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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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剛毅の徳と剛毅の賜物

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2022年7月17日(主日)聖霊降臨後第6主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(大阪)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

“Dominus fortitudo plebis suae.”

今日入祭誦で、「天主は、その民の力強さである、剛毅である」と歌いました。天主は私たちの力強さであります。そして私たちを力強くしてくれます。特に、聖霊の賜物を下さって、私たちを強めて下さいます。

私たち、今の現代の世界は、すぐにコンピューターの画面でクリックすれば何でも手に入る、簡単な時代になってしまいました。歩かなくてもボタンを押せばエレベーターが、あるいは歩く歩道がある、あるいは何でもできる、ですから簡単に、「全てが簡単だ」と思う時代になってしまいました。全てがボタンひとつで実行できるし、キャンセルもできるのです。そのために、私たちは非常に弱々しくなってしまいました。

しかし、天国に行くためには、イエズス様はこう仰いました。「天の国は暴力で攻められ、暴力の者がそれを奪う。」(マテオ11:12)つまり、戦わなければならない、ということです。ですから、この「力強さ」というものがどれほど大切であるか、ということを私たちはしみじみと実感します。

そこで今日は一緒に、『剛毅』ということについて黙想致しましょう。YouTubeでも申し上げましたので、それに重なるようなものはなるべく省きたいと思っています。

剛毅には「徳」があります。そして剛毅の徳を完成させる為に、聖霊が賜物を下さり、これを「剛毅の賜物」と言います。

剛毅、力強さ、というのはどういうことかを見てみましょう。
「剛毅の徳」はどういうことかと言うと、それは理性が、「これがあるべきである」「これが正しいことである」「真理である」「これが正義である」「これが良いことである」ということを認める限り、それをどんなことがあっても、それに目指して、それを実行するようにやる、その力強さのことです。

特に、どのような悪があっても、それを妨害するようなことがあっても、その為に私たちには不都合がある、痛みがある、あるいは苦痛がある、疲労がある、あるいは損失がある、あるいは馬鹿にされる、というようなことがあったとしても、しかし善を目指して、真理を目指して、それを決して捨てずに、それを守り通す、それが剛毅です。

私たちが受ける悪の中には、遂には死、私たちがこの地上から命を失ってしまうかもしれない、ということまでも含まれます。しかしそれにも関わらず、真理を、信仰を、善を守り続ける、それを放棄しない、というその力強さ、それが剛毅です。

この例えば、このような剛毅、力強さというものは、戦争をする軍人が持っていたりします。しかし、そのような戦争のみならず、日々の生活にもあります。

今日の福音に出てきた4000人の人たちもそうでした。イエズス様のお話を聞きたい、イエズス様の元に行きたい、それなので、ご飯もなくても、遠くからも、砂漠の中を、イエズス様の後を慕って、力強く来た、という人々です、忍耐を持って来た、という人です。イエズス様は彼らに、奇跡を以って報われました。

同じように中には、ポンシオ・ピラトのようではなく、正義をはっきり言う裁判官もいます。例えば「この人は無罪である。だから、どのような圧迫を受けても、死ぬ脅迫を受けても、この人は無罪だ。だからこれは、この命は守らなければならない」と言うことです。

つい最近、アメリカの最高裁判所では、そのような裁判官たちがいました。それ以前には間違った判決があって、堕胎が憲法で保障された権利であるかのような判決があったのですけれども、「実はそのようなことは、憲法では保障されていない」と、判例を覆したことがありました。その前には多くの脅迫や、脅しや、その裁判官の家族に対する嫌がらせなどもありました。家の前でのデモとか。しかしそれにもひるまずに、裁判官たちは、「いや、これが正しい」と言いました。

あるいはアメリカでは、あるいはヨーロッパでは、カトリック教会は特に、聖伝のミサを守る人たちは、「どのようなことがあっても、ミサは、どのような恐ろしい疫病があったとしても、ミサだけは捧げなければならない」と力強くミサを続けてきました。

アメリカでは、たとえ国が法律で禁止したとしても、教会は閉めなければならなかったとしても、それならば駐車場で、トラックの中に祭壇を作って、駐車場の場所でミサをして、そして御聖体を授ける司祭もいました。雪が降ったとしても、雨が降っても、ミサを続けました。

あるいは、世界中では、ありとあらゆる手段を使って、ミサを捧げ続け、そして秘跡を捧げ続け、命の為に、霊的な命の為に、命がけでミサを守った、戦った神父様たちがいます。コロナの時もそうでした。

ルフェーブル大司教様もそうでした。「聖伝のミサは決して廃止されていない」ということを知り、それを守り通しました。その為に、どのような侮辱や、屈辱や、あるいは脅しの聖職停止や、あるいは破門などということもものにせず、信仰の為には一切妥協できないと、立ち上がりました。

このミサは守らなければならない。聖伝の秘跡を守り通さなければならない。司祭職を守らなければならない。2000年の教会の信仰の遺産を守らなければならないと、剛毅を以って、守り通しました。

日本のかつての殉教者たちも同じでした。たとえ禁止されたとしても、しかし、真理は決して疑問にさえ付すこともできない。これだけは絶対に譲ることができない。絶対の真理だ。命がどうなろうとも、私はこの真理を守るしかない。これを否むことができない。喜んで血を流して、何千人という方が殉教してきました。この日本で。私たちの祖先。剛毅の徳です。

しかしこの剛毅の徳に、聖霊は、愛である聖霊は、さらにものすごい御恵みを下さるのです。聖霊は、決して私たちがこのまま見殺しにされたり、見放されたりすることは決して許しません。そうでなくて、常に助けて下さって、力強く守って下さって、私たちに力を下さって、どのような苦しみにも、悪にも、耐え忍ぶことができる、という力を与えてくれます。「聖霊の賜物」です。

なぜかというと、聖霊とは、この地上では得ることができない、永遠の勝利、永遠の命まで導くことができる「天主の愛」であるからです。聖霊は、常に永遠の命へと眼差しを上げさせて、私たちを強めてくれます。

「私たちは必ず勝利する。必ず助けがある。決して、たとえ3日間食べ物がなかろうと、砂漠の中であろうと、イエズス・キリストは、私たちに命を与えて下さることができる、命の糧を与えて下さることができる、永遠の命を与えて下さることができる、勝利を与えて下さることができる、私たちに全ての助けを下さることができる、私たちの力強さだ!」と、力強くイエズス・キリストに従うことができるようにして下さいます。

今日の福音の人たちは、私たちの模範です。多くの私たちの先祖たちも私たちの模範です。

マリア様もそうでした。マリア様も、イエズス・キリストの力強さを以って、十字架の下に佇みました。聖母の御取り次ぎによって、ぜひこの剛毅の徳を願いましょう。

現代、信仰を、「都合が悪いから」とか、あるいは「ちょっと難しいから」とか、あるいは「何か人から言われるから」とかと言って、それを恐れているような人々に流されがちな現代、ぜひ確固とした力強い、真理を、永遠の命を求める、永遠の真理に確固とした確信を持つ力強さを、剛毅の徳を、剛毅の賜物を、乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


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