栄光を受けた肉体の性質についての説教
ドモルネ神父様(2022年4月24日)
はじめに
今日の福音では、死者の中からよみがえられたイエズスが、使徒たちと聖トマにご出現になった話を読みます。今日は、世の終わりに、すべての死者が復活した後、私たちの肉体がどうなるかについて、お話ししようと思います。
1.復活した人間の肉体の状態
すべての人は、死ななければなりません。このことは、私たちの周りで起こることを見れば、明らかです。また、聖パウロもこう言っています。「一人の人によって罪が世に入り、また罪によって死が世に入って、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に及んだ」(ローマ5章12節)。しかし、天主は、世の終わりに、すべての人を、死者の中からよみがえらせることを啓示されました。天主は、特に、義人ヨブ(ヨブ記19章26節)、預言者ダニエル(ダニエル12章2節)やエゼキエル(エゼキエル37章1-6節)を通して、それを告げられました。私たちの主イエズスご自身も、この復活が現実に起こることを断言されました(マテオ22章31節)。
天主は、私たちの天国での幸せ、または地獄での罰を完全なものにするために、私たちの肉体を復活させられます。実際、私たちは人間であり、肉体と霊魂が自然に結合して造られています。人間の本性にしたがって、私たちの霊魂は、肉体を通じて行動し、自らを表現します。霊魂は、肉体から独立して存在することができますが、それは、霊魂にとっては、異常で不完全な状況です。したがって、天国での幸せ、または、地獄での罰が完全なものになるために、世の終わりには、私たちの肉体は、再び、私たちの霊魂と結合しなければならないのです。
私たちが、今持っているのと同じ肉体で、死者の中からよみがえることは、明らかです。もし、違う体でよみがえるなら、私たちは、もはや自分自身ではなく、別の人になってしまうからです。義人ヨブは、聖霊の霊感を受けて、こう言いました。「皮膚がこのようにきれぎれになってのち、私はこの肉で、天主をながめるだろう。この私自身が、ながめるだろう。他人ではない、私自身の目で見るだろう」(ヨブ19章26-27節)。このように、男は男として、女は女として、よみがえるのです。
天国での幸せ、または、地獄での罰を完全なものにするために、天主は、私たちの肉体を、完全な状態でよみがえらせられます。このことが意味するのは、私たちの肉体が、完全に発達して、本来の能力を最大限に発揮する、33歳ごろのようになる、ということです。私たちの肉体は、年をとってももう衰えることはなく、もう死ぬこともなく、奇形や障害のない状態になります。私たちの肉体は完全な状態になるため、私たちの霊魂と完全に結合し、したがって、私たちの霊魂の幸せな状態、または、不幸な状態を、完全に共にするのです。
2.栄光を受けた肉体の性質
では、天国の聖人たちの復活した肉体の持つ、特別な性質を見てみましょう。それは四つあります。
第一に、天国では、私たちの霊魂は、私たちの肉体を、完全に制御します。この世で生きている間、私たちの肉体には、霊魂に制御されない部分があります。実際、私たちは、時には情欲を制御することが難しく、物忘れをし、想像に惑わされ、色欲に悩まされ、自分の弱さに落胆します。天国では、もうそのようなことはありません。私たちの肉体は、霊化されます。つまり、間違いなく、私たちの霊魂の完全な支配下に置かれるのです。このため、聖パウロは、コリント人にこう言ったのです。「動物的な体としてまかれ、霊の体によみがえる」(コリント前書15章44節)。聖人たちの復活した肉体の持つこのような性質は、「精敏」と呼ばれます。
第二に、天国では、私たちの肉体は完全に霊魂に従いますから、霊魂が望むように、ある場所から別の場所に瞬時に移動します。この世で生きている間、私たちの肉体の重さと弱さによって、私たちの移動は制限されています。この点についても、イエズスはこう言われました。「心は熱しても肉体は弱いものだ」(マテオ26章41節)。天国では、このような重さや弱さは、もう存在しません。このため、聖パウロは、コリント人にこう言ったのです。「体は弱いものとしてまかれ、強いものによみがえる」(コリント前書15章43節)。聖人たちの復活した肉体の持つこのような性質は、「敏捷性」と呼ばれます。
第三に、天国では、私たちの霊魂は、天主を顔と顔を合わせて見るのであり、いかなる苦しみもない、絶対的な幸せに満たされます。聖ヨハネは、これについて、黙示録の中でこう書いています。「天主は人の目の涙をすべてぬぐわれ、死はもうなく、悲しみも、叫びも、苦労もなくなる」(黙示録21章4節)。私たちの霊魂のこの絶対的な幸せは、私たちの肉体を、あらゆる苦しみや不快感から守り、それどころか、楽しいことや甘美なことをすべて感じさせるというかたちで、わたしたちの肉体に返ってくるのです。このため、聖パウロは、コリント人にこう言ったのです。「体は朽ちるものとしてまかれ、朽ちぬものによみがえる」(コリント前書15章42節)。聖パウロが言っているのは、こういう意味です。「この世で作られた肉体は、苦しみと死の支配下にあるが、復活した肉体は、もはや、どちらの支配下にもない」。聖人たちの復活した肉体の持つこのような性質は、「受苦不能性」と呼ばれます。
第四に、天国では、私たちの霊魂は、その功徳に比例した栄光を受けるのです。私たちの霊魂の栄光は、私たちの肉体に返ってきて、私たちの肉体に、たいへん特別な美しさと輝きを与えます。聖パウロは、コリント人にこう言いました。「体は卑しいものとしてまかれ、栄光あるものによみがえる」(コリント前書15章43節)。これは、私たちの肉体は、罪という卑しさのうちに受胎されたが、聖性の栄光のうちによみがえる、という意味です。聖人たちの復活した肉体の持つこのような性質は、「輝き」と呼ばれます。それぞれの聖人の輝きの度合いは、その聖人の霊魂の栄光に比例します。このことを私たちに理解させるために、聖パウロは、次のような比喩を用いています。「太陽の輝き、月の輝き、星の輝きは違い、この星とあの星の輝きも違う」(コリント前書15章41節)。
3.地獄に落ちた者の肉体の性質
もし、私たちが不幸にして地獄に落ちれば、私たちの肉体は、私たちの霊魂の罰を共に受け、私たちの霊魂の苦しみの源となります。私たちの肉体は、受苦不能性を持つ代わりに、地獄のあらゆる苦痛に対して、非常に敏感になります。輝きを持つ代わりに、私たちの肉体は醜くなり、この世での私たちの生活の悪徳と罪のしるしが残ります。精敏と敏捷性を持つ代わりに、私たちの肉体は、私たちの霊魂のいかなる活動をも妨げる、牢獄のようになります。
結論
親愛なる信者の皆さん、真にキリスト的な生活を送るためには、私たちは、償いをし、小斎と大斎を通して肉体の苦行を行い、働いて努力をし、乱れた快楽から離れ、人生の苦しみを耐え忍び、最後には死ななければなりません。この復活節の間、私たちの肉体と霊魂に、私たちの想像を超える報いが与えられるのですから、こういったすべての努力をすることには価値があることを、忘れないようにしましょう。