キリストの古聖所への降下についての説教
ドモルネ神父様(2022年4月17日)
はじめに
聖金曜日に、私たちの主イエズス・キリストは、十字架上で亡くなられました。死とは、肉体から霊魂が分離することです。イエズスの御体は墓に納められ、その霊魂は、地獄の古聖所に降下されたのです。私たちは、使徒信経で、このように言います。「イエズスは、十字架につけられ、死して葬られ、古聖所に降りて三日目に、死者のうちよりよみがえり給う」。今日は、このイエズスの古聖所への降下についてお話しします。
1.「地獄」の概念
「地獄」とは、「黄泉の国」、つまり「この世より低く、下にある場所」という意味です。「地獄」という言葉は、死後、天主の至福直観と永遠の幸福を奪われたすべての霊魂がいる場所を意味します。聖パウロは、このような場所の存在について、たとえば、次の箇所で述べています。「イエズスの御名の前に、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものも、みなひざをかがめ…る」(フィリッピ2章10節)。地獄が三つに分けられているのは、永遠の幸福を奪われた霊魂が、三つに分類されるからです。
まず、悪魔と呪われた者たちの地獄があります。ここは、大罪の状態で死んだ者が、永遠の罰を受ける場所です。主は、福音の中で、この場所についてこう述べておられます。「呪われた者よ、私から離れて、悪魔とその使いたちのために備えられた永遠の火に入れ」(マテオ25章41節)。
次に、煉獄があります。煉獄とは、成聖の恩寵の状態で死んだものの、自分の罪の償いを十分に果たしていなかった者が、苦しみによって清められる場所です。これらの霊魂は、天主の至福直観を許していただく前に、自らの償いを終えなければなりません。
最後に、古聖所があります。聖書の中では、「アブラハムのふところ」とも呼ばれる場所です。ここは、まさに、原罪に対する罰の場所です。原罪のため、霊魂は、天主を直接見て、永遠の幸福にあずかるという権利を失っています。十字架上のイエズスの犠牲によってのみ、この権利が、人間に返されるのです。ですから、イエズスのご受難と死の前には、誰も天国に入ることができませんでした。成聖の恩寵の状態で死んで、個人的な罪の償いを終えたすべての人々は、贖いの成就を、古聖所で待たなければなりませんでした。私たちが、「イエズスは古聖所に降りて」と言うのは、イエズスが古聖所にいるこれらの聖なる霊魂たちを訪ねに行かれた、という意味です。私たちの主は、悪魔のいる地獄や、煉獄に行かれたのではありません。
2.古聖所への降下の理由
イエズスは、ご自分の霊魂において、古聖所に降り給うたのです。イエズスは、自由に、つまり、そのような義務がなかったにもかかわらず、行かれたのです。むしろ、イエズスは、そこに行くことを望まれました。なぜでしょうか?
イエズスが古聖所に降り給うたのは、まず第一に、私たちの罪による罰を負って、最後までそれを償うためです。実際、預言者イザヤが、イエズスについてこう述べているようにです。「実に、彼は、私たちの労苦を背負い、私たちの苦しみを担った」(イザヤ53章4節)。また、聖トマスは、次のような注釈をしています。「人間は、自分の罪のために、肉体的に死に、地獄に落ちるという罰を受けた。それゆえ、キリストは、われわれを死から解放するために、肉体的に死ななければならなかったように、われわれ自身が地獄に落ちるのを防ぐために、自ら地獄に降ることを望まれたのである」(神学大全IIIa第52質問第1条)。
ですから、イエズスは、悪魔に対する完全な勝利をはっきりと示すために、地獄に降り給うたのです。聖トマスも、こう言っています。「誰かに対して完全に勝利するのは、戦場で相手を倒すことによるだけでなく、相手の本拠地に侵入し、相手をその王国の王位から退位させることにもよるのである」。イエズスにとっても、同じです。イエズスは、十字架上で悪魔を打ち負かされ、次に、地獄に降り給うことによって、サタンの王国に侵入されました。地獄が「サタンの王国」と呼ばれているのは、永遠の幸福から追放される場所であり、サタンはそのように追放された最初の者であったからです。
イエズスは、悪魔のいる地獄では、悪魔と呪われた者たちに、彼らすべてに対するイエズスの力を、恐ろしいほど実感させることによって、ご自分の勝利をはっきりと示されたのです。イエズスはまた、煉獄では、償いが終わり次第、天国に行けるという甘美な希望を、そこにいた霊魂たちに伝えることによって、ご自分の勝利をはっきりと示されたのです。最後に、イエズスは、古聖所においては、そこにいた義人の霊魂たちに、ご自分の受難の実りを直ちに適用することによって、ご自分の勝利をはっきりと示されたのです。イエズスは、ただちに、彼らに天主の喜びをあたえられたのです。それは、集会書にこう書かれているとおりでした。「私は、地の下のすべての場所を訪ね、眠っているすべての者を見、主に望むすべての者を照らす」(集会書24章45節)。だからこそ、イエズスは、良き盗賊に対して、まことにこう言うことがおできになったのです。「まことに私は言う。今日、あなたは、私とともに天国にいるであろう」(ルカ23章43節)。
結論
親愛なる信者の皆さん、イエズスの古聖所への降下は、復活祭の喜びの一部です。実際、古聖所への降下がはっきりと示しているのは、キリストの悪魔に対する完全な勝利と、最初の人間たちへの永遠の栄光という賜物です。「復活祭」とは、「過ぎ越し」という意味でもあります。
復活祭は、私たちが、死から命へ、悪魔の奴隷の状態から天主の子としての自由へ、地獄に落ちるという悲しみから天主との一致という喜びへ、過ぎ越すことを祝う日です。これらはすべて、私たちの主イエズス・キリストと、童貞聖マリアのおかげなのです。
しかし、聖トマスの次の警告を覚えておきましょう。「キリストは罪人のために受難の苦しみを受け、地獄に降られたが、そこにいたすべての霊魂を解放されたのではなく、大罪のない者たちだけを解放されたのである。キリストは、大罪の状態で死んだ霊魂たちを、地獄に残されたのである」。ですから、すべての人がイエズス・キリストによって自動的に救われる、というプロテスタントの誤りによって、思い違いをしないようにしましょう。
私たちの主イエズスが、そのご復活の功徳によって、私たちが大罪を避け、常に主の友情のうちに生きるよう、霊的な戦いにおいて、私たちを強めてくださいますように。