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イエズスの至聖なる聖心 イエズスとの一致とは。聖ピオ十世会聖伝のミサ SSPX Japan

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 本来なら、単なるお説教だけではなく、色々な別のお話を記事に書きたいのですが、別の義務が増えてしまいそこに十字架に付けられるように動きが取れなくなってしまっている感じがします。

 そこでこのブログの愛読者の方々には、退屈な思いをさせていることを残念に思います。6月21日の主日にマニラの教会で「主任司祭」として主日のミサを捧げて以来、後は今に至るまで、別のミッションの各地で主日のミサを捧げています。次回のマニラの教会での主日ミサは11月15日の予定です。

 ミンダナオ南部のミッションの話、レイテ島でのミッションの話、バギオでのミッションや、ボルネオ島でのミッションの話、お伝えしたい話もいろいろあります。幼きイエズスの聖テレジアに倣って、カトリック教会のために役に立つことは、「祈りと犠牲」であると確信し、お捧げしております。

 さて、イエズスの聖心は、私たちを極みまで愛しておられるのに、人々はそれを無視しております。私たちの人生の目的は救霊なのに、それだけは気に掛ける人々があまりにも少数です。

 イエズス・キリストの聖心について黙想することを提案します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2015年10月2日 初金曜日 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ



小野田神父説教
 聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は2015年10月2日、10月の初金曜日です。

来週の月曜日から、アジア管区の司祭たちの黙想会がありますので、良い黙想会ができますように、皆さまのお祈りをお願い致します。

それからローマでは、「家庭に関するシノドス」というのが始まります。そこで、このシノドスを、第1総会、去年行われたものを見ると、この方針や或いはその内容が、教会の今までの教えに触れる、それに抵触する内容が揉み込まれており、非常に心配されます。多くの枢機卿様や司教様たちも、それについて声を上げています。どうも教会では、枢機卿が枢機卿に、司教が司教に、今、家庭の事について対立して、そのシノドスでもそれが明らかになるように思われます。それで、フェレー司教様は最近、教皇様に対する、「カトリックの教えをはっきり証明して下さるように」嘆願のお願いをなさいました。どうぞこのシノドスの為に、特別のお祈りをお願い致します。アジア管区では、「特に今週、お祈りと或いは断食、犠牲を払うように。このシノドスの為に捧げるように。」と、管区長様からの呼びかけがありました。どうぞ皆さんも、多くのお祈りと犠牲を捧げて下さるようにお願い致します。

10月は、フィリピンのマニラで、アジア管区の修道院長、フィリピンの修道院長たちとレネー神父様が集まって、来年のミッションの計画を立てる、それを管区長様に提案する、という計画があります。来年、できるだけ私は、そこの会議で、日本にミサの回数を増やすように、お恵み倍増計画を提案しようと思っています。そこでその為に、他にもミッションで、人数が増えて席がなくて、教会の外にいる人たちの方が多い、というような所がたくさんあるので、それにも負けないように説得する事ができますように、皆さん、この会議が良く、日本にたくさん、毎月2回これからありますように、どうぞこのような、大阪で金、土、東京で主日、月曜日、というようなのが2回毎月あるように計画を立てる、という事を提案しようと思いますので、是非それが受け入れられるようにお祈り下さい。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 愛する兄弟の皆さん、今日は10月の初金曜日です。私たちは、イエズス様の聖心の信心の黙想を、更に深める事に致しましょう。

 イエズス様の聖心の信心の核心とは何でしょうか?それは、私たちが、人となった天主の御言葉の愛を、イエズス様の肉の聖心、心臓に認め、私たちもその聖心の償いの業に参与する事です。私たちもイエズス様の聖心の思いと1つになって、イエズス様と共に、人類の贖いの業を為す事に協力する事です。私たちが、イエズス様と1つになる、救霊の業に、償いの業に協力する事です。

 言葉を言い換えると、私たちがイエズス様と1つになって、別の、第2のキリスト、或いは小さな、イエズス様と共に贖いをする者となる、という事です。

 では、この事がどういう事かを説明するのを許して下さい。では、イエズス様と1つになるとは、どういう事なのか?イエズス様は、その1つになるという事を、どの、どういう風に説明しているのか、という事を黙想して、私たちは最後に、今月の遷善の決心を立てる事に致しましょう。

 イエズス様と1つになる、という事は、私たちは先月少しだけ黙想しましたが、例えば、イエズス様と分かち難く1つになるという事は、イエズス様の一部になる、という事です。イエズス様はこれを、色々な例えで話しました。例えば、「私はぶどうの木である。お前たちはその枝である。私の父は、その栽培者だ。もしも私に付いていなければ、お前たちは実を結ぶ事ができない。枯れて焼かれてしまうだけだ。私に留まれ。」と、言われました。イエズス様は、「私たちと1つの生命体になっている」という事を言おうとしました。

 或いは聖パウロには、キリスト信者を迫害している聖パウロには、現れてパウロにこう言いました、「サウロ、一体なぜお前は私を迫害するのか。」と。イエズス様は、「なぜ、私の弟子たちを、私を信じる者を、私の信者を迫害するのか。」と言わずに、「私を迫害するのか。」と言われました。

 聖パウロは、イエズス様と私たちとの関係の事を良く理解していました。そこでそのパウロは、書簡の中に色々、イエズス様と私たちとの関係について説明しています。「キリストはオリーブの木だ。ユダヤ人たちは、天然の野生のそのままの元々の付いていたオリーブの枝だけれども、私たちは異邦人は接ぎ木された者だ。」とか、或いは、「イエズス様を信じる私たちは、キリストの神秘体の一部である。」或いは、聖パウロは別の所では、「天主の家の家族の一員である。」或いは、「使徒たちや預言者たちの基礎の上に建てられた、その隅の親石はイエズス・キリストであるけれども、私たちは1つの家である。私たちは生ける石である。1つの家を建てているものである。」と、言うのです。

 聖パウロによると、イエズス様が私たちの贖いをなさった時に、ただ私たちの負債を払って、私たちと別々のものとして、こう例えば大阪の総合庁舎の市役所に行って、「この、誰それさんのその税金を、私が払います。」その窓口に行ってはい払ってそれで終わり、ではなくて、イエズス様は私たちを自分のものとして、私たちを自分と同一のものとして、自分の体の一部として、自分を植え込まれたものとして、私たちの負債を支払った、という事です。

 ですから御父は、もしも私たちをご覧になる時に、イエズス様によって贖われた私たちを見る時に、単なる、イエズス様がただそう払ってくれたから、「あぁ、負債が払われたからじゃあ」というのではなくて、私たちを見ると、イエズス様の一部である、と、イエズス様のものとして、私たちをご覧になる、という事です。

 考えてもみて下さい。このイエズス様の十字架の御像の、この色々この御光が射している、色々な金のほんのちょっとの欠片、それでもイエズス様の十字架の御像の一部として、それがなければ美しさがなくなってしまいます。

 或いは、イエズス様の一部になった、という事は例えば、大きな木の、ほんの小さな、ほんのちょっとした葉っぱの出かけの様な、この芽の様な小さなものでも、木の皮のちょっとしたものでも、大きな大木の一部であって、生ける一部であるので、これはその一部を構成するものとして、その木に属するものであります。

 とても豪華な大御殿の、その大阪城の建物のほんのちょっとでも、塀のほんのちょっとの石の1つでも、それは大阪城の1つを造っているもので、大阪城の一部であります。

 それと同じように、たとえ私たちがもう、イエズス様の体の神秘体の、ほんのちょっとした産毛の、或いはもうほんの爪の一部であったとしても、イエズス様の神秘体の、御父は私たちをイエズス様のものとして、ご覧になるのです。

 つい最近私が読んでいた本の中で、フランスの王ルイ15世の娘が、ルイーズという娘がいたそうです。そのルイーズちゃんは子供の頃、とても気性が荒くて、時々怒りっぽかったのだそうです。でも後に、お父さんの罪を、ルイ15世の罪を償う為に、カルメル会に入った、償いの生活をした、というそのルイーズちゃんが子供の頃、養育係りの人から怒られて、その叱られたので、「私は、あなたの王様の娘ですよ、という事を知っていますか?」と、言ったそうです。「あまりきつく叱らないで下さい。あなたの王様の娘ですよ。」そしたら、その養育係りの人が答えて、「あなた知ってますか?私はあなたの天主様の娘ですよ。」それを聞くと、ルイーズちゃんは何も言えなくなって、怒りがおさまったそうです。

 実に、この養育係りの方が言ったように、私たちは天主の家族の一部であって、私たちは天主の子供、養子であって、天主の王家の一部であって、イエズス・キリストの神秘体の一部であって、イエズス・キリストの一部である。これを天主御父も、イエズス様も、それを事実として受け入れている事です。

 これはどういう事かというと、イエズス様は、私たちとイエズス様はもう分かち難く、分かれる事ができないように、1つである、という事です。

 第2のポイントで、では、これはどのように説明されているでしょうか?

 聖パウロはこのように言うのです、「私たちは、キリストと共に死んだ (commortui: ティモ後2:11)。十字架に付けられた者である、「私たちの古い人間が、かれとともに十字架につけられた」(ローマ6:6)。「イエズスとともに葬られた」(consepulti: ローマ6:4)。キリストと共に復活した (corressuscitati: エフェ2:6)。キリストと共に永遠に生きるだろう (convivemus: ティモ後2:11)。」或いは、キリストと共に、天に於いて統治する者である、永遠に君臨する者である。「私たちもキリストとともにその王国をつかさどる。(ティモ後2:12)」或いは、キリストと共に天に座す者である、「キリストとともによみがえらせ、ともに天に座らせてくだった。(エフェ2:6)」或いは、キリストと共に、イスラエルの十二の部族を裁く者である、「人の子がその栄光の座につくとき、私に従ったあなたたちも十二の座につき、イスラエルの十二族をさばくであろう。」(マテオ19:28)

 私たちはつまり、イエズス様と同じく十字架に付けられ、同じく復活して、同じく永遠に、イエズス・キリストと共に栄光を受ける者である、とパウロは言います。

 そればかりではありません。イエズス様は、私たちの一人一人の中に生きておられ、貧しい者の中に生きておられる、捕われ人に生きておられる。或いは、私たちに於いて、迫害される者に於いて苦しんでおられる。或いは、私たちの苦しみに於いて、神秘体の苦しみの欠ける所を満たすものである。私たちに於いて戦っておられる、私たちに於いて勝利を収めるものである。

 イエズス様は、私たちがイエズス様と共に死に、復活し、永遠に支配するのみならず、イエズス様は今私たちと共に生きておられて、私たちと共に祈っておられ、私たちと共に苦しんでおられる。

 つまり、私たちの目には見えないけれども、私たちは、歩く生ける第2のキリストとなっている、という事です。聖パウロは言います、「もはや、生きるのは私が生きるのではなく、キリストが私に於いて生きる。」と。私たちの命はイエズス様の命となって、イエズス様の命は私たちの命となる、という事です。

 先月も少し同じ話ですけれども、カリスの奉献の時に司祭は、ワインの中に一滴の水を垂らします。これはカトリック教会がいつもやる事を命じてきたものです。その意味は明らかです。「私たちの生贄を、キリストの生贄と共に捧げる。」という事です。6世紀にアルメニア人たちが、実はこの儀式を廃止しようとしました。しかしその後に、コンスタンティノープルの公会議で、「そのような事をやったアルメニア人たちは間違っている。それは何故かというと、それを廃止する事によって、生贄の本当の意味がよく表明できなくなってしまうからだ。」と言っています。

 そして、この水を一滴垂らしながら、一滴ワインの中に入れながら、司祭はそれを祝福して、「素晴らしいやり方で自然を創造された天主は、人間の本性を創造された天主は、更に素晴らしいやり方で人間の本性を新たに贖い給うた。この水の神秘によって私たちが、キリストの神性に、御神性、天主性に参与する者となりますように。」と、祈っています。

 トリエント公会議は、はっきりと、「この水とワインの一致は、私たちキリスト教の民と、イエズス・キリストの神秘との、その全き一致の神秘を示している。」と、言っています、

 では私たちはここで、一体どのような遷善の決心を立てたら良いでしょうか?私たちの中に、イエズス様が一致して生きておられる、という事を更に自覚する事です。私たちが祈る時、イエズス様も共に祈って下さっている、私たちが謙遜の業を果たす時に、イエズス様も共に、私たちの謙遜を補って下さっている、イエズス様と共に、私たちは苦しむ、私たちのどのような日常の生活でも、それはイエズス様と共に、捧げられたものとなっている、という事です。そこで私たちにとって、もはや生きるのは私たちではなく、キリストが生きる事になる、という事です。

 イエズス様の最も人生の究極の目的は何だったのでしょうか?私たちの救霊です。そこで、私たちがイエズス様の聖心の信心をする時に、イエズス様の聖心とますます一致して、多くの霊魂の救霊の為に、祈りと犠牲をお捧げ致しましょう。

 この御ミサが、イエズス様との一致をますます深めるものとなりますように、自覚を深めるものとなりますように。ますますイエズス様の御旨に聖心に入るものとなりますように。イエズス様の聖心をお慰めするものとなりますように。イエズス様との愛の一致になりますように。

 最後に、このイエズス様の聖心の神秘体の神秘を、よく理解されて、完璧な共贖者となった、イエズス様と共に贖いの業を果たしたマリア様に、私たちもマリア様の御取り次ぎによって、良き第2のキリスト者となりますように、ますますイエズス様との一致ができ、聖心への信心をよく深める事ができますように、お祈り致しましょう。

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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