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【参考情報】ヴィガノ大司教によるレッジョ・エミリアの償いの行列へのメッセージとビデオ

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ヴィガノ大司教によるレッジョ・エミリアの償いの行列へのメッセージとビデオ

Procession of Reparation in Reggio Emilia. Message and Video by Archbishop Viganò.

天主の不変の真理に基づく愛徳は、サタンに対抗するとてつもない武器であり、この世を回心させ、多くの霊魂を主のもとに連れ戻すための間違いのない道具です。

2022年7月4日

マルコ・トサッティ
親愛なる「Stilum Curiae」の友人と敵の皆さん、私たちはレッジョ・エミリアでの償いの行列の参加者に向けたカルロ・マリア・ヴィガノ大司教のメッセージを受け取りましたので、喜んで公開します。お読みになり、またお聞きください。

Photo Credit

§§§

福者ジョヴァンナ・スコペリ協会の償いの行列の参加者へのメッセージ
2022年7月2日 レッジョ・エミリア

Messaggio per la manifestazione del 2 luglio.

親愛なる信者の皆さん、
Laudetur lesus Christus ― イエズス・キリストは讃美せられさせ給え!

今晩の償いの行列に参加する人々、特に若くはない参加者にとっては、数十年の間にイタリアがこのように急激な形で変化してしまい、国々の中でイタリアを偉大にし繁栄させたカトリシズムの遺産を取り消してしまったことは、ほとんど信じられないように思えることでしょう。私たちは、一つのプロセスを――明らかに不可逆的な――、信仰から背教へのプロセスを目撃しているのです。このプロセスは、大教皇聖レオが使徒聖ペトロと聖パウロの大祝日を祝って、Alma Urbe(愛するローマ市)の御摂理的な役割を賞賛して述べたこととは正反対のものです。「誤謬の教師であったが、ローマは真理の弟子となった」と大教皇は書いています。

今日、私たちは、父に裏切られた子どものように落胆しながら、殉教者と聖人のローマは「真理の教師であったが、誤謬の弟子となった」と言うことができるでしょう。なぜなら、創造主かつ贖い主である天主への反逆において世俗的、宗教的権威を巻き込んだ現在の背教は、下からではなく、上から始まったからです。

公職を司る者も教会の牧者も、この世の"反福音"に従順であることを示しています。また、彼らは、王たるキリストにふさわしい敬意を払うことや、その聖なるみ旨に従うことを拒みながら、「政治的正しさ」(political correctness)という新しい偶像の前に膝をかがめ、悪徳と罪によって残忍化した人類の像の前で香を焚いています。今日、この世的、霊的な事柄において人々を導く者たちは、市民の共通善や信者の霊魂の救いではなく、市民や信者の堕落、彼らの滅びを目的としています。大衆は、正直や正義や聖性の道を捨て、欺瞞、腐敗、天主に対する地獄の反乱に身を委ねています。

「プライド」の猥褻な表示物を都市の街路で目にすることは、驚くことではありません。ここ数十年の間に異常者たちが征服した公共空間は、カトリック信者によって以前から放棄されていました。カトリックの聖職者が、ご聖体、聖母、守護聖人をたたえる行列を「トリエント公会議後の凱旋主義」の誇示とみなしてきたからです。

離婚、中絶、安楽死、同性愛の結合など、逸脱した狂気の人類がなし得る最悪のものが合法化されても、驚くことではありません。これが起こったとすれば、それはカトリック信者が、この世と社会について自分たちの考え方を押し付けることはできない、また、民主主義と自由の名の下に、キリストの敵どもと共存しなければならない、と言われたからです。しかしそれは欺瞞でした。なぜなら、敵どもが国内の大多数のキリスト教徒に要求した寛容さはもはや許されず、誰もが足並みを整えた思想やジェンダー思想、LGBTQの教理による独裁に服従しなければならないからです。思い出しませんか? 結婚については疑問に付されなかったものの、シビル・ユニオンを受け入れるように私たちに求められたことを。そして、いったんその利益団体に正当性が与えられると、同性婚、同性カップルの養子縁組、代理母制度、出産後の中絶、国によっては若者や貧困者にさえ課される安楽死への扉が開かれたのです。

Scelesta turba clamitat: Regnare Christum nolumus と、私たちは王たるキリストの祝日の賛歌 "Te Saeculorum Principem(代々の君主なる御身を)" で歌います。「錯乱した暴徒たちは叫ぶ。われらはキリストの統治を望まぬ、と」。サタンに突き動かされたこの地獄の叫びは、おそらく彼らが言うことのできる唯一の正直な言葉です。そしてそれは真実です。キリストの社会的王国には、悪徳のための場所はありません。罪には正当性もありえません、若者の堕落には寛容もありえません。私たちの敵はよく知っています。「天主の国」(Civitas Dei)と「悪魔の国」(civitas diaboli)が敵対するものであること、共存は不可能であるだけでなく、考えることもできず、不条理であること、何故なら、キリスト教社会は「世俗の」社会とは対立し相容れないからということを。

皆さんは、イエズス・キリストと至聖なる御母に対する「錯乱した暴徒たち」(scelesta turba)の汚聖と冒涜の償いをするという意向で、信仰を公に証しするためにお集まりになりました。なぜなら、これらの反抗的な霊魂の残酷で卑猥な憎悪に直面して、私たちは、主が彼らの救いのために十字架上でご自分を犠牲になさったのと同じ瞬間に、処刑人によって辱められた主の模範に倣わなければならないからです。事実、ご托身、ご受難、死によって、人間の無限の罪を永遠の御父に対して最初に償われたのはキリストご自身です。天主への不従順を償うことができるのは天主だけであり、人類の名においてこの償いを捧げることができるのは人間だけだからです。そして、聖なる教会であるキリストの神秘体の生きた肢体である私たちも、同じ精神、同じ従順、同じ御父への信頼を寄せる自己放棄をもって、同胞である人間の侮辱と罪の償いをすることができ、またしなければならないのです。

そして、私たちは、まさに天主に反対しているがために人間に反対している社会が模倣すべき模範として建てた多くの罪を悲しみながら見ていますが、愛徳の義務は、蛇の欺瞞に誘惑されることを許した人々のために、彼らが回心し悔い改めるように祈るよう私たちに要求しています。彼らが皆さんに約束した包括的な世界、主の法を無視して自分が欲するように存在し、行う自由とされるもの、称賛される放埓と悪徳、嘲笑され信用失墜させられた聖徳――これらはすべて嘘なのです。地上の楽園でサタンが私たちの最初の父祖に行った「あなたたちは神々のようになる」という約束も嘘だったのと同じようにです。

いわゆる「ゲイ・プライド」のデモに参加している人たちに告げます。

いいえ、あなたたちは神々のようにではなく、獣のようになるのです。あなたたちには幸福ではなく、苦痛と病気と死――永遠の死が待っています。あなたたちには平和ではなく、不和と喧嘩と戦争が待っています。あなたたちには繁栄ではなく、貧困が待っています。あなたたちには自由はなく、奴隷になるのです。そして、このことは間違いありません。なぜなら、嘘つきは初めから人殺しであり、あなたたちの死を望み、あなたたちの目から天主の御影(ごえい)を消し去り、自分自身の反逆で最初に失った至福の永遠をあなたたちから奪うからです。なぜなら、高慢によって最初に罪を犯したのはルチフェルであり、彼のNon serviam(私は屈しない、天主に屈しない、天主を私の主、創造主と認めない)であったからです。生命の作者を憎む者が、天主の被造物であるあなたたちを愛することができると、どうして望むことができますか? 永遠の呪いを宣告された者が、自分が最初に奪われた永遠の至福をあなたたちに約束できると、どうして信じられますか?

この行列は対立の場であってはならず、むしろ、悪しき者【悪魔】に欺かれた多くの人々に、信仰と愛徳の感情に動かされた人々、寛大さと超自然のまなざしで兄弟の罪の赦しを請い願うために祈りと断食と犠牲を捧げる人々が存在することを示す機会でなければなりません。天主の不変の真理に基づく愛徳は、サタンに対抗するとてつもない武器であり、この世を回心させ、多くの霊魂を主のもとに連れ戻すための間違いのない道具です。彼らのためにさえ血を流されたお方のもとに、彼らを連れ戻すのです。この世を征服する、無限で取り消すことのできない愛、山をも動かす愛、私たちの人生に意味を与え、私たちが存在することを失望させない愛、そのような愛によってです。

十字架にくぎ付けられた救い主の御影(ごえい)を目にし、私たちの身代金を支払って贖うために主が受けられた苦痛を思うとき、私たちは鈍感ではいられません。ちょうど過去数世紀の異教徒、偶像崇拝者、罪人たちが鈍感ではいられなかったのと同じようにです。最悪の悪徳に染まってしまい、偽りの宗教に惑わされて、知性と意志において堕落した社会でさえも、愛によって――まさに、その超自然の愛徳によって――征服されました。この愛は、殉教者たちを、子どもや女性や老人でさえも、天主の愛に背かないために、自分たちの処刑人に逆らわないようにさせました。信仰のために迫害されながら、尊厳をもって死んでいくキリスト教徒たちの姿を見て、どれだけ多くの人が回心したことでしょうか! キリスト教徒の模範と福音の素朴な真理を目撃して、どれだけ多くの人が洗礼を受けたことでしょうか!

ですから、この償いを実行しましょう。まさにカルワリオへの道のキリストに謙遜に倣うことで、私たちが、今日、遠く離れている多くの霊魂をキリストのもとに導くことができると確信させる、超自然の精神をもって、それを実行しましょう。そして、悪の力が解き放たれるのを見れば見るほど、善において、また罪と死という闇に打ち勝つ、この世の唯一のまことの光であるキリストの勝利の確信において、さらに耐え忍びましょう。

子としての信頼をもって、聖霊が罪人に聖なる恩寵を注入し、その心に触れ、その精神を教え、その意志を励ましてくださるよう願いましょう。それにより、これまで誤謬の教師であり、罪の模範であった者たちが、天主の御助けと御あわれみによって、また至聖なる御母にして私たちの母の御取り次ぎによって、真理の弟子となり、聖徳の模範となることができますように。アーメン。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

Photo Credit

 


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