Quantcast
Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
Viewing all articles
Browse latest Browse all 4247

無原罪の聖母の騎士への手紙 第8号―アジア ファチマ100周年に向けて

$
0
0
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 シュテーリン神父様からの「無原罪の聖母の騎士への手紙 第8号―アジア」の日本語訳をご紹介いたします。

 神父様は、「無原罪の聖母の騎士」という名前を私たちに黙想することを提案しています。「無原罪の聖母」とは何か、「騎士」とは何か、そして「無原罪の聖母の騎士」とは何か、を順を追って黙想します。

 「無原罪の聖母の騎士」は、無原罪の聖母の唯一の望みを実現させようとそのことだけを望みます。すなわち、霊魂の救いです。霊魂を天国に導くことです。救霊です。

 ファチマの聖母マリア様の言葉がこだまします。「本当に多くの霊魂が、永遠の滅びに行っています。何故なら、彼らのために祈り、犠牲を捧する人が誰もいからです!」と。

 シュテーリン神父様は、最後に、再来年の2017年“ファチマ100周年”の準備のために、聖母マリア様がなさったのと同じ準備をさせようとお考えです。そこで、天使たちの子供たちへの前触れの御出現について黙想させます。

 どうぞお読み下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


無原罪の聖母の騎士への手紙 第8号―アジア

親愛なる無原罪の聖母の騎士の皆さん、

無原罪の聖母の騎士会を設立したとき、聖マキシミリアノ・コルベは、この会を他の信心会や第三会、マリア運動などと比較されたいとは思いませんでした。これらの信心会や団体は、会員に一定の祈りや信心業、具体的な使徒職を義務付けています。無原罪の聖母の騎士会の義務は、他の会より少なくもあり、多くもあります。

少ないというのは、一日に射祷を一回することと不思議のメダイを身に着けること以外に、騎士たちにはほとんど何も義務付けられていないからです。怠っても罪に定められてさえいません。

多いというのは、騎士たちは、いつでもどこでも従うべき大きな理想、新しい生活の法を与えられているからです。カトリック信者は、自分が正確に何者なのか、何者であるべきかということについて、深い理解力を受けています。つまり、個人的に祈るだけでなく、自分自身の救いのみを気にかけている個人主義者でもなく、戦闘の教会のメンバーの一人、私たちの主の弟子の一人でもあり、短い一生のうちに達成すべき非常に特別な任務を受け、イエズス・キリストの王国を拡張するために働きかつ戦う者という理解です。また、イエズス・キリストがその御母を、「キリスト教徒の軍隊の最高司令官」「黙示録の婦人」として任命なさったのであり、御母だけが龍と獣に対抗して立ち向かい、御母だけが「龍の頭を砕」き、「世のすべての異端を滅ぼす」との約束お受けになったのですから、聖母に自分を捧げ、聖母に奉仕する者となり、聖母のご意志を成就させ、聖母の子ども、奴隷、道具、兵士、使徒、軍団兵、騎士となるならば、カトリック信者だけが戦闘の教会で自分の役割と任務を果たすことができるのです。

朝目覚めるとき、皆さんは「私は何者だろうか」と自問します。その答えはこうあるべきです。「カトリック信者であり、無原罪の聖母の騎士である!」。そして、「きょうは何をすべきだろうか」と自問するとき、その答えはこうあるべきです。「私は、この一日のあらゆる小さなことに至るまで聖母の道具であり、だからきょうも、私たちの主の誉れのために、多くの霊魂の救いのために戦う。このようにして、私はわが主のこのご命令を達成しよう。『私があなたたちを愛したように、…あなたたちに模範を示したように、すべてを超えて天主を愛し、互いに愛し合え!』」。この考えが皆さんの霊魂に深くまで入れば入るほど、知性や心、意志、感情に浸透すればするほど、思考や言葉、行動に浸透すればするほど、朝から晩まで影響を与えれば与えるほど、皆さんはどんどん深く無原罪の聖母の騎士になっていくのです!

騎士になるためには、自分の人生の新たな法としてこの素晴らしい考えを受け入れようという意志を持てさえすれば(これが奉献の祈りです)十分です。(できるなら)少なくとも一日に一回はそれを思い出し、少なくとも一日に一回は聖母が霊魂を救う手助けをする聖母の道具として何かをすること、それが射祷一回だけであっても十分です。そうすると、皆さんは少なくとも一日に一回、本当に価値のある永遠のこと、天主をお喜ばせすることをしたことになるのです。少なくとも一日に一回、皆さんは自分の指を聖母に差し出したことになるのです。その小さな手ぶりは聖母に忘れられることはなく、しばしば聖母は、あわれな罪びとをその愛すべき御心に引き寄せて、罪びとに罪をやめさせ、聖性を成長させる機会をお与えになると、私たちの聖コルベは約束します。

しかしながら、無原罪の聖母がその子どもであり騎士である者に、さらにもっとお与えになるのは明らかです。事実、私は、自分の短い人生において、聖母の御手の道具としての役割についてもっともっと理解を深めています。ですから、それについて(これから)もっともっと考えるようになるでしょうし、聖母が人間をまことに幸福にし、サタンの支配から人間を解放するのをもっともっとお助けしようするでしょう。自分が無原罪の聖母の騎士であるとの思いは、何か私の活動の駆動装置、意欲の源のようであり、私の霊魂に隠された潜在能力や力強さ、才能を目覚めさせてくれ、少しずつ私の人生を変えていってくれます。そのうち、心が狭く、自己中心的で、怠慢で、退屈した、無関心なキリスト教徒は、理想に満ち、目に愛の炎を燃やした人間、霊魂の狩人となるのです。これこそがまさに、無原罪の聖母の騎士の歴史であり、その驚くべき成功の秘訣なのです。

1917年から1974年まで、この新しい命の法によって霊感を与えられた何百万もの素朴なカトリック信者が完全に別の人に変わって聖母の熱心な兵士となり、百人以上の福者や聖人、何千人もの英雄的霊魂が東ヨーロッパの無神論的共産主義国家において、天主の権利のために戦って命を捧げました。また、全世界の人々をカトリックの真理へと回心させた数えきれないほどたくさんの聖母の騎士もいました。

皆さんは、ご自分の「新しい名前」である「無原罪の聖母の騎士」という名前について黙想するだけで、この「新しい生活の法」を思い出すでしょう。その中にはすべてのものがあるのですから。

1.中心となる言葉は「無原罪の聖母(インマクラータ)」です。聖母なしではカトリック信者ではありえません。

「無原罪の聖母よ、あなたは何者でいらっしゃるのですか」。この質問を一分間黙想するならば、皆さんの地平は無限に開かれるでしょう。天主の御母、キリストの御母であるという聖母の第一にして主要な特権、それによって天主は天国から地上へこられ、それによって私たちは地上から天国へと戻ること。罪のしみもなく、いとも純粋で、聖寵充ち満てる無原罪の聖母。天主の完全な傑作であり、それに比べればすべての被造物はちりの如きもの。「ああ、無原罪の聖母、天と地の元后」。サタンの頭を踏み砕き、その御心が最後に確実で全面的に勝利する黙示録の女性。そして、「私たちを大変愛してくださる御母」。私たちの拠り所、天主へと至る私たちの道、私たちの希望、私たちの喜び! 地上で頼りになる唯一のもの。その中でイエズスの聖心が輝くマリアの汚れなき御心と、この二つの御心に天主の充満をもって浸透していく愛の炎。聖霊! 無原罪の聖母、いとも聖なる三位一体の御聖櫃、天主が私たちに与えようと望まれるまったくすべてのもの。すべては聖母を通して私たちにやって来ること。

2.第二の言葉は皆さんに関係があります、つまり「騎士」です。私は騎士である。それはどういう意味でしょうか。

まず第一に、それは軍事に関係する用語であり、戦いという現実、危険な敵という現実を示しており、地上で生きることは二つの絶対的に敵対する勢力の間の戦争であり、真理と誤謬、光と闇、愛と憎しみ、幸福と不幸、天国と地獄、まことの教会と偽りの教会、キリストとサタンの間の戦争なのだということを思い出させてくれます。

第二に、騎士とは、単なる兵士よりも更なる存在です。騎士の心は素晴らしい目標で燃え上がっています。そのために戦い、命を捨てる用意があり、戦いの良き理由について納得し、率先して戦い、休息を知りません。騎士は高貴な心、勇敢な心を持っています。騎士は素晴らしいもののために戦い、狭量ではなく、決して怠けることなく、臆病者ではありません。中世の騎士の歴史は、これの良い実例です。

第三に、誰も自分を騎士とするのではなく、長上によって、しばしば王自身によってそう叙任されます。これは大きな特権です。中世には、自分がその名に値することを多くの努力や証拠で証明しなければなりませんでした。ですから、騎士の素晴らしい徳は、勇気と感謝、王に全面的に奉仕すること、あらゆる状況下で信頼されることです。完全であること、誠実であること、度量が大きいこと、寛大であることです。

私とはなんと対照的でしょうか。私はしばしば怠惰であり、怠慢であり、無関心であり、目的も理由もなくあらゆる場所をうろつき、あらゆる種類の幻影の餌食であり、野性的な感情を持ち、宣伝と世論の餌食なのです。ちっぽけな楽しみや面白い体験を探し求めて貴重な時間を浪費し、体と霊魂を駄目にし、多くの偽りの友人たちによって心が荒廃させられるのを許しているのです。

しかし、違う見方や意欲からであっても、天主が私にそうなるよう望まれるもの、天主がマリア様を通して私にそうなるようお求めになるものがあります。それは、私が英雄的に行動するために創造されたという永遠の運命を持ち、立派で、高貴なものとなることです。

3.第三の言葉は、前の二つの言葉を合わせたものです。つまり、「無原罪の聖母の騎士」です!

私は聖母のおかげで存在します。聖母が私をお選びになったという現実の中で、聖母の騎士になることに同意するときでさえ、聖母は私の改心と聖母の呼びかけに応える心を準備してくださいました。

私は聖母のために存在します。私が戦う高貴な理由は、聖母の名誉です。聖母は私を汚れなき御手の道具として、失われた子どもたちを誤謬と罪の牢獄から救うために世に送ってくださり、その結果、聖母は彼らを悪魔の鎖と永遠の破滅から解放してくださるでしょう。私のこの短い人生において、聖母は私にほとんど限界のない任務を与えてくださいます。私の人生の残りの貴重な時間を、無限の報いを勝ち取るために、聖母を通して世を征服するために使うのか、使わないのか、すべては私にかかっているのです。(不滅の霊魂一つ一つは、物質の世界全体以上のものです。)

聖母の素晴らしい望みが私の望みになるべきです。「私に子どもたちを返してください。子どもたちを光そして恩寵に連れていかせてください。でも私には道具としてあなたが必要です。あなたは、小さな祈りを通して子どもたちのところへ行きます。あなたは犠牲を通して子どもたちの霊魂に準備させます。あなたは彼らに近づいて、私の不思議のメダイ、私の言葉、私の忠実な奉仕者たちの言葉を与えます。あなたは彼らに私の奇跡と愛を語ります。すると、私はあなたが私と彼らの間に造った、それらすべての小さな架け橋を使って、彼らを改心させ、彼らを私の子のところへ返すためにやって来るでしょう。」

無原罪の聖母の騎士会が聖伝のカトリック信者の中に再び設立されるのを、天主の御摂理がお許しになったのなら、私たちには新しい自分が与えられるか、あるいは自分を取り戻させてもらえることになるでしょう! 私たちは自分を限定し過ぎていませんか? 私たちは、自分が受けた莫大な宝に対して、もう感謝していないという危険な状態にありませんか? 若者たちは宗教を担わなくなり、この世に満ちあふれた楽しみ、映画やゲーム、面白いことにもっと興味を持っているのではありませんか? 自らを「レジスタンス」として自画自賛しつつ「信仰を保全する」という名で自らの小さな個性や新奇性を褒めたたえているだけの人々と戦うというくだらないことに全時間を費やしてしまい、私たちは霊的な力強さを失いつつあるのではありませんか? 私たちは、自分たちの霊感や見方以外に規則のない状態で、小さな心地よい生活に閉じこもるという危険にあるのではありませんか? 私たちは、自分たちの望むことを行うだけで、「何者にも依存しない」ことが多すぎたり少なすぎたりしつつあるのではありませんか? その結果は、完全に自己を喪失してしまいます。

でも、無原罪の聖母ご自身が私たちを目覚めさせるために来られます。愛する子よ、今こそ来て、私の仕事をしなさい。あなたは、私が誰だか知っており、私に祈り、信仰を保つ人々のうちの残されたごくわずかな人々に属しているのです。あなただけのところに私は訪れることができ、あらゆる時代の中で最悪のこの時代に、私が霊魂たちを救うのを助けてくれるようお願いするのです。ですから、あらゆることやあらゆる人についての不毛なコメントや判断で、あなたの時間を無駄に使わないでください。インターネットで出回っているあらゆる意見や発言を読むことで、時間を無駄に使わないでください。政治のことは政治家に任せ、バチカンとの議論は聖ピオ十世会の長上に任せてください。そしてあなたは、自分のすべき仕事をしてください、と。

自分の不滅の霊魂を救い、他の多くの人々を救うのを助けるという、自分自身を取り戻してください! あなたは私の子であり、私はあなたの母なのですから、私だけがあなたに自分自身の感覚を取り戻させることができ、あなたを守ることができます。そうすれば、あなたは自分自身を緩めることはないでしょう。ですから、私のところへおいでなさい。私にあなたをカルワリオに連れて行かせてください。あなたの冷えた心は、あなたのためにその御血を捧げた私の子へのさらに多くの愛で鼓動するようになるでしょう。おいでなさい。私は、あなたが受けた信仰の驚くべき神秘すべてについて、あなたに黙想させてあげます。おいでなさい。私はあなたを私の道具にしてあげます。そうすれば、あなたの生活はもう一度素晴らしいものになるでしょう。そして、あなたが毎日従事している本当に平凡なことが、あなたが地上でできる最上のこと、不滅の永遠の宝を獲得することの重要な手段となるでしょう。「本当に多くの霊魂が永遠の滅びに行くのです。彼らのために祈ったり、犠牲を捧げたりする人が誰もいないのですから!」

皆さんが聖母の騎士であろうとすればするほど、皆さんは霊魂に平安が、心に喜びが、精神に光が増していくのです! 皆さんは、自分が何者か、自分の目標が何であるべきかという、自分自身をいずれ見つけていることでしょう!

皆さんもお分かりでしょうが、小指を聖母に差し出せば、今度は聖母から本当に信じられないほどの多くのものを受けます。すべての信者が自分を騎士として聖母に捧げれば、聖母はそれらの信者の信仰をさらに深くしてくださり、私たちの主のあの御言葉が私たちの中で実現することになるでしょう。「必要なことは唯一つ、まず天主の国を求めよ、そうすれば、すべて他のものは与えられる。」


2015年9月11日、シンガポールにて、
カール・シュテーリン神父



ファチマ2017年へ向けて

私たち無原罪の聖母の騎士は、無原罪の聖母の騎士会設立100周年と同様に、ファチマの聖母のご出現100周年を記念する準備をしたいと望んでいます。可能な限り多くの霊魂を聖母の足元に連れて行き、聖母の汚れなき御心の凱旋のために、黙示録の女性の龍やその獣に対する勝利のために戦う小さな軍隊にしたいと思います。

無原罪の聖母の騎士として、私たちは、無原罪の聖母の騎士会の会則に従って生きなければなりません。ですから、私たちは、聖母がその道具である聖マキシミリアノ・コルベを通して私たちに行うよう命じられたことを知らなければなりません。そのため、一人一人の騎士は「無原罪の聖母、私たちの理想」という本を読み、黙想すべきです。この本は、騎士会の精神、目的、意味のすべてを説明しています。

ファチマの使徒として、私たちは、人々の救いを確実にするために彼らを私たちの主のもとに連れて行くことができるのと同様に、聖母がファチマで三人の子どもたちに与えられたご要望にお応えし、それを広めるようにしなければなりません。ですから、私たちは、その後の世界へ聖母の素晴らしいメッセージを伝えるために選ばれた三人の生涯やメッセージと同様に、ご出現の正確な歴史と聖母の言葉や行いを知らなければなりません。

まず第一に、ファチマのご出現とは何なのかを定義しなければなりません。

ファチマは、1915年に、一つの前触れで始まります(後述参照)。1916年にルチア、フランシスコ、ヤシンタは、春、夏、秋の3回、天使の出現を受けました。1917年には聖母が5月13日から10月13日まで6回、8月を除いてコバ・ダ・イリアと呼ばれる場所で彼らにご出現になりました。8月のその日には、子どもたちは牢に入れられており、ご出現の場所に行くことができなかったのです。しかし、8月19日に聖母はバリンホスと呼ばれる場所で彼らにご出現になりました。7月13日に聖母は、汚れなき御心への信心を確立するため、またロシアの奉献を求めるため、あと2回来ることを約束されました。1925年12月10日には、聖母はポンテベンドラで、1929年5月13日にはトゥイで、修道女志願者となったルチアにご出現になりました。ヤシンタとシスター・ルチアは、個人的な恩恵のため、他にもご出現を受けました。シスター・ルチアは主と聖母からいくつかの啓示を受けました(ビジョンではなく内的な声のようです)。そのとき主と聖母は、汚れなき御心への信心を実践することについての質問に答えられました。

ファチマの全メッセージを理解したいなら、天使の3回の出現と聖母ご自身の8回のご出現について詳細を知っていなければなりません。聖母のお求めに対する信頼できる答えとしてファチマの子どもたちの生涯や行動を考察するのと同様に、彼らが語った主要な言葉を集めることもまた最重要です。私たちがファチマのメッセージを生かすため、本物のファチマの使徒になるため、子どもたちは、このようにして私たちの案内役になるのです。


1915年

ファチマの歴史には、1915年に興味深い前触れがあります。ルチアの初告解の日、ルチアは教区の教会にあるロザリオの聖母の御像の前でひざまずいていました。「私の霊魂の情熱すべてをもって聖母にお願いするため、私のあわれな心が天主のことのみに向けられるためです。目を御像に向けて、この謙遜の祈りを何度も繰り返していると、聖母がほほ笑まれたように見えました。また、愛にあふれた視線と優しい動きがあり、聖母がそうなさったのだと確信しました。私の心は喜びに満ちあふれ、ほとんど一言も発することができませんでした」。初聖体のあと(ルチアは8歳でした)、家の羊の世話を引き受けました。ある日、3人の少女と一緒に、羊に草を食べさせるために塀で囲まれた牧草地に入っていきました。「お昼ごろ、昼食を食べました。そのあと、仲間と一緒にロザリオを祈ることを提案し、みんな熱心に賛成しました。私たちが祈りを始めるやいなや、目の前で、木々の上の空中に止まっている人物が見えました。雪でできた像のようで、太陽の光でほとんど透明になっていました。『あれは何?』と仲間たちは尋ね、非常に怖がっていました。『分からない』。私たちは、前にいるその像をじっと見ながら祈りを続け、祈りを終えたとき、その像は消えました」。このご出現は2回ありました。のちにルチアは説明しました。「このご出現は私に強い印象を与えましたが、どう説明していいのか分かりません。少しずつ、この印象は弱まっていき、それに続く出来事もありませんでしたから、私はそれを完全に忘れてしまっていたと思います」

これらの無言の天の介入の意味は何でしょうか?

第一の意味。天主が人間の中で偉大なことを成し遂げようとなさるなら、天主の適切でふさわしい道具となるよう、選ばれた人々に準備をさせるのがいつものことです。ルチアは小さな子どもでしたが、しっかりとした常識があり、大変素朴な霊魂でした。しかしルチアは、特別な生活を送るために選ばれたのであり、その生活を送るには英雄的な謙遜と非常に苦しむ用意のある深い愛が要求されるのです。

この特別な任務には特別な恩寵が必要です。聖母のほほ笑みはその最初の段階であり、超自然の世界との圧倒されるような接触でした。そのような「接触」は、霊魂を強く聖化するのです。天使が現れれば、この超自然の世界の素晴らしさを理解させてくれ、それが霊魂に深い「印象」を与え、大変素晴らしいため、人間の言葉では説明できないのです。

第二の意味。これらのご出現のあと、小さなルチアの最初の苦しみが家族からやって来ました。以前は、ルチアは大切な「かわいい子」でした。今は、「幻視すること」、天の秘密を聞く役目が、いかに大きな犠牲を払うことになるのかを学ばなければなりませんでした。それによって得になることはなく、また自分がたたえられたり褒められたりすることはなく、子ども時代を幸せにしてくれるすべてのものを失いました。母や姉妹たちから批判の言葉を聞いて、ルチアは書きました。「人をばかにしたこれらの言葉や動作を私は鋭く感じ取り、今に至るまで抱擁を受ける以外は何も知りませんでした」

私たちのための教訓

これらの言葉のない前触れは、重要な教訓を私たちに示しています。

第一の教訓。大きな出来事が起ころうとしているなら、天主が準備してくださいます。天主は使者や天使、聖人を送って、人々を将来下される恩寵を受け入れられるよう(私たちの心を)開いてくださいます。ルチアにとっては、それは聖なるロザリオの元后のほほ笑み(幼きイエズスの聖テレジアもまた、勝利の聖母のほほ笑みによって癒やされました)と、3回の無言の天使の出現でした。私たちにとっては、それは無原罪の聖母の騎士になるという恩寵であり、私たちに送られた使者は、まず第一に私たちを天の御母に近づけてくれた偉大なマリアの聖人たちです。聖グリニョン・ド・モンフォールは、私たちが自分を聖化するためにどれほどマリア様を必要としているのかを理解させてくれますし、聖マキシミリアノは私たちを聖母の旗の下に連れて行ってくれます。その結果、私たちは天主のご意志を成就させ、王たるキリストの呼びかけにお応えすることができるのです。私たちはまた、大天使聖ミカエルや守護の天使にもっと近づくべきです。彼らは同じような方法で、無言であっても私たちに深い天の「印象」を与えてくれます。

第二の教訓。

天国、天使や聖人たち、天主ご自身は私たちの経験を無限に超えていますから、天主ご自身がこの無限の光に対して私たちに準備をさせなければなりません。多くのプロテスタントに加えて、こんにちの近代主義やカリスマ主義の運動もまた、天主を無限の御稜威として正しく理解することを台無しにするという悲しい貢献をしています。遠く離れたところで出現した天使の前でも、すでに子どもたちが震えているのなら、ほとんど無限の数の天使の創造主である天主ご自身の前では、いったいどうなるでしょうか?

私たちは、イエズスとほとんど仲間のように話すことや、聖母にすてきな美しい母として近づくことに慣れています。私たちは、お二人が私たちよりほんの少しだけ優れたお方でしかないかのように、お二人に不平を言います。

聖ヨハネが天使の前でその威光のために膝をかがめたのなら、聖人たちの出現が人々を地に伏せさせ、目をまともに見る勇気もなかったのなら、この深い敬意を表した振る舞いは私たちのそれといかに違っていることでしょうか。

ですから私たちは、超自然の現実の前で適切に振る舞うようもう一度学ばなければなりません。

第三の教訓。

私たちが天主に近づけば近づくほど、私たちはもっとたくさん苦しまなければなりません。ファチマの子どもたちは、聖母から計り知れない幸せと喜びを受けるでしょう。しかし、彼らは「それに対する支払い」をしなければなりません。私たち「ファチマの使徒」も同じです。私たちが天主に奉仕しようと望めば望むほど、俗人たちは私たちをさらに拒絶するでしょう。一般的に言って、苦しみは私たちが近づいていった人々からやって来ます。聖母に奉仕したいのなら、皆さんのいわゆる友人たちは離れていくでしょう。誤解や屈辱、嘲り、軽蔑に苦しむでしょう。しかしきっと、他の友人たちを得るでしょうし、世が知ることのない慰めを受けるでしょう。


親愛なる無原罪の聖母の騎士、ファチマの使徒の皆さん、私たちは2015年に生きています。

これらの出来事のちょうど100年後、天は2017年の来るべき大きな出来事の準備をしようと望んでおられるのは確実です。これらの教訓を学び、それを私たちの生活に生かすならば、私たちはどれほど良い聖母の汚れなき御手の道具になることでしょうか!
(了)

Viewing all articles
Browse latest Browse all 4247

Trending Articles