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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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ルフェーブル大司教が1989年11月19日、叙階60周年の記念にパリ近郊ル・ブルジェで行った説教

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ルフェーブル大司教が1989年11月19日、叙階60周年の記念にパリ近郊ル・ブルジェで行った説教

秘密結社の目標は世界政府であって、それは、人間の権利、平等、兄弟愛、自由といったメーソンの理想を、反キリスト教的な意味で理解し、私たちの主に反対するものだということです。これらの理想は、世界政府によって推進され、すべての国に対して一種の社会主義を確立し、次に、ロシア正教がソビエトに奉仕しているように、カトリックの宗教を含むすべての宗教を包含する宗教会議が、この世界政府に奉仕するようになるのです。二つの会議ができるでしょう。それは、全世界を支配する普遍的な政治会議と、この世界政府を傭い人のように支援する宗教会議です。

Sermon given by Archbishop Lefebvre at Paris, Le Bourget, on the occasion of the celebration of his 60th anniversary of ordination, November 19th, 1989.

司教様方、親愛なる同僚の皆さん、親愛なる神学生の皆さん、親愛なる兄弟の皆さん。

この叙階60周年の記念式典に、これほど多くの皆さんが集まってくださったことに、深い感慨を覚えずにはいられません。皆さんの多くは、困難な旅をして来られました。中には、遠く離れた別の大陸から来た方もおられます。しかし、この式典はその努力に値するものであったと思います。

実際、私たちはなぜ、ここに集まったのでしょうか? それは、カトリックの司祭職を尊ぶためです。それこそが、今日、皆さんがここに集まった深い動機だと思います。

【天主に感謝しよう】

至聖なる三位一体に、そして永遠の司祭職を制定してくださった、人となられた私たちの主イエズス・キリストに、私たちはいくら感謝してもしきれません。そうです、私たちの主は本質的に仲介者、司祭です。私たちのために司祭となられ、御父に聖なる犠牲を捧げられたのは主なのです。天主の知恵において、主は、主によって選ばれた幾人かの人々に、主の司祭職を分け与えることを望まれました。天主の愛、私たちに対する天主の愛の何という偉大な神秘でしょうか。私たちは司祭職という大きな恩寵を受けるのに、いかにふさわしくない存在であると感じていることでしょうか。天主は祝されんことを! 私たちの主イエズス・キリストは祝されんことを! 童貞マリアも祝されんことを! なぜなら、マリアがおられなければ、私たちは、大司祭と、分け与えていただいた彼の司祭職を持つことはなかったからです。司祭の母、司祭職の母であるマリア、そうです、聖母は実際に私たちの母、特に私たち司祭にとっての母です。この60年の司祭の年月、この42年の司教職、その間、私がいただくにふさわしくない天主の聖なる恩寵により、私が司教聖別と多くの司祭叙階を授けることができたことのために、天主がかたじけなくも私に授けられた司祭職のために、主は感謝され、祝されますように。――私は毎日、ミサの聖なる犠牲を捧げることができ、秘跡、特にご聖体の秘跡を通して、霊魂たちに私たちの主イエズス・キリストご自身を与えることができたのです。何と多くの恩寵でしょうか! 何と多くの賜物でしょうか!

親愛なる兄弟の皆さん、私は、この感謝の歌に、この状況に最もふさわしいと思われる、司祭が毎日唱えている奉献の祈りの言葉の翻訳を付け加えたいと思います。

「聖なる父、全能永遠の天主、我は卑しき僕(しもべ)なれども、願わくは活ける真(まこと)の天主に捧ぐるこの汚れなき犠牲(いけにえ)を受け納れ給え。今これを我が無数の罪と主に対する侮辱(はずかしめ)と怠慢(おこたり)とのため、すべてここに集まれる人々のため、またすべてのキリストの信者、生ける者と死せる者と、我と彼らとの救霊(たすかり)のため、永遠(とこしえ)の生命に至らんために主に捧げ奉る、アーメン」。

これは、奉納の祈りであり、司祭が毎日祭壇で唱えるものです。何という壮大な祈りでしょうか! この司祭職の崇高な神秘を前にして、私たちは自分がいかにそれに値しない者であるか、いかにあわれな者であるかを感じないわけにはいきません。

【多くの聖なる司祭を準備し、見分け、教える】

親愛なる司祭職の同僚の皆さん、特に将来の司祭の養成を担当している皆さんに申し上げます。私たちのために、深い信仰、聖性へのあこがれ、宣教師になりたいという願いをもった多くの司祭、多くの聖なる司祭、多くのカトリック司祭を準備してください。これこそ、皆さんがしてくださっていることであり、真のカトリック司祭、真のもう一人のキリストを持つ必要性をよく理解しているすべての信者の名において、皆さんに感謝申し上げます。

司牧の場におられる親愛なる同僚の皆さん、私は、皆さんにも目を向けます。皆さんの周りの若者の心の中にある召命の芽を見分けること、また、修道生活への召命を見分けることは、皆さんの義務です。ですから、天主は皆さんに、司祭となるために、あるいは、修道生活を通して天主の司祭職に別の形で参加するために、天主はご自身のために選ばれた霊魂たちに気を配り、世話をする恩寵をお与えになっておられます。

そして、カトリックの親御(おやご)さんである親愛なる兄弟の皆さん、皆さんは司祭や修道者の召命が形成される聖域です。皆さんがおられなかったら、私たちはどうすればいいのでしょうか? 司祭、修道士、修道女の召命がどこで見つかるというのでしょうか? ですから、私は皆さんにお願い申し上げます、この聖域を世の腐敗と悪の影響から遠ざけておいてください。皆さんの家庭に世俗の精神が入り込まないようにしてください。教区や教会の真の延長線上にあるものにしてください。子どもたちには、生涯にわたって、霊魂を汚すようなものでなく、健全なイメージだけを見させましょう。彼らの心を堕落させるものを目に入れないようにしてください。そうすれば、天主さまが皆さんの家庭からエリートの霊魂を選び出されるでしょう。家庭における司祭召命ほど、修道院や修道院への召命ほど、美しいものはないのです。家庭全体が、兄弟姉妹が、どれほどの保護を受けていることでしょうか! これを確信してください。

ですから、この聖なるミサの間、私たちは共に祈りましょう。善き召命に対する、カトリック司祭職に対する、この世や地獄の攻撃にもかかわらず、天主さまがカトリック司祭職を継続させられますように。司祭のいない教会はどうなるのでしょうか? 現代の教会では、まもなく司祭のいない集会祭儀だけが行われるようになるでしょう。そのような集会とはいかなるものになるのでしょうか? それはもはや、祭壇の上で再現される主の犠牲ではありません。それに皆さんはそれにあずかり、私たちはそれにあずかるのでしょうか。違います、カトリック教会は、そのような集会のための教会ではありません。カトリック教会はカトリック司祭の教会です。カトリック司祭がいなければ、もはやカトリック教会は存在しません。

【カトリック司祭を得るためには、カトリック司教が必要である】

そして、カトリック司教がいなければ、カトリック司祭は存在できません。ローマとの話し合いの結果、ご存じのように、一人の司教を作ることはできました。しかし、その司教はどのようなものだったでしょうか? 彼らは、司教が「バチカンが望む中身」を持っていることを要求したのです。それはどういう意味でしょうか? それは、公会議の精神、第二バチカン公会議の精神を持っていることです。天主の精神ではない精神、カトリックの精神ではない精神、そのような精神から自分たちを守るためにこそ、私たちはこの愛する四人のカトリック司教をつくり、次の世代の神学生たちにカトリックの司祭職を伝えることにしたのです。このようにして、皆さんや子どもたちに真のカトリック信仰を教え、真の秘跡と真のミサの聖なる犠牲によって恩寵を伝える司祭が存在し続けることが、皆さんには保証されているのです。

【悪の根源:キリスト教一致推進事務局】

親愛なる兄弟の皆さん、私は、教会内の現状についても少しお話ししたいと思います。

もし誰かが私に、「しかし、教皇ピオ十二世までちゃんとしていたカトリック教会が、一体どうしてリベラルな近代主義の教会になってしまったのでしょうか?」とお尋ねになるなら、私はこうお答えするでしょう。あなたは公会議の歴史を十分に知っておられるし、十分に説明を受けてこられたし、私たちカトリックの心にとってとても悲しい、この悲しいテーマに関する多くの本を読んでこられたはずです。私たちは、過去からの逸脱、聖伝からの逸脱、公会議以前の諸教皇からの逸脱を感じていたのです。

公会議の歴史を特徴づける多くの事実のうち、私は次の事実を強調したいと思います。教会の方向性の間違いへと天秤を傾けたもの、教会を活気づける精神がリベラルな精神に完全に方向転換するように重石(おもし)を置いて傾けたもの、公会議の前、間、後に重要視されたものは、キリスト教一致推進事務局【訳注:現在はキリスト教一致推進評議会】です。

最近、非常に有益な3冊の本が出版されました。
◇モンシニョール・ブニーニの伝記、これは膨大な自伝で、彼の死後に出版されました。
◇ベア枢機卿に関する本、これも膨大な本で、公会議の前、間、後に彼が及ぼしたすべての影響を教えています。
◇そして最後は、ヴィヨ枢機卿の伝記、これは公会議中とその後の彼の方向性と、彼が行使した影響力を教えています。

これらすべてのことが教えているのは、教会の精神を変え、「アジョルナメント」(aggiornamento)、つまり、教会の現代化を行い、信仰を共にしないすべての人々にその扉を開き、彼らと私たちの間に違いはないという印象を彼らに与えようとする明確で確固たる意志があったことです。これは、教会の立場の根本的な変化です。

公会議以前は、――個人的にも私は実際にこの経験しました――私たちは海外の宣教に派遣されていました。私は30年間をアフリカで過ごしました。ここにいるガボン出身の信者の方がそれについて証言できます――30年もの間、何のために過ごしたのでしょうか? 洗礼によって霊魂たちをカトリック教会に回心させるためです。聖ペトロはエルザレムで最初の説教をした後、何をしましたか? 4000人に洗礼を授けました。聖ペトロは知っていたのです。洗礼によって自分が教会を教化するということを、また今後、教会に入りたい人、救いの道に入りたい人、私たちの主イエズス・キリストに従って救いの天主の贖いの御血にあずかりたい人はすべて、カトリック教会で洗礼を受けなければならないということを。これが、20世紀を通じて教会が行ったことなのです。

ところが、突然、私たちはこう言われました。「だめです! 皆さんは今、対話すべきです。回心させてはいけません。皆さんは、すべての人の意見を尊重しなければなりません。彼らが間違っているという印象を与えてはなりません」。

しかし、それでは、教会の使命はどこにあるというのでしょうか?

この根本的な変化は、まさにキリスト教一致推進事務局のメンバーであった人々のグループによる圧力によってもたらされました。

実際、少し考えてみましょう。なぜキリスト教一致推進事務局があるのでしょうか? まだ信仰を持っていないすべての人々に信仰をもたらすことを担当するのは、すでにプロパガンダ聖省(Congregation of the Propaganda)、すなわち布教聖省(Congregation of the propagation of Faith)ではなかったでしょうか?【訳注:当時はすでに福音宣教象省に名称を変更されていた】異教徒、精霊信仰者(animist)、無神論者、仏教徒、イスラム教徒、プロテスタントといったすべての霊魂を回心させるために世界中に宣教師を送り込んだのは、この布教聖省だったのです。布教聖省は、カトリックの洗礼によって、これらのさまよえる霊魂を教会に連れてくるために、宣教師を送ることを担当していたのです。

では、なぜ、布教聖省のほかに、あらゆる偽りの宗教や偽りのイデオロギーと「友好的」に接触するだけの新しい省を設立するのでしょうか? 教会は今、まさにこのことで苦しんでいるのです。もちろん、教会が死ぬことはあり得ません。皆さんは、教会が継続し続けることの証人であってまた執行人であり、皆さんが教会であり、皆さんが維持する信仰を通して、また皆さんが継続する教会の聖性を通して、教会を継続させています。そうでなければ、私たちの聖なる教会はどこへ行こうとしているのだろうと、私たちは疑問に思うことでしょう!

ベア枢機卿は、公会議の前に、全世界を回り、司教らを集め、彼らに公会議をエキュメニズム的な(ecumenistic)会議にするように頼みました。私は、エキュメニカル(ecumenical)とは言いません。公会議は常にエキュメニカルな会議と言われています。エキュメニズム的とは、つまり、すべての宗教の間に絆を作るということです。

これは不可能なことです。これは、私たちの主イエズス・キリストの神性に反しています。これが、この「事務局」が教皇の支持と励ましを受ける限り、ローマと同じ道を進むことが不可能である理由です。現状では、この事務局のメンバーは、教会と私たちの主イエズス・キリストの社会的統治を破壊する行動を続けることが可能なのです。

ウィレブランズ枢機卿の名前は、十分よく知られています。彼は、教会の教理、教会の信仰の責任者は他には誰もいないかのように、どこにでも行き、誰とでも接触するのがまさに彼の役目であるという事実を自覚しているということで有名です。

デ・スメット司教は、キリスト教一致推進事務局の次官として、公会議で信教の自由に関する草案を擁護した人物です。モンシニョール・ブニーニはキリスト教一致推進事務局のメンバーでした。彼は聖なるミサおよび秘跡の典礼を破壊し、新しい典礼に置き換えた人であり、典礼の進化の終わりがどこに導かれるかを誰か知っている者がいるでしょうか? その典礼は常に変化しています。

このような状況に直面すると、間違いなく、私たちはローマと定期的に連絡を取ることができません。なぜなら、これまでローマは、聖なるミサや典礼、神学校のための特別許可など、いかなる譲歩のためにも、公会議とその結果の受け入れを明確に含む新しい信仰告白―昨年2月にラッツィンガー枢機卿が作成した―に署名しなければならないと要求してきたからです。

私たちは、自分たちが何を望んでいるのかを知らなければなりません 聖なるミサを破壊し、 信仰やカテキズム、市民社会における私たちの主イエズス・キリストの社会的統治を破壊したのは、公会議です。それなのに、どうして私たちは公会議を受け入れることができるでしょうか?

【私たちはカトリックの信仰を守り、擁護しなければならない!】

このような状況に直面したとき、親愛なる兄弟の皆さん、私たちには何ができるでしょうか? 私たちはカトリックの信仰を守り、あらゆる手段でカトリック信仰を擁護しなければならないのです!

奥のテーブルにはたくさんの本が並んでいますが、その中には、私たちが苦しんでいる危機について見識を深め、信仰を守るために役立つ本がたくさんあります。

二冊の新しい本が出版されたばかりです。マルジアック神父の本とギユー神父の本です。特にギユー神父の本は、ミサのローマ典文、また、全時代の典礼の典文と新しい典礼の典文の違いを取り扱っています。これは非常に貴重で、非常に勉強になる本です。

聖ピオ十世会はまた、今世紀初頭のレデンプトール会士であるフィリップ神父様の「諸国民の王たるイエズス・キリスト」などの非常に興味深い本を再版しています。彼はこの素晴らしい小著をカテキズムとして書きました。この本は、諸教皇の回勅からの引用でいっぱいで、これが私たちの祖先の信仰、公会議以前の諸教皇の信仰である、と示しています。これは現在教会で教えられていることとは相容れません。つまり、国家や市民社会は宗教を持たないとする世俗化とは相容れません。彼らはこう言います。「これは許されない。主イエズスはもはや社会の上に君臨することはできない。イエズスはもはや社会の上に立つ者ではない」と。主は、創造主ではないのでしょうか? 主にはもはや統治する権利がないのでしょうか?

良い読書によって皆さんの信仰を守って、養ってください。私は、天主の恩寵によって、信者がカトリックの信仰を守るのを助ける必要性を理解していた熱心で知的な霊魂たちによってなされた、すべての出版物、すべての雑誌、などのすべてを引用することはできません。しかし、皆さんはそれらを知っています。皆さんが許してくださるなら、司教の聖別について確固たる立場を保った「モンド・エ・ヴィ」(Monde et Vie)を一つだけ引用しましょう。また、「ラジオ・クルトワジー」(Radio-Courtoisie)を通して、私たちのメッセージ、聖伝のメッセージを伝えることができると思います。これらは貴重な手段であり、「フィデリテール」(Fideliter)やシレ・アン・モントルイユ(Chiré-en-Montreuil)、またベルギーの「ディスマス」(Dismas)などの出版社には言及するまでもありません。すべての名前を挙げることはできません。しかし、私たちがカトリック信者であり続けるのを助けてくれる、この祝福された数多くの手段から利益を得なければなりません。

さらに、私たちは信仰を擁護するだけでなく、信仰を告白しなければなりません。以下に、聖ピオ十世の近代主義の誤謬に反対する誓いの終わりの部分があります。私たちがこの言葉をしばしば繰り返すことができますように。

「我は、使徒達に由来せし司教座の継承の内にあり、今もあり、また未来においても常にあり続くべき真理の確実なる徳能(カリスマ)に関する教父らの信仰を最も堅く守り、これを最後の息まで堅く守り抜かん。そは各時代の文化により良く似つかわしく見ゆる事が信ぜらるる為にあらず、むしろ初めより使徒達によりて説かれし不変の真理が、別様に信ぜられ或いは別様に理解さるる事決してあらざらんが為なり」。

参考:https://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/b6f192b820013624a4b6733b4d21f19e

これは、聖ピオ十世が、全時代の信仰、使徒の信仰を守るために、福音書に手を置いて誓うようにすべての司祭に要求した誓いです。私たちには、他の信仰はありません。これが、私たちが告白する信仰です。この信仰は、皆さんが小さなカテキズムの中で告白し、皆さんの子どもたちに伝えているものです。これらの古いカテキズムを大切に守ってください。

もしある家族が遠くに住んでいて、私たちの司祭の世話になることができない場合は、彼らに、サン・ミシェル・アン・ブレンヌのシスターたちに手紙を書くように勧めてください。彼女たちは通信教育でカテキズムの授業を行い、それによって家族に真のカテキズムを教えることができるのです。彼女たちは現在、800人の登録者を抱えています。私は、司祭から遠く離れている人々が信仰を守り続けるのを助けるために、登録者がもっともっと多くなることを望んでいます。

最後に、私たちは天主の恩寵である聖性を守るべきであり、イエズス・キリストなしにはこれを行うことはできません。実際、私たちが天主の恩寵を受けるのは、主の犠牲を通して、主の十字架を通して、主の御血の分けていただくことを通してです。これを、私たちは、すべての秘跡、特にご聖体において受けるのです。ですから、全時代のミサに忠実でありましょう。そうすれば、私たちは天主の恩寵を心に保ち、私たちの霊魂は変容し、天主さまにお会いする用意が、永遠の命への用意ができるのです。

【国際情勢】

さて,国際情勢について少しお話ししてもよろしいでしょうか? そこに黙想の材料があり、私たちが今生きている出来事から、まさに黙示録的な性格を持つ出来事から、引き出される一つの結論があるように思います。

皆さんは、起こっていることをご存じです。偽りの宗教による[ヨーロッパ]侵略です。特にイスラム教です。フランスだけでなく、英国、ベルギー、ドイツでも、私たちを脅かしています。2年前、10万人のトルコ人がミュンヘンの街路を行進し、ドイツとキリスト教に反対するスローガンを叫びました。これらの事実は、一つの警告です。もし私たちの政府が何の注意も払わず、キリスト教世界がイスラム教徒によって侵略されるままにしておくならば、これは予想できることです。聖ピオ五世をはじめとする諸教皇が、イスラムの大津波を食い止めようとしたのは、理由がないわけではありませんでした。そうしていなければ、キリスト教世界はすでに消えてしまっていたことでしょう。

もう一つの注目すべき出来事があります。これらの運動を、私たちは認識しなければなりませんが、必ずしも完全には理解していません。鉄のカーテンの向こう側にあり、そして今、鉄のカーテンを通ってやって来る、例外的な運動です。これらの運動に際し、私たちは、教皇ピオ九世が発表したメーソンの計画を忘れてはなりません。100年以上前、この計画は、メーソンの思想を押し付ける世界政府について述べていました。この計画は、教皇ピオ九世の命令に基づき、ジャック・クレティノー=ジョリー(Jacques Crétineau-Joly)によって公にされました。

至聖なる童貞マリアの予言も忘れてはなりません。聖母は、「ロシアの回心がなければ、この世の回心がなければ、祈りと償いがなければ、共産主義は全世界を侵略するでしょう」と警告なさいました。これはどういう意味でしょうか? 

秘密結社の目標は、メーソンの理想による世界政府であるということを私たちはよく承知しています。メーソンの理想とは、人間の権利、平等、兄弟愛、自由を、反キリスト教的な意味で、私たちの主に反対して理解することです。これらの理想は、世界政府によって推進されるでしょう。世界政府は、すべての国々に一種の社会主義を確立し、次に、宗教会議を作るでしょう。この宗教会議は、カトリックの宗教を含むすべての宗教を包含し、ちょうどロシア正教がソビエトに奉仕しているように、この世界政府に奉仕するために創立されます。こうして二つの会議ができるでしょう。全世界を支配するような全世界の政治会議と、この世界政府を傭い人のように支援する宗教会議との二つです。

これらのことは私たちを威嚇しています。私たちは覚悟を決めなければなりません。このような事態に直面して、私たちは何をすべきなのでしょうか?

教皇レオ十三世はフリーメーソンに関する回勅の中で、次のように述べました。「彼らは全てのキリスト教の組織を完全に破壊することを望んでいる。これが彼らの目標である」と。彼らは目論見にますます近づいています!

ですから私たちは、私たちは再び建て直さなければなりません! この破壊に反対して立ち上がらなければなりません。これこそ皆さんがなさっていることです。

ですから、私は皆さんに祝福の言葉を申し上げます。私は皆さんを十分に称賛することはできません。天主、私たちの主、聖母が皆さんにお伝えになりたいことを、私は確信をもって申し上げます。「続けなさい、皆さんがしていることを続けなさい」と。

あらゆるところで、学校や、修道院が生まれ続けています。多くの国々で、小教区が増え続けています。あらゆるところで、聖伝のための教会が入手されています。私たちは、消えつつあるこのキリスト教世界に、もう一度、私たちの主イエズス・キリストの社会的統治を打ち立てなければなりません。

皆さんはこう言われるでしょう。「しかし、大司教さま、これはダヴィドのゴリアトに対する戦いです!」と。そうです、確かに私は承知しています。しかし、ゴリアトとの戦いで、ダヴィドは勝利を収めました! どのようにして勝利を得たのでしょうか? 小川から取った小石によってです。私たちが持っているこの小石は何でしょうか? イエズス・キリストです! 私たちの主イエズス・キリストです! 

私たちは、[フランス革命時代の]ヴァンデの先祖たちとともに、こう言いましょう。

「イエズス・キリストの名誉でなければ、私たちにはいかなるものも名誉ではない。イエズス・キリストを[罪を犯して]侮辱することでなければ、私たちにはこの世に恐れなど何もない!」と。彼らはこれを歌いながら、自分たちの天主を守るために死地に赴いたのです! 私たちも、勇気をもって、心の底から歌いましょう。

「私たちの主イエズス・キリストを愛するのでなければ、私たちにはそれ以外の愛はない、主を侮辱こと以外、私たちには恐れなど全くない!」と。

この戦いにおいて、私たちを助けてくださるよう、至聖なる童貞聖マリアに祈りましょう。この目的のために、この聖なるミサの後、私たち、ここにいる五人の司教は集まり、聖母の汚れなき御心への世界とロシアとの奉献を更新します。

いつも戦いの中心におられる私たちの良き母である至聖なる童貞が、私たちを励ましてくださっていることを、私たちは確信しています。聖母は、私たちが恐れずに戦うよう求めるために地上に来られたのです。聖母は私たちとともにおられるのですから。

私たちの家族、私たち自身、私たちの町、私たちの国、私たちの故郷を、聖母マリアの汚れなき御心に奉献することで、聖母が私たちを助けるために来てくださること、また、聖母が、なんとかして私たちを、ご自身とともに、いつの日か永遠の命に到達させてくださることを、私たちは確信しています。

父と子と聖霊の御名によりて。アーメン。

Sermon de Mgr Lefebvre - Jubilé sacerdotal - 60 ans - 19 novembre 1989 • La Porte Latine

1989年11月19日パリでの叙階60周年奉祝ミサでルフェーブル大司教様が行われた説教 - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

1989年11月19日パリでの叙階60周年奉祝ミサでルフェーブル大司教様が行われた説教(2) - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

 


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