アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様が2015年9月13日の主日の聖伝のミサのお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
「Cantate Domino canticum novum, quia mirabilia fecit Dominus !
主に新しい歌を歌え、主は不思議を行い給うた!」
親愛なる兄弟の皆さん、
このきょうのアレルヤ誦の歌詞の中で、私たちは、新しい歌で天主への賛美を歌うよう強く勧められています。このことは、古い歌がすでにあったものの、今は新しくてもっと良い歌うべき歌があるということを暗示しています。最初の歌は創造の歌であって、創造において天主がなされた驚くべきことについて天主を賛美します。新しい歌は贖いの歌であって、贖いにおいて天主がなされたさらに驚くべきことについて天主をより一層賛美します。
実際、天主は人間を創造され、人間を「創造の司祭」として、すべての物質的被造物の頂点に置かれました。天主から来るものは天主に帰るべきです。しかし、天主には私たちが必要ではありませんし、創造の必要もありません。天主は絶対的に完全ですから、天主がまだお持ちでない何かを私たちが捧げることができるでしょうか? 被造物が天主に捧げるものは「賛美」です。たとえば、天主が完全であることを認めること、天主を全善の至高なる源として認めること、天主の知恵や力、善、この最も偉大なる芸術家について証言することです。このように、天主が創造において置かれた美を黙想すれば、すなわち、夕日や虹の素晴らしさから花の繊細さまで、銀河の力強さから小さなコアラの優しさまで、雷の力から鳥の甘い鳴き声まで黙想すれば、人は大声で叫ぶのです。「われらの主よ、天主よ、地に満ち満ちるみ名のその偉大さ。天上にあるその威光」(詩篇8章2節)。「主のすべての御業よ、主を祝せよ、主をほめ、代々にたたえよ」(ダニエル3章57節)。「日と月よ、主をほめよ、輝く星はみな主をほめよ」(詩篇148章3節)。これが「創造の歌」です。
地上での人間のすべての活動は、天主への賛美に向かうべきであり、私たちが天主からお受けした恩恵をすべて、このようにして天主に帰すのです。ですから、修道院で多くの霊魂が天主への賛美のためにその全生涯を奉献するのは良いことです。この奉献生活において、詩篇を歌いながら、まことに天主のために生きるのです。司祭もまた、「聖務日課」によって天主に賛美を捧げます。これが、エデンの園におけるアダムとエバの主な活動でした。そうすることで、人間は天主への感謝という使命を果たし負債を返し、また、永遠の生命に入る準備をします。つまり顔と顔を合わせて天主を黙想できるようにし、人間の言葉で表せない無限にすぐれた方法で天主の素晴らしさを歌うことができるようにするのです。そして、それが永遠の喜び、永遠の至福となるのです。
しかし、この「創造の歌」を忠実に歌うことによって天主に帰る代わりに、人間は罪に落ち、被造物を創造主に帰るために使わずに、被造物に究極の目的を置いたのです。天主を忘れ、究極の目的として地上のものに愛着したため、人間は自分のための富や楽しみ、権力を蓄積することを追い求め、もはや天主に仕えることをしませんでした。罪は地上の生き物に、特に人間に、無秩序、悪を招き入れました。天主は、悪が広がるのに任せたり、悪に最終決定権を持たせたりするつもりはありませんでした。ですから、天主は償いを要求することによって正義の秩序を回復させました。しかし、建て直すよりも破壊することの方が簡単です。堕落することはできた人間ですが、自分で立ち上がることはできませんでした。人間は、天主がお与えくださった霊的な命を殺すことはできましたが、自分で命に帰ることはできませんでした。そのため、天主はその無限の御あわれみによって、すべての創造を合わせたもの以上の美しい御業を考案されました。贖いの御業です。
天主の栄光を回復させるため、堕落した人間、罪深い人間を癒やすため、人間を命に戻すため、天主は世の救い主として御独り子を送り、私たちの罪と全世界の罪の償いを御子に支払わせ、恩寵によってこれらの霊魂を癒やし、私たちを天主の子として養子にしようと決心されました。御托身と贖いほど、素晴らしい天主の愛を証明するものはありうるはずがないのです。「天主は御独り子を与え給うたほどこの世を愛された。それは、彼を信じる人々がみな滅びることなく永遠の命を受けるためである」(ヨハネ3章16節)。「私たちに対する天主の愛はここに現れた。すなわち、天主のその御独り子を世に遣わされた。それは私たちをみ子によって生かすためである」(一ヨハネ4章9節)。「主が私たちのために命を捧げられたことによって、私たちは愛を知った」(一ヨハネ3章16節)。
この驚くべき天主の愛は、罪びとをさげすむことなく、身をかがめて罪びとを罪のみじめさから引き上げて癒やし、天主の子という驚くべき状態に高めてくれます。この愛は「天主の御あわれみ」です。天主は無限にあわれみ深く、私たちを救うために御独り子を送られることによって、その御あわれみを人間に向けることを明らかにされました。私たちが天主の御あわれみを黙想すればするほど、私たちは大声でこう叫ぶはずです。「主の御あわれみを永遠に歌おう」(詩篇88章2節)。これが「贖いの歌」です。これは幼きイエズスの聖テレジアの自伝にある最初の言葉です。聖テレジアは天主の御あわれみを理解していました。「私は自分の命にかけて言う―主のお告げ―。私は、悪人の死ではなく、むしろ、悪人がその道を改めて生きるようにと望む悪人たちよ、生き方を変えよ。なぜ、死を望むのか、イスラエルの家よ」(エゼキエル33章11節)。罪がいかに大きくあろうとも、天主の御あわれみはさらに大きいのです。天主は、罪びとを改心させ、彼を命へと戻すことがおできになるし、そう望まれます。
天主は、この私たちの改心を望まれるだけでなく、罪びとが罪から立ち帰るよう助けてくださいます。どのようにしてでしょうか? まず第一に、天主は罪びとの罪の負債、償いを支払ってくださいました。そうすれば、罪びとの心はそういう恩人に引きつけられます。犯罪者が隣人の家に火をつけたとしましょう。もちろん、彼に家を建て直す資金はありません。彼は投獄されます。さて、誰かがやって来て、家を建て直す代価を支払い、そうすることでこの囚人に自由を得させるとしましょう。この犯罪者はこの恩人に感謝するのではありませんか。私たちは、自分の罪によってこの犯罪者であったのです。天主を賛美しないことによって、被造物を乱用することによって、私たちは支払うことが不可能な負債をこうむっていたのです。キリストが私たちの負債を支払ってくださいました。私たちは永遠にキリストに感謝しなければなりません。天主がこのことを私たちに理解させてくださるとき、天主は私たちの心を引きつけて天主に帰らせてくださるのです。
私たちが攻撃していた天主、その天主の善を、私たちが一旦理解したならば、私たちはマリア・マグダレナのように行動しなければなりません。罪を嘆き、罪の悔い改め、罪を忌み嫌い、「痛悔」によって私たちの罪深い心を砕かなければなりません。罪を忌み嫌わなければ、天主へのまことの愛はありません。罪を忌み嫌わない人は、まことに天主を愛するとどのようにして宣言できるのでしょうか。罪を忌み嫌えば必ず、生活を本当に改めます。つまり過去の罪の悔い改めをし、将来の罪の機会を避け、それを避ける手段を取るのです。祈りや黙想、公教要理の勉強、そして善業を、まことに日常的に行うのです。また、私たちの主イエズス・キリストがあらゆる方法で私たちを助けてくださいます。あらゆる徳の究極の模範として、最初に私たちのために十字架を担われたことから、この悔い改めの道で私たちを励ましてくださるだけでなく、この悔い改めの道で私たちを内的に強めてくださいます。これは「清めの生活」であり、霊的生活の第一段階です。ここで中心となるのは罪を避け、過去の罪を償うことです。そのとき、主を畏れることは、主をお喜ばせしないあらゆることを避けるのに大きな助けとなります。まさに知恵の始めです。このように、マリア・マグダレナのように、天主の愛を理解し、天主へ立ち帰ることを望む罪びとは、罪を嘆きながら強い痛悔の心をもって、また罪とその機会を絶対に避け、それらを避ける手段を取るという固い意志と決意をもって、私たちの主イエズス・キリストのところに行かなければなりません。例えば、テレビが罪の機会であるならば、それを取り除いてください。ためらってはいけません。「またもしその目があなたに罪を犯させるならそれを抜き取れ、片目で天主の国に入るのは、両眼があってゲヘナに投げ込まれるよりもよい。そこではうじは失せず、その火は消えぬ」(マルコ9章46-47節)。
良い告白とまことの悔い改めによって一旦罪から解放されたなら、その霊魂は今や自由に「贖いの歌」を歌います。すなわち、私たちの主イエズス・キリストへの愛から来る徳を実践しようと努め、主をまねて、いつも主のことをもっと知ろうとします。これは「照らしの生活」です。ここでの霊的生活の中心となるのは、黙想することとあらゆる善業を実践することを通して、私たちの主イエズス・キリストをより一層知り、愛することです。これは、もう悔い改めをしないということではありません。それどころか、私たちの主イエズス・キリストを知れば知るほど、愛すれば愛するほど、過去の罪を忌み嫌い、その償いを行い続けるのです。しかし、これらはもっと易しくになります。それはこの霊的生活の第二段階には愛がさらに多くあるからです。ですから、天主の愛はあらゆる徳を行うのを易しくするのです。
この徳と善業の生活において忍耐によって、「一致の生活」へ到達します。霊的生活のこの第三にして最高の段階は以下の通りです。中心となるのは、生活のあらゆる面を愛が統治することによって、私たちの主イエズス・キリストにおいて、いつももっともっと深く天主と一致することです。祈りはさらに単純で深くなり、徳はさらに強く完全になり、正しいことをするよう注意を払うだけでなく、天主の純粋な愛に到達しようとして、動機を純粋にするよう注意を払います。いつものことながら、そのような深い霊的生活はまた、より大きな十字架を担います。そこにおいては、他の多くの人々の改心を得るために、キリストと共に贖いの神秘に入るのです。これが地上における聖人の生活であり、差し迫った天国への準備なのです。
第一のアダムは「創造の歌」を上手に歌い始めましたが、その後、みじめにも堕落し、そのすべての子孫を自分の堕落へと引き込みました。教会の教えによると、第一のアダムは悔い改めて「贖いの歌」を痛切に歌い、新しいアダムが彼、第一のアダムが引き起こしたダメージを癒やし、修復させるのを待ちました。新しいアダムがやって来て、「創造の歌」と「贖いの歌」を最も完全に歌いました。しかし、さらに高貴であることには、彼は永遠のみ言葉として、御父を永遠に賛美する完全な歌なのです。私たちの地上におけるあらゆる歌は、かすかなこだまに過ぎないのです。天の聖人たちになれば、この永遠の歌を聞くことでしょう。これは、聖人たちの永遠の至福となるでしょう。聖人たちはこの永遠のみ言葉、私たちの主イエズス・キリストと一致し、キリストにおいて、キリストと共に、キリストによって御父への賛美を聖霊の燃える火の中で歌うのです。私たちが、この天の聖歌隊、天のオーケストラに入ることが認められますように。そこでは、聖パウロの次の言葉が完全に成就するのです。「キリストのみ言葉をあなたたちの中に豊かに住まわせ、すべての知恵によって教え合い、戒め合い、心の底から、恩寵によって詩の歌と賛美の歌と霊の歌をもって天主をことほげ」(コロサイ3章16節)。
地上において最も喜びに満ちた声でこれらの歌を歌われた童貞聖マリアが、天国で聖母と共にその歌を歌うことのできる恩寵を私たちのために取り成してくださいますように。アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様が2015年9月13日の主日の聖伝のミサのお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
「Cantate Domino canticum novum, quia mirabilia fecit Dominus !
主に新しい歌を歌え、主は不思議を行い給うた!」
親愛なる兄弟の皆さん、
このきょうのアレルヤ誦の歌詞の中で、私たちは、新しい歌で天主への賛美を歌うよう強く勧められています。このことは、古い歌がすでにあったものの、今は新しくてもっと良い歌うべき歌があるということを暗示しています。最初の歌は創造の歌であって、創造において天主がなされた驚くべきことについて天主を賛美します。新しい歌は贖いの歌であって、贖いにおいて天主がなされたさらに驚くべきことについて天主をより一層賛美します。
実際、天主は人間を創造され、人間を「創造の司祭」として、すべての物質的被造物の頂点に置かれました。天主から来るものは天主に帰るべきです。しかし、天主には私たちが必要ではありませんし、創造の必要もありません。天主は絶対的に完全ですから、天主がまだお持ちでない何かを私たちが捧げることができるでしょうか? 被造物が天主に捧げるものは「賛美」です。たとえば、天主が完全であることを認めること、天主を全善の至高なる源として認めること、天主の知恵や力、善、この最も偉大なる芸術家について証言することです。このように、天主が創造において置かれた美を黙想すれば、すなわち、夕日や虹の素晴らしさから花の繊細さまで、銀河の力強さから小さなコアラの優しさまで、雷の力から鳥の甘い鳴き声まで黙想すれば、人は大声で叫ぶのです。「われらの主よ、天主よ、地に満ち満ちるみ名のその偉大さ。天上にあるその威光」(詩篇8章2節)。「主のすべての御業よ、主を祝せよ、主をほめ、代々にたたえよ」(ダニエル3章57節)。「日と月よ、主をほめよ、輝く星はみな主をほめよ」(詩篇148章3節)。これが「創造の歌」です。
地上での人間のすべての活動は、天主への賛美に向かうべきであり、私たちが天主からお受けした恩恵をすべて、このようにして天主に帰すのです。ですから、修道院で多くの霊魂が天主への賛美のためにその全生涯を奉献するのは良いことです。この奉献生活において、詩篇を歌いながら、まことに天主のために生きるのです。司祭もまた、「聖務日課」によって天主に賛美を捧げます。これが、エデンの園におけるアダムとエバの主な活動でした。そうすることで、人間は天主への感謝という使命を果たし負債を返し、また、永遠の生命に入る準備をします。つまり顔と顔を合わせて天主を黙想できるようにし、人間の言葉で表せない無限にすぐれた方法で天主の素晴らしさを歌うことができるようにするのです。そして、それが永遠の喜び、永遠の至福となるのです。
しかし、この「創造の歌」を忠実に歌うことによって天主に帰る代わりに、人間は罪に落ち、被造物を創造主に帰るために使わずに、被造物に究極の目的を置いたのです。天主を忘れ、究極の目的として地上のものに愛着したため、人間は自分のための富や楽しみ、権力を蓄積することを追い求め、もはや天主に仕えることをしませんでした。罪は地上の生き物に、特に人間に、無秩序、悪を招き入れました。天主は、悪が広がるのに任せたり、悪に最終決定権を持たせたりするつもりはありませんでした。ですから、天主は償いを要求することによって正義の秩序を回復させました。しかし、建て直すよりも破壊することの方が簡単です。堕落することはできた人間ですが、自分で立ち上がることはできませんでした。人間は、天主がお与えくださった霊的な命を殺すことはできましたが、自分で命に帰ることはできませんでした。そのため、天主はその無限の御あわれみによって、すべての創造を合わせたもの以上の美しい御業を考案されました。贖いの御業です。
天主の栄光を回復させるため、堕落した人間、罪深い人間を癒やすため、人間を命に戻すため、天主は世の救い主として御独り子を送り、私たちの罪と全世界の罪の償いを御子に支払わせ、恩寵によってこれらの霊魂を癒やし、私たちを天主の子として養子にしようと決心されました。御托身と贖いほど、素晴らしい天主の愛を証明するものはありうるはずがないのです。「天主は御独り子を与え給うたほどこの世を愛された。それは、彼を信じる人々がみな滅びることなく永遠の命を受けるためである」(ヨハネ3章16節)。「私たちに対する天主の愛はここに現れた。すなわち、天主のその御独り子を世に遣わされた。それは私たちをみ子によって生かすためである」(一ヨハネ4章9節)。「主が私たちのために命を捧げられたことによって、私たちは愛を知った」(一ヨハネ3章16節)。
この驚くべき天主の愛は、罪びとをさげすむことなく、身をかがめて罪びとを罪のみじめさから引き上げて癒やし、天主の子という驚くべき状態に高めてくれます。この愛は「天主の御あわれみ」です。天主は無限にあわれみ深く、私たちを救うために御独り子を送られることによって、その御あわれみを人間に向けることを明らかにされました。私たちが天主の御あわれみを黙想すればするほど、私たちは大声でこう叫ぶはずです。「主の御あわれみを永遠に歌おう」(詩篇88章2節)。これが「贖いの歌」です。これは幼きイエズスの聖テレジアの自伝にある最初の言葉です。聖テレジアは天主の御あわれみを理解していました。「私は自分の命にかけて言う―主のお告げ―。私は、悪人の死ではなく、むしろ、悪人がその道を改めて生きるようにと望む悪人たちよ、生き方を変えよ。なぜ、死を望むのか、イスラエルの家よ」(エゼキエル33章11節)。罪がいかに大きくあろうとも、天主の御あわれみはさらに大きいのです。天主は、罪びとを改心させ、彼を命へと戻すことがおできになるし、そう望まれます。
天主は、この私たちの改心を望まれるだけでなく、罪びとが罪から立ち帰るよう助けてくださいます。どのようにしてでしょうか? まず第一に、天主は罪びとの罪の負債、償いを支払ってくださいました。そうすれば、罪びとの心はそういう恩人に引きつけられます。犯罪者が隣人の家に火をつけたとしましょう。もちろん、彼に家を建て直す資金はありません。彼は投獄されます。さて、誰かがやって来て、家を建て直す代価を支払い、そうすることでこの囚人に自由を得させるとしましょう。この犯罪者はこの恩人に感謝するのではありませんか。私たちは、自分の罪によってこの犯罪者であったのです。天主を賛美しないことによって、被造物を乱用することによって、私たちは支払うことが不可能な負債をこうむっていたのです。キリストが私たちの負債を支払ってくださいました。私たちは永遠にキリストに感謝しなければなりません。天主がこのことを私たちに理解させてくださるとき、天主は私たちの心を引きつけて天主に帰らせてくださるのです。
私たちが攻撃していた天主、その天主の善を、私たちが一旦理解したならば、私たちはマリア・マグダレナのように行動しなければなりません。罪を嘆き、罪の悔い改め、罪を忌み嫌い、「痛悔」によって私たちの罪深い心を砕かなければなりません。罪を忌み嫌わなければ、天主へのまことの愛はありません。罪を忌み嫌わない人は、まことに天主を愛するとどのようにして宣言できるのでしょうか。罪を忌み嫌えば必ず、生活を本当に改めます。つまり過去の罪の悔い改めをし、将来の罪の機会を避け、それを避ける手段を取るのです。祈りや黙想、公教要理の勉強、そして善業を、まことに日常的に行うのです。また、私たちの主イエズス・キリストがあらゆる方法で私たちを助けてくださいます。あらゆる徳の究極の模範として、最初に私たちのために十字架を担われたことから、この悔い改めの道で私たちを励ましてくださるだけでなく、この悔い改めの道で私たちを内的に強めてくださいます。これは「清めの生活」であり、霊的生活の第一段階です。ここで中心となるのは罪を避け、過去の罪を償うことです。そのとき、主を畏れることは、主をお喜ばせしないあらゆることを避けるのに大きな助けとなります。まさに知恵の始めです。このように、マリア・マグダレナのように、天主の愛を理解し、天主へ立ち帰ることを望む罪びとは、罪を嘆きながら強い痛悔の心をもって、また罪とその機会を絶対に避け、それらを避ける手段を取るという固い意志と決意をもって、私たちの主イエズス・キリストのところに行かなければなりません。例えば、テレビが罪の機会であるならば、それを取り除いてください。ためらってはいけません。「またもしその目があなたに罪を犯させるならそれを抜き取れ、片目で天主の国に入るのは、両眼があってゲヘナに投げ込まれるよりもよい。そこではうじは失せず、その火は消えぬ」(マルコ9章46-47節)。
良い告白とまことの悔い改めによって一旦罪から解放されたなら、その霊魂は今や自由に「贖いの歌」を歌います。すなわち、私たちの主イエズス・キリストへの愛から来る徳を実践しようと努め、主をまねて、いつも主のことをもっと知ろうとします。これは「照らしの生活」です。ここでの霊的生活の中心となるのは、黙想することとあらゆる善業を実践することを通して、私たちの主イエズス・キリストをより一層知り、愛することです。これは、もう悔い改めをしないということではありません。それどころか、私たちの主イエズス・キリストを知れば知るほど、愛すれば愛するほど、過去の罪を忌み嫌い、その償いを行い続けるのです。しかし、これらはもっと易しくになります。それはこの霊的生活の第二段階には愛がさらに多くあるからです。ですから、天主の愛はあらゆる徳を行うのを易しくするのです。
この徳と善業の生活において忍耐によって、「一致の生活」へ到達します。霊的生活のこの第三にして最高の段階は以下の通りです。中心となるのは、生活のあらゆる面を愛が統治することによって、私たちの主イエズス・キリストにおいて、いつももっともっと深く天主と一致することです。祈りはさらに単純で深くなり、徳はさらに強く完全になり、正しいことをするよう注意を払うだけでなく、天主の純粋な愛に到達しようとして、動機を純粋にするよう注意を払います。いつものことながら、そのような深い霊的生活はまた、より大きな十字架を担います。そこにおいては、他の多くの人々の改心を得るために、キリストと共に贖いの神秘に入るのです。これが地上における聖人の生活であり、差し迫った天国への準備なのです。
第一のアダムは「創造の歌」を上手に歌い始めましたが、その後、みじめにも堕落し、そのすべての子孫を自分の堕落へと引き込みました。教会の教えによると、第一のアダムは悔い改めて「贖いの歌」を痛切に歌い、新しいアダムが彼、第一のアダムが引き起こしたダメージを癒やし、修復させるのを待ちました。新しいアダムがやって来て、「創造の歌」と「贖いの歌」を最も完全に歌いました。しかし、さらに高貴であることには、彼は永遠のみ言葉として、御父を永遠に賛美する完全な歌なのです。私たちの地上におけるあらゆる歌は、かすかなこだまに過ぎないのです。天の聖人たちになれば、この永遠の歌を聞くことでしょう。これは、聖人たちの永遠の至福となるでしょう。聖人たちはこの永遠のみ言葉、私たちの主イエズス・キリストと一致し、キリストにおいて、キリストと共に、キリストによって御父への賛美を聖霊の燃える火の中で歌うのです。私たちが、この天の聖歌隊、天のオーケストラに入ることが認められますように。そこでは、聖パウロの次の言葉が完全に成就するのです。「キリストのみ言葉をあなたたちの中に豊かに住まわせ、すべての知恵によって教え合い、戒め合い、心の底から、恩寵によって詩の歌と賛美の歌と霊の歌をもって天主をことほげ」(コロサイ3章16節)。
地上において最も喜びに満ちた声でこれらの歌を歌われた童貞聖マリアが、天国で聖母と共にその歌を歌うことのできる恩寵を私たちのために取り成してくださいますように。アーメン。