聖木曜日 ミサと十字架の関係についての説教
ドモルネ神父(2022年4月14日聖木曜日)
はじめに
聖木曜日には、聖なるミサとカトリック司祭職の制定の記念日を、お祝いします。今日は、カルワリオの犠牲とミサの関係について、お話ししたいと思います。
1.十字架の犠牲
イエズスは、十字架上で死ぬことにより、真の犠牲を捧げられました。犠牲とは、天主への服従と敬意のしるしとして、何かを天主に捧げる儀式のことです。イエズスは、十字架上で死ぬことにより、天主ご自身によって定められた儀式に忠実に従いながら、ご自分自身の命を、天主に捧げられたのです。実際、天主は、イエズスが、どのように苦しまれ、亡くなられることになるかをあらかじめ計画され、それを、旧約の預言の中で、とても詳細に、予告しておられたのです。また、イエズスは、天主に無限の敬意を表し、それによって、人間のすべての罪の赦しを得るために、ご自分を捧げられたのです。このように、イエズスは、十字架上で死ぬことにより、ご自分が、いけにえであり、かつ司祭である、真の犠牲を捧げられたのです。
ミサは、十字架の犠牲を更新し、かつ継続するものです。なぜ、そうなのでしょうか? それは、いけにえと司祭が同じであり、また、ミサで行われる奉献の行為と、十字架上で行われた奉献の行為との間に、本質的な関係があるからです。このことを、もう少し詳しく見てみましょう。
2.十字架とミサで、いけにえは同じ
ミサにおいて、私たちが捧げるのは、イエズス・キリストの命です。聖変化のとき、司祭は、パンとぶどう酒の外観の下に、イエズス・キリストを真に現存させます。しかしまた、イエズスの御体と御血を、ある意味で分ける二度の聖変化によって、司祭は、イエズスの犠牲と死を表します。このように、司祭が天主に捧げるのは、イエズスの命です。この捧げ物は、司祭が天に向かってホスチアを、その後、尊き御血を、差し上げる奉挙のときに、外的に示されています。このように、十字架においても、ミサにおいても、捧げられるのは、イエズス・キリストの無限に尊い命なのです。いけにえは、同じです。
3.十字架とミサで、司祭は同じ
ミサにおいて、いけにえは、イエズス・キリストによって捧げられます。実際、イエズス・キリストのみが、パンとぶどう酒の外観の下に、ご自分を現存させる力を持っておられ、このような方法でご自分を天主に捧げることができるのは、イエズス・キリストのみです。皆さんが目にしている人間の司祭は、イエズスが、それを通して実行されるための、道具にすぎません。イエズスが大司祭であり、私たちは私たちの側で、イエズスの奉献の行為に参加するのです。この理由から、ミサでは、「Dominus vobiscum - Et cum spiritu tuo」が、頻繁に繰り返されるのです。それは、司祭としての行為をなさるイエズスと私たちの一致と、その更新を表すためです。つまり、十字架においても、ミサにおいても、犠牲を捧げる司祭は、同じイエズス・キリストなのです。
4.ミサの奉献の行為は、十字架上の奉献の行為と本質的に関係している
最後に、ミサは、十字架の犠牲の更新かつ継続です。なぜなら、双方の奉献の行為は、本質的に関係しているからです。十字架上で、イエズスは奉献の行為をされました。イエズスは、私たちの罪の赦しのために、ご自分の命を、天主に捧げられました。実際、十字架上で、イエズスはこう言われました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているか知らないからです」(ルカ23章34節)。ミサにおいて行われる奉献の行為は、十字架上のイエズスの奉献の行為と、本質的に関係しています。イエズスご自身が、この関係をはっきりと確立されました。第一に、イエズスは、十字架上で亡くなられるほんの数時間前、聖木曜日の晩に、聖なるミサを制定されました。第二に、イエズスは、ミサの聖変化の言葉において、十字架上のご自分の死に明確に言及されました。「これはあなたたちのために与えられる私の体である」(ルカ22章19節)、「これは、多くの人のために、罪の赦しを得させるために流す…私の血である」(マテオ26章28節)。第三に、ミサを制定した直後、イエズスは、使徒たちに、次の掟を与えられました。「私の記念としてこれを行え」(ルカ22章19節)。そして、聖パウロは、イエズスが、何のことを言っておられたのかを、こう説明しています。「まことに、あなたたちは、このパンを食べ、この杯を飲むごとに、主の来られるまで、主のご死去を告げるのである」(コリント前書11章26節)。
ミサにおける奉献の行為は、十字架上のイエズスの奉献の行為と、本質的に関係しています。しかし、イエズスが十字架上でご自身を捧げられたのは、主に、罪の赦しのためです。ですから、ミサもまた、主に、罪の赦しのために捧げられるのです。したがって、ミサにおけるこの意向を取り除いたり、最小限にしたりすることは、ミサを十字架の犠牲から切り離すことであり、ミサを変質させることです。ところが、これが、新しいミサの典礼で起こったことであり、私たちが、この新しい典礼を良くないと非難する理由の一つが、このことなのです。
ミサにおけるイエズスの奉献の行為は、十字架上のイエズスの奉献の行為と関係していますが、この二つの行為は、別のものです。両者の間には違いがあるのです。その違いは、どのようなものでしょうか? カルワリオでは、すべての贖いが完全に獲得されましたが、分配はされませんでした。ミサでは、何も獲得されませんが、すべてが分配されます。言い換えれば、カルワリオでは、すべての恩寵の巨大な貯蔵庫が作られ、ミサでは、これらの恩寵が、私たちの聖性の状態に応じて分配されるのです。
結論
親愛なる信者の皆さん、聖なるミサは、カルワリオの十字架の犠牲と同じ価値を持っています。聖なるミサは、十字架上のイエズスの犠牲と同じく、私たちのキリスト的生活、私たちの永遠の救いに、不可欠なものです。ですから、この聖木曜日に、ミサに対する感謝の気持ちを新たにし、ミサを変質させたり、ミサの効力を弱めたりするすべての人々から、ミサを守る決意を新たにしましょう。聖伝のミサのための私たちの戦いは、第一に私たちの霊魂の救いのために、第二に他の人たちの霊魂の救いのために、不可欠な戦いなのです。
共受難の聖母が、この戦いを、死ぬまで確実に続ける力を、私たちに取り成してくださいますように。