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【参考文献】ヴィガノ大司教 使徒的書簡「デジデリオ・デジデラーヴィ」についての宣言

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ヴィガノ大司教 使徒的書簡「デジデリオ・デジデラーヴィ」についての宣言


Photo Credit
Viganò. Declaration regarding the Apostolic Letter “Desiderio Desideravi”

2022年7月7日

マルコ・トサッティ
親愛なる「Stilum Curiae」の友人と敵の皆さん、カルロ・マリア・ヴィガノ大司教からこのテキストを受け取りましたので、喜んで公開します。どうぞお読みください。

§§§

使徒的書簡「デジデリオ・デジデラーヴィ」« DESIDERIO DESIDERAVI » についての宣言

「ヴァン・トゥアン枢機卿オッセルヴァトリオ・インテルナツィオナーレ」の刊行している「教会社会教理紀要」2022年6月30日付に掲載された「キャンセル文化 ゼロからやり直すという永遠のグノーシス的夢想」(Cancel culture: l’eterno sogno gnostico di ricominciare da zero)と題する論説(こちら)で、ジャンパオロ・クレパルディ大司教は、「歴史的に新奇なものに固執することを聖徳とし、過去を保存することを罪とするという、古いものよりも新しいものを好む態度」と、さらに、この態度は近代的なものに反対するすべてを組織的で冷酷な「記憶の抹殺」(damatio memoriae)とするものだとして、非常に明快な分析をもって非難しました。このトリエステ大司教区の大司教はこう書いています。「進歩は、進歩すること自体を除いて、すべてが変わることを望んでいますが、進歩はそのままでとどまります。進歩は、進歩を保守しなければならず、進歩とは、議論の余地のないもの、決して批判されえないもの、決して乗り越えられず、決して消去されえないものとして進歩してはならないとされます。同じことが革命についても言えるかもしれません。革命は、革命という変わることができない現実を除いて、すべてを変えてしまう、革命だけはいつでも絶対的で革命がない、と。同様に「キャンセル」は、すべてをキャンセルしなければなりませんが、キャンセルだけは絶対的な原理のままキャンセルされない、と」。

この糾弾が意味することは、反キリスト教的な「グノーシス思想」がよみがえったことを明らかにしていることです。グノーシス思想とは、「英語圏のプロテスタント・ブルジョアジーの啓蒙思想と反宗教的プロパガンダの」味方であり、「数世紀にわたる計画的な偽情報」の実りであるのは、偶然ではありません。

ルター派の偽りの宗教改革以降、カトリック・ヨーロッパの統一は、このドイツ人修道士の異端と英国国教会の離教によって引き裂かれ、市民革命(これは政治的異端と定義できます)が、その思想的基盤を、市民革命以前の教理的・道徳的な誤謬にどれほど多く見いだされるかを明白に示しています。

クレパルディ大司教の勇気ある調査は、少なくとも見かけ上は、世俗社会における「キャンセル文化」に限定されており、一方で、第二バチカン公会議に始まるカトリック教会のまさに中心で四角四面に頑強に追求されてきた、それほど重大ではないものが見落とされています。このことは、以下のことを裏付けています。つまり、キリスト教国の背教は、社会団体からキリスト教の痕跡を組織的に排除してきましたが、教会団体から同じように過去を排除することが必然的に先行しなければならなかったのです。

この過去の排除と同時に、新しいものを、存在論的により良いものとして、また道徳的により優れたものとして押し付けることが必要でした。押し付けは、その根拠が何であろうと、つまり、新しいことを押し付けた人々の意図がなんであろうと、そして何よりもその結果の評価がどのようなものであろうとも、なされなければなりませんでした。

聖ピオ十世は、近代主義を、この哲学的な誤謬に由来する異端と定義しました。近代主義によれば、新しいものは何でも、それが新しいというだけで絶対的な善とみなされるのです。しかも、教会において過去をキャンセル(取り消し)することが、教理的、道徳的、典礼的、規律的なレベルだけでなく、文化的、芸術的、大衆的なレベルにおいても、悲惨な影響を引き起こすだろうという証拠があったにもかかわらず過去は取り消され、予想されたように、悲惨な結果が起きました。

公会議は、新奇性と、いわゆる進歩というものを規範として掲げましたが、それに限定はしませんでした。その立役者たちは過去をキャンセルする(取り消す)必要がありました。なぜなら、「新しいもの」(novus)と「古いもの」(vetus)を単純に比較すれば、それぞれの結果によって、新しいものが良く、古いものは断罪されるべきだという考えは否定されるからです。

典礼改革は、それ自体が「計画的な情報操作」でした。第一に、信者がラテン語による典礼祭儀を理解していないという、まやかしの嘘に基づいて押し付けられたからであり、第二に、「祈りの法」(lex orandi)が、意図的にカトリックの正統性から切り離された「信仰の法」(lex credendi)の表現となり、実際、その正統性を否定したからです。ルター派の偽りの宗教改革が行ったように、教会の領域で適用された進歩主義的なプロパガンダと「キャンセル文化」のために主要な道具となったものは、改革された典礼でした。ルター派の宗教改革は、何世紀にもわたる生きたカトリシズムが信者と国民の生活に染み込ませてきた信仰、伝統、日常の仕草を受け継いでいくのを、キリスト者たちから徐々に排除していったのです。

新しいものが無批判に受け入れられ、古いものが「古い」からとして排除され、古いものは、厳しい警告として現在を脅かすことのないように忘れられなければならないところでは、「キャンセル文化」は避けられません。

ジョージ・オーウェルの小説「1984年」が、事実が起こった後の事後的な(ex post)情報検閲、つまり過去のニュースを現在における有用性の変化にしたがって修正するということを予見していたとすれば、それは偶然ではないでしょう。

一方、比較対象が単に存在するということは、それ自体で、【現在と過去に】違いがあることを明らかにし、それによって、思慮深い判断はかき立てられ、進歩のドグマを疑問に付させ、今日では誰も再現できないような過去の宝が明らかになるのです。なぜなら、過去の宝はまさに、現在が先験的に(a priori)拒否する世界の結果だったからです。

しかし、ここ数十年、「カトリック進歩主義」――それ自体すでに矛盾した表現ですが――の信奉者たちが、聖伝を損ない、聖伝を反テーゼに置き換えるために活動してきたとすれば、まさに、この10年間のベルゴリオの「教皇職」において、「キャンセル文化」は思想的に激しい意味合いを持つようになってしまいました。その領域は「アモーリス・レティチア」(Amoris Laetitia)で説かれた状況倫理から、「ラウダ―ト・シ」(Laudato Si)の新マルサス的エコロジー、「フラテッリ・トゥッティ」(Fratelli Tutti)のメーソン的なエキュメニズムにまで及びます。

さらにこの「キャンセル文化」は、外観上のしるしを大胆に取り除くことにも現れています。典礼の祭服を取り除くことから、教皇の記章や称号の放棄に至り、さらには「トラディティオーニス・クストーデス」(Traditionis Custodes)と「デジデリオ・デジデラーヴィ」(Desiderio Desideravi)は、自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)をもって、40年間の追放の後に比較的自由な幕あい時間を与えた使徒継承の典礼の実質的なキャンセル(取り消し)にまでに至りました。

これこそが「キャンセル文化」です。あらゆる点で、つまり、実現の方法、意図する目的、その根底にあるイデオロギー、そしてそれを推進する人々を結びつける共通項、というさまざまな意味で「キャンセル文化」なのです。転覆活動であることは確かです。何故なら、教会の本来の目的を転覆させ、教会を破壊するという目的のために教会の権威を利用するのですから。それはちょうど国家の権威が国家の利益や市民の共通善に反して奪われるのと同じです。

「時々おばあさんのレース編みを持ってくるのはいいことですが、時々だけです。これはおばあさんに敬意を表するためです、違いますか?」 ベルゴリオは(6月に、ある司祭グループに語りかけながら)こう言いました。
そして彼は、無知な人間が偉大な芸術作品や文学の傑作の前で見せるような、不遜かつ表面的な態度でそう言ったのです。いや、むしろ、その価値をよく知っていながら、代替案としてゴミやがらくたしか持っていない人が、信用を失墜させ、嘲笑することに頼ることしかできないのと同じようでした。使徒継承の典礼の教理と霊性という計り知れない宝を、ソーシャルメディアから得た単純化したもの、つまり「おばあさんのレース編み」で粛清することは、自分に論拠がないという自覚を表しており、誠実な人なら保存し、守り、理解しようとするものに対して、これほど不寛容である理由を説明しています。
ホルヘ・マリオ・ベルゴリオの「教導権と統治の行為」に個別に反論することにまだ固執している人々は、恐ろしくて痛ましい現実に注目するのを拒否しているのです。この教会内の現実に対応して、西洋の世俗世界でその対称的な事例を明らかに見いだしています。この世は、常にそうであったように、教会を模範としています――過去には教会の善から霊感を受け、今日では悪において教会に追随しています。従って、誰かが、教皇文書というカトリックの聖伝に関して代表しているかもしれない文書によって躓いたからと言って、あれやこれやの個別の文書や宣言に反論することは無意味です。

「キャンセル文化」は――すわなち、グノーシス的かつ革命的な思想の一表現として――存在論的に、信仰の敵である以前に、理性の敵です。そして、過去を削除し断罪するというこの犯罪的な操作がもたらす計り知れない損害を非難する人々は、単に教区や修道共同体が陥った悲惨な状態を示すことによってであっても、まさにこれらの損害が故意に追求されたことを理解していないように思えます。彼らは、サイコ・パンデミックが起こったとき、明らかに実験的血清によって引き起こされた深刻な副作用と「突然の病気」が存在するにもかかわらず、保健当局がいわゆるワクチンの配布を禁止していないことに驚いている人々と同じ欺瞞に陥っているのです。ゲイツ氏が説明してくれたように、世界の人口を10~15%削減するためのものであることは明らかであるにもかかわらず、です。

現実には、原因と結果の関係を考えたくないというのは、本質的にアリストテレス的かつトミズム的な西洋の論理学・哲学の体系全体を否定した結果です。なぜなら、逸脱した思想は、盲目的な非合理性と隷属的な従順との中でしか受け入れられないからです。たとえ、今から思えば、この革命の立役者たちが非常に明晰で論理的な計画を持っているとしても、しかし、それは破壊転覆的で犯罪的であるため、公然と宣言することはできないのです。

ディープ・チャーチとディープ・ステートは動いているときは並行し、同調しています。なぜなら、両者を動かしているのは憎しみ、イエズス・キリストに対する憎しみだからです。反キリスト的な母体は欺瞞にあり、欺瞞は嘘つきのしるしです。この欺瞞は、アダムとエワに、自分たちの不従順が自分たちを天主に似た者にすると信じさせることから始まりました。しかし、現実には、二人は「天主のかたどりと似姿」において創造されました。つまり、創造主が被造物と被造界の中に刻印なさった天主の宇宙に、自由に適合するように創造されたのです。

人間が天主を否定し、天主の聖なる法に反抗しても、何の罰もなくいることができると私たちに信じさせるという同じ欺瞞が見いだされます。サタンはまず第一に、高慢によって罪を犯すことで、自らを永遠に地獄の破滅へ宣告したのです。自由という神話、放埓や自由思想(libertinism)という神話は、偽物であり、すなわち嘘です。世俗的な国家といわれるものは、社会における王たるキリストの主権を否定しているので、これは嘘です。エキュメニズムは、キリストの唯一の教会である聖なるカトリック教会の外には存在し得ない平和と兄弟愛の名の下に、天主の真理を誤謬と同じレベルに置くものであり、嘘です。進歩を絶対的な善として打ち立てるのは、嘘です。なぜなら、それが善と考えるものは、実際には、個人と社会(世俗社会と霊的社会の両方の社会)に影響を及ぼす悪だからです。大衆を支配し、滅びに導くことだけを意図して、陰謀家のエリートが大衆に押し付けることに決めたものを、大衆の要求の勝利としてつかませることは嘘です。

だからこそ、第二バチカン公会議の成功と公会議後の教会の征服を議論の余地のないものとして讃美する――巨大な危機が存在するにもかかわらず――ベルゴリオのナンセンスの前では、どんなコメントも余計なのです。

ジェンダー・イデオロギーからネオ・マルサス主義的健康イデオロギーまで、近代性の最新の発見として私たちに売りつけられているものは、霊魂を天主から遠ざけることだけが目的の古いイデオロギー的なゴミであり、「不幸は仲間を好む(他人も自分と同じように不幸であってほしい)」という格言が悪魔の悪行の適切な要約になります。

悪魔は、霊魂と身体を与えられた被造物が、純粋霊としての天使にも与えられなかった贖いを御摂理によって与えられたことを妬ましく思っているのです。聖三位一体の第二のペルソナのご托身によって成し遂げられた贖いはその実を永続させていますが、それはキリストの神秘体である聖なる教会によってなのです。

ベルゴリオは、もし人々がグノーシス主義やペラギウス主義の教皇という考えを受け入れることができないなら、そのような人々をグノーシス主義やペラギウス主義だとして非難します。その教皇にとって善とは、創造主かつ贖い主である天主が私たちに意図した完徳の模範に自分を合わせることではなく、私たち一人一人が善だと信じることを行うことにあるのです。しかし、これは結局のところ、Non Serviam(私は仕えない)を道徳的な規則として設定した、ルチフェルの罪にほかなりません。

クレパルディ大司教は、「キャンセル文化」の反キリスト的な母体を上手に指摘しました。しかし、この分析は、世俗世界に起こっていることについて有効で真実ですが、勇気を持ってカトリック世界にも拡張しなければなりません。カトリック世界においては、第二バチカン公会議が新しいものや束の間のものを偶像として作り、天主のみ言葉と使徒およびローマ教皇の教えに基づく二千年にわたる聖伝を否定して以来、同じ反キリスト的な母体が議論の余地なく存在してきているのです。

ベルゴリオのイデオロギー的な怒りは、単にこれらの前提による論理的帰結であり、一人のマッサージセラピストが2025年の聖年のためのゲイに好意的なロゴ(こちら)をデザインできるという事実は、進行中の癌が転移していることを裏付けている最新にして惨めな確認に過ぎません。

兄弟である司教、司祭、そしてすべての信者の皆さんに、現在の背教についての、この根本的な側面を理解するよう、私は強くお勧めします。なぜなら、教会の母なる胎内そのものでキリストの敵どもによってキリストから王冠が奪われている限り、世俗社会を回心させ、キリストに王冠を取り戻すために、どんな善も行うことはできないだろうからです。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
2022年7月2日

【参考資料】

Cancel Culture, the eternal Gnostic dream of starting over from scratch

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