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良い実をつけぬ人々とは、悪い実をつける人々のこと、何の実もつけぬ人々のこと、台無しになった実をつける人々のこと、十分な実をつけぬ人々のことです。

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「良い実をつけぬ人々」(マテオ7章19節)についての説教

ドモルネ神父さま(2022年7月24日)

はじめに

福音の中で、私たちの主は、「良い実をつけぬ木は、みな切って火に投げ入れられる」(マテオ7章19節)と言っておられます。この言葉で、私たちは、この世での人生の終わりには、私たちに開かれている可能性が、二つしかないことを思い起こします。つまり天国か地獄かです。人生の間に何を自ら選んで行ったかによって、どちらか一方になるのです。地獄に落ちる人々は、「良い実をつけぬ」人々です。では、それが、どのような人々なのかを見てみましょう。

1.良い実をつけぬ人々

良い実をつけぬ人々とは、まず第一に、悪い実をつける人々のことです。私たちの主が言われる「実」とは、私たちの行いのことです。「悪い実」とは、私たちの思い、言葉、行いにおけるすべての悪い行為のことです。しかし、悪い行為とは何でしょうか? それは、天主の掟に反するあらゆる行為です。天主は、知恵と秩序と正義と善をもって、この世と私たちをお造りになりました。天主によって確立されたこの秩序が、善と悪を決定するのです。掟とは、この秩序を単純明快に表現したものです。天主の掟に従っているものは、「善」であり、従っていないものは、「悪」です。悪を自ら選んで行う人々は、天主を侮辱しているのです。その侮辱を、「罪」と呼びます。ですから、悪い実をつける人々は、罪を犯す人々なのです。聖パウロはコリント人にこう言いました。「淫行する者も、偶像崇拝者も、姦通する者も、男娼も、男色する者も、泥棒も、貪欲な者も、酒飲みも、讒言する者も、略奪する者も、天主の国を継がぬ」(コリント前書6章9-10節)。

良い実をつけぬ人々とは、何の実もつけぬ人々のことでもあります。これは、天主が期待される良いわざをしない人々という意味です。そのような人々を、実をつけないいちじくの木に例えられた、私たちの主の言葉を思い出してください。「私はもう三年も、このいちじくの実を取りに来ているが、実がならない。だから、切り倒しなさい」(ルカ13章7節)。私たちの主は、身分に応じた義務を果たしたり、機会があれば善を行ったりするのに必要な努力をしない人々を非難されます。主は、裁きの場で彼らに言われるであろうことを、このように告げられます。「呪われた者よ、私を離れて…永遠の火に入れ。あなたたちは、私が飢えていたのに食べさせず、渇いていたのに飲ませず、旅にあったときに宿らせず、裸だったのに服をくれず、病気のときや牢にいたときに見舞いにも来なかった」(マテオ25章41-43節)。

良い実をつけぬ人々とは、台無しになった実をつける人々のことでもあります。台無しになった実とは、腐ったり、虫に食べられたりした実のことです。ここで、台無しになった実とは、天主のみのためでなく、個人的な利益のためになされた良いわざのことを意味します。言い換えれば、台無しになった意向でなされる、良いわざを意味します。ですから、自らの高慢のため、他人から褒められるため、あるいは金銭的な利益や社会的な昇進のため、あるいは誰かに対する乱れた愛のために、私たちが行う良い行いが、それに当たります。私たちの主は、純粋な意向を持たずに良いわざをする人々を、非難されます。「人に見せびらかすために、他人の前で良いわざを行わぬよう気をつけよ。そんなことをすれば、天にまします父からの報いは、いっさい受けられぬ」(マテオ6章1節)。

良い実をつけぬ人々とは、最後に、十分な実をつけぬ人々のことでもあります。これは、時には良いわざを行い、時にはよく祈っても、天主と隣人に対する義務のすべてを果たすことのない人々のことを意味します。例えば、主日に時々しか、ミサに行かないような人々です。私たちの主は、彼らのする良い行いは非難なさいませんが、彼らがしないことについては非難なさいます。「私に向かって、『主よ、主よ』と言う人がみな、天の国に入るのではない、天にまします父のみ旨を果たした人だけが入る」(マテオ7章21節)。

2.地獄という罰

私たちの主は、「良い実をつけぬ木は、みな切って火に投げ入れられる」と言われます。この火とは、地獄のことです。先ほど述べた人々は、地獄で罰せられるのです。なぜ、そのような罰があるのでしょうか。なぜ天主は、彼らを虚無へと消し去られないのでしょうか? なぜなら、この人々は、天主の愛に対して、大きな不正をしているからです。天主は統治される善であり、無限に愛すべきお方です。天主は、愛されるという絶対の権利を持っておられます。さらに、私たちはすべてを、本当にすべてを、天主から受けています。ですから天主は、感謝のために愛される、という絶対の権利を持っておられます。私たちが良いわざを行うのを拒否するとき、私たちは天主を愛することを拒んでいるのです。これは、それ自体、罰に値する不正ですから、虚無へと戻されるだけでは済まないのです。その罰が、地獄です。

私たちの主は、地獄が何であるかを、こう簡潔にまとめておられます。「切って火に投げ入れられる」。「切って」とは、天主に拒絶され、天主から永遠に引き離されることです。これが滅びの罰です。この罰が、最も恐ろしく、つらいものです。愛する者の失恋の苦しみは、滅びた霊魂の苦しみの縮図に過ぎません。

「火に投げ入れられる」とは、滅びた人々が地獄で受けるすべての苦しみを意味します。つまり、肉体と魂を終わりなく焼き尽くす火であり、悪魔によって行われる絶え間のない拷問であり、天主が天国に行くための手段をすべて与えてくださったことと、ただ自分自身のせいで地獄にいるのだということを、はっきりと理解するため、滅びた人々を打ちひしがらせる昼夜の後悔の念と絶望です。

結論

親愛なる信者の皆さん、聖ペトロの言葉を思い出しましょう。「兄弟たちよ、召し出しと選びを固めるように、ますます励め…こうしてあなたたちには、私たちの主であり救い主であるイエズス・キリストの永遠の国への入り口が、広く開けられる」(ペトロ後書1章10-11節)。私たちは、この世での生活で、良い実、豊かな実、質の良い実をつけなければなりません。そのためには、第一に、私たちの霊魂に成聖の恩寵を保持しなければなりません。次に、自分の生活の状況に応じて、あらゆるあわれみのわざを寛大に実践しなければなりません。最後に、私たちは常に純粋な意向を保つように、つまり、天主をお喜ばせするという意向をもって、すべてのことを行うように、注意しなければなりません。この点で私たちの模範となるのは、いつものように、私たちの主イエズス・キリストと童貞聖マリアです。ですから、お二方がこの世での生活のときに私たちに与えてくださった良い模範について頻繁に思い起こし、お二方が私たちを助けてくださるように、頻繁に祈りましょう。


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