Quantcast
Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
Viewing all articles
Browse latest Browse all 4247

ウクライナの戦争の多くの苦しみの原因は何か?なぜ天主は、彼らを苦しめ、死なせるのか?なぜ天主は、戦争とその惨状を止めるために介入なさらないのか?

$
0
0

苦しみの原因についての説教

ドモルネ神父(2022年4月3日受難節第一主日)

はじめに

1月末以来、ウクライナの現政権に対するロシアの軍事作戦が行われています。現地のジャーナリストが送ってくる報道を通じて、私たちは、破壊されたり、被害を受けたりした多くのインフラを目にします。そして何より、すべてを失った人々、爆撃や暴力を目の当たりにしてやつれた人々、負傷した人々、拷問を受けた人々、殺された人々を、目にします。そのような光景を見ると、これほど多くの苦しみが存在することに、いくつかの疑問を抱くかもしれません。今日は、そういった疑問のうちの三つについて、お話ししたいと思います。

1.私たちの苦しみの原因

第一の疑問は、こうです。「これほど多くの苦しみの原因は、何だろうか?」。地政学的な理由を挙げることはできます。しかし、それは根本的な理由ではありません。私たちは、さらに昔を振り返らなければなりません。聖パウロは、こう言っています。「悪を行って生きるすべての人の上には、患難と苦悶がある」(ローマ2章9節)。これは、罪を犯したすべての人の上には、という意味です。聖霊は、聖書の中で、義人ヨブを通して、こう言っておられます。「思い返せ、罪なくして滅ぼされた者があったか。正しい人がどこで敗北したか。私の知る限り、悪のすきを使う者、罪をまく者たちは、それを刈り入れる。彼らは天主の息吹で滅び、その怒りの一吹きで消え去る」(ヨブ4章7-9節)。苦しみと死が、罪に対する罰であるのは明らかです。

原罪は、私たち全員にとって、苦しみの第一の原因です。天主が人類を創造されたとき、天主は、善意から、私たちが道徳的な正しさを保つ助けを与え、そして私たちを苦しみや死から守る特別な賜物を与えてくださいました。原罪のせいで、私たちは、これらの特別な賜物を失い、今や私たちは、罪を犯しやすくなり、苦しみと死にさらされるようになったのです。

次に、私たちの個人的な罪が、苦しみの第二の原因です。私たちが罪を犯すとき、私たちは、天主の法に背くのです。言い換えれば、私たちは、自分の意志を、天主のご意志と対立させるのです。正義が要求するのは、私たちが、自ら犯した罪に対する罰を受けることです。ですから、私たちは、自分が望むものを奪われることによる罰を受け、そのことが、私たちを苦しめるのです。私たちは、幸福、他人との平和な暮らし、行動の自由、物質的な財物、健康、生命などを奪われるのです。

2.罪のない人々の苦しみ

第二の疑問は、こうです。「この戦争に責任のない人々がいる。なぜ天主は、彼らをこの戦争で苦しめ、死なせるのだろうか?」。第一の答えは、原罪の結果を免れる人は誰もいない、ということです。ですから、誰もが戦争の苦しみを受ける恐れがありますが、それは、天主のせいではありません。戦争の恐ろしさをみて、私たちは、原罪の深刻さについて、また、これを機に、天主に対して犯す罪の深刻さについて、思いを巡らせるべきです。実際、原因と結果は、釣り合うものです。原罪の結果がこれほど恐ろしいものであるならば、原罪とは、どれほど悪しきものなのでしょうか!

また、すべての人は罪人です。すべての人は、自分が犯す罪のために、当然、罰を受けるべきものです。しかし、天主だけが、その無限の正義と知恵により、この世で、あるいは来世で、それぞれの人が償わなければならない罰の種類と厳しさを、割り当てることがおできになります。私たちは、罪の悪を十分に理解していないため、自分の苦しみは厳しすぎる、不公平だと思うかもしれません。しかし、私たちは、謙虚になって、天主が無限に正しく、賢く、善いお方であることを思い出すべきです。私たちは、天国でのみ理解できることがたくさんあることを、認めるべきです。

しかし、幼い子どもたちの苦しみはどうでしょうか? 子どもたちの苦しみは、とても不公平に見えます! しかし、ここでもまた、それは誰のせいなのでしょうか? 原罪と個人の罪によって、人間自身に、その責任があるのです。子どもたちが苦しんでいるという、私たちの胸が張り裂けそうな光景を見て、私たちは、あらゆる罪、特に私たち自身の罪を、もっと強く嫌うようにならなければなりません。

3.天主のご介入

三つ目の疑問は、こうです。「なぜ天主は、戦争とその惨状を止めるために介入なさらないのだろうか?」。第一に、天主は人間を、自由なものとして、創造なさったことを忘れてはなりません。私たち人間の尊厳は、私たちの自由、すなわち、善いことを、進んで選択する能力にかかっているのです。聖霊は、聖書の中で、こう言っておられます。「天主は、誰にも、悪人になれと命じられたことはなく、誰にも、罪を犯す許可を与え給わない」(集会書15章20節)。私たちは、幸福を選ぶか、あるいは不幸を選ぶかを、自ら選択し、その選択についての責任を負います。天主は、聖書の中で、こう言われます。「人間の前には、生命と死、善と悪がある。望みのままに、そのいずれかが与えられる」。(集会書15章17節)。もし、人間が間違ったことをしないように、天主がいつも介入なさるならば、人間は、本当の意味で、自由ではないことになってしまいます。

第二に、天主は、その知恵により、人間の罪によって起こる苦しみを、善に変える方法をご存じであることを忘れてはなりません。私たちの罪による戦争の苦しみは、天主の正義を明白に表しているのです。聖パウロは、ガラツィア人に、こう言いました。「天主を侮ってはならない。人は、蒔くものを収穫するからである」(ガラツィア6章7節)。また、戦争の苦しみは、しばしば、多くの人々が天主に回心し、罪深い生活をやめる良い機会となります。ですから、天主は、霊魂の永遠の救いのために、こういった、この世での一時的な苦しみを、許されるのです。最後に、戦争の苦しみは、回心と罪の償いをするようにという、天主がすべての人にお与えになる、すべての人のためになる警告なのです。

結論

親愛なる信者の皆さん、ウクライナの戦争の苦しみを目にすると、胸が張り裂ける思いがします。なぜなら、それは、本物であり、現実であり、ひどいものであるからです。しかし、人間的な感情だけに動かされないようにしましょう。私たちの霊魂にとって有益なものを、引き出しましょう。第一に、非常に多くの苦しみの原因である罪の悪を、もっとよく理解しましょう。この世の最大の悪である罪を嫌いましょう。

第二に、次のことを忘れないようにしましょう。戦争の苦しみは、それをすべて合わせて考えても、私たちの主イエズス・キリストと童貞聖マリアのご受難の際の御苦しみに比べれば、取るに足りないものです。ですから、戦争の恐ろしさを目の当たりにすることで、私たちが、特にこのご受難節に、イエズスとマリアの御苦しみを、さらに深く黙想することができますように。そして、その黙想により、私たちが、イエズスとマリアと一致して、さらに寛大な罪の償いをお捧げすることができますように。

Photo Credit


Viewing all articles
Browse latest Browse all 4247

Trending Articles