2022年4月23日(土)白衣の土曜日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、今日は白衣の土曜日(Sabbato in Albis)とも言われております。なぜかというと、今日で復活の八日が終わろうとしており、復活の徹夜祭で洗礼を受けた方は、あるいは今日、あるいは明日、洗礼の時に受けた勝利の衣を脱いで、教会の保管場所に置くことになっていたからです。
ですから今日の書簡でも、今日の福音でも、このことが語られます。朝まだきに、復活のその日の朝、マグダレナ・マリアは、主の墓が空っぽであるということを弟子たちに使徒たちに告げに行きました。聖ヨハネと聖ペトロは、墓の中に主のくるまっていた布が、あるいは顔に被せられていた布が取られて、そのまま脱がされて隅に一つにまとまって置かれていたのを見ました。ちょうど洗礼を受けた人が、自分の受けた布を畳んで保管所に戻すかのようです。
聖ペトロも、今日の書簡で同じことを言います。私たちは、悪意と以前の罪の生活を脱いで、それを脱ぎ去って、生まれたばかりの乳飲み子のようにならなければならないと言っています。
今日、では教会は私たちに一体何を言いたいのでしょうか?
この今までの地上の生活の、この世の考え方、この世の生き方、この地上だけのことを考える生き方を脱いで、イエズス・キリストの復活の命を生きると招いています。
私たちの目的はこの地上ではなくて、永遠の命にあること、この地上でのことが、どのように苦しいことでも、辛いことでも、嫌なことでも、実はそれはあっという間に終わって、これをすぐに脱ぎ去って、永遠の終わることのないイエズス・キリストとの共の命が待っているということを私たちに教えようとしています。
私たちがいつも目指すべきは、この地上の十字架の次にある栄光の復活である、ということです。そうする時に初めて、私たちの受ける十字架が、実はこれは特別の御恵みである、ということが分かります。
辛い、あるいは嫌な、あるいは逃げたい、あるいは…ということは、実は本当は主から送ることが許されて、実は私たちの栄光の冠の種となって、本当は私たちに勝利の栄冠を与えようと、その機会を下さった、ということになるからです。十字架を通してのみ、栄光が与えられるからです。戦ってのみ、勝利が与えられるからです。
ですから今日、私たちは洗礼を受けた方々のように、地上の、あるいはあまりにも地上的なこの世の世界のことだけを考える見方を捨てて、イエズス・キリストの見方を、イエズス・キリストの考え方を、イエズス・キリストが思うような、永遠の命を求める生活をする御恵みを乞い求めましょう。
最後にマリア様にお祈り致しましょう。マリア様は私たちに、母として至福の生命へと招いて導いて下さるからです。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。