2022年8月13日(土)聖母の土曜日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
あさって8月15日は聖母の被昇天です。その準備を致しましょう。
昨日は、マリア様が天の最も高い栄光に上げられたその理由、「ご謙遜」について黙想しました。
マリア様が、ご自分が被造物であって、主の婢女であるということをよくご存知であった、マリア様が私たちの、天主によって与えられた地位が、主の御旨を知り、それを愛し、主に奉仕するためにあって、そしてそうすることによって天国を受けるべき者となる、という地位のことをよく知っていた、と黙想しました。
今日は特にその続きを黙想することを提案します。マリア様は、「ご謙遜」であったと同時に、「主の御旨を完璧に果たされた」のです。それが為に、天の高き所に、最も高き所に上げられた、ということです。主の婢女(はしため)であり、「仰せの如く我になれかし。」それを完全に実行された、ということです。主の御言葉を聞いたのみならず、主の御旨を果たしたので、最も幸いな者となされた、ということです。
どういうことでしょうか?
「主の御旨を果たした」ということは、これは「罪を犯さなかった」ということです。
マリア様は、特別の特権を持って原罪の汚れなく宿られたのみならず、主の御旨に逆らって主を悲しませるようなことを、その影でさえもなさらなかった、ということです。
罪とは一体何なのでしょうか?罪とは、主の御旨に、「ノー!嫌だ!」と言うことです。
一体誰が罪を犯したでしょうか?悪魔が罪を犯しました。悪魔はどうやって罪を犯したのでしょうか?悪魔というのは、元々は天主から創られた最も美しい最高の天使たちでした。人間よりもはるかに能力がある天使たちでした。光の天使たちでした。
ところが、一回だけ、天使たちに試練が与えられました。天主の御旨に従順であるか、否か。天主の御望みを果たすか、果たさないか。一部の天使たちは、あまりにも自分が受けた御恵みが偉大だったので、知性が素晴らしかったので、意思があまりにも強かったので、能力があまりにも高かったので、これは自分が当然のものであるかのように錯覚していたかのようです。これに思い上がって、天主に「ノー!」と言いました。「嫌だ!それはできない。」全ては天主から頂いたにも関わらず、その主の御旨を果たそうとしませんでした。その能力を主の為に使おうとしませんでした。
その結果は、全てを、天主を失って、地獄へと落とされる、永遠の破滅へと行かなければなりませんでした。
三位一体は、天使たちをどれほど美しく、どれほど知性で飾り、どれほど能力で飾り、どれほどの御恵みを与えてきたことでしょうか。しかし、たった一度の逆らいに、それを全て地獄へと落とすに十分でした。天主にとって何の惜しくもありませんでした。もちろん、悲しかったとは思います、天主は。残念だったとは思います。
しかし、天使たちがこれほどの大恩人である三位一体に逆らう限り、自ら天主を拒む限り、一体どうすることができたでしょうか。天使たちは悪魔になっていったのです。天主から離れていきました。地獄の方に落ちていきました。「天主に仕えない!」
一度の罪で、天使たちは永遠の罰を受けるに相応しい者となってしまいました。傲慢の罪でした。
罪を犯したのは悪魔だけでしょうか?いえ、悪魔だけではありません。人間も罪を犯しました。アダムとエワ以降、全ての人が、私たち全ての人間が、罪を犯しました。
アダムとエワは、人類の最初で、私たちと同じように創られたのですか?
そうではないのです。アダムとエワは、人類の父となり母となるが為に、特別の御恵みを受けて創られました。超自然の恵み、自然外の恵み、つまり不死の恵み、苦しまない恵み、そして動植物を支配する恵み、病も死も苦しみもなく、そして自分の能力を全て理性においてコントロールする恵み、自然に関する広大な知識、動植物の秘密に関する莫大な知識、全人類を教えるにふさわしい父親として、母親として、特別の能力が与えられました。
では、よっぽど天主様はアダムとエワに厳しい、「これをしたらダメ、ダメ、ダメ、ダメ」という掟を与えたに違いありませんね?
そうではなかったのです。アダムとエワは全てが与えられて、全く自由にすることができました。アダムとエワが守らなければならなかったものは、本当に簡単なものでした。地球上のありとあらゆる全ての木と実を自由にしてよかったけれども、ただ一つ、善と悪の知識の木の実だけは、これは食べてはいけない。なぜなら、そうすると死ぬから。
その木の実を食べる必要もなかったし、必然性も全くなかったし、とても簡単なものでした。たったそれをするだけで、永遠の命を得るという特別の御恵みが与えられていました。
では、アダムとエワは簡単にこれを守ったに違いありません。
アダムとエワは簡単にこれを守ることができたはずでした。しかし、守らなかったのです。アダムとエワは、天主よりも悪魔の言葉を信じて、悪いと知りながら、必要もなかったにもかかわらず、天主に背いて、罪を犯しました。まず、エワが、次にアダムが。謝る機会が、謝罪をする機会が与えられました。しかしそれをすることをしませんでした。説明に機会が与えられたにもかかわらず、それを他人のせいに、天主のせいに、なすりつけました。
そのたった一度の罪の為に、アダムとエワ、そしてその全子孫の為に、超自然の御恵みが全て無くされました。それを受けるに相応しい者となりました。そしてもうこれで天使たちが受けたと同じように、私たちももうこれで永遠の命に相応しくない者となって、地獄に永遠に焼かれる身となって当然のことでした。
それにもかかわらず天主は、天使たちには与えなかった特別の特権を、人間に与えました。天主は人となって、救い主となって人間となって、救いに来る。罪の赦しの為に、救いに来る。そしてアダムとエワはその後、残る人生を、何百年という人生を、罪の償いの為に、祈りと償いの人生を送りました。死に至るまで送りました。その責任を取って、厳しい生活を送りました。
では、私たちは一体どうなのでしょうか?
天使たちは、傲慢の罪で地獄に落ちる者となりましたけれども、私たちは傲慢の罪以外に、肉の罪、貪欲の罪、貪食の罪、悪口、冒瀆、不信仰、あるいはその他ありとあらゆる罪を犯してきました。天使がもしもたった一つの傲慢の思いで、天主にノー!と言ったが為に、永遠に不幸を受けることになってしまったのならば、私たちはどれほどこの不幸を受けるに相応しい者でしょうか。
アダムとエワは、たった一つの罪を犯した後に、その罪の結果があまりにも大きいことを、まさか、これほど愛されたので、まさかそれほどのことが起きないだろうと思っていたかもしれません。しかし、その結果、ものすごいことが起こったことが分かり、償いの生活を始めました。
アダムは、たった一度の罪で償いの生活を始めましたが、私たちは一体どうなのでしょうか。多くの罪を犯しましたけれども、まだ罪を犯し足りないかのように、ヘラヘラとしています。
マリア様はどうだったのでしょうか。
マリア様は、イエズス様と共に、私たちの罪の償いを捧げる「共贖者」として、全く罪の汚れがなく、苦しみを当然受けるということがなかったにも関わらず、天主から苦しみを与えられました。極めて大きな苦しみを与えられましたが、それをマリア様は、「我、主の婢女なり。仰せの如く我になれかし」と捧げられました。
マリア様ではなくて私たちこそが苦しみ、そして馬鹿にされ、軽蔑を受け、償いを果たさなければならないにも関わらず、私たちに代わって、私たちの受ける何十倍、何百倍もの苦しみを、主と共に苦しまれました。
罪のない方マリア様が、全く罪の汚れがない方であるにもかかわらず、私たちに代わって苦しみを捧げられた方であるからこそ、天の最も高い所に上げられました。イエズス・キリストのすぐ傍にまで上げられました。
マリア様のその被昇天の秘密はここにあります。罪の無さ、天主への従順、ご謙遜。
マリア様に捧げられた土曜日、ぜひマリア様の特別の御取り次ぎを乞い願いましょう。私たちは、マリア様の罪の汚れなさにはとても真似することができませんけれども、しかしマリア様の御取り次ぎで、「主の御旨を果たそう」という、その為に主から送られる十字架を御捧げする力が与えられますように、謙遜の力が、謙遜の徳が与えられますように、自分がどんな身分であるかということを、地位にあるかということを、よくわきまえ知ることができる御恵みを乞い求めましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。