2022年8月11日黙想会
小野田神父による第一の講話
この聖なる黙想会を、聖霊に対してお祈りをする事によって始めることにいたします。私たちが七つの賜物で満たしていただけますようにこの一日がよい実りの多い日でありますようにお祈りいたしましょう。
特に聖霊の特別の道具であるマリア様にお祈りいたしましょう。マリア様のその現存によって私たちが聖霊の賜物と特別の導きをいただくことができますようにお祈りいたしましょう。Veni Creator Spiritusを歌いましょう。
今日黙想会が開かれて、天主様のみ旨に御摂理に感謝いたします。
今日イエズス様は私たちに特別なお恵みを与えようと準備されています。
今日は、二つの講話が準備されています。短い講話がありますので、その後で一階の御聖体の前に行かれて、この講話の内容を黙想なさってください。
黙想会というのは、いろいろな講話を聴いて「あぁ、そうかぁ」と思うだけではありません。講話を聴くということが黙想会で一番大切なものではありません。これを黙想することが大切です。
またこの黙想会でお話を聴いても、「あぁ確かにそうだ」と思われても、その後でお忘れになってしまったのでは何も残りませんので、もしもそれが「あっこれはよいものだ」と思われたらそのことを黙想なさってください。黙想すればするほど私たちの心に沁み通るからです。
黙想会のための準備のアドバイスがあります。まず簡単なアドバイスとしては、償いの精神を持ってください、ということです。というのはもしかしたらお部屋が暑いとかあんまり快適でないとか椅子がないとか不都合があるかもしれませんけれど、それは主から与えられたものとして償いの精神で捧げてください。
黙想会のためにいちばん大切なことがあります。これは黙想会の本質をなすものでそれは「天主の聖なる現存の前で私たちはこの黙想会を捧げる」ということです。
もう一つはこの黙想会がよい黙想会であることができるように助けることで、それは私たちが「寛大である」ということです。
第三は私たちがこの黙想会をよいものとするために絶対に必要な条件で、「沈黙」です。この三つについて少し詳しく説明させてください。
【天主の現存に身を置く】
いったいなぜ今日ははるばる曙町会館にやってきたのでしょうか。これは天主の御前に、天主の現存に、身を置くためです。
「天主と共にいる」ということは私たちの霊魂にとっては特別の利益があるからです。今日の黙想会は英語ではrecollection dayといいます。Recollectionというのは日本語ではときどき沈静(ちんせい)とか訳されています。月に一回修道者たちがこの日を設けて主の御前に身を置くという意味ですが、沈黙のうちにこころを統一させる、主に一致させる、という意味です。これはラテン語の「recolligere」という動詞から来ています。
この黙想会の指導者はドモルネ神父様でも私でもなくて、聖霊が指導してくださいます。そして聖霊は、マリア様を通して私たちを導いてくださいます。ですから私たちは“Veni Creator Spiritus”、“聖霊来り給え”、と創造主なる聖霊に“来たり給え”とお祈りしました。「天主と共にいる」「天主の現存のうちに生きる」ということです。特に今日はご聖体が顕示されているので、主の御前に身を置くのは簡単になると期待しています。
天主の現存に身を置くということはどういうことかというと、もしも天主様がいらっしゃったならと考えて、ほんとにイエズス様の御前であったら私はそういうことを決してしないであろうということをしない、もしもイエズス様がほんとにいらしたならば私はそうするだろうということを私たちの目にイエズス様が見えなくてもそうする、ということです。たとえば今いったい誰とお話しているのかとか誰と一緒にいるのかということを考えて、実は私たちは天主様の御稜威の御前にいるのですから、礼拝の心と尊敬の念をもってこの黙想の日を送ることに致しましょう。
天主というのはいったいどのような御方でしょうか。たった一つの御言葉(みことば)で、お考えで、全宇宙を無から創造された御方です。何千もの美しい莫大な銀河・果てしもない大宇宙・私たちが今生きているこの地上の何千何億という人々、そのような人々を、御言葉一つで「あれかし」と創造されました。天使たちもみ旨のままに創造されました。そのような全能の全知の永遠の天主の計りしれない美しい全宇宙を創られた天主が私たちの御前におられて、私たちの父として、友として、私たちのすぐそばにおられるということです。なんという美しいことでしょうか。そのような天主の御前に出て、聖なる畏敬・尊敬に満ちた畏れに満たされて、天使たちも震えて畏れおののくその主の御前に出て、礼拝することができるという特権を感謝いたしましょう。その主の御前に呼ばれたということについて感謝し信頼をもって愛情をこめて近づきましょう。そして話しかけましょう。
【寛大である】
第二の黙想会の成功の秘訣は私たちが「寛大である」ということです。「寛大である」ということは、主の御前に全てを捧げるということです。つまり私たちは黙想会に50%でなくて100%の心をもって、全てを主のためにお捧げして、黙想会に与るということです。お祈りをする時にはお祈りをして、講話を聴く時は講話を聴いて、そしてロザリオをする時にはロザリオをして、携帯電話は今日は黙想会が終わるまで見ないとか、「あれーメッセージが、、、」などということは気にしない、ということです。悪魔は、私たちの黙想会が上手くできないように妨害を掛けてくるかもしれません。あたかも黙想会以外のことが大事であるかのようなことを、誘惑するかもしれません。その時には私たちは悪魔に「退け!」と言って、イエズス様のために時間を使いましょう。私たちがいましていることを100%することに致しましょう。
【沈黙】
第三の条件は沈黙です。天主は沈黙の天主であって、叫んだり騒いだりせずに沈黙のうちに私たちのうちに働きかけて、そして囁いてくださいます。全て天主は沈黙のうちに事(こと)を行いました。無から全宇宙を創造されたときも、沈黙のうちに創られました。イエズス様が人となられたときも、マリア様のご胎内に沈黙のうちに人となられました。真夜中にイエズス様がお生まれになられた時も、ベトレヘムでは沈黙のうちにお生まれになられました。静けき真夜中に…。三十年間の私生活もほぼ沈黙のうちに行われました。三年間の公生活も、沈黙の祈りにおいて満たされていました。復活も、沈黙のうちに行われました。
この世の終わりまでイエズス様は、御聖櫃において沈黙においてまことにましまし給いながら私達に語りかけます。沈黙を愛しつつ働きかけます。ですからこの世の騒ぎや喧騒から離れて、心を静かに沈黙させて、天主の方に心を向けるようにする、これこそが今日の沈黙です。今までずーっと開かれていた、世界に向かって開かれていたドア……耳や目やその他の感覚を閉じて、イエズス様の方に向けるということです。主と共にいらっしゃるということを思いだしましょう。
もしかしたら携帯やメッセージのほかにもいろんな空想やいろんな心配事や仕事のことやあるいは家族のことや・・などなど・・が雑念として入ってくるかもしれません。「社会はどうなっていくのだろうか」とか・・。しかし黙想会と関係ないことは今日はお休みにして、イエズス様とマリア様と聖なる黙想に集中いたしましょう。全てイエズス様とマリア様とに信頼なさってください。心配事があってもイエズス様とマリア様がそれをちゃんと私達よりもよく面倒を見てくださいます。きっとイエズス様はこうおっしゃるに違いありません。「さあ息子よ、娘よ、この黙想の一日のあいだあなたの考えを全て・あなたを全て、私にください。あなたの家族のこと、お仕事のこと、全て私に任せなさい。私のことだけを考えてください。あなたの心配事について全て解決してあげます。」
【岩の上に家を建てた賢い人】
では今日は、この最初の講話で、深く黙想のなかに入りましょう。
今日の最初のテーマはイエズス様の山上の垂訓の終わりの「岩の上に家を建てた賢い人」という言葉です。
マテオの福音にはイエズス様が山に登って「心の貧しい人は幸せである・・・」と話された「至福八端」「山上の垂訓」というものが記録されてあり、その最後の方です。
『これらの言葉をきいてそれを実行する人は岩の上に家を建てた賢い人にたとえてよい。雨が降り、流れができ、風が吹いて打ち当たるがその家はたおれない。岩の上に土台をおいているからである。また、私がいまいった話を聞いて実行しない人は、砂の上に家を建てた愚かな人にたとえてよい。雨が降り、流れができ、風が吹いて打ち当たったので、その家はたおれて、大いに破壊されてしまった。』(マテオ7章24~27節)イエズス様のお言葉です。
イエズス様は賢い人は岩の上に土台を置いているからどんなことがあってもその家は倒れないとおっしゃいます。家を建てる時には土台をしっかりと作ります。しっかりしていればどんな高いビルでも建てることができます。スカイツリーもいま建っています。家があっても、家を建てたのちにはその基礎工事・土台っていうのはもう目に見えません。下に深く沈んでいるからです。私たちの霊的な「聖性」私たちが「聖となるということ」を霊的な建物と例えることができます。イエズス様もおっしゃっているとおりです。この霊的な建物はしっかりとした土台の上に建てられなければなりません。
【私たちの土台】
では一体どんな土台なのでしょうか。私たちの霊的な生活の基礎工事というのは何でしょうか。私たちの基礎というのは、生活を導く原理であってそれがその土台です。生活の原理というのは、それに従って行動するその基準なのです。
私達が普通一般に何を基準にしているかというと、たとえばこのようなことです。「きょうはお昼を作るから台所に行く」ということを考えてみます。すると、ちゃんと原理があります。まず台所に行く、台所というのはいったい何かということがわかっています。料理をするところです。どこから行くのかということもわかっています。私の部屋から台所に行くのです。何のためにいくのか。料理を、お昼を作るから。ではどうやって行くのか。歩いて行くのです。そういうふうに私たちも行動を起こす時に、いったい何をするのか、どこへ行くのかということがまずわかっています。第二にどこからどう行くのか。わかっています。第三には何のためにするのか。第四にはどういう手段で行くのか。たとえば結婚する。結婚とは何か。わかっています。などなど。
では私たちが人生をどのように行動づけるか、どこにどういうふうな原理をもって生きるか、ということについては、正しい原理を持たなければなりません。正しい生活規定を持たなければなりません。そのためにはいったい人生とは何なのか。いったいどこからどこに行くのか。いったい何のためなのか。いったいどんな手段で行くのか。ということをよく考えなければなりません。
いったい人生とは何なのでしょうか。何のためにあるのでしょうか。いったいどこから来て私たちはここにきてここにいるのでしょうか。どんな手段で。
カトリックの公教要理はこれを綺麗にまとめています。
『人は何のために、この世に生まれてきましたか。』
『人がこの世に生まれて来たのは、天主を知り、天主を愛し、天主に仕えて、遂に天国の幸福を得るためであります。』
これについてよく考えると、人がこの世に生まれてきたというのは天主から来たというのがわかります。そしてこの人生の目的は天国の幸福を得るためであるということがわかります。その手段は、天主を知って、天主を愛して、天主に仕えること、と、このように公教要理では教えています。
それとまったくおなじようなことをつい最近祝日を祝った聖イグナチオも言っています。「人間は、天主によって創造された。それは、主なる天主を讃美し敬い仕えるためである。それによって自分の霊魂を救うためである。」
私達は天主から来ました。天主によって創造されました。これが非常に大切な真理です。創造されたことを私たちはもちろん知っています。『われは、天地の創造主、全能の父なる天主を信じ…』を何度も唱えます。
でも創造された、創られたということはどういうことでしょう。これは私達が自分の力で存在し始めたのではなくて、誰かから今あらしめられている、存在させてもらっているということです。存在をもらっているということです。今私はこの各瞬間いま創造主に依存しているということです。私を創ってくださっている方に全く依存している。自分が起源ではない、根源ではない。私たちは天主のおかげで今ここにいさせてもらっている。天主があらしめてくださっているということです。
聖パウロはこういっています。「人間よ、お前が持っているもので与えられなかったものがあるであろうか。」私達がこうやってこのように考えることじたい、こうやって私たちがいま息を吸っていることさえ、私達が今この私がお話ししているのを皆さんがお聞きになっているのも、全て主がそれをあらしめてくださっているからなのです。
もしも犬がこの私の話を聞いたとしても理解できません。しかし皆さんは理解できる。皆さんにはその能力が天主から与えられているからです。皆さんの霊魂には天主から与えられた非常に高貴な能力があります。真理を理解するということ、善を愛する、永遠の天主を知り愛することができるという、普通の動植物にはできないという能力が皆さんに私にも与えられています。まさに天主はこのような私たちを創ってくださいました。そしていまあらしめてくださっています。もしも主がいま「やーめた!」といえば私たちはあっという間に無に帰してしまうこともできる弱々しい存在です。
このような真理に対する正しい態度というのはどのようなことでしょうか。真理をどのように把握したらよいでしょうか。これを素直に認めるということです。つまり天主の御前で私達はまったく無に等しい、私達は全てを天主から受けた、天主という恩を与えてくださる御方から、恩人…人と付けるということはできないから…恩をくださる御方から、与えてくださる御方から受けた。つまりちょうど私たちは、お母さんから全てを受ける赤ちゃんのようにまったく主に依存している、ということを認めるということです。私達が今ここにあること、将来、永遠の未来まで、全て主に依存しているということです。全て今まで生きている間私たちの生涯の全ては天主様のお恵みでした。
全てを主から頂いて、そしていまこうしてあることができて、そしてもしもいま私たちになにか価値があることがあるとしたらそれは全て、主から、三位一体の全能の天主から寛大に与えられたものです。これこそが私達が創造されたということです。これこそが『われは、天主の創造主、全能の父なる天主を信じ…』と言う時に私たちがいつも思わなければならないことです。この土台のうえにイエズス様は家を建てようとおっしゃっています。天主こそが私たちの人生の主人であって、私は天主に依存している、天主に属している、ということです。私が全てを支配しているのではない、ということです。
では天主に依存しているということは、どのように認めたらいいのでしょうか。それを認めることは、礼拝と言います。礼拝というのは主から全て与えられたということで、それを認めて感謝する、その事実を認めて創造主にのみ与えるべきものを与えることです。それが礼拝です。
この世の人々は、残念ながら天主というものを全く無視して行動しています。あるいはもしも天主がいると思ったとしても、遙かに彼方にいることであってまったく私には関係ないかのように行動しています。そして世の人々は天主とはまったく関係のない法律を作ろうとしています。しかし、ちょうどもしもそのような態度をとるとしたら、誰かが私に、「神父様、神父様は東京にお御堂が必要でしょう。東京の一番集まりやすいところに大きな土地を買ってください。修道院を建ててください。大きなお御堂を建ててください。ここに10億円あります。これを使ってください。」と言ったとします。それで私がそれをしゃあしゃあといただいておきながら、そのあと、「これはね、じぶんのもので、これをくれた恩人とは関係ない」という態度をとったら、「いったい、おい、いったいなんだ、小野田神父は。今度は本当はもうあと50億円やろうと思っていたけれど、これはもうあげない。」となってしまいます。
天主も私たちにお金では測りきれないものすごいお恵み、聖寵、健康の宝を、お恵みの宝を、超自然の宝をお与えくださっていることを知りながら、それなのに私たちがあたかも天主が存在していないかのように、「オレ知らないよ」というのはまさに忘恩冒瀆の限りです。
他の人たちがどのようであろうとも、私達は霊的な土台の上に真理の上に家を建てなければなりません。わたしたちは天主から毎瞬毎瞬愛されています。毎秒毎秒すべてのものを与えられています。これが、人間が「私たちが天主から創造されている」という意味です。そしてこの天主から創造されたというのは、私たちが天主を讃美して敬い仕えるためであり、そのためにそれらが与えられました。
お祈りの時間が短くなってしまうのであまりもう長く話しませんが、最後にこのことをひとつ言います。
私たちは天主から来ました、天主によってこの人生が与えられました。いったい何のために?究極の目的とはいったい何なのでしょうか?何のために私たちはこの地上にいるのでしょうか?それは私たちが永遠の幸せを得るためです。
この私たちの存在は時のある時に私たちのお母さんの胎内から始まりましたが、終わることがありません。最初の部分は非常に短くて、後の部分は永遠に続きます。終わりがありません。この最初の非常に短い部分、もしかしたら100年とか120年とか もしかしたら医学が進めば150年とかするかもしれません。しかしどんなに長くても、あっという間です。そののちには「時の世界」から「永遠の世界」へと移らなければなりません。この「永遠の世界」のためにこそ、今のこの「時の短い時間」が与えられています。この短い人生のこの短い地上での目的はたったひとつしかありません。永遠のための準備です。永遠という天主の生命(いのち)のなかに入るための巡礼です。もしもイエズス様が人間となって十字架の苦しみを受けて私たちのために全ての血潮を流されて復活されたとしたら、それはこの無限の生命(いのち)の幸せを与えるためでした。これが天国と呼ばれているものあるいは永遠の冠と呼ばれているものです。
もしもマリア様が今日皆さんの手を取って「天国の門まで連れていこう」とされたら、と想像してください。永遠の昔から準備されていた無限の幸せを皆に見せたい、垣間(かいま)見せたいと思って、「さあここにドアがあります、さあここを開けて、天主が準備されたものを見るように」とマリア様がドアを開いてくださった。すると私たちがそれを見ると、人間が考え尽くすことができる全ての幸せを全部集めてもっとも美しいものがあるとすればそれを全部集めてそして世界の富を全部集めてさらにそれよりもさらに大きな喜びと美しさと富と全て集めて、「さあこれがみんなあなたのひとりのものですよ」と言われたと考えてみてください。そして世界中の全てのよい母親や父親や皆さんが持っている愛情を子供たちに持っている愛情を全て集めて皆さんのためだけにささげて、そして世界の全ての美しい友情を集めて夫と妻の愛を集めてさらに聖人たちの全ての愛を集めて皆さんに与えて、「これはあなたのものだ、皆さんのものだ」と言われたと考えてみてください。全ての最高の瞬間の人間が体験したあらゆる最高の喜びを集めてさらにこれにボーナスをつけて与えられた、と。もしもそのようなものが与えられたとしたら、私達は「はぁー、これほどの幸せ!これほどの喜び!」とイエズス様に感謝しなければならない。跪いて、もう涙を流してボロボロ涙を流して感謝するじゃないでしょうか。
ところでマリア様は言います。「いやまだこれは天国ではありません。まだまだ入り口です。」実はそれはまだ入り口で、その奥にまだ本当の天国の入り口がある。その今まで受けたのと比べると、その第二の入り口を見ると、もうこのいままでの受けたものは全くトイレの紙きれが「あっ、フラッシュされて流れた!」というほどのなんでもないものにみえる。それを遙かに超えるものが待っている。その喜びが待っている。天使たちの全ての美しさを集めてもまだ遙かにこの地上の美しさを集めてもまだ遙かに超えたこの全くもう想像も比べられないような美しさが待っている、喜びが待っている。何十倍何百万倍もの美しさが待っている。「はぁマリア様、これほどのものが一体どうして?なぜ私が?」・・・でもマリアさまはまだ言います。「これはまだ天国ではありません。その奥にもまだ扉があるのです。」
本当の扉というのは、天主が、無限の善である天主が私達に全て与えられるということです。この最高の幸せと比べると、私たちが想像できるどのような幸せも全く大海の一滴の水にもなりません。主は「私自身がおまえの報いとなろう」と言われたのです。また、聖パウロのものには「天主を愛する者には、目も見たことがなければ耳も聴いたことがなく心でも思いついたものがないことが準備されている」と書かれてあります。天主は私たちのためにこれを準備して、私たちを無から創造されました。もしもこのとてつもないお恵みということを本当に理解したとしたら、感謝のあまり、感激のあまり、うれしさのあまり、私たちは窒息して息を絶えてそのまま命を取られてしまうかもしれません。
公教会の公教要理にはこうあります。
『人がこの世に生まれて来たのは、天主を知り、天主を愛し、天主に仕えて、遂に天国の幸福を得るためであります。』これこそが私たちの土台です。
では時間になりましたので、一階に行って黙想いたしましょう。