アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様が2015年9月13日の主日の聖伝のミサの前に霊的講話をして下さいました「マリアの聖なる御名」についてです。元来は、2015年9月12日の聖母マリアの聖名の祝日になされたお説教でしたが、霊的講話として、大阪でお話し下さいました。
聖母マリア様の7つの悲しみの主日を記念して愛する兄弟姉妹の皆様に後しょうかします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
レネー神父様による霊的講話
2015年9月13日の主日 ミサの後
「マリアの聖なる御名」について
親愛なる兄弟の皆さん、
「乙女の名はマリアであった」(ルカ1章27節)。福音書のこの簡単な言葉は、美と恩寵に満ちていて私たちに有益です。私はまず、教会博士であるクレルヴォーの修道院長、聖ベルナルドによる福音書のこの言葉についての美しい説教を皆さんにご紹介します。
「乙女の名はマリアであった、と言われている。この名について少し言わせてほしい。訳せば、この名は海の星を意味しているが、乙女にして母なる御方に大変適しており、星になぞらえられるのは大変ふさわしいことである。星は光を放っても、自身が朽ちることはないが、それと同じように、この乙女は自身の童貞性を害することなく御子を生んだからである。星が放つ光が星の明るさを減じることはないが、それと同じように、御子を生んだことが乙女の童貞性を減じることはないのである。マリアは、ヤコブから出ることになっていた高貴な星(荒野の書[民数記]24章17節)であり、その輝きは今でも全世界を照らし、その光は天においてきらめくだけでなく地獄にまで達し、地の中まで照らす。さらに体よりも精神を一層照らして熱し、善を保護し、悪を恐れさせる。私は言うが、この御方は明るく光り輝く星であり、数々の功徳に輝き、模範によってまばゆく光り、必然的に、この大いなる広い海の上を見下ろしているのである」
「堅固な地を歩んでいるのではなく、この世の大海の強風と嵐のために行ったり来たりと揺り動かされていることを知っている汝らなら誰であれ、嵐に押しつぶされたくなければ、この星の明るい輝きをしっかり見ておかねばならない。誘惑の暴風が迫っても、艱難の岩にぶつかるときも、その星を見てマリアを呼ぶのだ。高慢、野心、誹謗、嫉妬の波にさらわれそうになれば、その星を見てマリアを呼ぶのだ。怒り、貪欲、肉の誘惑が汝の霊魂という小舟を打つとき、マリアを見よ。罪の大きさが汝を不安にし、良心の醜さが汝を狼狽させ、裁きの恐怖が汝を愕然とさせ、落胆の深み、絶望の淵に引き込まれそうになるならば、マリアを思え」
「危険なとき、困難に直面したとき、どうしてよいか分からないとき、マリアを思い、マリアを呼ぶのだ。汝の口から、汝の心からマリアが消えぬようにせよ。マリアの祈りによる助けが欠けることのないように、マリアの会話の模範から離れないように(ふさわしい会話を)せよ。マリアに従うならば、道を誤ることはない。マリアに祈るならば、決して絶望することはない。マリアを思うならば、道に迷うことはない。マリアが支え給うならば、汝が滅びることはない。マリアが導き給うならば、汝は疲れることがない。マリアが助け給うならば、汝は最後に安全にふるさと(天国)へ至る。こうして汝は、『乙女の名はマリアであった』と言われているのを、自ら証しするのである」
なぜマリア様のこの力が私たちを助けてくれるのでしょうか、なぜ私たちはマリア様に依り頼むべきなのでしょうか? それは、私たちの主イエズス・キリストが私たちを罪から救うために来られ、さらに「高慢はあらゆる罪の始め」(集会書10章15節)であるからです。ですから、天主に帰る道はどうしても、謙遜の道になるのです。このため、私たちの主イエズス・キリストは「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた」(フィリッピ2章8節)のです。しかし、高慢な人々の中には、「私には聖人の助けは必要ない。直接キリストのところへ行くことができる。キリストはまことの天主であるのだから、救うのに十分な力を持っておられる。さらにキリストは私たちの面倒を見てくださる良き羊飼いなのだから、私には誰の助けも必要ない」と言う人々がいます。さて、そのような態度は私たちの主イエズス・キリストを喜ばせはしません。なぜなら、そこには大きな高慢があるからです。祝された私たちの主は言われました。「まことに私は言う。あなたたちが悔い改めて子どものようにならないなら、天の国には入れぬ」(マテオ18章3節)。幼子になるためには、私たちには母が必要です。ですから、主はすべての母の中で最高の方である御母をお与えになりました。「主は[主が愛された]弟子に『これがあなたの母だ』と言われた」(ヨハネ19章27節)。この福音記者は、「主はヨハネに言われた」とは言わず、「主は[主が愛された]弟子に言われた」と言います。なぜなら、イエズスが言われたことは、ただ聖ヨハネにだけでなく、すべての愛された弟子たちに向けられたものだったからです。ですから、「愛された弟子」になりたいのなら、その人は「聖母を自分のもとに引き取」らなければなりませんし、聖母を自分の母としなければなりません。そうすれば、聖母は私たちを「幼子」とされ、それがなければ救われない謙遜を教えてくださるでしょう。なぜなら、「天主はおごる者に逆らい、へりくだる者を恵まれる」(ヤコボ4章6節)からです。
聖母は他の者よりも高く上げられました。なぜなら、(イエズスの次に)他の誰よりも謙遜だったからです。私たちの主イエズス・キリストが福音書でたたえられたときにはいつでも、聖母は隠れておられました。主が拒絶され、十字架につけられたとき、聖母が来られ、最初に十字架の下におられます。それによって、聖母は私たちの主イエズス・キリストの罪と死に対する勝利に結びつけられ、特に死に対する勝利には被昇天によって結びつけられたのです。聖母には大きな力、霊魂をイエズスのもとに導いて、それにより救いにまで導く力が与えられていました。聖母は、霊魂たちに(天主の)すべてのあわれみの恩寵を分配する「あわれみの御母」なのです。
傷ついた子どもたちが癒やしと保護を求めて母親のもとに駆け寄るように、罪びとである私たちは皆、聖母のもとに駆け寄りましょう。そうすれば聖母は、私たちの霊魂を清め、どのように祈るのか、どのように罪を嘆くのか、どのように私たちの主イエズス・キリストを信頼するのか、どのようにしてまことに主に忠実になれるのかを、その模範をもって教えてくださいます。マリア・マグダレナはそれ以上で、聖母のそばを離れることがありませんでした。この罪びとは無垢な方に、つまりマリア・マグダレナは童貞の中の童貞であるマリア様に引き寄せられました。ですから、十字架の下に一緒にいたのです。マリア・マグダレナをご自分に引き寄せ、十字架の下まで従わせることによって、童貞聖マリアはマリア・マグダレナの救いを保証したのです。
童貞聖マリアへの信心は、私たちの時代には特に必要です。映画やビデオ、インターネットの発達と、その結果として避妊から自然に反する悪徳にいたるまでの悪徳の増大を原因として不純が増大している時代、さらには不道徳な人々が「中絶の権利」といったこれらの悪徳の「権利」を主張し、悪徳と徳の「平等」を主張している時代だからです。
人々は、天使と悪魔の違いを、聖人と堕落者の違いを、聖霊の御業と肉の業の違いを、どうして識別することができないのでしょうか? 盲目がそれほど広がってきている訳では決してありません。ですから、私たちには、すべての人々に徳の美しさを思い起こさせる童貞の中の童貞による優しい光が必要です。その光の前では、悪徳の醜さは恥によって打たれます。童貞聖マリアへの優しい愛とまことの信心を持つ信者は、目の前に常に聖母の模範を置き、聖母を攻撃するあらゆるものを避けるのです。大罪を避けるだけではなく、罪に導くであろうものさえも避けるのです。慎みを実践し、衣服の慎みだけでなく、視線や会話、ふるまいでも慎み深くするのです。慎みについて言えば、慎みのない衣服を持ってはいけません。買ってもいけません。それを買わなければ、持つことはありません。持たなければ、着ることは決してありません。慎みのない衣服を買うとき、すでに慎みのないという罪を犯しているのではありませんか? 最初から罪に抵抗してください。ずっと簡単で、ずっと効果的です。
聖母への信心は、戒めを守るだけでなく、福音の助言まで守るのに大変力を与えてくれます。主を愛すれば愛するほど、私たちは完全を求めるようになり、福音の助言、つまり清貧、貞潔、従順を実行したくなります。「もし完全になりたいのなら、持ち物を売りに行き、貧しい人々に施しをせよ。そうすれば天に宝を積む。それから私についてくるがよい」(マテオ19章21節)。「処女たちのことについて、私は主の命令を受けなかった。けれども、主のあわれみにより信頼に値する者として私の助言を述べる」(一コリント7章25節)、そしてパウロは主のために処女を捧げてそのままにとどまるよう助言します。「結婚していない女と処女は、体と心を聖とするために主のことを気遣う」(一コリント7章34節)。従順の助言は、私たちの主イエズス・キリストの模範の中の模範によって与えられています。主は「死ぬまで、十字架上に死ぬまで従われ」(フィリッピ2章8節)たのですから。結婚の絆のうちに生きている信者でも、福音の助言を尊重する必要があります。これは世の堕落に対して彼らを守るものとなるでしょう。聖母は、この福音の助言の美しい模範です。童貞の中の童貞であって、ベツレヘムで貧しさの中にあり、お告げから十字架に至るまで天主のみ言葉に従順だったのです。今日、司祭職と修道生活への良きかつ聖なる召命が緊急に必要とされています。第二バチカン公会議によって引き起こされた教会の危機は、多くの修道団体に大変な損害を与えました。修道者の数は大きく減ってしまっており、多くの熱心な召命でキリストの神秘体を再び満たしていく必要があります。彼らは、奉献された童貞たちについて聖シプリアヌスが述べたように、「キリストの群れの最も栄光ある一部分」なのです。
マリア様の聖なる御名に対する大きな愛、童貞マリアに対する大きな愛を持っている人がいるなら、それは聖ヨゼフです。聖ヨゼフほどマリア様の近くにいた人はいませんでした。聖ヨゼフが愛したほどマリア様を愛した愛はありません。素晴らしく純粋な愛で、大変深いものでした。また、聖ヨゼフほどマリア様から学んだ人はいませんでした。沈黙の中で祈り、私たちの主イエズス・キリストを礼拝し、忍耐をもって貧困や(宿からの)拒絶、エジプトでの避難生活に耐えることを学びました。イエズスを神殿に見いだしたとき、はっきりと謙遜を学びました。聖家族の父でしたが、あえて主を叱ることはなく、主がなぜ(神殿でいなくなるという)そんなことをしたのか聞くことさえしませんでした。聖ヨゼフは話すのをマリア様に任せました。イエズスを神殿で見失ったとき深く悲しむという驚くべき方法で、天主を、私たちの主イエズス・キリストを愛することを学びました。聖ヨゼフと同じようなマリア様への信心を私たちのために取り成してくださるよう、聖ヨゼフに祈りましょう。それにより、聖父と聖子と聖霊と共に永遠に天のふるさとにいることが許されるまで、私たちが、心を尽くし、霊魂を尽くし、力を尽くして私たちの主イエズス・キリストに祈り、主を愛し、主に仕えることができますように。アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様が2015年9月13日の主日の聖伝のミサの前に霊的講話をして下さいました「マリアの聖なる御名」についてです。元来は、2015年9月12日の聖母マリアの聖名の祝日になされたお説教でしたが、霊的講話として、大阪でお話し下さいました。
聖母マリア様の7つの悲しみの主日を記念して愛する兄弟姉妹の皆様に後しょうかします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
レネー神父様による霊的講話
2015年9月13日の主日 ミサの後
「マリアの聖なる御名」について
親愛なる兄弟の皆さん、
「乙女の名はマリアであった」(ルカ1章27節)。福音書のこの簡単な言葉は、美と恩寵に満ちていて私たちに有益です。私はまず、教会博士であるクレルヴォーの修道院長、聖ベルナルドによる福音書のこの言葉についての美しい説教を皆さんにご紹介します。
「乙女の名はマリアであった、と言われている。この名について少し言わせてほしい。訳せば、この名は海の星を意味しているが、乙女にして母なる御方に大変適しており、星になぞらえられるのは大変ふさわしいことである。星は光を放っても、自身が朽ちることはないが、それと同じように、この乙女は自身の童貞性を害することなく御子を生んだからである。星が放つ光が星の明るさを減じることはないが、それと同じように、御子を生んだことが乙女の童貞性を減じることはないのである。マリアは、ヤコブから出ることになっていた高貴な星(荒野の書[民数記]24章17節)であり、その輝きは今でも全世界を照らし、その光は天においてきらめくだけでなく地獄にまで達し、地の中まで照らす。さらに体よりも精神を一層照らして熱し、善を保護し、悪を恐れさせる。私は言うが、この御方は明るく光り輝く星であり、数々の功徳に輝き、模範によってまばゆく光り、必然的に、この大いなる広い海の上を見下ろしているのである」
「堅固な地を歩んでいるのではなく、この世の大海の強風と嵐のために行ったり来たりと揺り動かされていることを知っている汝らなら誰であれ、嵐に押しつぶされたくなければ、この星の明るい輝きをしっかり見ておかねばならない。誘惑の暴風が迫っても、艱難の岩にぶつかるときも、その星を見てマリアを呼ぶのだ。高慢、野心、誹謗、嫉妬の波にさらわれそうになれば、その星を見てマリアを呼ぶのだ。怒り、貪欲、肉の誘惑が汝の霊魂という小舟を打つとき、マリアを見よ。罪の大きさが汝を不安にし、良心の醜さが汝を狼狽させ、裁きの恐怖が汝を愕然とさせ、落胆の深み、絶望の淵に引き込まれそうになるならば、マリアを思え」
「危険なとき、困難に直面したとき、どうしてよいか分からないとき、マリアを思い、マリアを呼ぶのだ。汝の口から、汝の心からマリアが消えぬようにせよ。マリアの祈りによる助けが欠けることのないように、マリアの会話の模範から離れないように(ふさわしい会話を)せよ。マリアに従うならば、道を誤ることはない。マリアに祈るならば、決して絶望することはない。マリアを思うならば、道に迷うことはない。マリアが支え給うならば、汝が滅びることはない。マリアが導き給うならば、汝は疲れることがない。マリアが助け給うならば、汝は最後に安全にふるさと(天国)へ至る。こうして汝は、『乙女の名はマリアであった』と言われているのを、自ら証しするのである」
なぜマリア様のこの力が私たちを助けてくれるのでしょうか、なぜ私たちはマリア様に依り頼むべきなのでしょうか? それは、私たちの主イエズス・キリストが私たちを罪から救うために来られ、さらに「高慢はあらゆる罪の始め」(集会書10章15節)であるからです。ですから、天主に帰る道はどうしても、謙遜の道になるのです。このため、私たちの主イエズス・キリストは「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた」(フィリッピ2章8節)のです。しかし、高慢な人々の中には、「私には聖人の助けは必要ない。直接キリストのところへ行くことができる。キリストはまことの天主であるのだから、救うのに十分な力を持っておられる。さらにキリストは私たちの面倒を見てくださる良き羊飼いなのだから、私には誰の助けも必要ない」と言う人々がいます。さて、そのような態度は私たちの主イエズス・キリストを喜ばせはしません。なぜなら、そこには大きな高慢があるからです。祝された私たちの主は言われました。「まことに私は言う。あなたたちが悔い改めて子どものようにならないなら、天の国には入れぬ」(マテオ18章3節)。幼子になるためには、私たちには母が必要です。ですから、主はすべての母の中で最高の方である御母をお与えになりました。「主は[主が愛された]弟子に『これがあなたの母だ』と言われた」(ヨハネ19章27節)。この福音記者は、「主はヨハネに言われた」とは言わず、「主は[主が愛された]弟子に言われた」と言います。なぜなら、イエズスが言われたことは、ただ聖ヨハネにだけでなく、すべての愛された弟子たちに向けられたものだったからです。ですから、「愛された弟子」になりたいのなら、その人は「聖母を自分のもとに引き取」らなければなりませんし、聖母を自分の母としなければなりません。そうすれば、聖母は私たちを「幼子」とされ、それがなければ救われない謙遜を教えてくださるでしょう。なぜなら、「天主はおごる者に逆らい、へりくだる者を恵まれる」(ヤコボ4章6節)からです。
聖母は他の者よりも高く上げられました。なぜなら、(イエズスの次に)他の誰よりも謙遜だったからです。私たちの主イエズス・キリストが福音書でたたえられたときにはいつでも、聖母は隠れておられました。主が拒絶され、十字架につけられたとき、聖母が来られ、最初に十字架の下におられます。それによって、聖母は私たちの主イエズス・キリストの罪と死に対する勝利に結びつけられ、特に死に対する勝利には被昇天によって結びつけられたのです。聖母には大きな力、霊魂をイエズスのもとに導いて、それにより救いにまで導く力が与えられていました。聖母は、霊魂たちに(天主の)すべてのあわれみの恩寵を分配する「あわれみの御母」なのです。
傷ついた子どもたちが癒やしと保護を求めて母親のもとに駆け寄るように、罪びとである私たちは皆、聖母のもとに駆け寄りましょう。そうすれば聖母は、私たちの霊魂を清め、どのように祈るのか、どのように罪を嘆くのか、どのように私たちの主イエズス・キリストを信頼するのか、どのようにしてまことに主に忠実になれるのかを、その模範をもって教えてくださいます。マリア・マグダレナはそれ以上で、聖母のそばを離れることがありませんでした。この罪びとは無垢な方に、つまりマリア・マグダレナは童貞の中の童貞であるマリア様に引き寄せられました。ですから、十字架の下に一緒にいたのです。マリア・マグダレナをご自分に引き寄せ、十字架の下まで従わせることによって、童貞聖マリアはマリア・マグダレナの救いを保証したのです。
童貞聖マリアへの信心は、私たちの時代には特に必要です。映画やビデオ、インターネットの発達と、その結果として避妊から自然に反する悪徳にいたるまでの悪徳の増大を原因として不純が増大している時代、さらには不道徳な人々が「中絶の権利」といったこれらの悪徳の「権利」を主張し、悪徳と徳の「平等」を主張している時代だからです。
人々は、天使と悪魔の違いを、聖人と堕落者の違いを、聖霊の御業と肉の業の違いを、どうして識別することができないのでしょうか? 盲目がそれほど広がってきている訳では決してありません。ですから、私たちには、すべての人々に徳の美しさを思い起こさせる童貞の中の童貞による優しい光が必要です。その光の前では、悪徳の醜さは恥によって打たれます。童貞聖マリアへの優しい愛とまことの信心を持つ信者は、目の前に常に聖母の模範を置き、聖母を攻撃するあらゆるものを避けるのです。大罪を避けるだけではなく、罪に導くであろうものさえも避けるのです。慎みを実践し、衣服の慎みだけでなく、視線や会話、ふるまいでも慎み深くするのです。慎みについて言えば、慎みのない衣服を持ってはいけません。買ってもいけません。それを買わなければ、持つことはありません。持たなければ、着ることは決してありません。慎みのない衣服を買うとき、すでに慎みのないという罪を犯しているのではありませんか? 最初から罪に抵抗してください。ずっと簡単で、ずっと効果的です。
聖母への信心は、戒めを守るだけでなく、福音の助言まで守るのに大変力を与えてくれます。主を愛すれば愛するほど、私たちは完全を求めるようになり、福音の助言、つまり清貧、貞潔、従順を実行したくなります。「もし完全になりたいのなら、持ち物を売りに行き、貧しい人々に施しをせよ。そうすれば天に宝を積む。それから私についてくるがよい」(マテオ19章21節)。「処女たちのことについて、私は主の命令を受けなかった。けれども、主のあわれみにより信頼に値する者として私の助言を述べる」(一コリント7章25節)、そしてパウロは主のために処女を捧げてそのままにとどまるよう助言します。「結婚していない女と処女は、体と心を聖とするために主のことを気遣う」(一コリント7章34節)。従順の助言は、私たちの主イエズス・キリストの模範の中の模範によって与えられています。主は「死ぬまで、十字架上に死ぬまで従われ」(フィリッピ2章8節)たのですから。結婚の絆のうちに生きている信者でも、福音の助言を尊重する必要があります。これは世の堕落に対して彼らを守るものとなるでしょう。聖母は、この福音の助言の美しい模範です。童貞の中の童貞であって、ベツレヘムで貧しさの中にあり、お告げから十字架に至るまで天主のみ言葉に従順だったのです。今日、司祭職と修道生活への良きかつ聖なる召命が緊急に必要とされています。第二バチカン公会議によって引き起こされた教会の危機は、多くの修道団体に大変な損害を与えました。修道者の数は大きく減ってしまっており、多くの熱心な召命でキリストの神秘体を再び満たしていく必要があります。彼らは、奉献された童貞たちについて聖シプリアヌスが述べたように、「キリストの群れの最も栄光ある一部分」なのです。
マリア様の聖なる御名に対する大きな愛、童貞マリアに対する大きな愛を持っている人がいるなら、それは聖ヨゼフです。聖ヨゼフほどマリア様の近くにいた人はいませんでした。聖ヨゼフが愛したほどマリア様を愛した愛はありません。素晴らしく純粋な愛で、大変深いものでした。また、聖ヨゼフほどマリア様から学んだ人はいませんでした。沈黙の中で祈り、私たちの主イエズス・キリストを礼拝し、忍耐をもって貧困や(宿からの)拒絶、エジプトでの避難生活に耐えることを学びました。イエズスを神殿に見いだしたとき、はっきりと謙遜を学びました。聖家族の父でしたが、あえて主を叱ることはなく、主がなぜ(神殿でいなくなるという)そんなことをしたのか聞くことさえしませんでした。聖ヨゼフは話すのをマリア様に任せました。イエズスを神殿で見失ったとき深く悲しむという驚くべき方法で、天主を、私たちの主イエズス・キリストを愛することを学びました。聖ヨゼフと同じようなマリア様への信心を私たちのために取り成してくださるよう、聖ヨゼフに祈りましょう。それにより、聖父と聖子と聖霊と共に永遠に天のふるさとにいることが許されるまで、私たちが、心を尽くし、霊魂を尽くし、力を尽くして私たちの主イエズス・キリストに祈り、主を愛し、主に仕えることができますように。アーメン。