2022年5月22日(主日)御復活後第五主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(東京)
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
レネ神父様、愛する兄弟姉妹の皆様、二つお知らせがあります。
一つは、明日から土曜日まで、私たち司祭は三人で司祭の黙想会を行います。教会法によって決められているもので、ですから修道院では月曜日のミサの後から、ミサが土曜日までありません。どうぞご了解下さい。そして良い黙想会ができますようにお祈りをお願い致します。
もう一つのお知らせは、レネ神父様が今一緒にいらして下さっているので、もし告解をなさりたいという方は、ミサの間でもどうぞご遠慮なく神父様に仰って下さい。神父様はいつでも告解を聞いて下さいます。どうぞいらして下さい。
今日福音でイエズス様は「あなたたちが聖父(ちち)に求めるものは何でも、聖父は私の名によって与え給うであろう。私の名前によって求めよ。そうすれば与えられるであろう。あなたの喜びが満たされるように」と約束しました。はっきりと断言しました。
ですから今日は、この御言葉について一緒に黙想致しましょう。
⑴一体、イエズス様の聖名(みな)とは一体どういうものなのか?
⑵第2に、イエズス様の聖名(みな)は、名前にはどうしてそれほど力があるのか?聖名によって祈ると全てが与えられる。秘密は何なのか?
⑶第3に、ではイエズス様の聖名によって祈る、というのはどうすることなのか?具体的にどんなようにすれば良いのだろうか?ということを簡単に黙想致しましょう。
⑴イエズスの聖名、これは私たちに与えられた最高の、最も尊い名前です。これ以上高貴な、これ以上聖なる、これ以上力のある名前がありません。これ以上高貴なものがないというのは、なぜかというと、これは天主のお名前であるからです。天主が人となったお名前であるからです。なぜかというと、永遠の昔から、「この名前は、私たちに与えられる」と天主が定めたからです。
マリア様を通して、それは教えられました。大天使聖ガブリエルは、「マリア、恐れるな。その子をイエズスと名付けなさい。」また大天使は聖ヨゼフにも言いました。「その子をイエズスと名付けよ。なぜかというと、この子は民をその罪から救う方であるから。」
『イエズス』というのは『救い主』という意味です。『ヤーウェは救う』、救う為に天主は人となられたのです。
ですからイエズス様は、この名前にかけて、御自分の存在全てにかけて、理由にかけて、私たちを救おうとされます。その為には何も(?)おうとしません。命も御血も御体も全て、私たちに与え尽くそうとされます。
私たちの人生が成功したか失敗したか、あるいは私たちの人生に意味があったのかなかったのか、それは究極の目的に到達したかにかかっています。天国に行くか行かないかにかかっています。つまりイエズスと共に復活の命を受けるか受けないか、あるいは永遠の滅びに落ちてしまうかにかかっています。
もしもこの世で「幸福だ」と、人々が羨むような生活をたとえしていたとしても、どれほどの喜びが、名誉が、あるいは何かがあったとしても、たとえ全世界を所有したとしても、儲けたとしても、もしも私たちがイエズス・キリストを失ってしまうならば、これこそが最大の不幸です。なぜかというと、イエズス・キリスト様がいなければ、私たちの最後は、永遠の破滅、永遠の死、永遠の苦しみ、地獄でしかないからです。それは意味のなかった、失敗だったということになるからです。
しかし、もしも天国に行けるならば、救われるならば、私たちの人生に全てが意味があります。この地上の束の間のものが、全てに価値を持ちます。永遠の価値を持つようになります。大成功です。私たちの一生をかける事業が果たされたことです。たとえこの世でどれほどの病、どれほどの苦しみ、どれほどの屈辱、どれほどの辱めがあったとしても、一銭もなかったとしても、どんなに辛いことがあっても、しかしイエズス・キリストと共にいるならば、これこそ私たちにとって、全ての希望のもとです。全てに私たちの人生が成功だと言われる元があります。
なぜかというと、遂にはイエズス・キリストが、私たちを永遠の幸せに、終わりない、果てしない喜びに導くことができるからです。イエズス・キリストだけが、全ての善と、幸せと、喜びの源であるからです。全ての、もしも私たちが持っている何かがあれば、全てイエズス・キリストから由来するものであるからです。それ以外の何ものでもありません。イエズス・キリストの聖名だけが、イエズス・キリストだけが、私たちにその成功を与え、そこにまで導くことができる方です。
イエズス様は仰いました。「私に留まれ。私がいなければお前たちは何もできない。そうしなければお前たちは火に焼かれてしまう。」
初代教皇、使徒たちの頭聖ペトロは、最初の奇跡を行ないました。その奇跡は、イエズスの聖名によってでした。神殿の前で乞食が座っていました。生まれつき歩くことができない乞食でした。聖ペトロがその乞食の前に行くと、「私には金も銀もない。しかし、お前にもっと良いものをあげよう。イエズス・キリストの聖名によって、立って歩け!」するとその瞬間、彼は立ち上がって、歩いて、喜び踊りました。それを見ていた人は、「一体、何が起こったのか!」非常に驚きました。
これは、これから起ころうとすることの前兆でした。カトリック教会が、聖ペトロのリーダーシップの下で、原罪を受けてそして天国へと立ち上がって歩くことができない、いつも罪の死の闇に座っている私たちを、「イエズス・キリストの聖名によって、立ち上がって、天国へ向かって歩け!」と教える為でした。イエズスの名前によって瞬時のうちに治癒されることができる、ということの予告でした。
そして聖ペトロは言います、「あなたたちが十字架に付けたイエズス・キリストの聖名によって、この人は今、立っている、歩くようになっている。天上天下、私たちが救われる名前は、この方以外にはない」と。
ですから私たちは、「イエズス」という名前という、ものすごい宝物を持っています。
⑵では、何でこの聖名「イエズス様」という名前にはそれほど力があるのでしょうか?なぜ聖父は、イエズス様の聖名を通して私たちから祈られると、頼まれると、どうしても断ることができないのでしょうか?この名前を出されては、もうどうしてもやるしかない、なぜでしょうか?
なぜかというと、イエズス・キリストは天主であるにも関わらず、人間の本性を取って、聖父に従って、聖父の御旨を全て果たして、死に至るまで、十字架の死に至るまで全てを果たして、自分を無とされたので、聖父の御旨を果たしたので、今度は聖父が、イエズス・キリストの望むままに果たす番であるからです。「さあ、今度は私の番だ。お前の名前によって、全てを行なう。」
ですから聖父は、このイエズス・キリストの従順を非常に快く思って、全ての名に勝る名を与えました。この「イエズス」という名前を「見よ!控え!控えよ!」と言えば、天にあるものも、天の全ての天使たちも聖人たちも、あるいはこの地上にいる全ての人々、あるいは地の下の者たちも、イエズスの前に愛を込めて、あるいはその名前の恐ろしさのあまり、跪かなければならないほど力があります。「これこそが、主である。これよりも勝る名はない。」
聖父さえも、この名によって頼まれるならば、拒むことができない名前です。イエズスの聖名を呼び求める者は、決して辱められることはあり得ません。
⑶では、イエズス様の聖名によって祈る、とはどういうことでしょうか?
イエズスの聖名というのは、ただ「イ」「エ」「ズ」「ス」という音によって祈るというだけではありません。確かにカトリック教会はミサの時に、聖ペトロに倣って、「聖父と共に、聖霊との一致において、永久(とこしえ)に生き、かつ治(しろし)め給う主イエズス・キリストの聖名によりて願い奉る」と必ず終わります。しかしそれを発音するのみならず、私たちはその意味を考えなければなりません。
「イエズス」というのは「救い主」という意味ですから、この私たちの救いに関わる全てをお祈り致しましょう。永遠に関わる、永遠の喜びに関する。イエズス様の名前によって祈るということはまた、イエズス様の望みを果たすということでもあります。
イエズス様の御旨というのは、私たちが永遠の救いを得ることであって、その為に必要なことを全てをすることです。つまり私たちが侮辱を許したり、あるいは天主を愛したり、天主を愛するが為に隣人を愛したり、という心構えを持っていることです。
ですから、トリエント公会議の公教要理によると、「私たちはイエズスに倣って、敵を許し、そして天主を愛して、寛大に隣人を愛することによって、イエズスの名前によって祈る準備ができるようになる」と言います。なぜならば、まさにイエズスの聖名は私たちに教えているからです。
ですからもしも、私たちがイエズスの救い主の御旨に従って祈るならば、救いに関することは全て与えられます。もしもそれが与えられなかったとしたら、それはきっと救いに役立たないか、あるいは妨害するか、あるいは祈り方があまりにも散漫で心が込もっていなかったから、あるいはもっと良い、より良い時を選んで与えられるのかもしれません。しかし、イエズスの聖名による祈りは必ず聞き入れられます。その名前の為に。
そのような素晴らしいものを私たちが持っている、ということを感謝しましょう。そして使徒たちは、イエズス様の聖名によって辱めを受けるということを喜びました。あるいは聖パウロはこう言いました、「私はエルサレムで、主イエズスの聖名の為に縛られるばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています。多くの信者たちは、殉教者たちは、この聖名の為に命を捧げることを喜びとしました。」
では最後に、ファチマのマリア様にお祈り致しましょう。マリア様こそが、最も最高にイエズス様の聖名を愛して、その名前によって祈り、そして今でも祈り続けておられる方です。イエズス様の御旨とぴったりと一致していた方でした。ファチマではロザリオの祈りに、一連の後に祈るべき祈りも教えて下さいました。
マリア様の御取り次ぎによって、私たちがいつもイエズス様の聖名を愛して、イエズス様の名前を最高の名前として崇め、敬って、そしてその聖名によって祈り、生活することができますように。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。