年-1890年)が、教皇ピオ九世が不可謬権を教義として押し付ける「教会革命」を準備していると非難しました。英国では、デリンガーとデュパンルーの論文は、ジョン・エメリク・アクトン卿(Lord John Emerich Acton 1834年-1902年)によって広められました。
教皇至上主義者のカトリック信者は、ペトロの首位権と教皇不可謬権という教義の承認を得るために戦いました。その先陣を切ったのが、ウェストミンスター大司教ヘンリー・エドワード・マニング枢機卿(Manning 1808年-1892年)で、この公会議では、エフェゾ公会議における聖キュリロス【聖チリロ】に比較されるような位置を占めていました。マニング枢機卿は、その数年前、レーゲンスブルク司教イグナツ・フォン・ゼネストライ(von Senestrey 1818年-1906年)と共に、マッテオ・リベラトーレ神父(Matteo Liberatore 1810年-1892年)が作成した、教皇の不可謬権の定義を得るために力を尽くすという誓約を行っています。
彼らの傍らには、錚々たる人物が並んでいました。イエズス会の神父で後の枢機卿ヨハン・バプティスト・フランツェリン(Franzelin 1816年-1886年)、公会議での教皇の神学者、ドン・プロスペール・ゲランジェ(1805年-1875年)[フランスにベネディクト修道会を再興したフランス・ソレム修道会の創設者]、トラヤヌポリ大司教【名義司教】で、第一バチカン公会議で「教皇の親衛隊」と呼ばれたスペインの司教たちの精神的指導者、聖アントニオ・マリア・クラレット(1807年-1870年)[ローマでの1870年6月17日付の修道院長マリア・アントニア・パリスへの書簡を参照]などです。
リベラル派は、公会議主義者やガリカン主義者のテーゼにならい、教会の権威は教皇だけにあるのではなく、司教たちと一致した教皇にあるとし、不可謬権の教義は誤謬、あるいは少なくとも時宜に適していないと判断したのです。聖クラレットは1870年1月28日、不可謬権の教義は時宜に適しているだけでなく、「sub omni respectu ineluctabiliter necessaria」(あらゆる点から見て不可避にして必要なもの)であるとの定義を求める請願書に署名した400人の教父たちの一人であり、1870年5月31日には、教皇不可謬権を擁護するための感動的な演説を行っています。
福者ピオ九世は、1870年12月8日、憲章「パストル・エテルヌス」(Pastor Aeternus)によって、ペトロの首位権と教皇不可謬権の教義を定義しました(Denz-H、3050-3075)。今日、これらの教義は、私たちにとって、ペトロの教座への真の信心を見いだすための貴重な基準となっています。
リベラル派のカトリック信者は第一バチカン公会議で敗れましたが、一世紀を経て第二バチカン公会議の主役にして勝利者となりました。ガリカン主義者、ヤンセン主義者、フェブロウス主義者は、教会の構造は民主的でなければならず、司祭と司教によって、底辺から指導され、教皇はその代表者に過ぎないと公然と主張したのです。第二バチカン公会議が公布した憲章「ルーメン・ジェンティウム」(Lumen Gentium)は曖昧なもので、(他の公会議文書と同様に)これらの傾向を認めながらも、それらを最終的な結論にはしませんでした。
1962年12月9日、イヴ・コンガール神父(1904年-1995年)は日記にこう書いています。「私は、イタリアをその教皇至上主義的な政治的、教会的、福音への信心的な態度から改めるために行われるすべてのことは、普遍教会にとっても利益になると信じています。ですから、この時、私はこの点で多くの関与をすることを受け入れました」(Diario del Concilio, Italian translation, 2 vol., San Paolo, Cinisello Balsamo, 2005, vol.I, p. 308[公会議日記、イタリア語訳全2巻、サンパオロ、チニゼッロ・バルサモ、2005年、第1巻、308頁])。このドミニコ会の神学者はさらに、「教皇至上主義は本当に存在しています…。ローマの大学や学校は、そのすべてをさまざまな用量で蒸留しています。最も高い、ほとんど致命的な用量は、現在『ラテラノ[大学]』で投与されているものです」(第1巻、201頁)。「みじめな教皇至上主義者の教会学」と、コンガールは2月5日に再び書いています(第2巻、20頁)。彼は「ローマ学派」の神学者たちとの闘いを「使命」とみなしていました。
神学的ローマ学派は、教皇至上主義運動の継承者でした。アルフレード・オッタヴィアーニ枢機卿、エルネスト・ルフィーニ枢機卿、そしてマルセル・ルフェーブル大司教がその代表でした。
マイケル・デイヴィーズ(1936年-2004年)は、公会議という惨事の一因を、誤った教皇への従順に求めていますが、マニング枢機卿がこう言ったことを思い出させてくれます。
「不可謬権は個人に固有の性質ではなく、職務に付随する助けである」(in Pope John's Council, Augustine Publishing Company, Chawleigh, Chulmleigh [Devon] 1977, p. 175)[「教皇ヨハネの公会議」、オーガスチン出版社、チャウリー、チャルムリー[デヴォン州]、1977年、175頁]。
第一バチカン公会議は、不可謬権という賜物(カリスマ)がキリストの代理者に常に存在すると教えているのではなく、単に、その最高形態における職務の行使、すなわち、教皇が信仰と道徳の問題に関して普遍的牧者として、「エクス・カテドラ」(ex cathedra、教皇座から)で教えるときに、「不可謬権は不在ではない」と教えているだけです(Pope John's Council, pp.175-176)[教皇ヨハネの公会議、175-176頁]。
マイケル・デイヴィーズ自身は、教皇職への敬意と愛情をもって、第二バチカン公会議とノブス・オルドに抵抗したすべての人々と同様に、教皇至上主義者とみなすことができるでしょう。これは、拙著「Love for the Papacy and Filial Resistance to the Pope in the History of Church」(Angelico Press, New York, 2019)[「教会の歴史における教皇職への愛と教皇への抵抗」、アンジェリコ出版、ニューヨーク、2019年]で私が支持している立場です。
1875年、ドイツの司教たちはビスマルク首相に対抗して、教皇と司教の教導権は「一般に教会の不可謬の教導権の内容に限られ、聖書と聖伝の内容に限られる」と宣言しました(Denz-H 3116)。教皇ピオ九世は、1875年3月4日、ドイツの司教たちに宛てた書簡「ミラビリス・イッラ・コンスタンティア」(Mirabilis illa constantia)で、この宣言を全面的に支持しました(Denz-H 3117)。私はこの教皇至上主義者の声明に全面的に同意します。この声明は、聖座の不当な決定に対して敬意ある抵抗をする際の基礎となり得るものです。
「教皇崇拝」(Papolatry)と「教導権主義」(Magisterialism)は、第二バチカン公会議の後に生まれた用語です。これらは、教皇個人への極端な崇拝であって、教皇職が屈辱を受けるのと並行して発展したものです。これは教皇至上主義とは関係ありません。
私がなぜ教皇至上主義者であることを誇りに思うのか、またなぜ教皇至上主義への批判を懸念するのか、その理由を説明できたのではないかと思います。