2022年8月14日(主日)聖霊降臨後第十主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教(大阪)
聖父と聖子聖霊との御名によりて、アーメン。
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2022年8月14日、聖霊降臨後第十主日のミサを行なっております。
このミサの後に、いつもの通り聖体降福式があります、皆様をご招待致します。
明日は8月15日、聖母の被昇天です。やはりここで午前10時半からミサがあります。そしてミサの後には聖母行列も行ないたいと思っています。皆様の参加をお待ちしています。
マリア様は8月15日には、特に日本には、特別の恵みを与えようとしておられます。明日は私たちにとって特別の御恵みの日です。聖フランシスコ・ザベリオが日本にやって来たのも8月15日、そして第二次世界大戦が終結したのも8月15日でした。
明日も三位一体の天主は、マリア様の御手を通して皆様に、皆様の家族に、皆様の霊魂に、特別の御恵みを満ちるばかり与えようとお待ちです。ですからどうぞ、ますますマリア様に寛大に、イエズス様に寛大に、明日の被昇天の大祝日には是非、マリア様を心から讃美するようにして下さい。
愛する兄弟姉妹の皆さん、では私たちは明日の聖母の被昇天の準備を続けていくことにしましょう。
今日の聖霊降臨後第十主日のミサは、まさに聖母被昇天の御恵みをよく受ける為にこれほど相応しいものがあるか、というほどの相応しいミサです。
私たちは金曜・土曜と、マリア様の被昇天を、なぜマリア様がどうしてこれほどまでの高い栄光をお受けになったのか、イエズス様のすぐ横におられ、そしてすべての天使を越えて、天と地の元后として上げられたのか、その秘密を一緒に黙想してきました。
一つは、マリア様の「ご謙遜」でした。もう一つは、マリア様のその「聖徳」、つまり、「主の御旨をいつも果たしてきた」ということ、罪がなかったということ。謙遜と、罪のなさ汚れのなさ、そして聖なる徳でした。
すると、では私たちは一体どうしたら良いのでしょうか?
マリア様の天の栄光を讃美して、それだけなのでしょうか?
いえ、マリア様は私たちを天に招いておられる、私たちもマリア様のおられる天に行く為にこそ、教会は被昇天を私たちが祝うようにとして、教会はいつも私たちの心を天に上げさせてくれている、ということを黙想しました。では、私たちはどうしたら良いのでしょうか?
何故かというと、私たちはマリア様と違って、罪を犯した身であるからです。この地上で最も最悪の時代に落ちてしまったからです。たとえ私たちが病気をしても、たとえ私たちが怪我をしても、たとえ私たちが財産を失っても、取り返しがつきます。
しかし、大罪を犯して聖寵の状態を失ってしまう、そして天国への道を閉ざしてしまうのならば、地獄に行ってしまうのであれば、永遠の命を失ってしまうのであれば、これほど不幸な事はありません。この世で私たちが起こりうる最悪のこととは、罪を犯すことです。これ以外の悪はあり得ません。なぜかというと、天主を失ってしまうからです。
では私たちは、このようにマリア様とかけ離れている私たちは、どのようにしたら良いのでしょうか?
その答えは、今日のミサにあります、二つあります。
一つは「集祷文」にあります。集祷文では、天主は全能である、全てがおできになる。全てがおできになるその全能は、どのように表されるかと言うと、最高度に表されるのは、「憐れむこと」によって、「赦すこと」によって、それが私たちに示される。天主は全能であることを示したいと思って、憐れみたい、赦したいと思っておられます。
では、このその「憐れみ」ということはどういうことなのでしょうか?
憐れみというのは、憐れな人を、その憐れな状態から救い出してあげて、そしてそのもはや憐れでないようにして、高めて下さる、これが憐れみです。憐れな人をその憐れなままに、汚ないままに、「さあ、そのままでいなさい」というのが憐れみではありません。それは残酷です。
天主は、私たちがどのような惨めな、もう手を付けられないような状態であっても、全能の力を以って、そこから救い出して高めて下さる、つまりマリア様のおられる天の国に上げて下さることができる、ということです。これこそが天主の全能です。「憐れみ」と「赦す」ことによって、最高度に示される憐れみです。
第二の回答は、今日の「福音」に表れます。それは、憐れみを受ける為にはどうしたら良いのか、という秘密です。天主は、全能、憐れむことによって示されますが、では私たちはどうやったら憐れみを受けることができるのでしょうか?
その秘密は、「謙遜」です。謙遜というのは、私たちが天主の与えられたその地位に留まり、それを超えることなく、それを感謝して受けることにあります。私たちが与えられた地位というのは、天国に行くべき地位でした。しかしこれは自分の力でというよりは、天主の憐れみによって行くべき所です。これを認めることにこそ、私たちの謙遜があります。私たちが認めるべきことは、私たちは罪を犯した罪人である、もう主に逆らってしまった身である、ということを素直に認めることです。
そこで今日の税吏は、どうやって主から憐れみを受けるべきか、ということを模範を示してくれました。その罪を認めて、主の御前に出ることさえも価値がないと自覚しつつ、目を天に上げることさえもせずに、うつむいたまま、「主よ、天主よ、罪人である私を憐れみ下さい。」たったそれだけでした。「罪人である私を、憐れみ下さい。」
この税吏はどれほど多くの罪を犯したことでしょうか。あるいは今までやるべきことをやってこなかったでしょうか。しかし、そのことを天主はきれいに忘れて、義とされて、その男は家に帰って行きました。
それに引き換え、良いことをやったはずの、きちんと守ってきたはずのファリザイ人は、それを自慢して、他の人を軽蔑したが為に、そのまま捨てられてしまいました。
ここに私たちの取るべき模範があります。今日私たちもミサに与りつつ、この税吏の言葉を一緒に、心の中で繰り返して主に祈ることに致しましょう。「主よ、罪人である私を憐れみ下さい。」マリア様にも、「罪人である私を憐れみ下さい。」私たちの心が謙れば謙るほど、砕かれれば砕かれるほど、自分に空っぽになればなるほど、ますます主は私たちを御自分の御恵みで満たして、そしてマリア様のような高い地位に引き上げて下さるに違いありません。
マリア様にお祈り致しましょう。そのマリア様の持っていたご謙遜を、私たちも真似ることができますように。では、明日の準備を良くすることに致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。