アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
10月には、アジア管区に新たな司祭が任命され、そのおかげで10月25日の主日にはマニラにいることができました。王たるキリストの祝日に行われた聖体行列のようすです。
Procession of the Most Blessed Sacrament - FSSPX
さらに、アジア管区では、これからロザリオの時に「主よ、われらに司祭を与え給え 云々」の最後に、次の呼祷を付け加えることになりました。
「主よ、我らに多くの聖なる家族を与え給え。」
"O Lord, grant us many holy families".
宜しくお願い致します。
来年の長崎・秋田巡礼についてです。
聖ピオ十世会日本 2016年 長崎・秋田巡礼 10周年記念 天主の憐れみを感謝して
SSPX Japan Nagasaki Akita Pilgrimage in 2016
さて、11月7日の説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2015年11月7日 初土曜日 聖母の汚れ無き御心の随意ミサ
小野田神父 説教
聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は11月7日、2015年11月7日初土曜日のミサをしています、聖母の汚れ無き御心の随意ミサをしています。このミサの直後に、いつものように公教要理の勉強会があります、どうぞいらして下さい。次のミサは、来週の次の、明日ではなく次の一週間後の主日の18時30分から、レネー神父様がミサをして下さいます。12月は、12月の最初の初金、初土、クリスマスにミサがあります。どうぞいらして下さい。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は、マリア様の汚れ無き御心の愛の炎の中に深く入っていく事に致しましょう。マリア様の汚れ無き御心は、私たちに何を求めておられるのか、それを黙想して、私たちは、マリア様のお母様としての役割を、私たちの霊的な母としての役割を、深く理解し、そのお母様としての役割を、子供としてどうして愛し返していったら良いか、どのような事ができるのか、良き遷善の決心を立てる事に致しましょう。
「愛」というのは、単なるフィーリングや感傷的なものではありません。「愛」というのは、意志から生じるもので、行動に移されなければなりません。行動によって証明されなければなりません。マリア様はお告げを受けた時に、「はい。」と答えて、天主様がご自分からお生まれになる、なりたい、という事を知り、そのご自分から生まれる方が救い主であって、『イエズス様』と呼ばれる事を知り、それに、「はい。」と答えました。
マリア様は、この救い主がイエズス・キリストが、贖いの事業をご自分と共にされたい、という事を理解しました、「我、主の婢女なり。仰せの如く我になれかし。」マリア様は、全くの同意を伝えました。この瞬間から、天主の第2のペルソナ御子は、マリア様の御胎内に宿り、つまりキリストの神秘体のかしらが宿り、マリア様はイエズス・キリストの母、天主の御母となると同時に、イエズス・キリストの神秘体の母となりました。
マリア様のご生涯は、イエズス様の祈りと、イエズス様の苦しみと共に一致したご生涯でした。マリア様の知性は、イエズス様の知性と一致し、マリア様のご意志は、イエズス様の意志と全く1つでした。マリア様の汚れ無き御心は、イエズス様の至聖なる聖心と全く一体でした。
十字架の下で、イエズス様は御自分を聖父に、マリア様と共に、御捧げになりました。マリア様は、イエズス様を御子を、イエズス様と共に御捧げになりました。
イエズス様はカルワリオで、最高の究極の生贄を屠りを捧げました。天主様の御恵みは決してキャンセルされる事はありません。天主様は、自分の与えたものを決して取り返す事はありません。何故ならば、天主様は変わる事がないからです。天主様はそのまま、永久に、永遠に、不変に、変わらずに、留まります。天主様の与えた贈り物も、御恵みも、そのまま残ります。
マリア様がもしも、「天主の御母となる」という事を天主が望むのならば、もしもマリア様が天主の母として、人類の贖いに協力する事をお望みならば、これは世の終わりまでそれをお望みになるはずです、世の終わりまでお望みになります。
マリア様は、私たち罪人にイエズス様をお与えになりました。ナザレトで、「はい。」と言いながら、イエズス様を私たちに与える事に同意し、ベトレヘムで、私たちの為にお産みになり、十字架の上で、私たちの為に捧げ、マリア様は私たちに与え尽くしました。
マリア様は、この「イエズス様を私たちに与える」というこの事業を、世の終わりまで続けられます。
幼きイエズスの聖テレジアは、病に就いて死の直前の時に、シスター達から、「あぁシスター、シスター天国に行ったら、私たちの事を天からご覧になって下さいね。」と言われると、幼きイエズスの聖テレジアは、「いえ、私は天の上から皆さんを眺めるのではなく、地上に降りて来ます。皆さんを助ける為に、愛徳をする為に地上に降りて来ます。」と言われましたが、マリア様は、更に母の心で、天から地上に、私たちの一人一人の為に、私たちが、私たちに於いてイエズス様が生み出されるように、特別の繊細な気遣いを使って下さいます。全歴史にわたって、私たちに於いてイエズス様が生み出されるように、私たちがイエズス様の似姿となるように、マリア様は手伝って下さっています。
マリア様は、「見よ、主の婢女はここにおります、仰せの如く我になれかし。」と仰った時に、これを世の終わりまで仰り続けます。この効果は、世の終わりまで続かなければなりません。これこそが、マリア様が頂いた、天主様から頂いた、母としての、霊的な母としての使命です。私たちを霊的に、超自然の命に於いて生み出す、イエズス・キリストの神秘体の母として、神秘体を完璧に生み出す、という事です。私たちの母、イエズス・キリストの兄弟、姉妹である私たちの母となる、という事です。
マリア様が、イエズス様の御降誕40日後に、イエズス様を神殿に奉献されました。その時、福音書によれば、「マリアは、その初子を捧げた。」と、あります。この「初子」というのは、モーゼの律法の用語であって、つまり「最初に生まれた男の子」がそうであって、第2、第3子が無くても、子供がその後無くても、最初に生まれた子は初子として、第1の子供として捧げられるのです。
ところで、専攻する、マリア様の神秘を研究する神学者が、幼きイエズスの聖テレジアも、「この『初子』という言葉に、実は確かに立法上、歴史上、イエズス様は唯一の子であるけれども、しかし、霊的に於いては、『霊的に』というのは、嘘という事ではなくて、超自然の意味に於いて、しかし現実の意味に於いて、イエズス様の兄弟姉妹である私たちを、マリア様は生み出す、という事を想定した用語である。」という事を指摘しています。「イエズス様を奉献された時に、その世の終わりまで、超自然の命に於いて生まれるべき私たちをも、マリア様は奉献される使命を持っている、という事を予告する言葉である。」と指摘しています。
これが、マリア様の超自然の使徒職の、世の終わりまで続く母としての使命です。この使命は、マリア様の受けている使命は、謂わば戦いです、戦争でもあります。何故かというと、私たちの霊魂を、悪魔の手から奪い取らなければならないからです。マリア様は、悪魔の手から奪い取るのみならず、それをイエズス様の方へと導かれなければなりません。マリア様は、蛇の、古(いにしえ)の蛇の頭を踏み砕き続けなければなりません。
マリア様は、無原罪の御孕りの時にそれをなさいました。世の終わりまでそれをなさり続けます。何故かというと、マリア様は、軍隊を整えた、整列を整えた軍隊よりも更に恐るべき御方であるからです。
マリア様のこの地上での使命が続く為に、どうしても手伝いが、どうしても協力が必要です。ちょうどイエズス様が、御自分の使命を使徒たちに、使徒の後継者に委ねたように、マリア様の、母として多くの子供たちを持つ為に、私たちの協力をも必要としています。
マリア様の為に、霊魂を悪魔の手から引き取って、イエズス様へと導く、良きマリア様の子供たちが必要です。マリア様は特にこの戦いを、多くの霊魂たちをイエズス様の方に導く、というこの使命を、ここにいらっしゃる愛する兄弟の皆さんたちに、特にお願いしています。皆さんは特に、インマクラータの騎士となり、マリア様の子供として、奴隷として、騎士として兵士として、「マリア様の為に何かをしたい」と思われました。
マリア様が何故、私たちをこのように使いたいのか、というと、それは何か私たちが何か特別に能力があったり、或いは何かマリア様の為に、このするだけの価値がある、と思われたからではありません。
そうではなくて、そうでないにもかかわらず、私たちの役に立たない者であるにもかかわらず、マリア様が私たちに、ご自分の勝利と、ご自分の喜びと幸せを私たちに与えたい、と思った、ただマリア様の善きご親切と、そのあわれみと寛大さによって、私たちは特別に、その御恵みを頂く事になりました。
マリア様の母としての悲しみ、苦しみ、私たちをイエズス様へと導こうとするその努力、その願い、その燃える愛を知りつつも、「知らないよ。」と言うのは、私たちが子供として、或いはマリア様の愛を知る者して、取る事ができる態度でしょうか。
「何とかして、このように良い母であるマリア様を、何とかしてお喜ばせしたい、何とかして役に立ちたい。」と思わないでしょうか。あぁ、もちろん、私たちはあまりにも力がないのですけれども、しかし、マリア様が特に私たちの為に取り次いで下さいます。全てのお恵みは、マリア様を通して来ます。これが天主様の御聖旨です。
「あぁ、神父様、私はマリア様の為にお祈りをします、犠牲をします。」はい、非常にそれは良い事で、是非私たちは、その多くのお祈りと、多くの犠牲を捧げ続けなければなりません。しかしマリア様は、それだけではなく、更にもっと協力を求めています。何故かというと、例え聖フランシスコ・ザヴェリオが、スペインに残ったままお祈りと犠牲を捧げていただけでは、日本にはイエズス様の福音が届きませんでした。聖フランシスコ・ザヴェリオが舟に乗って、苦労をして、私たちの為に何か活動をして下さったからこそ、私たちにもその恵みが与えられるようになりました。
確かに司祭は、お祈りと犠牲を教会で捧げれば良いのですけれども、でもその司祭も、秘跡を必要とする人の為に、病者の訪問、告解の秘跡、或いは何か努力をしなければなりません、秘跡を授けなければなりません。それと同じように、私たちもマリア様の子供として、行動に表さなければなりません。何故かというと、愛というのは、感情やフィーリングではなくて、意志の問題であって、この意志は、行動へと表われるものであるからです。
では、私たちは、一体どのようにすれば良いでしょうか?私の今日提案したいのは、マリア様の良き子供として、良い、良き生活を、ますますマリア様に似た、マリア様の御心に適う生活をする、そうする事によって、私たちの周囲の方々に愛徳の影響を与える、という事を提案したいと思います。例えば、マリア様が私たちにお望みになっているように、私たちが徳を積み、正直であって、誠実であって、この自分の事しか考えないような人がたとえ周りにたくさんいたとしても、私たちはいつも誠実に、正直に、真面目に行動する事が、マリア様のお喜びであります。また、自分のやるべき事をサボる人が例え周りにたくさんいたとしても、マリア様のように、自分の義務を天主様から与えられた使命として果たす、良心的に果たす事を、マリア様はお望みです。
私たちはもちろん、見せびらかすのではなく、しかしそれといって、世間体を気にして隠すわけでもなく、普通に、しかし確信を持って、カトリック信者である、マリア様の子供である、という事を、私たちはそれを行動を以って表さなければなりません。
私たちが一体自慢するのは、どのような事でしょうか?この世の人たちは、罪や、或いは下品な事を言ったりして笑ったりして、自慢しているかも知れません、「俺はこんな事をやったんだ。」しかし私たちは、むしろイエズス様の弟子であるという事を、マリア様の子供であるという事を、自慢できるようにしなければならないのではないでしょうか。私たちの謙遜と愛徳によって、願わくは、私たちの周囲の方が、イエズス様を愛する事ができますように。イエズス様の掟を愛する事ができますように。強制されたとか、何か嫌がらせを言われたから、何か恐ろしいから、ではなく、願わくは、マリア様の特別のお恵みによって、霊魂たちがイエズス様へと引き寄せられて、イエズス様をお愛しし、イエズス様の事をますます好きになって、イエズス様の事に従いたい、と思うように導かれますように。その為に私たちが何か、もしも必要としているのであれば、お手伝いや、或いは何か良い業をする事ができますように。
天主様が私たちをこのように愛して下さるのであれば、私たちもその愛に倣って、愛徳の実践をする事ができますように。忍耐する事ができますように。
幼きイエズスの聖テレジアは、修道院の中に、ある有名な何か性格の悪いシスターが、カルメル会のシスターがいたそうです。そのシスターがあまりにも性格が悪いので、皆嫌っていたんだそうです。でも、その幼きイエズスの聖テレジアは、そのシスターに、いつも親切に、いつも忍耐をもって、特に優しくして、特に愛情深く接していました。お姉さんであるシスターが、「何で妹のテレジアは、私よりもあのシスターの事が好きなのか。」と言って嫉妬したほどです。で、死ぬ前に、「何故、あなたはあのようなシスターの事をそんなにも好きなのか。」と聞いたそうです。そのシスターも、性格の悪いちょっと意地悪なシスターも、ついに聖テレジアに、「シスター、何であなたは他の人と違って、私の事がそんなに好きなの?」と聞いたのだそうです。
願わくは、私たちも愛徳を実践する事ができますように。私たちの隣人に於いて、その隣人の、「あぁ、この方はとても親切な方だから好きだ。あぁ、この人は不親切だから嫌いだ。」「あぁ、この人は善徳のある方だ。あぁ、この方は悪徳の人だから。」或いは、「この人は頭が良いから。あぁ、この人は…」と、その自然的な事だけではなく、イエズス様とマリア様が、そのこの霊魂の為に、霊魂の救霊の為に、どれほどの高い御血潮の値を払って贖って下さったのか、或いはマリア様はこの霊魂を、どれほどの愛を込めて母として愛されておられるのか、その事だけを考えて、この霊魂がますます、マリア様を通してイエズス様をお愛しする事ができるように。それをマリア様が私たちに求めておられます。
これは私たちにとっては、とても高い理想ですけれども、マリア様の御助けによって、御あわれみによって、これが実践できるようにお祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
10月には、アジア管区に新たな司祭が任命され、そのおかげで10月25日の主日にはマニラにいることができました。王たるキリストの祝日に行われた聖体行列のようすです。
Procession of the Most Blessed Sacrament - FSSPX
さらに、アジア管区では、これからロザリオの時に「主よ、われらに司祭を与え給え 云々」の最後に、次の呼祷を付け加えることになりました。
「主よ、我らに多くの聖なる家族を与え給え。」
"O Lord, grant us many holy families".
宜しくお願い致します。
来年の長崎・秋田巡礼についてです。
聖ピオ十世会日本 2016年 長崎・秋田巡礼 10周年記念 天主の憐れみを感謝して
SSPX Japan Nagasaki Akita Pilgrimage in 2016
さて、11月7日の説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2015年11月7日 初土曜日 聖母の汚れ無き御心の随意ミサ
小野田神父 説教
聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は11月7日、2015年11月7日初土曜日のミサをしています、聖母の汚れ無き御心の随意ミサをしています。このミサの直後に、いつものように公教要理の勉強会があります、どうぞいらして下さい。次のミサは、来週の次の、明日ではなく次の一週間後の主日の18時30分から、レネー神父様がミサをして下さいます。12月は、12月の最初の初金、初土、クリスマスにミサがあります。どうぞいらして下さい。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は、マリア様の汚れ無き御心の愛の炎の中に深く入っていく事に致しましょう。マリア様の汚れ無き御心は、私たちに何を求めておられるのか、それを黙想して、私たちは、マリア様のお母様としての役割を、私たちの霊的な母としての役割を、深く理解し、そのお母様としての役割を、子供としてどうして愛し返していったら良いか、どのような事ができるのか、良き遷善の決心を立てる事に致しましょう。
「愛」というのは、単なるフィーリングや感傷的なものではありません。「愛」というのは、意志から生じるもので、行動に移されなければなりません。行動によって証明されなければなりません。マリア様はお告げを受けた時に、「はい。」と答えて、天主様がご自分からお生まれになる、なりたい、という事を知り、そのご自分から生まれる方が救い主であって、『イエズス様』と呼ばれる事を知り、それに、「はい。」と答えました。
マリア様は、この救い主がイエズス・キリストが、贖いの事業をご自分と共にされたい、という事を理解しました、「我、主の婢女なり。仰せの如く我になれかし。」マリア様は、全くの同意を伝えました。この瞬間から、天主の第2のペルソナ御子は、マリア様の御胎内に宿り、つまりキリストの神秘体のかしらが宿り、マリア様はイエズス・キリストの母、天主の御母となると同時に、イエズス・キリストの神秘体の母となりました。
マリア様のご生涯は、イエズス様の祈りと、イエズス様の苦しみと共に一致したご生涯でした。マリア様の知性は、イエズス様の知性と一致し、マリア様のご意志は、イエズス様の意志と全く1つでした。マリア様の汚れ無き御心は、イエズス様の至聖なる聖心と全く一体でした。
十字架の下で、イエズス様は御自分を聖父に、マリア様と共に、御捧げになりました。マリア様は、イエズス様を御子を、イエズス様と共に御捧げになりました。
イエズス様はカルワリオで、最高の究極の生贄を屠りを捧げました。天主様の御恵みは決してキャンセルされる事はありません。天主様は、自分の与えたものを決して取り返す事はありません。何故ならば、天主様は変わる事がないからです。天主様はそのまま、永久に、永遠に、不変に、変わらずに、留まります。天主様の与えた贈り物も、御恵みも、そのまま残ります。
マリア様がもしも、「天主の御母となる」という事を天主が望むのならば、もしもマリア様が天主の母として、人類の贖いに協力する事をお望みならば、これは世の終わりまでそれをお望みになるはずです、世の終わりまでお望みになります。
マリア様は、私たち罪人にイエズス様をお与えになりました。ナザレトで、「はい。」と言いながら、イエズス様を私たちに与える事に同意し、ベトレヘムで、私たちの為にお産みになり、十字架の上で、私たちの為に捧げ、マリア様は私たちに与え尽くしました。
マリア様は、この「イエズス様を私たちに与える」というこの事業を、世の終わりまで続けられます。
幼きイエズスの聖テレジアは、病に就いて死の直前の時に、シスター達から、「あぁシスター、シスター天国に行ったら、私たちの事を天からご覧になって下さいね。」と言われると、幼きイエズスの聖テレジアは、「いえ、私は天の上から皆さんを眺めるのではなく、地上に降りて来ます。皆さんを助ける為に、愛徳をする為に地上に降りて来ます。」と言われましたが、マリア様は、更に母の心で、天から地上に、私たちの一人一人の為に、私たちが、私たちに於いてイエズス様が生み出されるように、特別の繊細な気遣いを使って下さいます。全歴史にわたって、私たちに於いてイエズス様が生み出されるように、私たちがイエズス様の似姿となるように、マリア様は手伝って下さっています。
マリア様は、「見よ、主の婢女はここにおります、仰せの如く我になれかし。」と仰った時に、これを世の終わりまで仰り続けます。この効果は、世の終わりまで続かなければなりません。これこそが、マリア様が頂いた、天主様から頂いた、母としての、霊的な母としての使命です。私たちを霊的に、超自然の命に於いて生み出す、イエズス・キリストの神秘体の母として、神秘体を完璧に生み出す、という事です。私たちの母、イエズス・キリストの兄弟、姉妹である私たちの母となる、という事です。
マリア様が、イエズス様の御降誕40日後に、イエズス様を神殿に奉献されました。その時、福音書によれば、「マリアは、その初子を捧げた。」と、あります。この「初子」というのは、モーゼの律法の用語であって、つまり「最初に生まれた男の子」がそうであって、第2、第3子が無くても、子供がその後無くても、最初に生まれた子は初子として、第1の子供として捧げられるのです。
ところで、専攻する、マリア様の神秘を研究する神学者が、幼きイエズスの聖テレジアも、「この『初子』という言葉に、実は確かに立法上、歴史上、イエズス様は唯一の子であるけれども、しかし、霊的に於いては、『霊的に』というのは、嘘という事ではなくて、超自然の意味に於いて、しかし現実の意味に於いて、イエズス様の兄弟姉妹である私たちを、マリア様は生み出す、という事を想定した用語である。」という事を指摘しています。「イエズス様を奉献された時に、その世の終わりまで、超自然の命に於いて生まれるべき私たちをも、マリア様は奉献される使命を持っている、という事を予告する言葉である。」と指摘しています。
これが、マリア様の超自然の使徒職の、世の終わりまで続く母としての使命です。この使命は、マリア様の受けている使命は、謂わば戦いです、戦争でもあります。何故かというと、私たちの霊魂を、悪魔の手から奪い取らなければならないからです。マリア様は、悪魔の手から奪い取るのみならず、それをイエズス様の方へと導かれなければなりません。マリア様は、蛇の、古(いにしえ)の蛇の頭を踏み砕き続けなければなりません。
マリア様は、無原罪の御孕りの時にそれをなさいました。世の終わりまでそれをなさり続けます。何故かというと、マリア様は、軍隊を整えた、整列を整えた軍隊よりも更に恐るべき御方であるからです。
マリア様のこの地上での使命が続く為に、どうしても手伝いが、どうしても協力が必要です。ちょうどイエズス様が、御自分の使命を使徒たちに、使徒の後継者に委ねたように、マリア様の、母として多くの子供たちを持つ為に、私たちの協力をも必要としています。
マリア様の為に、霊魂を悪魔の手から引き取って、イエズス様へと導く、良きマリア様の子供たちが必要です。マリア様は特にこの戦いを、多くの霊魂たちをイエズス様の方に導く、というこの使命を、ここにいらっしゃる愛する兄弟の皆さんたちに、特にお願いしています。皆さんは特に、インマクラータの騎士となり、マリア様の子供として、奴隷として、騎士として兵士として、「マリア様の為に何かをしたい」と思われました。
マリア様が何故、私たちをこのように使いたいのか、というと、それは何か私たちが何か特別に能力があったり、或いは何かマリア様の為に、このするだけの価値がある、と思われたからではありません。
そうではなくて、そうでないにもかかわらず、私たちの役に立たない者であるにもかかわらず、マリア様が私たちに、ご自分の勝利と、ご自分の喜びと幸せを私たちに与えたい、と思った、ただマリア様の善きご親切と、そのあわれみと寛大さによって、私たちは特別に、その御恵みを頂く事になりました。
マリア様の母としての悲しみ、苦しみ、私たちをイエズス様へと導こうとするその努力、その願い、その燃える愛を知りつつも、「知らないよ。」と言うのは、私たちが子供として、或いはマリア様の愛を知る者して、取る事ができる態度でしょうか。
「何とかして、このように良い母であるマリア様を、何とかしてお喜ばせしたい、何とかして役に立ちたい。」と思わないでしょうか。あぁ、もちろん、私たちはあまりにも力がないのですけれども、しかし、マリア様が特に私たちの為に取り次いで下さいます。全てのお恵みは、マリア様を通して来ます。これが天主様の御聖旨です。
「あぁ、神父様、私はマリア様の為にお祈りをします、犠牲をします。」はい、非常にそれは良い事で、是非私たちは、その多くのお祈りと、多くの犠牲を捧げ続けなければなりません。しかしマリア様は、それだけではなく、更にもっと協力を求めています。何故かというと、例え聖フランシスコ・ザヴェリオが、スペインに残ったままお祈りと犠牲を捧げていただけでは、日本にはイエズス様の福音が届きませんでした。聖フランシスコ・ザヴェリオが舟に乗って、苦労をして、私たちの為に何か活動をして下さったからこそ、私たちにもその恵みが与えられるようになりました。
確かに司祭は、お祈りと犠牲を教会で捧げれば良いのですけれども、でもその司祭も、秘跡を必要とする人の為に、病者の訪問、告解の秘跡、或いは何か努力をしなければなりません、秘跡を授けなければなりません。それと同じように、私たちもマリア様の子供として、行動に表さなければなりません。何故かというと、愛というのは、感情やフィーリングではなくて、意志の問題であって、この意志は、行動へと表われるものであるからです。
では、私たちは、一体どのようにすれば良いでしょうか?私の今日提案したいのは、マリア様の良き子供として、良い、良き生活を、ますますマリア様に似た、マリア様の御心に適う生活をする、そうする事によって、私たちの周囲の方々に愛徳の影響を与える、という事を提案したいと思います。例えば、マリア様が私たちにお望みになっているように、私たちが徳を積み、正直であって、誠実であって、この自分の事しか考えないような人がたとえ周りにたくさんいたとしても、私たちはいつも誠実に、正直に、真面目に行動する事が、マリア様のお喜びであります。また、自分のやるべき事をサボる人が例え周りにたくさんいたとしても、マリア様のように、自分の義務を天主様から与えられた使命として果たす、良心的に果たす事を、マリア様はお望みです。
私たちはもちろん、見せびらかすのではなく、しかしそれといって、世間体を気にして隠すわけでもなく、普通に、しかし確信を持って、カトリック信者である、マリア様の子供である、という事を、私たちはそれを行動を以って表さなければなりません。
私たちが一体自慢するのは、どのような事でしょうか?この世の人たちは、罪や、或いは下品な事を言ったりして笑ったりして、自慢しているかも知れません、「俺はこんな事をやったんだ。」しかし私たちは、むしろイエズス様の弟子であるという事を、マリア様の子供であるという事を、自慢できるようにしなければならないのではないでしょうか。私たちの謙遜と愛徳によって、願わくは、私たちの周囲の方が、イエズス様を愛する事ができますように。イエズス様の掟を愛する事ができますように。強制されたとか、何か嫌がらせを言われたから、何か恐ろしいから、ではなく、願わくは、マリア様の特別のお恵みによって、霊魂たちがイエズス様へと引き寄せられて、イエズス様をお愛しし、イエズス様の事をますます好きになって、イエズス様の事に従いたい、と思うように導かれますように。その為に私たちが何か、もしも必要としているのであれば、お手伝いや、或いは何か良い業をする事ができますように。
天主様が私たちをこのように愛して下さるのであれば、私たちもその愛に倣って、愛徳の実践をする事ができますように。忍耐する事ができますように。
幼きイエズスの聖テレジアは、修道院の中に、ある有名な何か性格の悪いシスターが、カルメル会のシスターがいたそうです。そのシスターがあまりにも性格が悪いので、皆嫌っていたんだそうです。でも、その幼きイエズスの聖テレジアは、そのシスターに、いつも親切に、いつも忍耐をもって、特に優しくして、特に愛情深く接していました。お姉さんであるシスターが、「何で妹のテレジアは、私よりもあのシスターの事が好きなのか。」と言って嫉妬したほどです。で、死ぬ前に、「何故、あなたはあのようなシスターの事をそんなにも好きなのか。」と聞いたそうです。そのシスターも、性格の悪いちょっと意地悪なシスターも、ついに聖テレジアに、「シスター、何であなたは他の人と違って、私の事がそんなに好きなの?」と聞いたのだそうです。
願わくは、私たちも愛徳を実践する事ができますように。私たちの隣人に於いて、その隣人の、「あぁ、この方はとても親切な方だから好きだ。あぁ、この人は不親切だから嫌いだ。」「あぁ、この人は善徳のある方だ。あぁ、この方は悪徳の人だから。」或いは、「この人は頭が良いから。あぁ、この人は…」と、その自然的な事だけではなく、イエズス様とマリア様が、そのこの霊魂の為に、霊魂の救霊の為に、どれほどの高い御血潮の値を払って贖って下さったのか、或いはマリア様はこの霊魂を、どれほどの愛を込めて母として愛されておられるのか、その事だけを考えて、この霊魂がますます、マリア様を通してイエズス様をお愛しする事ができるように。それをマリア様が私たちに求めておられます。
これは私たちにとっては、とても高い理想ですけれども、マリア様の御助けによって、御あわれみによって、これが実践できるようにお祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。