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2015年9月5日初土 聖ピオ十世会 聖伝のミサ SSPX Japan Traditional Latin Mass 

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日は、聖母マリア様の7つの御悲しみの祝日です。マリア様の祝日を記念して、今月の初土曜日(2015年9月5日)の聖母の汚れ無き御心の随意ミサの時にしたお説教をご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2015年9月5日 初土曜日 聖母の汚れ無き御心の随意ミサ
小野田神父説教

 聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は、2015年9月5日、9月の初土曜日の聖母の汚れ無き御心の随意ミサを捧げています。今日のこのミサの後に、いつものように公教要理があります。今日は、公教要理で、「原罪について」、原罪の人類の罪は何だったのか。その一体どういう、何を人類は望んだのか。そして人類の罪は、その原罪の罪の重さの度合いはどうなのか。男と女とどちらの、アダムとエヴァとどちらの方が悪かったのか、などを、聖トマス・アクィナスの分析に従って、考察してみたいと思います。

 10月は、10月2日と3日、最初の初金、初土です。そして10月の主日のレネー神父様のミサはですね、司祭の黙想会の為に、11日の代わりに25日に変更になりました。どうぞご注意ください。11月、12月はいつもの通りですが、12月のクリスマスの予定が少し変更になりました。25日の夕方の予定だったのが、24日のクリスマス・イヴから、24日、25日、26日と大阪でミサがあるようになりました。24日のクリスマス・イヴ、そして真夜中のミサ、暁のミサ、午前のミサ、そして26日の土曜日と、ミサがあります。どうぞいらして下さい。

“Adeamus cum fiducia ad thronum gratiae”

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 今日いつもの通り、初土曜のミサで入祭誦では、「天主の聖寵の玉座に、信頼をもって私たちは近付こう。」と、歌います。天主の聖寵の玉座、つまり、その玉座に近付く一番の方法は、マリア様です。そのマリア様は、マリア様はどうして、私たちの為にこれほど、私たちが御恵みを受ける為に、最も良い手段なのであるか、という事を黙想する事に致します。

 まず第1に、天主様が、マリア様を通して、マリア様の仲介を通して、私たちに御恵みを与えようとした、という事を黙想します。何故マリア様が仲介者となる事ができるのか。次に、マリア様がなさったその功徳とは一体どのようなものか。そして最後に、私たちは結論をとることにします。

 天主様は、イエズス様を、マリア様を通して、私たちに下さる事をお望みになりました。イエズス・キリストが御托身して人間となられて、私たちの間に住み給う、という事を、マリア様を通して、そしてマリア様を通してのみ、与えようとされました。この御托身というのは、全ての御恵みのつくり主であり、全ての御恵みの元である、根源であるイエズス様を、私たちに与える事ですから、つまりマリア様は、「全ての御恵みの根源を受けた」という事を意味します。

 天主様は、昔も今も、そして永遠に変わる事のない方です。そして天主様は、その御望みによってもちろん、マリア様を通さずに御恵みを与える事ができたにもかかわらず、マリア様を通して、そしてマリア様の仲介を通して、マリア様の愛徳を通して、そしてマリア様のその御手を通して、全ての御恵みを私たちに与える事をお望みになりました。天主様がこれをお望みになったので、私たちはそれに従うしかありません。そしてマリア様も、この天主様のお望みの通り、ご自分の手を通して全ての御恵みを与える為に協力しよう、と、望んでおられます。

 一体何故、こういう事があるのでしょうか?イエズス様だけが唯一の仲介者ではないのでしょうか?

 はい、これは私たちがキリスト教の核心に至ると、私たちは、「マリア様がこのように仲介者となった。」と聞いても、全く驚くには至りません。

 何故かというと、「キリスト者の召命」というのは、「イエズス・キリストの贖いの業に参与する」という事にあります。私たち洗礼を受けた者は、「イエズス・キリストと共に、唯一の救い主イエズス・キリストと共に、1つに、1つになり、そしてイエズス・キリストの贖いの業に、救いの業に参加する、参与する」という特別の召命を受けました、召し出しを受けました。

 もちろん私たちは、この世の救いの為にイエズス様と一致して初めて、この救いに協力する事ができます。イエズス様なしには、全く何もできません。しかし私たちは、まず私たち自身の霊魂、そして出来る限り私たちの隣人の霊魂の救霊の為に、この人生が与えられています。この今生きている、この地上での短い人生の間が与えられています。そしてそうする事によって私たちは、「第2のキリスト」とならなければなりません。

 「キリスト者」という事は、「キリスト信者」という事は、「私たちに於いて生きるのは、私たちではなく、キリストが私たちに於いて生きる」という事であって、私たちは霊魂の救霊の為に、イエズス・キリストと共に、贖い主、救い主、第2の救い主、贖い主となる、という特別の高貴な召し出しを受けたのです。

 そしてこれは、このような高い召し出しを受けた、という事は、これは天主様の偉大な無限のあわれみを燦然と輝かす源となるものです。

 もちろん、イエズス様だけが、完全な罪の償いを果たし、完全な贖いをなし、最も完全な救い主です。しかしイエズス様が、私たちもこの救いの業に参与する事をお望みになったので、私たちもその協力者として呼ばれているのです。

 イエズス様だけが、正義によって完璧に罪の負債を支払いしました。そしてそのイエズス様だけが、完全な正義によって、無限の功徳によって、罪の贖いを請求する事ができます。私たちは参与者として、祈りによって、或いは熱心な善業によって、そして生贄を捧げる事によって、私たちの小さな生贄を、イエズス様と共に捧げる事によって、その救いに参与するのです。第2のキリストとなる事ができます。

 これが、キリスト教信者の召命であって、召し出しであって、ここに私たちの人生の核心があります、天主を愛し、隣人を自分の身の如く愛する、核心があります。救霊、天主のより大きな栄光の為の救霊の、という、救霊の御業に参与する、という栄誉です。

 このキリスト者の召し出しの核心が理解できれば、マリア様が特別な召し出しを受けられた、という事を聞いても、驚くには値しません。何故かというとマリア様は、その私たちの救霊の業の贖いに、不変なやり方で参与されたからです。イエズス・キリストを、私たち全てに与える為に、マリア様を必ず通す事を、天主が望まれたからです。

 もしも私たちが第2のキリストとして、小さな救い主として、自分の霊魂と、他の隣人の霊魂の救いの為に協力するとしたら、私たちのその祈りの範囲は、限りがあります。しかしマリア様は、救いの根源であるイエズス様を、マリア様を通して私たちに与えられた方ですから、その贖いの協力の業の範囲は、全てに不変に、時間と場所を超えて、行き渡るものとなります。

 ですから、聖ピオ10世教皇様は、「マリア様とイエズス様の仲介の範囲は同じだけれども、本質的な違いはここにある。」と、説明しています。「イエズス・キリスト様は、決定的な正義によって、全く統合関係によって、罪の贖いを無限に果たした。condignoによって、功徳を受けた。イエズス様の果たした贖いの業は、condignoだ、統合関係にある。全て払い切った。マリア様は、お祈りによって、そして懇願によって、そのマリア様の受けたものは、それにふさわしいものであった。conguoの功徳を受けた。」と、言っています。

 そしてこれだけではありません、第2の点は、マリア様が、マリア様はでは私たちに為に何をなさったか、という事を考えなければなりません。

 確かにマリア様は、イエズス様を受ける事に、「はい。」と、言いました。その「はい。」と、言ったこの論理的な結論は、つまり十字架の苦しみの道の始まりでした。

 黙想会の時に、或いは聖母の被昇天の時に、シュテーリン神父様と一緒に黙想しました。マリア様の奇跡的な妊娠による、御受胎による聖ヨゼフとの関係、或いは、ベトレヘムに行って、救い主の生まれる場所が無かった事、或いはエジプトへの避難、全くお金も道も言葉も分からない外国での避難、逃亡の生活、そして救い主を王が狙っている、というその恐怖、或いはナザレトでの30年間の貧しい生活、貧困の生活、そしてイエズス様を神殿で失ったその悲しみ、或いはイエズス様が公生活に出て、マリア様を離れてしまう時のその生活の苦しさ、そして何よりもまた、イエズス様の御受難を、その目の当たりにしてご覧にならなければならなかったそのご心痛、シメオンの預言が成就して、その霊魂は剣で刺し貫かれました。

 フィリピンでは、水牛という、カラバオというのがいて、とても大人しい動物なのです。それで、それはでもすごく力があって、人間が何十人でも動けないような泥にはまった車でも、そのカラバオは、ヒョイヒョイっと出してしまったりとか。

 アジアのフィリピンにいる水牛は非常に大人しいのですけれども、アメリカにいるバッファローという水牛は非常に獰猛なのだそうです。そしてある時ですね、そういう話を神父様が私にしてくれて、そしてそのアメリカのバッファローは、ライオンが来ても、そのライオンをやっつけると、ライオンが空に上がってしまう、それでライオンが何匹いても、それに勝ってしまうのだそうです。草しか食べないような水牛ですけれども、力がものすごいあるのだそうです。そしてその水牛の群れがある時に、ライオンの群れに襲われて、メスの水牛が子供の水牛と共にライオンに襲われてて、で、ライオンは子供を食べようと、獰猛にこう唸っているのです。するとお母さんの水牛が、この子供を守ろうと、必死にこう守ります。

 動物でも、そうやって子供を守ろうとする本能があって、そして自分がどうなっても、子供さえ、子供だけは失われたくない、と一生懸命、ライオンにさえも立ち向かって戦おうとします、が、マリア様は、ご自分の御子イエズス様を、厳しい十字架、重い十字架を担いで歩まれた時、或いは十字架に釘付けにされた時、或いは非難轟々の屈辱の声を聞いた時、全身傷だらけの御姿を見た時に、罪のない御子イエズス・キリストをご覧になった時に、どれほどご心痛でいっぱいだったでしょうか。しかしマリア様は、イエズス様の罪の贖いの業に参与する為に、全てを捧げられました。

 イエズス様も、御自分の痛みよりも、マリア様のご心痛の方が心配だったに違いありません。自分のお母さんにこれほどの苦しみを与える事ほど、大きな悲しみと苦しみはなかったはずです。そしてマリア様も、そのような御子の、イエズス様のご心痛をよく知っていたが為に、十字架の下でしっかりと佇み、立って、イエズス様を御捧げしていました。

 マリア様は司祭ではありません。何故ならば御聖体を聖変化する事ができないからです。カトリック司祭の本質はここにあります。しかし、マリア様は、イエズス様をこの地上に最初にもたらして、ミサのつくり主である創定者であるイエズス・キリストを、全ての御恵みの根源であるイエズス・キリストを、そして司祭の最高の司祭を、そして十字架の生贄を捧げるその生贄であり、大司祭であるイエズス・キリストを、天主の子羊を、最初にこの地上にもたらした方です。最高司祭の母であります。カトリックの司祭は、天からイエズス様を、聖変化によってこの地上に現存させますが、マリア様はその根源を、この地上に現存させました。司祭は祈って、ミサを立てて、この教区民の為に、或いは全世界のカトリック教会の為に、天主に懇願します。そして天主からの祝福を皆に分配します。マリア様も、そのはるかに優れた方法によって、天主にイエズス様に祈り、そしてイエズス様からの祝福を私たちに与えます、御恵みを与えます。司祭は、イエズス・キリストを聖変化して聖父に捧げます。マリア様も、十字架の下で聖父に御子を、極めて崇高なやり方によって、ご自分の犠牲に合わせて御捧げいたしました。司祭は信徒に、司祭の手のみ、信徒に、跪いた信徒の舌の上に聖体拝領をさせます。マリア様も、マリア様に祈る全ての人々に、無限の功徳によって、イエズス様の無限の功徳から、私たちに全ての御恵みを分配します。

 確かにマリア様は司祭ではありませんが、しかしそれよりも崇高なやり方によって、司祭的な仕事を、私たちの為にされておられます。

 では、私たちは今日、どのような決心を立てたら良いでしょうか。
この入祭誦にあるように、信頼をもって、恵みの、聖寵の玉座であるマリア様の汚れ無き御心に近付く事に致しましょう。マリア様はいつでもどんな時でも、私たちに地上の御恵みを全て分配して下さいます、私たちの為に執り成して下さいます。聖イグナチオがちょうど、私たちにこうするのが良い、と言ったのと同じです。マリア様の所に行くと、マリア様は私たちを連れて、マリア様は私たちと一緒に、イエズス様の元に行きます。そしてイエズス様は、マリア様と一緒に来た私たちを見て、「あぁ、そうかそうか。」と言って、3人で、イエズス様とマリア様と私たちで聖父の元に行きます。それを、イエズス様マリア様と共に来た私たちを見て、聖父はどうして拒否する事ができるでしょうか。

 ポルトガルのある神学者によると、「十字架の上に付けられた時に、右に良い盗賊、左には痛悔しなかった盗賊がたけれども、実は、イエズス様はその2人の盗賊の間にいたけれども、イエズス様とマリア様の間に、この良き盗賊がいた。マリア様がいたから、この盗賊は回心の御恵みを得たのだ。」と、ある神学者は説明しています。もちろんマリア様は、この遠くにいた盗賊の為にも、回心の祈りをしたに違いありませんが、しかしこれは非常に象徴的な事ではないでしょうか。もしもマリア様が、マリア様の近くに行けば、必ずマリア様は私たちの為に、回心の救霊の恵みを勝ち取って下さる、という事を象徴的に表しているようです。

 聖フランシスコ・ザヴェリオも言っていました、「もしもマリア様の、十字架の下にマリア様がいる、という事を説明し忘れると、彼らは回心しない。」と。「しかし、マリア様がいる、という事を言うと、宣教地によって皆回心する。」と。

 では私たちも、聖母の汚れ無き御心に、聖寵の玉座に信頼をもって近付く事に致しましょう。そして第2に、ミサの色んな所を見ると、必ずマリア様の名前が入っています。聖伝のミサに於いては必ずマリア様の名前が、色んな所に散りばめられています。マリア様と共に、御ミサに与り続ける事に致しましょう。

 “Adeamus cum fiducia ad thronum gratiae”

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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