2022年6月5日(主日)聖霊降臨の大祝日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(大阪)
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆さん、今日は聖霊降臨の大祝日です。いくつかお知らせがあります。
一つは、聖ピオ十世会の総長からの伝言で、皆さんに伝えてもらいたいということです。実は、聖ピオ十世会が配置する修道院の修道院長は、責任者として、毎週主日には必ず一つ、皆さんの為のミサを捧げることになっています。これは教会法によって定められているものです。実を申しますと、修道院長になる前から、叙階の時からずっと、主日ごとに、皆様の為にミサを捧げていましたけれども、これは自由にやっていたことで、修道院長としてはそれを捧げる義務があるようになっています。
最近、総長からの通達があり、このことは皆にあまり知られていないので、皆がよく知るようにとのことです。ですからどうぞ皆さんお知り下さい。皆さんの為に、少なくとも毎週主日、必ずミサを捧げています。Missa Pro Populoと言われています。
それからもう一つは、聖ピオ十世会の習慣で、亡くなった聖ピオ十世会の会員のメンバー、全ての恩人、友人の方々の為に、毎月一回、ミサが捧げられています。そして暁の星聖母修道院でも、毎月、6月から捧げられるようになっています。どうぞお知り下さい。
それから、パリャラーニ総長様も、今のところの予定としては、日本に訪問したいとのことです。今年の12月ごろに日本にいらっしゃる予定を組んでおられます。良い訪問ができますように、そしてそれをきっかけに、日本の聖伝が、カトリックの聖伝がますます発展するきっかけとなりますように、皆様のお祈りをお願いします。以上はパリャラーニ総長様からの伝言でした。
今日は聖霊降臨の祝日ですから、私たちは聖霊の賜物について一緒に黙想致しましょう。昨日、聖霊の賜物「主への敬畏」、主を畏れ敬う、ということについて黙想しました。この主への畏れというのが、至福八端と関係がある、ということについて一緒に黙想致しましょう。
⑴「主への畏れ」というのは何か?
⑵至福八端の最初の至福を黙想して、
⑶最後に、マリア様に実りをお祈り致しましょう。
⑴「主への敬畏」、主を畏れ敬うというのは、私たちが聖霊の賜物として受ける特別な愛の恵みです。私たちの受ける聖霊からの愛によって、天主が無限の、全能の、愛の聖父であって、私たちを無限の愛によって包んで下さって、そして憐れんで下さって、そして全く無に等しい私たちを高めて下さる、幸せに、永遠の天主への幸せに呼んで下さる、そのとてつもない愛を受けている、ということをますます自覚させてくれます。
無限の天主の隔たりにも関わらず、これを縮めて下さろうとするその愛、一致させようとして下さるその愛。
それにも関わらず、その天主の御稜威のその偉大さ、その栄光の無限さ、そして私たちのあまりにも弱さに、ますます畏れおののいて、ただただひたすらに、主の憐みに感謝し、主の御前にますます身を小さくして、そして「ありがたい、かたじけない」と感謝させる御恵みです。主への畏れ、主への敬畏。
この主への敬畏によって、私たちは自分ではなくて、あるいは自分の持っている周りの名誉とか、財産とか、そんなものではなくて、ただひたすらに主の聖名に希望する、主の聖名により頼む、主の憐れみにより頼む、自分のことではなくて主の愛に依りすがる、という心を起こさせてくれます。これが主への敬畏です。
この聖霊の賜物を深く理解すれば理解するほど、私たちの心がますます自分のことではなくて、主のことで満ち溢れるようになっていきます。地上のこと、あるいは自分のやりたいこと、自分の…ということよりも、主の御旨を果たしたい、主に全く自分を従属させたい、従いたい、と思わせるようになります。まさにこれが至福八端の最初のことです。
⑵第二は、至福八端とは一体何でしょうか?
これはマテオの福音の第5章にあります。イエズス様が山に登って、そして弟子たちに向かって口を開いて教えた言葉がこうでした。
「心の貧しい人は幸いである。なぜなら天の国は彼らのものであるから。」
「柔和な人は幸いである。なぜなら彼らは地を継ぐから。」
「正義に飢え乾く人は幸いである。なぜなら彼らは飽かされるであろうから。」
「悲しむ人は幸いである。なぜなら彼らは慰められるだろうから。」
「憐みのある人は幸いである。なぜなら彼ら憐みを受けるだろうから。」
「心の清い人は幸いである。なぜなら彼らは天主を見るであろうから。」
「平和の為に働く人は幸いである。彼らは天主の子と呼ばれるであろうから。」
「私の為に迫害される人は幸いである。なぜなら彼らの報いは天においては偉大であるから。」
この至福八端の最初、「心の貧しい人は幸いである。なぜなら天の国は彼らのものであるから」がまさに、教父たちの発見によると、「まさにこの聖霊の最初、『主への畏れ』とぴったりしている」と言っています。「そして聖霊の七つの賜物は、至福八端と全く一致している」と言います。
なぜかというと、「心が貧しい人」というのは、まさに自分ではなくて、地上のものの財産や、地上の力や、富や、自分の名声や、自分の能力ではなくて、そんなものには心は離脱していて、ただひたすら主を求めて、主の力、主の憐みに依頼する人であるからです。まさにそのような人こそ、主を畏れる人であって、謙遜な人であって、主に全てを委託する人であって、まさにこのような人が、天の国を譲り受ける者です。
まさに聖霊は私たちに、主への敬畏、主への畏れを与えながら、私たちの心をますます地上のものから離脱させて、そして天の国へと導いて下さっています。
⑶最後にマリア様にお祈り致しましょう。マリア様がいつも、たとえ主を失うという畏れが全くなかったにも関わらず、マリア様の心にはいつも、主への敬畏に充ち満ていました。そして心はいつも、自分のことではなくて主のことで、愛で、充ち満ちていました。心の貧しい、地上のものから離脱された方でした。マリア様の御取り次ぎで、私たちもこの聖霊の賜物、特に主への畏れを頂く御恵みを乞い求めましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。