2022年6月19日 東京での説教 — 御聖体の荘厳祭
レネ神父様
親愛なる兄弟の皆さん、
今日、私たちは至聖なる御聖体の荘厳祭(そうごんさい)をお祝いしています。かくも重大な事柄については、私たち皆、教会が最初から教えてきたことを傾聴(けいちょう)することが、私たち自身の役に立ち、また、私たち自身に有益なことであると思います。
アンチオキアの聖イグナチウスは、聖エボヂウスに続く、アンチオキアの二番目の司教で、西暦108年に亡くなった人です。このように、聖イグナチウスは、教会の歴史でも極(ごく)初期の人ですが、スミルナ人たちに対する手紙で、ある種の異端者(いたんしゃ)たちについて、このように書いています。「この人々は、御聖体が、我らの罪のためにお苦しみになり、御父が、その善性(ぜんせい)のゆえに復活させられた我らの主イエズス・キリストの御体ではない、と主張するのである。したがって、天主からのこの賜物(たまもの)を否定する人々は、死に至(いた)る。」カトリックの信仰、とりわけ天主からの、このように畏敬(いけい)すべき賜物(たまもの)を否定することは、大罪です!
最後の使徒が亡くなってから50年も経(た)たない頃、聖ユスチヌスは、このように書きました。「そしてこの食べ物は、我らがエウカリスティア(即ち、御聖体)と呼ぶものであって、我らが教えることを真実であると信じ、罪の赦(ゆる)しのため、また再生のための浄(きよ)めによって洗われ、そして、キリストがお命じになったように生きている者でなければ、誰も、それにあずかることは許されないのである。なぜならば、我らがこれを受けるのは、普通のパンや普通の飲み物としてではなく、我らの救い主であるイエズス・キリストが、天主の御言葉によって御托身(ごたくしん)になり、我らの救いのために、肉も血も持っておられたように、受けるのである。また、我らが受けた教えによれば、御言葉の祈りによって祝別された食べ物、またその変化によって我ら自身の血と肉が養(やしな)われるその食べ物こそ、肉体となられたそのイエズス御自身の御体と御血なのである。」
この最初の文章の中で、御聖体を受ける条件が、「…でなければ、誰も、それにあずかることは許されない」と表現されていることに注意してください。これは、今とまったく同じです。まず最初に、カトリックの信仰を持つことが必要であること:「我らが教えることを真実であると信じ(ていること)」、二番目に、洗礼を受けていることが必要であること:「罪の赦(ゆる)しのため、また再生のための浄(きよ)めによって洗われ(ていること)」、三番目に、成聖(せいせい)の恩寵(おんちょう)の状態で生きていること:「キリストがお命じになったように生きている者で(あること)」。
そして、これらの条件の説明が続きます。それが、「イエズスの御体と御血なのである」からです。そして聖ユスチヌスは、ここで、非常に明確に、こう言っています。「それは普通のパンではない。」それは、パンのように見えるかもしれませんが、普通のパンではありません。では、それは何なのでしょうか?それは、「肉体となられたそのイエズス御自身の御体と御血」です。 聖ユスチヌスは、「御言葉は肉体となられた。」という聖ヨハネの言葉を、そのまま引用しているのです。私たちのために御言葉が取られたこの肉体こそが、私たちが受けるものです。これこそが、私たちと私たちの救いのために、「肉体となられたイエズスの御体と御血」です。この文章が複雑なのは、聖ユスチヌスがここで、私たちが聖体拝領で受ける体は単なる人間の体ではなく、天主の御言葉が、 私たちの救いのためにお取りになった、まさにその体であることを、正確に指摘しようとしているからです。
では、聖ユスチヌスは、いかにして、そのことを知っているのでしょうか?聖ユスチヌスは、「我らが受けた教えによれば」と言っています。誰に教えられたのでしょうか?使徒たちの直接の後継者たちに、教えられたのです。聖ユスチヌスがこの「最初の護教論(ごきょうろん)」を書いたのは、聖ポリカルプスが殉教(じゅんきょう)したすぐ後のことでした。聖ユスチヌスが聖ポリカルプスに直接会っていたかどうかは不明ですが、聖ユスチヌスが、シリアから、小アジア地方を通って、ローマにまで旅行したので、その可能性はあります。いずれにせよ、聖ユスチヌスと使徒たちとの間を介した人は、ほんの数人に過ぎません。これこそが、使徒的な「口頭の」教え、即ち、カトリックの聖伝です。
聖ポリカルプスのことを個人的に知っていたもう一人の教父は、聖イレネウスです。聖イレネウスは、御聖体におけるキリストの御体と御血の現実から、死者の復活を証明する論拠(ろんきょ)を述べます。聖イレネウスは、こう言っています。「したがって、混(ま)ぜられた杯(さかずき)と作られたパンが天主の御言葉(即ち、聖変化におけるキリストの御言葉)を受けるとき、御聖体はキリストの御血と御体になるのであり、これによって我らの体の実体は強められ、支えられるのである。我らの体が、天主からの永遠の命という賜物(たまもの)を受けることができ、主の御体と御血によって養(やしな)われ、主の体(したい)の一部であるということを、この異端者らは、いかに否定することができようか。…我らの体は、主の御血である杯(さかずき)によって養(やしな)われ、主の御体であるパンによって強められるのである。」この文章は、非常に明確です!
続く3世紀には、聖キプリアヌスが、自らがミサをたてたときのことについて、「nobis sacrificantibus(ノビス・サクリフィカンティブス)」、即ち、「私たちが犠牲をお捧(ささ)げしていたとき」と書いています。また、御聖体のことを、「主の至聖(しせい)なるもの」、「主の御血において聖別された酒」、あるいは、「司祭によって執行される犠牲」の実(み)、と呼んでいます。これでおわかりの通り、御聖体における主の実存とミサの犠牲の教理は、教会の一番最初から存在するものです。
続く4世紀には、数多くの教父や偉大な教会博士たちが現れましたが、その中に、まずアンチオキアで司祭、その後、コンスタンチノープルの司教となった、聖ヨハネ・クリソストムスがいます。エフェゾ人への書簡(エフェゾ第1章22-23節)の解説として、聖ヨハネ・クリソストムスは、このようなことを書いています。「しかし、我らの論題は主の御体に関するものであるから、皆来て、それに思いを致(いた)そう。たとえ、その御体が、十字架に付けられ、釘付(くぎづ)けにせられ、犠牲となられた御体であったとしても。もしお前が、主の御体の一部であるならば、十字架を担(にな)え。主が、十字架を担(にな)われたからである。つばきに耐え、鞭(むち)打ちに耐え、釘付(くぎづ)けに耐えよ。『罪を犯さず、口を偽(いつわ)られなかった』(ペトロ第一第2章22節)主の御体は、まさにそのように扱(あつか)われたからである。主の御手(みて)は、それを必要とする全ての者のために、なし得る全てのことをなされ、主の御口(おんくち)は、ふさわしからざることを、一言(ひとこと)も発(はっ)せられなかった。主は、『お前は悪魔を持っている』と言われても、何もお答えにならなかった。」
聖ヨハネ・クリソストムスは、この最初の部分で、私たちは洗礼と恩寵(おんちょう)とによって主の御体の一部であり、したがって、私たちは、私たちの頭(かしら)である私たちの主イエズス・キリストのように生きなければならない、という事実を述べています。「もしお前が、主の御体の一部であるならば、十字架を担(にな)え。主が、十字架を担(にな)われたからである。」
そして続けて、御聖体について、こう言うのです。「更に、我らの論題はこの御体に関するものであって、我らのうちの多くがこの御体にあずかり、この御血を味わうとき、この御体といささかも違うもの、あるいはこの御体と別のものにあずかっているのではないのである。天にましまし給(たま)い、天使らに崇(あが)められ、永遠に朽(く)ちぬ権勢(けんせい)のお側(そば)におられるその御体を、我らが味わっていることを、考えてみよ。いかに数多くの救いへの道が、我らに開かれていることであろうか!主が、我らを御自分自身の御体の一部とされ、御自分自身の御体を我らにお与えくださったにもかかわらず、我らは、そのいずれをもってしても、悪(あ)しきことから自らの身を引くことができないのである。ああ、何たる闇(やみ)、何たる深淵(しんえん)、何たる冷淡(れいたん)さであろうか!聖パウロはこう述べる。『キリストが、天主の右に座(ざ)しておられる、上のことを求めよ。』(コロサイ第3章1節)しかし、これらすべてのことをもってしても、金銭や放埒(ほうらつ)を好(この)む者がおり、また自らの情欲の虜(とりこ)となる者がいるのである!」
このように、教父たちは、御聖体における私たちの主の現存という偉大なる真理から、わかりやすい道徳的結論を導き出すのです。それは、私たちは、私たちが受けるものにふさわしい生活を送らねばならない、ということです!「天にましまし給(たま)う、その御体を、我らが味わっている!」ですから、聖パウロがコロサイ人たちに言うように、私たちは、「上のことを求め」なければなりません。
聖ヨハネ・クリソストムスは、別の箇所で、聖パウロのエフェゾ人へのこの言葉について解説します。「私たちが祝(しゅく)する祝聖(しゅくせい)の杯(さかずき)は、キリストの御血にあずかることではないか?」(コリント前第10章16節)聖ヨハネ・クリソストムスは、こう書いています。「ここで聖パウロの言うことは、非常に説得的で、かつ、恐るべきことである。なぜなら、彼の言うことは、こういう意味だからである。『その杯(さかずき)の中にあるものは、主の御脇腹(おんわきばら)より出たものであり、我らは、その同じものにあずかるのである。』」
同時期に活躍したイエルザレムの聖キリルスは、「神秘(即ち秘蹟)について」という題名の求道者たちへの指示書の中で、次のように書いています。「聖なる、崇(あが)むべき三位一体(さんみいったい)に対する祈りの前、奉献(ほうけん)されたパンとぶどう酒は、単なるパンとぶどう酒に過ぎないが、その祈りの後、パンはキリストの御体となり、ぶどう酒はキリストの御血となる。」「奉献(ほうけん)されたパンは、聖霊に対する祈りの後、もはや単なるパンではなく、キリストの御体となる。」
この聖キリルスはまた、御聖体について、次のように、更に詳細に、非常に明快に説明します。「我らの主イエズス・キリストは、渡された夜、パンを取り、感謝を捧(ささ)げた後、それを割り、ご自分の弟子らに与えて、こう言われた。『これを取り、食べよ、これは我が体である。』また、杯(さかずき)をとり、感謝を捧(ささ)げ、こう言われた。『これを取り、飲め。これは我が血である。』この時、このパンについて、主御自身が『これは我が体である』と宣言されたのであるから、いまや誰が、これを疑おうか?また、主御自身が『これは我が血である』と断言されたのであるから、いまや誰が、『これは主の御血ではない』などと言って、ひるむことがあろうか?」教会によってなされてきたのは、いつも、これと同じ説明です。私たちは、御聖体が本当にキリストの御体と御血であると信じます。それは、天主の御言葉である主御自身が、そうおっしゃったからです!
聖キリルスは、続けてこう書いています。「主は、あるときガリラヤのカナの町で、水をぶどう酒に変えられた。ぶどう酒は血のようなものである。主がぶどう酒を血に変えられたということは、信じがたいことであろうか?主は、この肉体的婚姻(こんいん)に招(まね)かれたとき、この不思議なわざを行われた。では、花嫁の間(ま)に控(ひか)える子供らに、主が、御自分の御体と御血の実(み)をお与えくださったことを、むしろ、我らは認めるべきではなかろうか?」聖キリルスは、ここで、とても強力な議論を行っています。それは、御聖体が、キリストと、キリストの教会との間の婚姻(こんいん)の秘蹟である、ということです。キリストは、カナにおいて、驚くべき全実体変化をなさったのですから、御自分自身の天上(てんじょう)での婚姻(こんいん)に際(さい)して、それを、どれほど超(こ)えるわざをなさったことでしょうか!カナでの全実体変化が事実であったように、祭壇上での全実体変化も事実です!御聖体における主の現存を否定するプロテスタントの人々は、御聖体は単なるシンボルに過ぎないと主張しますが、ではカナでは、水が単なるぶどう酒のシンボルに変えられて、そこにいた人々は、単なる、空虚(くうきょ)なシンボルとして、水を喜んで飲んだと言うのでしょうか?カナにおける全実体変化が事実であったように、御聖体における全実体変化も事実です!
聖キリルスは、続けてこう書いています。「それゆえに、我らは確信を持って、キリストの御体と御血にあずかろう。それは、主の御体が、パンの姿(即ち、外観)のうちにお前に与えられ、主の御血が、ぶどう酒の姿のうちにお前に与えられるからである。お前が、キリストの御体と御血にあずかることにより、主と同じ体、同じ血となされんことを。かくして、キリストの御体と御血が我らの体を通して与えられるがゆえに、我らは自らのうちにキリストを担(にな)うようになるからである。聖ペトロによれば、我らはこうして、神性にあずかる者となるのである。」
最後に、聖アウグスチヌスの言葉を、短く引用します。「主はこの地上を、御体で歩かれ、我らの救いのため、その御体を、我らが食べるよう、お与えになった。誰も、まずその御体を崇(あが)めずして、食べることはない。我らは、その御体を崇(あが)めることによって、罪を犯(おか)さないどころか、その御体を崇(あが)めないことによって、罪を犯(おか)すのである。」
私たちのカトリック信仰は、古代教会の信仰と同じです。その信仰は、私たちの主と使徒たちから直接来たもので、決して変わったことがありません。願わくは、聖母、聖なる天使たち、そして全ての聖なる教父や教会博士たちが、私たちがこの信仰を生き生きと保(たも)ち、それに従って生き、もっともっと、御父と聖霊と共にとこしえに生き給う私たちの主イエズス・キリストのようになれるよう、私たちを助けてくださいますように。アーメン。