アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、こんにちは!
フランシスコさん、すごいですね!
モーゼについての質問に正しくお答えくださいました。
モイゼの父親の名前はアムラム、母親の名前はヨケベトです!
次の質問は、死者の月に因んで、モーゼはどこで亡くなり、何歳だったでしょうか。また、モーゼはどこで葬られたのでしょうか。どうぞコメント欄に書き込んでくださいね。
来年のゴールデンウイークには、聖ピオ十世会日本では秋田巡礼を行います。来年は、巡礼10周年記念で、長崎と秋田とに行くことを計画しております。
詳しくは次をクリックして下さいね。
聖ピオ十世会日本 2016年 長崎・秋田巡礼 10周年記念 天主の憐れみを感謝して
SSPX Japan Nagasaki Akita Pilgrimage in 2016
さて、11月6日初金曜日、大阪で聖伝のミサを捧げました。その時の説教をご紹介いたします。
2015年11月6日 初金曜日 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
小野田神父 説教
聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は2015年11月6日、11月の初金曜日です。今日から、来年毎月レネー神父様の御訪問を含めると3回ミサが増えて、いつものパターンの金・土・日・月のパターンが2回に増える、という事に感謝を込めて、御聖体降福式をミサの直後、初金から始める事に致します。今日から始めます、どうぞ、ミサの直後、御聖体の前でロザリオを1環唱えるように、聖体降福式に与って下さい。
特に今回から、感謝のみならず、日本から聖なる召命がたくさん出ますように、司祭が常駐しますように、教会がたくさん建ちますように、多くのミサが日本中で捧げられますように、毎日捧げられますように、そのお恵みを乞い求めて、御聖体降福式を御捧げいたしましょう。
来年は、特別の御恵みで、毎月2回のミサのみならず、ネリ神父様の御訪問や、ティシェ・ド・マルレ司教様の御訪問、堅振式、聖母黙想会、長崎と秋田の巡礼、その他、まだ私たちの知らない特別の御恵みがたくさん待っていますので、それに感謝を込めて、御聖体降福式を捧げましょう。
聖父と聖子と聖霊との聖名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日はイエズス様の聖心の初金曜日ですから、イエズス様の聖心に燃える愛の火を、私たちも受け取る事に致しましょう。このイエズス様の燃える愛は、マルガリタ・マリア・アラコックに対する色々なメッセージも私たちに知らされています、「この人類の為に燃える、愛の聖心を見よ。」と。この私たちは、その聖心の愛のあまりにも大きなものを見て、私たちの心も愛に燃え始めています、イエズス様に賛美と感謝を捧げようとしています。
聖人たちによると、イエズス様の聖心に対する愛は、自分の心だけに留まってはいけません。
ちょうど小さなタバコの火から、森の大火事になる事があるように、私たちの心にあるイエズス様に対する愛の火は、これはメラメラと燃えて、多くの人々に伝わっていかなければなりません。ピオ11世教皇様は、「そのように、他の人たちに愛徳が伝わらなければ、私たちが『キリスト者』というには、まだ半分の弧を書いただけだ、まだ円ではない。まだ半分で円にはなっていない。弧にしか過ぎない。」と、言っています。
ですから今日は、その事を少し黙想して、それに引き換え私たちは一体どうであるかを振り返って、遷善の決心を立てる事に致しましょう。
イエズス様の聖心に燃える火は、私たちの救霊と、多くの人々の救霊を望んだ愛の火でした。イエズス様は、私たちと、私たちの兄弟姉妹たちを、全人類を愛するが為に、御自分の命さえも惜しまず、血潮を全て流されて、苦痛と屈辱と嘲りを耐え忍び、御自分を全て与え尽くして、私たちの救霊を望まれたその愛でした。
そのような極みの無い愛を目前にして、もしもその愛が、多くの人々から軽んじられ、イエズス様の聖名がバカにされ、或いは、イエズス様の御血が無益に流されている、というのを見て、もしもそれを見つつも、あたかも、「関係ないよ、知ったこっちゃない。」といった、そのような態度を取るとしたら、それは、私たちがイエズス様に対する完全な愛だ、と言う事ができるでしょうか?或いは、私たちがイエズス様に対する、激しい燃えるような、愛に燃えている、と言う事ができるでしょうか?
イエズス様が隣人の為に命を捧げて、「友の為に命を捧げるほどよりも大きな愛は無い。」と、言いながら全生涯をかけた救霊の事業、それを全く知らずに、無知のまま、イエズス様の事を知らずに、イエズス様の事を誤解して、罪を重ねて、残念ながら洗礼の恵みも受けずに、誰からも教えられずに、或いはもう地獄に落ちつつあるような人々を見て、私たちは、「あぁ、俺の知った事じゃないよ。」というような態度を取るとしたら、それは、私たちがイエズス様に教えられた隣人愛を、これを完成、全うする事になるでしょうか。
イエズス様は私たちに、「私はお前たちに新しい掟を与える。私がお前たちを愛したように、お前たちも互いに愛し合いなさい。」と、イエズス様が愛したように隣人を愛せ、という掟に、私たちは適っている、と言う事ができるでしょうか。隣人を本当に愛している、と言う事ができるでしょうか。それとも、そのようなイエズス様に対するあまりにも無知がある、或いはイエズス様の事をこの隣人は知らないでいる、何とかしてあげたい、何とか救ってあげたい、何とか、何とかできないか。その地獄に落ちないように、苦しまないように、何か間違いを犯さないように、何とかしたい、と、私たちが苦しみ悩むという事こそ、隣人愛に適う態度ではないでしょうか。
そうすると、私たちに於いて、「自分の救霊だけを考えれば良いんだ。」「自分のお祈りだけをすれば良いんだ。」のではなく、「あぁ、私たちは、私の救霊はもちろん、隣人の救霊をも、隣人の聖化の為にも、奮発して愛徳を行わなければならない。」と、私たちはますます愛の火がメラメラと高まらなければなりません。
先月、10月に黙想した幼きイエズスの聖テレジアは、まさにこの事を実践していました。毎日毎日、小さな幼い時から、自己放棄、自己犠牲をいつも捧げてきました。自分の霊魂の救霊のみならず、隣人の救霊の為に。13歳の頃、主日の、日付は私たちに教えられていないのですけれども、「ある主日のミサの後に、使っていたミサ典書の所から、いつも見慣れていた、十字架に磔られたイエズス様の御影がちょっとだけ出ていたのです。ちらっと見ると、イエズス様の御手が釘付けにされて、血が滴り落ちている御手が見えたのです。ミサの後にハッと見ると、いつも見慣れた変哲もないその御手、イエズス様の十字架の御血ですが、このタラリタラリと、私たちの救霊の為に流されている御血が、多くの人々にとって無駄に流されている、誰もこれを利用しようとしない、イエズス様の苦しみは全く無となっている。何故かというと、多くの人が、イエズス様の事を全く無視している。救霊など、自分の救霊など関係ないと考えている。イエズス様などと関係ない生活をしている。イエズス様の御血があたかも地面に無駄に流されているように、その時に感じた、理解できた。その時から、イエズス様の御血が無駄にならないように、それをかき集めて、それを聖父に捧げる事にした。」と、自分の伝記に書いています。
「イエズス様が、『私は渇く。』と、十字架の上で言ったその言葉が、『霊魂が欲しい、霊魂の救霊を望んでいる。霊魂が私の元に来るように。渇いている。でも霊魂たちは私から遠ざかっている。』というイエズス様の渇くような愛の声を聞いた。」と、伝記に書いています。
そこで、イエズスの聖テレジアは、「そのような霊魂の救霊に渇望する、渇いているイエズス様を何とか癒してあげたい。何とかその霊魂を、そのイエズス様の方に救うように、イエズス様に差し上げたい。」と思う、救霊に対する熱烈な渇きが、聖テレジアにも伝わってきました。イエズスの聖テレジアはこう言います、「この世でする事はたった1つしかない。イエズス様を愛する事と、イエズス様の為に霊魂を救って差し上げる事だ。」と。
聖テレジアは、聖書の詩編、『主の目にとって、1000年は1日のよう。』という言葉をとって、「私たちの人生は1日のようだ。あっという間に過ぎてしまう1日のようだ。この1日にできる事は、しなければならない事はたった1つしかない。イエズス様を愛する事と、救霊の為に尽くす事、隣人の救霊の為に尽くす事だ。イエズス様が愛されるように、霊魂を救う、霊魂が永遠にイエズス様をお愛しする事ができるように、助けてあげる事だ。そのまま放ったらかしておかない事だ。」と、言っています。
幼きイエズスの聖テレジアによれば、「私たちの救霊、隣人愛もやはり、イエズス様に対する愛から発して、イエズス様の愛にと導かれるように、イエズス様を愛する事ができるようにと、愛へと向かっています。」
有名な、プリュス神父様というイエズス会の神父様の本をつい最近読んでいたら、「『キリスト教信者』という事と、『隣人の救霊に無関心である』という事は全く、矛盾している。」とありました。「『キリスト教信者』という事は、『キリスト者』という事は、イエズス・キリストの神秘体の一部となって、イエズス・キリストの命を生きる者であるから、イエズス様がなさったように私たちも救霊の事業に、霊魂の救いの事業に参与しなければならない、祈りと、犠牲と、また私たちの生活を以って、救霊事業に参加するように、イエズス様と一致している者だ。だから『キリスト者』という事はつまり、『隣人の救いの為に働く者』である。小さな救世主となる事だ。共同共贖者となる事だ。マリア様の道具となる事だ。」と。
では、これに引き換え、「私たちは今まで、何と隣人の救霊に、」いえ、私は皆さんの中に時々、「神父様、私はいつも、このこれを、この不思議のメダイを配っているのです。」或いは、聖伝のミサに、いつもお友達を連れてくるような方々、或いは、いつもこう誘ってやっているような方々を見ているので、「私たち」というか、「私は、何と今まで、イエズス様の救霊の願いをその渇きを癒して差し上げるにほど遠かった事でしょうか。イエズス様の御恵みを受け、イエズス様の御子となる、天主の子供となる恵みを受けて、イエズス様の弟子となる特別の恵みを受けて、イエズス様の御体を私たちが拝領する様なほどの御恵みを受けていながら、イエズス様と同じ望みを分かつ事ができなかった。隣人の救霊を望む為に力を尽くす、という事に神経を使わなかった。どれほど何と、イエズス様の聖心から遠かった事でしょうか。」「私は、『イエズス様を王として頂いている』と言いながら、本当に私の生活はイエズス様を王としたでしょうか。イエズス様が望んでいる事だけを、王の望んでいる事だけをしようとしたでしょうか。それとも自分のやりたい事を、王の望みよりも優先した事はなかったでしょうか。」
マリア様は、イエズス様の望みだけを、完璧に100%、汚れ無く、生きておられました。それにもかかわらず、私の生活は、天主様の100%の生活だったでしょうか。イエズス様は私たちに全てを与えて、救霊の為に全てをしてくださったにもかかわらず、私たちは自分の救霊と、隣人の救霊の為に、どれほど100%の事をしたでしょうか。或いはせっかく頂いた御恵みを、頂きながらも知りながらも、イエズス様に対して罪を犯したり、或いは逆らったり、御旨の通りに、「御旨はこうだ」と分かりながらも、それにすぐに、「はい。」と、言わなかった事が、どれほど多かった事でしょうか。
では今日は、遷善の決心に何を立てたら良いでしょうか。4つ、最初の2つは非常に有名な、幼きイエズスの聖テレジアの言葉からいきます。
1つはお祈りです。私たちは、私たちの救霊と、隣人の救霊の為に、イエズス様の聖心に従ってお祈りを致しましょう、多くのお祈りを致しましょう。どうぞ、御聖体拝領をこの意向の為になさって下さい。ミサに与って下さい。御聖体降福式に与って下さい。来年はミサが増えます、ですからそのミサにできるだけ与って下さい。ロザリオもたくさん唱えて下さい、お祈りをいつも唱えて下さい。いつもイエズス様の現存の中で、祈りの中で生活するように致しましょう。もしも、イエズス様の聖心を悲しませるような言葉や、或いは街を通る時に、この前被昇天でシュテーリン神父様が仰って下さったように、マリア様にお祈りをして、どうぞ、「このバスに乗っているこの霊魂たちが、」或いは「この街で通っているこの霊魂たちが回心しますように。」と、射祷を唱える事に致しましょう。
第2は、生贄、犠牲です。幼きイエズスの聖テレジアによれば、「祈りと犠牲こそが、教会にとって一番、愛の込められた祈りと犠牲ほど、教会にとって役に立つものはない。これこそが役に立つものである。」と言います。十字架なしに、血を流す事なしに、私たちの罪の贖いは有り得ませんでした。犠牲なしに、苦しみなしに、お恵みは有り得ないのです。ですから私たちも、日々、毎日送られる十字架を、犠牲を、わたしたちの日常の義務を、イエズス様への愛を込めて御捧げいたしましょう。ファチマで天使はこう言いました、子供達に、「いつも犠牲と祈を捧げなさい。犠牲を捧げる時にはこう言いながら、射祷を唱えながら犠牲を捧げなさい、『イエズスよ、これは御身を愛する為、罪人の回心の為、公教会の為、教皇様の為に、これを御捧げします。』と。」ですから、私たちもすすんで、イエズス様を愛する為に、霊魂の救いの為に、隣人の為に、罪人の回心の為にお捧げいたしましょう。
第3は、私たちの良き生活を通して。確かに私たちは、みそぼらしい、弱い、不完全なしもべで、役に立たないしもべですけれども、私たちの努力と、私たちのできる限りの力を込めて、できる限りを尽くして、なるべくイエズス様の聖心に適う、より少なく、聖心を悲しませる事のない生活を送る事によって、良き模範となる事によって、イエズス様の聖心と、隣人の救霊の為にする事に致しましょう。どうぞ、食事の時に十字架の印を切るとか、或いは何か友達から、「あぁ、あなたはカトリックの信者さんですか?」と言われた時に、どうぞ恥ずかしがらず、「はい、そうです。」と仰って下さい、「聖ピオ十世会の聖伝のミサに与っています。」或いは、友達に悪い場所に誘われた時に、「あぁ、すみません。私はこういう所には行きません。」と仰って下さい。そういういかがわしい所や、或いは罪の機会となるような場所には近寄らない、誘われたとしても、近寄らないようになさって下さい。良い模範を示す事によって、救霊の為にお祈り致しましょう。
最後に、良い言葉を以って、イエズス様は仰いました、「全世界に行って、私の教えた事を教えよ。」と。「もしも信じて洗礼を受けるならば救われ、そうでないならば滅びてしまう。」イエズス様は、「全世界に行って、私の教えた事を教えよ。」とだけ言われました。「全世界に行って、全てをカトリック信者に回心させて、」とは仰らずに、とにかく、イエズス様の事を伝えるように、「地の果てまで、私の証人となるように。」と求められました。
ですから私たちも、もちろん、私たちはこの看板をかけて、「SSPX」とか書いてあるTシャツを着て、或いは口を開ける毎に「ラテン語のミサを」と、もちろん言う必要はありません。
しかし、もしかしたら私たちは、お祈りをしつつ、良い機会に、或いはイエズス様の事、或いはマリア様の事について、ポロリと微笑みながら、少し確信を込めて、「あぁ、マリア様はきっと助けて下さいます。マリア様はお祈りして下さっているのですよ。」とか、私たちの確信を伝える事ができるのではないでしょうか。或いは、皆さんの中のもう数名はなさっているように、不思議のメダイを悲しんでいる人に差し上げたり、或いはお友達に差し上げたりなさる事はできないではないでしょうか。もちろん、ただ配るだけでは効果がありません、その前にマリア様に、「あぁ、これを今から何とかさんに上げるので、マリア様、どうぞ、何とかさんがちゃんとこれを受けて下さいますように、マリア様、この何とかさんの為にお祈り下さい。」めでたしを唱えて、そのきれいな優しい言葉で差し上げた後に、その何とかさんの為にまたお祈りをして、「マリア様、この何とかさんを守って下さい。この某さんの為に(?)下さい。」と、言ったらきっと、奇跡が起こると思います。
私たちの祈りと、犠牲と、良い生活と、ふさわしい優しいイエズス様を伝えるマリア様を伝える言葉を以って、私たちはイエズス様の聖心をますますお慰めし、お愛しし、イエズス様を愛する霊魂をますます広めて、この小さなタバコの燃えカスのような私たちの貧しい愛も、燃やすような山火事になるまで広がる事をお祈り致しましょう。その事ができるように、マリア様に、特に私たちを助けて下さいますようにお祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との聖名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、こんにちは!
フランシスコさん、すごいですね!
モーゼについての質問に正しくお答えくださいました。
モイゼの父親の名前はアムラム、母親の名前はヨケベトです!
次の質問は、死者の月に因んで、モーゼはどこで亡くなり、何歳だったでしょうか。また、モーゼはどこで葬られたのでしょうか。どうぞコメント欄に書き込んでくださいね。
来年のゴールデンウイークには、聖ピオ十世会日本では秋田巡礼を行います。来年は、巡礼10周年記念で、長崎と秋田とに行くことを計画しております。
詳しくは次をクリックして下さいね。
聖ピオ十世会日本 2016年 長崎・秋田巡礼 10周年記念 天主の憐れみを感謝して
SSPX Japan Nagasaki Akita Pilgrimage in 2016
さて、11月6日初金曜日、大阪で聖伝のミサを捧げました。その時の説教をご紹介いたします。
2015年11月6日 初金曜日 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
小野田神父 説教
聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は2015年11月6日、11月の初金曜日です。今日から、来年毎月レネー神父様の御訪問を含めると3回ミサが増えて、いつものパターンの金・土・日・月のパターンが2回に増える、という事に感謝を込めて、御聖体降福式をミサの直後、初金から始める事に致します。今日から始めます、どうぞ、ミサの直後、御聖体の前でロザリオを1環唱えるように、聖体降福式に与って下さい。
特に今回から、感謝のみならず、日本から聖なる召命がたくさん出ますように、司祭が常駐しますように、教会がたくさん建ちますように、多くのミサが日本中で捧げられますように、毎日捧げられますように、そのお恵みを乞い求めて、御聖体降福式を御捧げいたしましょう。
来年は、特別の御恵みで、毎月2回のミサのみならず、ネリ神父様の御訪問や、ティシェ・ド・マルレ司教様の御訪問、堅振式、聖母黙想会、長崎と秋田の巡礼、その他、まだ私たちの知らない特別の御恵みがたくさん待っていますので、それに感謝を込めて、御聖体降福式を捧げましょう。
聖父と聖子と聖霊との聖名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日はイエズス様の聖心の初金曜日ですから、イエズス様の聖心に燃える愛の火を、私たちも受け取る事に致しましょう。このイエズス様の燃える愛は、マルガリタ・マリア・アラコックに対する色々なメッセージも私たちに知らされています、「この人類の為に燃える、愛の聖心を見よ。」と。この私たちは、その聖心の愛のあまりにも大きなものを見て、私たちの心も愛に燃え始めています、イエズス様に賛美と感謝を捧げようとしています。
聖人たちによると、イエズス様の聖心に対する愛は、自分の心だけに留まってはいけません。
ちょうど小さなタバコの火から、森の大火事になる事があるように、私たちの心にあるイエズス様に対する愛の火は、これはメラメラと燃えて、多くの人々に伝わっていかなければなりません。ピオ11世教皇様は、「そのように、他の人たちに愛徳が伝わらなければ、私たちが『キリスト者』というには、まだ半分の弧を書いただけだ、まだ円ではない。まだ半分で円にはなっていない。弧にしか過ぎない。」と、言っています。
ですから今日は、その事を少し黙想して、それに引き換え私たちは一体どうであるかを振り返って、遷善の決心を立てる事に致しましょう。
イエズス様の聖心に燃える火は、私たちの救霊と、多くの人々の救霊を望んだ愛の火でした。イエズス様は、私たちと、私たちの兄弟姉妹たちを、全人類を愛するが為に、御自分の命さえも惜しまず、血潮を全て流されて、苦痛と屈辱と嘲りを耐え忍び、御自分を全て与え尽くして、私たちの救霊を望まれたその愛でした。
そのような極みの無い愛を目前にして、もしもその愛が、多くの人々から軽んじられ、イエズス様の聖名がバカにされ、或いは、イエズス様の御血が無益に流されている、というのを見て、もしもそれを見つつも、あたかも、「関係ないよ、知ったこっちゃない。」といった、そのような態度を取るとしたら、それは、私たちがイエズス様に対する完全な愛だ、と言う事ができるでしょうか?或いは、私たちがイエズス様に対する、激しい燃えるような、愛に燃えている、と言う事ができるでしょうか?
イエズス様が隣人の為に命を捧げて、「友の為に命を捧げるほどよりも大きな愛は無い。」と、言いながら全生涯をかけた救霊の事業、それを全く知らずに、無知のまま、イエズス様の事を知らずに、イエズス様の事を誤解して、罪を重ねて、残念ながら洗礼の恵みも受けずに、誰からも教えられずに、或いはもう地獄に落ちつつあるような人々を見て、私たちは、「あぁ、俺の知った事じゃないよ。」というような態度を取るとしたら、それは、私たちがイエズス様に教えられた隣人愛を、これを完成、全うする事になるでしょうか。
イエズス様は私たちに、「私はお前たちに新しい掟を与える。私がお前たちを愛したように、お前たちも互いに愛し合いなさい。」と、イエズス様が愛したように隣人を愛せ、という掟に、私たちは適っている、と言う事ができるでしょうか。隣人を本当に愛している、と言う事ができるでしょうか。それとも、そのようなイエズス様に対するあまりにも無知がある、或いはイエズス様の事をこの隣人は知らないでいる、何とかしてあげたい、何とか救ってあげたい、何とか、何とかできないか。その地獄に落ちないように、苦しまないように、何か間違いを犯さないように、何とかしたい、と、私たちが苦しみ悩むという事こそ、隣人愛に適う態度ではないでしょうか。
そうすると、私たちに於いて、「自分の救霊だけを考えれば良いんだ。」「自分のお祈りだけをすれば良いんだ。」のではなく、「あぁ、私たちは、私の救霊はもちろん、隣人の救霊をも、隣人の聖化の為にも、奮発して愛徳を行わなければならない。」と、私たちはますます愛の火がメラメラと高まらなければなりません。
先月、10月に黙想した幼きイエズスの聖テレジアは、まさにこの事を実践していました。毎日毎日、小さな幼い時から、自己放棄、自己犠牲をいつも捧げてきました。自分の霊魂の救霊のみならず、隣人の救霊の為に。13歳の頃、主日の、日付は私たちに教えられていないのですけれども、「ある主日のミサの後に、使っていたミサ典書の所から、いつも見慣れていた、十字架に磔られたイエズス様の御影がちょっとだけ出ていたのです。ちらっと見ると、イエズス様の御手が釘付けにされて、血が滴り落ちている御手が見えたのです。ミサの後にハッと見ると、いつも見慣れた変哲もないその御手、イエズス様の十字架の御血ですが、このタラリタラリと、私たちの救霊の為に流されている御血が、多くの人々にとって無駄に流されている、誰もこれを利用しようとしない、イエズス様の苦しみは全く無となっている。何故かというと、多くの人が、イエズス様の事を全く無視している。救霊など、自分の救霊など関係ないと考えている。イエズス様などと関係ない生活をしている。イエズス様の御血があたかも地面に無駄に流されているように、その時に感じた、理解できた。その時から、イエズス様の御血が無駄にならないように、それをかき集めて、それを聖父に捧げる事にした。」と、自分の伝記に書いています。
「イエズス様が、『私は渇く。』と、十字架の上で言ったその言葉が、『霊魂が欲しい、霊魂の救霊を望んでいる。霊魂が私の元に来るように。渇いている。でも霊魂たちは私から遠ざかっている。』というイエズス様の渇くような愛の声を聞いた。」と、伝記に書いています。
そこで、イエズスの聖テレジアは、「そのような霊魂の救霊に渇望する、渇いているイエズス様を何とか癒してあげたい。何とかその霊魂を、そのイエズス様の方に救うように、イエズス様に差し上げたい。」と思う、救霊に対する熱烈な渇きが、聖テレジアにも伝わってきました。イエズスの聖テレジアはこう言います、「この世でする事はたった1つしかない。イエズス様を愛する事と、イエズス様の為に霊魂を救って差し上げる事だ。」と。
聖テレジアは、聖書の詩編、『主の目にとって、1000年は1日のよう。』という言葉をとって、「私たちの人生は1日のようだ。あっという間に過ぎてしまう1日のようだ。この1日にできる事は、しなければならない事はたった1つしかない。イエズス様を愛する事と、救霊の為に尽くす事、隣人の救霊の為に尽くす事だ。イエズス様が愛されるように、霊魂を救う、霊魂が永遠にイエズス様をお愛しする事ができるように、助けてあげる事だ。そのまま放ったらかしておかない事だ。」と、言っています。
幼きイエズスの聖テレジアによれば、「私たちの救霊、隣人愛もやはり、イエズス様に対する愛から発して、イエズス様の愛にと導かれるように、イエズス様を愛する事ができるようにと、愛へと向かっています。」
有名な、プリュス神父様というイエズス会の神父様の本をつい最近読んでいたら、「『キリスト教信者』という事と、『隣人の救霊に無関心である』という事は全く、矛盾している。」とありました。「『キリスト教信者』という事は、『キリスト者』という事は、イエズス・キリストの神秘体の一部となって、イエズス・キリストの命を生きる者であるから、イエズス様がなさったように私たちも救霊の事業に、霊魂の救いの事業に参与しなければならない、祈りと、犠牲と、また私たちの生活を以って、救霊事業に参加するように、イエズス様と一致している者だ。だから『キリスト者』という事はつまり、『隣人の救いの為に働く者』である。小さな救世主となる事だ。共同共贖者となる事だ。マリア様の道具となる事だ。」と。
では、これに引き換え、「私たちは今まで、何と隣人の救霊に、」いえ、私は皆さんの中に時々、「神父様、私はいつも、このこれを、この不思議のメダイを配っているのです。」或いは、聖伝のミサに、いつもお友達を連れてくるような方々、或いは、いつもこう誘ってやっているような方々を見ているので、「私たち」というか、「私は、何と今まで、イエズス様の救霊の願いをその渇きを癒して差し上げるにほど遠かった事でしょうか。イエズス様の御恵みを受け、イエズス様の御子となる、天主の子供となる恵みを受けて、イエズス様の弟子となる特別の恵みを受けて、イエズス様の御体を私たちが拝領する様なほどの御恵みを受けていながら、イエズス様と同じ望みを分かつ事ができなかった。隣人の救霊を望む為に力を尽くす、という事に神経を使わなかった。どれほど何と、イエズス様の聖心から遠かった事でしょうか。」「私は、『イエズス様を王として頂いている』と言いながら、本当に私の生活はイエズス様を王としたでしょうか。イエズス様が望んでいる事だけを、王の望んでいる事だけをしようとしたでしょうか。それとも自分のやりたい事を、王の望みよりも優先した事はなかったでしょうか。」
マリア様は、イエズス様の望みだけを、完璧に100%、汚れ無く、生きておられました。それにもかかわらず、私の生活は、天主様の100%の生活だったでしょうか。イエズス様は私たちに全てを与えて、救霊の為に全てをしてくださったにもかかわらず、私たちは自分の救霊と、隣人の救霊の為に、どれほど100%の事をしたでしょうか。或いはせっかく頂いた御恵みを、頂きながらも知りながらも、イエズス様に対して罪を犯したり、或いは逆らったり、御旨の通りに、「御旨はこうだ」と分かりながらも、それにすぐに、「はい。」と、言わなかった事が、どれほど多かった事でしょうか。
では今日は、遷善の決心に何を立てたら良いでしょうか。4つ、最初の2つは非常に有名な、幼きイエズスの聖テレジアの言葉からいきます。
1つはお祈りです。私たちは、私たちの救霊と、隣人の救霊の為に、イエズス様の聖心に従ってお祈りを致しましょう、多くのお祈りを致しましょう。どうぞ、御聖体拝領をこの意向の為になさって下さい。ミサに与って下さい。御聖体降福式に与って下さい。来年はミサが増えます、ですからそのミサにできるだけ与って下さい。ロザリオもたくさん唱えて下さい、お祈りをいつも唱えて下さい。いつもイエズス様の現存の中で、祈りの中で生活するように致しましょう。もしも、イエズス様の聖心を悲しませるような言葉や、或いは街を通る時に、この前被昇天でシュテーリン神父様が仰って下さったように、マリア様にお祈りをして、どうぞ、「このバスに乗っているこの霊魂たちが、」或いは「この街で通っているこの霊魂たちが回心しますように。」と、射祷を唱える事に致しましょう。
第2は、生贄、犠牲です。幼きイエズスの聖テレジアによれば、「祈りと犠牲こそが、教会にとって一番、愛の込められた祈りと犠牲ほど、教会にとって役に立つものはない。これこそが役に立つものである。」と言います。十字架なしに、血を流す事なしに、私たちの罪の贖いは有り得ませんでした。犠牲なしに、苦しみなしに、お恵みは有り得ないのです。ですから私たちも、日々、毎日送られる十字架を、犠牲を、わたしたちの日常の義務を、イエズス様への愛を込めて御捧げいたしましょう。ファチマで天使はこう言いました、子供達に、「いつも犠牲と祈を捧げなさい。犠牲を捧げる時にはこう言いながら、射祷を唱えながら犠牲を捧げなさい、『イエズスよ、これは御身を愛する為、罪人の回心の為、公教会の為、教皇様の為に、これを御捧げします。』と。」ですから、私たちもすすんで、イエズス様を愛する為に、霊魂の救いの為に、隣人の為に、罪人の回心の為にお捧げいたしましょう。
第3は、私たちの良き生活を通して。確かに私たちは、みそぼらしい、弱い、不完全なしもべで、役に立たないしもべですけれども、私たちの努力と、私たちのできる限りの力を込めて、できる限りを尽くして、なるべくイエズス様の聖心に適う、より少なく、聖心を悲しませる事のない生活を送る事によって、良き模範となる事によって、イエズス様の聖心と、隣人の救霊の為にする事に致しましょう。どうぞ、食事の時に十字架の印を切るとか、或いは何か友達から、「あぁ、あなたはカトリックの信者さんですか?」と言われた時に、どうぞ恥ずかしがらず、「はい、そうです。」と仰って下さい、「聖ピオ十世会の聖伝のミサに与っています。」或いは、友達に悪い場所に誘われた時に、「あぁ、すみません。私はこういう所には行きません。」と仰って下さい。そういういかがわしい所や、或いは罪の機会となるような場所には近寄らない、誘われたとしても、近寄らないようになさって下さい。良い模範を示す事によって、救霊の為にお祈り致しましょう。
最後に、良い言葉を以って、イエズス様は仰いました、「全世界に行って、私の教えた事を教えよ。」と。「もしも信じて洗礼を受けるならば救われ、そうでないならば滅びてしまう。」イエズス様は、「全世界に行って、私の教えた事を教えよ。」とだけ言われました。「全世界に行って、全てをカトリック信者に回心させて、」とは仰らずに、とにかく、イエズス様の事を伝えるように、「地の果てまで、私の証人となるように。」と求められました。
ですから私たちも、もちろん、私たちはこの看板をかけて、「SSPX」とか書いてあるTシャツを着て、或いは口を開ける毎に「ラテン語のミサを」と、もちろん言う必要はありません。
しかし、もしかしたら私たちは、お祈りをしつつ、良い機会に、或いはイエズス様の事、或いはマリア様の事について、ポロリと微笑みながら、少し確信を込めて、「あぁ、マリア様はきっと助けて下さいます。マリア様はお祈りして下さっているのですよ。」とか、私たちの確信を伝える事ができるのではないでしょうか。或いは、皆さんの中のもう数名はなさっているように、不思議のメダイを悲しんでいる人に差し上げたり、或いはお友達に差し上げたりなさる事はできないではないでしょうか。もちろん、ただ配るだけでは効果がありません、その前にマリア様に、「あぁ、これを今から何とかさんに上げるので、マリア様、どうぞ、何とかさんがちゃんとこれを受けて下さいますように、マリア様、この何とかさんの為にお祈り下さい。」めでたしを唱えて、そのきれいな優しい言葉で差し上げた後に、その何とかさんの為にまたお祈りをして、「マリア様、この何とかさんを守って下さい。この某さんの為に(?)下さい。」と、言ったらきっと、奇跡が起こると思います。
私たちの祈りと、犠牲と、良い生活と、ふさわしい優しいイエズス様を伝えるマリア様を伝える言葉を以って、私たちはイエズス様の聖心をますますお慰めし、お愛しし、イエズス様を愛する霊魂をますます広めて、この小さなタバコの燃えカスのような私たちの貧しい愛も、燃やすような山火事になるまで広がる事をお祈り致しましょう。その事ができるように、マリア様に、特に私たちを助けて下さいますようにお祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との聖名によりて、アーメン。