2022年6月4日(初土)聖霊降臨の前日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教
父と子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、明日は聖霊降臨の大祝日です。ですから、聖霊の賜物をよく受けることができる準備を続けましょう。
今日は特に、
⑴聖霊の賜物の特徴を一緒に黙想したいと思います。
⑵そして聖霊の賜物を全て完璧に受ける為には一体どのようなものが必要なのか、黙想致しましょう。
⑴聖霊の賜物というのは、聖霊が私たちに、御自分の永遠の愛の火を与えて下さって、そして私たちが聖霊にあたかも導かれるがままに、聖霊とあたかも一体となって生活することができるようになることです。
そしてその聖霊の賜物というものは、七つの形で私たちにおいて現れます。その聖霊の賜物は、聖霊の動きを私たちがよくキャッチすることができるように、パラボラアンテナのように、あるいはボートの大きな帆が立てられて、風をよく受けるように、聖霊の動きを敏感に感じ取ることができるようにして下さる特別の御恵みです。
聖霊の賜物は、私たちが何度も訓練して身に付ける「徳」というものとは、この意味で違っています。「徳」というのは、私たちが習慣をつけてやればやるほど、することが易しくなるものです。やらないと使わないと、やるのは難しくなりますが、やればやるほど簡単になります。
しかし聖霊の賜物は、それを遥かに超えて、私たちが聖霊の導きにより良く従うことができるようにさせてくれます。
⑵ではその聖霊の賜物は、一体その完璧な姿というのは何でしょうか?
実はこれは、イエズス・キリストがお受けになったものです。イザヤの預言書の中には、「イエッセの芽から花が咲いた(その花はもちろん、イエズス・キリストのことです)。そこには、主の霊があった」(イザヤ11:1)とあります。上智の霊、聡明の霊、賢慮の霊、剛毅の霊、知識の霊、孝愛の霊、そして敬畏の霊、この七つの霊によって満たされている。
一番、その聖霊の賜物の最高の賜物が、『上智』、知恵の霊です。これによって私たちは天主を最高のものとして、天主の秩序に従って、全てを判断させてくれます。その上智へと至るその最初が何かというと、「主を畏れる」ということです。「敬畏」の霊。ですから、イエズス・キリストにおいて一番満たされていたのが、上智の霊でした。そして完成された形であったのが、主への畏れ、敬畏の霊でした。
でも私たちが、そのイエズス様がお持ちであったその霊に満たされる為には、最初の段階から行かなければなりません。それは「敬畏」、主を畏れるという霊です。そしてそれを完成させることによって遂には、最初は少しだけしか受けることができなかった「上智」の知恵の霊の充満を受けることができるようになります。ではその最初の敬畏、主を畏れるというのはどのようなものでしょうか?
聖トマス・アクィナスによると、『畏れ(恐れ)る』ということは、将来の起こり得る悪を避ける動きであると言います。これはちょうど、希望の反対です。
なぜかというと、希望は、将来起こり得る難しい「善」を望むこと、それへと向かうだからです。
でも畏れ(恐れ)は、将来起こるうる難しい「悪」から避けようとするからだです。
更に聖トマス・アクィナスによると「畏れ(恐れ)」には三つあると言います。
聖霊の賜物が与えてくれる主への畏れ、主への『敬畏』は、三つの内の最後の畏れです。
では、その三つは何かというと、一つは、人の目や、人の噂や、他人や、人間を、世間体を恐れるということです。これによって聖ペトロも主を否みました。「何と言われるだろうか。」「他の人から何て言われるだろうか。」これは全く超自然のものでも何でもありません。ですからこれは主に反対するものです。人間を恐れる、人の目を気にする。残念ながら多くの人々は、これによって動かされています。
その次に、聖トマス・アクィナスが言うのは、より良い恐れだけれども、まだ完全ではない、不完全な恐れだ。何かというと、それは『奴隷的な恐れ』だ。これは、天主からの罰を恐れる、地獄を恐れるというものだ。このなぜこれが不完全であるかと言うと、実はこの恐れには、結局は自分が受ける悪を恐れるのであって、そしてそのもしもその悪を避けることができれば、もしかしたら罪を犯すことも考えるかもしれない。ですから、罪を犯すかもしれない、というものと同時に共存することができるから、不完全なものだ。だからこれは、聖霊の賜物のものではない。確かに、主の罰を恐れて善をするのは良いことであるけれども、しかし聖霊の賜物としての畏れではない。
聖霊の賜物が与えてくれるものは、愛に基づくものであって、天主を愛するが故に、最も愛する天主、愛すべき天主を悲しませることを恐れる。自分が受ける悪ではなくて、天主の受ける悪を避けようとする、その畏れです。
だからちょうど良い子供が、お父さんとお母さんを悲しませることを畏れるように、あるいは良き妻が、愛する夫を悲しませることがないように、それを畏れるように、聖霊の賜物も、主の畏敬を、主を悲しませないように、主を悲しませることを畏れさせる。なぜかというと、それは天主が一体どなたであるか、ということを私たちがよく理解するようにさせて下さるから。天主があまりにも愛に満ちた方であって、全能の御方であって、全ての存在の根源であって、私たちはその方から全てを受けた者であって、その御稜威は無限のものであって、私たちはそれに比べると全く無に等しく、無限の隔たりがある。その天主をますます理解させてくれるので、主への敬意が、畏怖が、私たちに起こる。そしてこの主をますます愛そうとする願いが起こると説明しています。
しかもこの主への畏れというものは、イエズス様の中にも完成された形としてあったように、天国においても留まります。
信仰は、目に見えないものを見ることであって、天国においては至福直感で天主を目の当たりにして見るので、天国においては信仰はもう用は済んでしまった、信仰は姿を消します、消えてしまいます、無くなってしまいます。
希望というものも、持っていないものを、私たちが将来受けるだろうと、将来の善を希望することですから、天国においては希望も姿を消してしまいます。
しかし主への敬畏、主への畏れは、天国においては完成された形で、永遠に聖なるものとして留まると説明しています。
このそのような完成された形に至るまで、私たちは主を悲しませてしまわないように、ただ主から離れてしまう、という悪を畏れる御恵みを、聖霊の賜物を乞い求めましょう。
特にマリア様に、汚れなき御心のマリア様に乞い求めましょう。マリア様はもちろん、おそらく完成させられた形としての主への畏れに満ちた方であったに違いありません。マリア様は主を決して罪によって悲しませたことのない方であったからです。聖霊の浄配であった方だからです。マリア様の御取り次ぎによって、聖霊の賜物を私たちが完璧に受けることができますように、お祈り致しましょう。
父と子と聖霊との御名によりて、アーメン。