アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様が先日の主日にミサののちにしてくださった祈りについての講話をご紹介いたします。アヴィラの聖テレジア著「完徳の道」による、主祷文(天にまします)の解説です。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2015年11月15日―大阪 勉強用説教
親愛なる兄弟の皆さん、
前回に引き続き、祈りについてお話ししようと思いますが、今回は仏教徒の黙想と比較するのではなく、良き祈りができるようアヴィラの聖テレジアの教えをいくつかご紹介しようと思います。カトリックの祈りは、何も考えない「涅槃」を追い求めることではなく、天主によって霊魂を満たすことであることを、たいへんよく分かっていただけるでしょう。
あらゆる祈りの模範となるものは、私たちの主イエズス・キリストが教えてくださった祈り、「天にまします」です。アヴィラの聖テレジアは、その美しい著作「完徳の道」の中で、この祈りについて驚くべき解説を書いています。この祈りは「われらの父よ」で始まりますが、実際、私たちは祈りを始めるに当たって、いつも話しかける相手のことを考えるべきです。相手が子どもの場合と王の場合、同じように話しかける人はいません。王に話すとき、日本語では特別な形式と言葉があるでしょう。さて、祈りにおいては、人間の王や皇帝に対して話すのではなく、王の中の王にして全宇宙の最高の皇帝であり、すべてのものが従うお方、全宇宙の最大の銀河から最小の素粒子に至るすべての物質的なものが従うお方、また最高位の天使に至るまですべての天使の軍団を含めたすべての霊的なものが従うお方に対して話すのです。私たちはどれほど大きな敬意、崇拝をもって天主ご自身に話しかけないことがあるでしょうか?! しかし、まさに天主の御子ご自身が、「われらの父よ」と天主に話しかけるよう教えてくださいました! 天主の超越性は「天にまします」という言葉で表現されます。でも、まことの天主について、フリーメーソンや異教の哲学者たちの考え、すなわち人類から遠く離れ私たちのことを気にかけることがない、という考えは正しくありません。まことの天主は私たちのことを気にかけてくださる天主であり、私たち一人一人を個人的に知り、私たち一人一人を気にかけてくださる最高の父親なのです! ああ、天主の愛の素晴らしさよ! ああ、私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって「天主の子」(ヨハネ1章12節)となったキリスト教徒の尊厳よ!
「天主は御独り子を与え給うほどこの世を愛された」(ヨハネ3章16節)。しかし、実は「天主の御子は私たちの父となるよう御父を与え給うた」と言うこともできるのです! 私たちは「御子において」天主の子、 つまり、私たちが私たちの主イエズス・キリストの生きた肢体であることによって、 天主の子なのです。父なる天主は、私たちのうちに御子の似姿をご覧になるとき、御父が御子、私たちの主イエズス・キリストを愛するまさにその愛で私たちを愛してくださいます。実際、聖パウロは、天主の御旨は私たちを「御子の姿にかたどらせよう」とされ、「それは御子を多くの兄弟の長子とするためである」(ローマ8章29節)と言います。この変容は祈りの実りの一つです。「私たちはみな覆いを顔に垂れず、鏡に映すように主の光栄を映し、霊なる主によってますます光栄を増すその同じ姿に変わる」(コリント後3章18節)。「多くの兄弟」がいるにもかかわらず、「一人の子」がいるのは、多くの兄弟すべてが共に一つとなって、キリストの神秘体、唯一のまことの教会、カトリック教会になっているからなのです。これが、「われらの父よ」の中の「われら」の意味なのです。私たちは一人ではなく、各人がそれぞれ自分のために自己中心な祈りをするのではありません。そうではなく、教会が必要とすることすべて、教会の今の生きた肢体である人々だけでなく、将来教会に入る人々や、救われるために教会に入るべき人々、すなわち全人類が必要とすることすべてのためを思って祈るのです。
父親は子どもたちを気にかけ、子どもたちを養いますが、父親は子どもたちの教育もし、子どもたちが道を踏み外すときには懲らしめます。これについて、聖パウロがヘブライ人へ書き送っています。「あなたたちが試練を受けるのは懲らしめのためであって、天主はあなたたちを子のように扱われる。父から懲らしめられない子があろうか。誰にも与えられる懲らしめを受けなかったなら、あなたたちは私生児であって、真実の子ではない。また、私たちを懲らしめる肉体の父親を敬っているのなら、霊の父であれば命を受けるためになおさら服従せねばならぬ。肉体の父はしばらくの間思いのままに私たちを懲らしめたが、霊の父は私たちの利益のためにご自分の聖性にあずからせようとされる。どんな懲らしめでも、受ける時には喜びではなく悲しみのもとのように見えるが、後にはそれによって練られた者に平和の実すなわち正義をもたらす」(ヘブライ12章7節)。現代の世界は、私たちを懲らしめてくれる父親としての天主をもはや望んでいません。ですから、そのように懲らしめを拒否することによって、人々は非常に反抗的な子どもになっているのです。これは大変危険なことです。それは、聖パウロが同じ手紙で「生きる天主の御手に落ちるのは恐ろしいことである」(ヘブライ10章31節)と言っているからです。彼らの回心を得るにはどうすべきでしょうか? 私たちの主イエズス・キリストは何をなさったでしょうか? 主はご自身を霊魂の救いのためにいけにえとして捧げられました。私たちも、彼らが最後に自分の悪しき道を変更することを受け入れて、真の子どもとして「懲らしめを受けるために」最高の父親のもとに戻るという、まことのあわれみが与えられるように、主と共に自分を捧げるべきです。
「願わくは御名の尊まれんことを! 御国の来らんことを!」。天主の御名は聖です。ですから、私たちは御名が聖であるように願うのではなく、御名が聖であることが人々に認められるように、天主の完璧な能力が、私たちとすべての人に知られるようにと願うのです。さて、天主の完璧な能力を完全に知るのは、天国に行ったときになるでしょう。ここ地上においては、「私たちは体のある間は、主を離れて生きている」(コリント後5章6節)のですから、私たちはまだ、いずれ光を見るための光を持っていません。聖書にはこう書かれています。「実に、あなたには命の泉があり、その光において、われらは光を見る」(詩篇35章10節)。天主の御名が聖であることは天国において完全に認められるので、次の祈願で私たちは心を挙げて天国を求めるのです。ですから、「天にまします」の最初の二つの祈願の中で、私たちの主イエズス・キリストが教えられるのは、私たちの望みに順番をつけること、そして主が私たちを創られた所以、私たちの命の目的つまり、天国で永遠に天主の讃美を歌うことをまず望むことなのです。「だから、まず天主の国とその正義を求めよ。そうすれば、それらのものも加えて与えられる」(マテオ6章33節)。「御名の尊まれんことを」は、天主の光が天国で私たちの知性を完璧に照らすとき、完全に成就するでしょう。「御国の来らんことを」は、天主の愛の火が天国で私たちの意志をすべて支配するとき、完全に成就します。「天にまします」を教えられることによって、私たちの主イエズス・キリストはこのことを常にもっと熱望するように教えられるのです。「主を求める者の心を喜ばせ、主とそのみ力とを探し求め、常にみ顔をたずねよ」(詩篇104章3、4節)。「主よ、私はみ顔を探し求める」(詩篇26章8節)。
また、これら二つの祈願によって、私たちは自分が真の「地の塩」、「世の光」として生きるよう願います。それについて、主はこう言われます。「このようにあなたたちも人の前で光を輝かせよ。そうすれば、人はそのよい行いを見て天にまします父をあがめるであろう」(マテオ5章16節)。「私たちが召されたお召しにかなう」(エフェゾ4章1節)生き方を誠実に行うことによって、「キリストと天主の国」(エフェゾ5章5節)が広がっていくように、私たちは願うのです。
「御旨の天に行わるるごとく地にも行われんことを」。ここに再び出てくる「天に」とは何を意味しているのでしょうか? 天主はどこにでもおられます。「私は天と地を満たすものではないか―主のお告げ」(エレミア23章24節)。天主がどこにでもおられるのなら、なぜ主は「天にまします」と唱えるように教えられるのでしょうか? 「天主は霊であるから、礼拝者も霊と真理をもって礼拝せねばならぬ」(ヨハネ4章24節)。この「天」という言葉を、まるで天主がこの地球上ではない星の世界のどこかにおられるというように、物質的な意味で理解してはなりません! 「天」という言葉は、天主の「超越性」、すなわち至聖なる三位一体のあらゆる被造物を超えた至高の優越性を表すものとして、霊的な意味で理解しなければなりません。われらの父は「天に」おられ、つまり、御父はすべての被造物を無限に超えて完全ですから、そのように認められるべきであり、私たちの心と意志、すべての行いを支配する完全な権利を持っておられます。「天の国」とは、夢で見るように私たちの体が他の惑星や他の星などに行くことではなく、むしろ地上のあらゆる喜びを超えて至福直観の喜びが無限にまさっていること表しているのです。この「天の」喜びを祈りと黙想で前もって味わえば、霊魂は地上のことを味わいたい気持ちをまったくなくしてしまうのです。幼きイエズスの聖テレジアは、子どものときすでに、そんな慰めを味わっていたため、地上のことを味わいたい気持ちを天主が取り去ってくださるようにと祈っていました。また、アヴィラの聖テレジアは、真実の回心ののちに天主は多くの霊魂に似たような慰めを与えられるが、彼らは再び地上のことに心を向けてしまうため、霊的生活においてほとんど進歩しない、と教えています。これが、例えば船が難破するほど悪くないとしても、霊的な停滞が非常に多くある原因です。地上のものへの愛着が原因なのです! さらに、聖ヨハネが力強く警告します。「世と世にあるものを愛するな。世を愛するなら御父の愛はその人の中にはない」(ヨハネ第一2章15節)。恐るべきことです。御父の愛がその人の中にないとは! その人は霊的に死んでおり、これは肉体の死よりもずっと悪いことなのです。ですから兄弟の皆さん、私は皆さんに「世と世にあるものを愛するな」とお願いするのです。
私たちが「御旨の天に行わるるがごとく地にも行われんことを」と願うとき、私たちが願っているのは、非常に重要で、行動を伴わねばならないことなのです。私たちは、私たちが何もすることがないかのように、ただ単に天主の御旨が行われるように願うのではなく、天主の御旨が私たちのうちに、私たちによって行われるようにと願うのです。これはもっと「行動を伴わねばならないこと」です。私たちがそれに関与し、大きな役割を果たすのです。第一に、このような祈願は、罪とは絶対に相いれません。人はこれらの言葉を発する一方で、同時に天主の十戒に従うのを拒否するならば、本当にうそをついていることになります。天主は十戒に従うことをもう要求されることはないと言うならばそれはさらに悪いことで、それは天主ご自身がうそつきであると言い張っていることになります。これは冒涜です! 実際、私たちの主イエズス・キリストは、非常に明確におっしゃいます。「私に向かって『主よ、主よ』と言う人がみな天の国に入るのではない、天にまします父の御旨を果たした人が入る。その日多くの人が私に向かって『主よ、主よ、私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪魔をおい出し、あなたの名によって不思議を行ったではありませんか』と言うだろう。そのとき私ははっきりと言おう、『私はいまだかつてあなたたちを知ったことがない、悪を行う者よ、私を離れ去れ』」(マテオ7章21-23節)。天主の十戒は守ることが不可能ではありません。私たちは、十戒を守る恩寵を与えてくださるよう常に祈ることができます。私たちの主イエズス・キリストの恩寵は、十戒を守る力を私たちに与えてくれます。これが、私たちが「天にまします」のこの祈願で願うことなのです。私たちは十戒に従う恩寵を願い求めます。従うことによって、私たちが報いに到達し、「天にまします父の御旨を果たす」人々に約束された天の国に入ることができるようになるためです。
しかし、私たちはさらに願うのです。実際、皆さんは聖書のほかのところに、似たような言葉があるのを思い出しませんか? 私たちの主イエズス・キリストはここで「FIAT voluntas tua―御旨の行われんことを…」と祈るよう教えられます。私たちは聖母が「FIAT mihi secundum verbum tuum―仰せのごとくわれになれかし」と言われたのと、主ご自身がオリーブの園で「FIAT―私の思いではなく御旨のままに」と言われたのを思い出します。聖母のすべての聖性は一つの言葉「FIAT―天主に『はい』」にあるのです。聖母の全生涯は、全体にわたって完全に、絶対的に「天主に『はい』」なのです。ご托身から十字架の下に至る道のすべてが「はい」であるという、これ以上ない驚くべき従順、謙遜、愛なのです! 罪は天主に対する「いいえ」であり、聖性は天主に対する「はい」です。私たちの主イエズス・キリストは、ご受難において、天主に対する完全な「はい」によって、天主に対する「いいえ」から人類を贖われます。「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた」(フィリッピ2章8節)。
時折、私たちは天主にこのように完全な「はい」を言うことを恐れがちです。私たちは、天主が私たちに多すぎることを要求なさるのではないかと恐れるのです。しかしそう思うのは、天主こそが私たちを強め、天主の十戒を守らせてくださるお方であることを忘れているからです。私たちを強めるために「あふれるばかりの恩寵」(ローマ5章20節)をくださることなくして、天主が私たちに十字架を負わせることは決してありません。絶対にありません。「私を強め給うお方において私にはすべてができる」(フィリッピ4章13節)のです。また、あふれるばかりの報いもあります。「私はどんな試練の中にあっても喜びにあふれている」(コリント後7章4節)。「今の時の苦しみは、私たちにおいて現れるであろう光栄とは比較にならないと思う」(ローマ8章18節)。ですから、「天にまします」を唱えるときはいつでも、その祈願に決して限界を置くのではなく、私たちが天の御父のご意志を完全に実現するための恩寵を 私たちに与えてくださるよう願いましょう。主と聖母を見習って、御父が送られる十字架ならどんなものであっても受け入れ、イエズスと一緒に自分自身をお捧げするようにするのです。そうすれば、「苦しみをともに受けることによって、キリストとともに光栄を受ける」(ローマ8章17節)のです。
「われらの日用の糧を今日われらに与え給え」。聖マテオ福音書では、実際には「日用(毎日)の糧」ではなく「いのちの(super-substantial)糧」となっています。これは明らかに、物質的なパンのことにしては非常におかしな言葉なので、そうではなく、「天から下った生きるパン」(ヨハネ6章51節)、つまりご聖体のことなのです。主は、「私の与えるパンは、世の命のために渡される私の肉である」(ヨハネ6章51節)と言われました。これは、本当に飢えているときに望むべき食べ物です。なぜなら、「私の肉を食べ私の血を飲む者は、永遠の命を有し、終わりの日にその人々を私は復活させる」(ヨハネ6章54節)からです。皆さんは毎日、霊的聖体拝領をすることができます! また、ご聖体を受けるのにふさわしい状態で聖伝のミサに行くことができるなら、そうしてください! 天主の御子が私たちにお与えになったもので、ご自身の「御体、御血、ご霊魂、ご神性」以上に素晴らしい賜物はありません。聖パウロは、「御子とともに他のすべてをくださらないはずがあろうか?」(ローマ8章32節)と言いました。天主は私たちに多くのものをお求めになることができます。それは、天主が私たちにそれよりずっと多くのものを与えてくださったからです! 天主は私たちに聖性をお求めになることができます。それは、天主が私たちをご自身に変容させるために、私たちにご自身を与えてくださったからです。
この最高の賜物とともに、御父はまた、毎日必要なそのほかのものもすべて、私たちの必要に応じて、準備してくださいます。私たちの働きが免除されているのではなく、私たちが植えて水をやると「天主が成長させる」(コリント前3章6節参照)のです。あるいは、「私たちは夜じゅう働いた」あと、天主が大量の魚を与えてくださるのです(ルカ5章5-6節参照)。でも、非常に大切なことは、私たちの求めるこれらの物質的なものが私たちの求める中心となるのではなく、私たちの求める中心となるのは、常に霊的で永遠に続くものであるべきだということです。「あなたたちはまず天主の国とその義を願え。そうすれば、それらのものも加えて与えられるだろう」(ルカ12章31節)。
「われらが人に赦すごとく、われらの罪を赦し給え」。私たちの主イエズス・キリストの特別な恩寵によって原罪とすべての罪から守られていた童貞聖マリアは別にして、私たちには皆、なんらかの罪があります。回心のあとでさえ、いくつかの小罪が残っています。聖書は言います。「正しい人は七たび倒れても立ち上がるが、悪人は災難の中に押し倒される」(格言[箴言]24章16節)。正しい人が倒れるのは小さなころび(小罪)であり、悪人が倒れるころび(大罪)とはまったく違います。でも、最も大切なことは、天主の赦しが必要だと認めることです。「主よ、あなたが罪に目をとめられたら、主よ、誰がそれに耐えられよう」(詩篇129章3節)。ですから、私たちが天主の赦しを受けたいと思うなら、隣人を赦さなければなりません。「天にまします」のすべての祈願のうち、主が強く主張なさった唯一の祈願はこれです。「あなたたちが他人の過失を赦すなら、天の父もあなたたちを赦される。だが他人を赦さなければ父もあなたたちの過失を赦してはくださらぬ」(マテオ6章14-15節)。私たちに対して罪を犯した人を赦すとき、赦しにおいてどのような愛が要求されるのかを私たちは学び、私たちを赦すため天主が私たちをいかに愛しておられるかを私たちは学び、「悪に勝たれるままにせず、善をもって悪に勝て」(ローマ12章21節参照)ということを私たちは学びます。ですから、天主の御摂理によって、天主は人々が私たちに対して罪を犯すのを妨害されませんが、これは私たちに隣人を赦す機会をお与えになるためなのです! そのように見るならば、私たちは天主の知恵についての見識を得ます。天主は悪から善を引き出し、「天主を愛する人々の善にすべてを役立たせ」(ローマ8章28節)るお方なのです。
「われらを試みに引き給わざれ」。「私たちが試みに遭わないようにしてください」と言った方がいいかもしれません。罪は、私たちが本当に恐れるべき唯一の悪です。そのため、私たちはこの一つの大きな悪、ほかのあらゆる悪の源(である罪)から守ってくださるよう天主にこい願うのです。天主に対して罪を犯すことを避けないならば、その人は本当に天主を愛しているのではありません。この祈りの中には、自分の弱さを知っている謙遜があります。私たちは自分の力では「何一つでき」(ヨハネ15章5節)ず、弱く、ただ罪を犯すだけです。「主よ、あわれみ給え、私は力なえている。主よ、治し給え」(詩篇6章3節)。私たちは強い確信をもって、聖パウロが言うように、それを願います。「あなたたちは人の力を超える試みには遭わなかった。天主は忠実であるから力以上の試みには遭わせ給わない。あなたたちが試みに耐えそれに打ち克つ方法をも、ともに備え給うであろう」(コリント前10章13節)。
「われらを悪より救い給え」。赦しによって罪自体から救われるよう、罪の機会(試み)から救われるよう願ったのち、ここで私たちは、罪の結果から救われるよう願うのです。この救いは天国で完成されるのですが、天主はここ地上ですでに、私たちが受けるはずの罰よりも少ない罰にしてくださっています。私たちが受ける罰は天主が軽くしてくださっており、私たちは本来際限なく大きな罰に、そして地獄に値するということを認め、天主に罪の赦しを感謝しつつ、天主からのその軽い罰を受け入れるのです。それでも、さらに御あわれみと罪による罰の赦しを求めることを禁じられているわけでもありません! 私たちは自分自身のために、また煉獄の霊魂のために、煉獄での苦痛の時間が短くかつ小さくなるよう願うのです。これらすべては、いとも聖なる三位一体を讃美することになるのです。
「主よ、私たちに祈りを教えてください!」(ルカ11章1節)。主は私たちに祈りを教えてくださいました。いつもよく祈れるよう、特にこの最も聖なる祈りである「天にまします」を祈れるよう、主が私たちに恩寵を与えてくださいますように! 聖母が祈る方法を教えてくださいますように! 聖ヨゼフが祈りを教えてくださいますように! ナザレトにおいては、主の家はもっとも確実に「祈りの家」(マテオ21章13節)でした。私たちの霊魂も「祈りの家」であるべきです。実際、聖パウロは言います。「あなたたちが天主の神殿であり、天主の霊はその中に住み給うことを知らないのか」(コリント前3章16節)。聖霊と離れることのない御父と御子もまた、私たちの内に住み給うのです。主ご自身が言われます。「私を愛する者は私の言葉を守る。また父もその者を愛される。そして私たちはその人のところへ行ってそこに住む」(ヨハネ14章23節)。私たちが聖霊の神殿であるならば、そして御父と御子が私たちの内におられるならば、私たちの霊魂はまことの「祈りの家」でなければならず、「天にまします」が私たちの祈りの模範でなければならないのです。アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様が先日の主日にミサののちにしてくださった祈りについての講話をご紹介いたします。アヴィラの聖テレジア著「完徳の道」による、主祷文(天にまします)の解説です。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2015年11月15日―大阪 勉強用説教
親愛なる兄弟の皆さん、
前回に引き続き、祈りについてお話ししようと思いますが、今回は仏教徒の黙想と比較するのではなく、良き祈りができるようアヴィラの聖テレジアの教えをいくつかご紹介しようと思います。カトリックの祈りは、何も考えない「涅槃」を追い求めることではなく、天主によって霊魂を満たすことであることを、たいへんよく分かっていただけるでしょう。
あらゆる祈りの模範となるものは、私たちの主イエズス・キリストが教えてくださった祈り、「天にまします」です。アヴィラの聖テレジアは、その美しい著作「完徳の道」の中で、この祈りについて驚くべき解説を書いています。この祈りは「われらの父よ」で始まりますが、実際、私たちは祈りを始めるに当たって、いつも話しかける相手のことを考えるべきです。相手が子どもの場合と王の場合、同じように話しかける人はいません。王に話すとき、日本語では特別な形式と言葉があるでしょう。さて、祈りにおいては、人間の王や皇帝に対して話すのではなく、王の中の王にして全宇宙の最高の皇帝であり、すべてのものが従うお方、全宇宙の最大の銀河から最小の素粒子に至るすべての物質的なものが従うお方、また最高位の天使に至るまですべての天使の軍団を含めたすべての霊的なものが従うお方に対して話すのです。私たちはどれほど大きな敬意、崇拝をもって天主ご自身に話しかけないことがあるでしょうか?! しかし、まさに天主の御子ご自身が、「われらの父よ」と天主に話しかけるよう教えてくださいました! 天主の超越性は「天にまします」という言葉で表現されます。でも、まことの天主について、フリーメーソンや異教の哲学者たちの考え、すなわち人類から遠く離れ私たちのことを気にかけることがない、という考えは正しくありません。まことの天主は私たちのことを気にかけてくださる天主であり、私たち一人一人を個人的に知り、私たち一人一人を気にかけてくださる最高の父親なのです! ああ、天主の愛の素晴らしさよ! ああ、私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって「天主の子」(ヨハネ1章12節)となったキリスト教徒の尊厳よ!
「天主は御独り子を与え給うほどこの世を愛された」(ヨハネ3章16節)。しかし、実は「天主の御子は私たちの父となるよう御父を与え給うた」と言うこともできるのです! 私たちは「御子において」天主の子、 つまり、私たちが私たちの主イエズス・キリストの生きた肢体であることによって、 天主の子なのです。父なる天主は、私たちのうちに御子の似姿をご覧になるとき、御父が御子、私たちの主イエズス・キリストを愛するまさにその愛で私たちを愛してくださいます。実際、聖パウロは、天主の御旨は私たちを「御子の姿にかたどらせよう」とされ、「それは御子を多くの兄弟の長子とするためである」(ローマ8章29節)と言います。この変容は祈りの実りの一つです。「私たちはみな覆いを顔に垂れず、鏡に映すように主の光栄を映し、霊なる主によってますます光栄を増すその同じ姿に変わる」(コリント後3章18節)。「多くの兄弟」がいるにもかかわらず、「一人の子」がいるのは、多くの兄弟すべてが共に一つとなって、キリストの神秘体、唯一のまことの教会、カトリック教会になっているからなのです。これが、「われらの父よ」の中の「われら」の意味なのです。私たちは一人ではなく、各人がそれぞれ自分のために自己中心な祈りをするのではありません。そうではなく、教会が必要とすることすべて、教会の今の生きた肢体である人々だけでなく、将来教会に入る人々や、救われるために教会に入るべき人々、すなわち全人類が必要とすることすべてのためを思って祈るのです。
父親は子どもたちを気にかけ、子どもたちを養いますが、父親は子どもたちの教育もし、子どもたちが道を踏み外すときには懲らしめます。これについて、聖パウロがヘブライ人へ書き送っています。「あなたたちが試練を受けるのは懲らしめのためであって、天主はあなたたちを子のように扱われる。父から懲らしめられない子があろうか。誰にも与えられる懲らしめを受けなかったなら、あなたたちは私生児であって、真実の子ではない。また、私たちを懲らしめる肉体の父親を敬っているのなら、霊の父であれば命を受けるためになおさら服従せねばならぬ。肉体の父はしばらくの間思いのままに私たちを懲らしめたが、霊の父は私たちの利益のためにご自分の聖性にあずからせようとされる。どんな懲らしめでも、受ける時には喜びではなく悲しみのもとのように見えるが、後にはそれによって練られた者に平和の実すなわち正義をもたらす」(ヘブライ12章7節)。現代の世界は、私たちを懲らしめてくれる父親としての天主をもはや望んでいません。ですから、そのように懲らしめを拒否することによって、人々は非常に反抗的な子どもになっているのです。これは大変危険なことです。それは、聖パウロが同じ手紙で「生きる天主の御手に落ちるのは恐ろしいことである」(ヘブライ10章31節)と言っているからです。彼らの回心を得るにはどうすべきでしょうか? 私たちの主イエズス・キリストは何をなさったでしょうか? 主はご自身を霊魂の救いのためにいけにえとして捧げられました。私たちも、彼らが最後に自分の悪しき道を変更することを受け入れて、真の子どもとして「懲らしめを受けるために」最高の父親のもとに戻るという、まことのあわれみが与えられるように、主と共に自分を捧げるべきです。
「願わくは御名の尊まれんことを! 御国の来らんことを!」。天主の御名は聖です。ですから、私たちは御名が聖であるように願うのではなく、御名が聖であることが人々に認められるように、天主の完璧な能力が、私たちとすべての人に知られるようにと願うのです。さて、天主の完璧な能力を完全に知るのは、天国に行ったときになるでしょう。ここ地上においては、「私たちは体のある間は、主を離れて生きている」(コリント後5章6節)のですから、私たちはまだ、いずれ光を見るための光を持っていません。聖書にはこう書かれています。「実に、あなたには命の泉があり、その光において、われらは光を見る」(詩篇35章10節)。天主の御名が聖であることは天国において完全に認められるので、次の祈願で私たちは心を挙げて天国を求めるのです。ですから、「天にまします」の最初の二つの祈願の中で、私たちの主イエズス・キリストが教えられるのは、私たちの望みに順番をつけること、そして主が私たちを創られた所以、私たちの命の目的つまり、天国で永遠に天主の讃美を歌うことをまず望むことなのです。「だから、まず天主の国とその正義を求めよ。そうすれば、それらのものも加えて与えられる」(マテオ6章33節)。「御名の尊まれんことを」は、天主の光が天国で私たちの知性を完璧に照らすとき、完全に成就するでしょう。「御国の来らんことを」は、天主の愛の火が天国で私たちの意志をすべて支配するとき、完全に成就します。「天にまします」を教えられることによって、私たちの主イエズス・キリストはこのことを常にもっと熱望するように教えられるのです。「主を求める者の心を喜ばせ、主とそのみ力とを探し求め、常にみ顔をたずねよ」(詩篇104章3、4節)。「主よ、私はみ顔を探し求める」(詩篇26章8節)。
また、これら二つの祈願によって、私たちは自分が真の「地の塩」、「世の光」として生きるよう願います。それについて、主はこう言われます。「このようにあなたたちも人の前で光を輝かせよ。そうすれば、人はそのよい行いを見て天にまします父をあがめるであろう」(マテオ5章16節)。「私たちが召されたお召しにかなう」(エフェゾ4章1節)生き方を誠実に行うことによって、「キリストと天主の国」(エフェゾ5章5節)が広がっていくように、私たちは願うのです。
「御旨の天に行わるるごとく地にも行われんことを」。ここに再び出てくる「天に」とは何を意味しているのでしょうか? 天主はどこにでもおられます。「私は天と地を満たすものではないか―主のお告げ」(エレミア23章24節)。天主がどこにでもおられるのなら、なぜ主は「天にまします」と唱えるように教えられるのでしょうか? 「天主は霊であるから、礼拝者も霊と真理をもって礼拝せねばならぬ」(ヨハネ4章24節)。この「天」という言葉を、まるで天主がこの地球上ではない星の世界のどこかにおられるというように、物質的な意味で理解してはなりません! 「天」という言葉は、天主の「超越性」、すなわち至聖なる三位一体のあらゆる被造物を超えた至高の優越性を表すものとして、霊的な意味で理解しなければなりません。われらの父は「天に」おられ、つまり、御父はすべての被造物を無限に超えて完全ですから、そのように認められるべきであり、私たちの心と意志、すべての行いを支配する完全な権利を持っておられます。「天の国」とは、夢で見るように私たちの体が他の惑星や他の星などに行くことではなく、むしろ地上のあらゆる喜びを超えて至福直観の喜びが無限にまさっていること表しているのです。この「天の」喜びを祈りと黙想で前もって味わえば、霊魂は地上のことを味わいたい気持ちをまったくなくしてしまうのです。幼きイエズスの聖テレジアは、子どものときすでに、そんな慰めを味わっていたため、地上のことを味わいたい気持ちを天主が取り去ってくださるようにと祈っていました。また、アヴィラの聖テレジアは、真実の回心ののちに天主は多くの霊魂に似たような慰めを与えられるが、彼らは再び地上のことに心を向けてしまうため、霊的生活においてほとんど進歩しない、と教えています。これが、例えば船が難破するほど悪くないとしても、霊的な停滞が非常に多くある原因です。地上のものへの愛着が原因なのです! さらに、聖ヨハネが力強く警告します。「世と世にあるものを愛するな。世を愛するなら御父の愛はその人の中にはない」(ヨハネ第一2章15節)。恐るべきことです。御父の愛がその人の中にないとは! その人は霊的に死んでおり、これは肉体の死よりもずっと悪いことなのです。ですから兄弟の皆さん、私は皆さんに「世と世にあるものを愛するな」とお願いするのです。
私たちが「御旨の天に行わるるがごとく地にも行われんことを」と願うとき、私たちが願っているのは、非常に重要で、行動を伴わねばならないことなのです。私たちは、私たちが何もすることがないかのように、ただ単に天主の御旨が行われるように願うのではなく、天主の御旨が私たちのうちに、私たちによって行われるようにと願うのです。これはもっと「行動を伴わねばならないこと」です。私たちがそれに関与し、大きな役割を果たすのです。第一に、このような祈願は、罪とは絶対に相いれません。人はこれらの言葉を発する一方で、同時に天主の十戒に従うのを拒否するならば、本当にうそをついていることになります。天主は十戒に従うことをもう要求されることはないと言うならばそれはさらに悪いことで、それは天主ご自身がうそつきであると言い張っていることになります。これは冒涜です! 実際、私たちの主イエズス・キリストは、非常に明確におっしゃいます。「私に向かって『主よ、主よ』と言う人がみな天の国に入るのではない、天にまします父の御旨を果たした人が入る。その日多くの人が私に向かって『主よ、主よ、私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪魔をおい出し、あなたの名によって不思議を行ったではありませんか』と言うだろう。そのとき私ははっきりと言おう、『私はいまだかつてあなたたちを知ったことがない、悪を行う者よ、私を離れ去れ』」(マテオ7章21-23節)。天主の十戒は守ることが不可能ではありません。私たちは、十戒を守る恩寵を与えてくださるよう常に祈ることができます。私たちの主イエズス・キリストの恩寵は、十戒を守る力を私たちに与えてくれます。これが、私たちが「天にまします」のこの祈願で願うことなのです。私たちは十戒に従う恩寵を願い求めます。従うことによって、私たちが報いに到達し、「天にまします父の御旨を果たす」人々に約束された天の国に入ることができるようになるためです。
しかし、私たちはさらに願うのです。実際、皆さんは聖書のほかのところに、似たような言葉があるのを思い出しませんか? 私たちの主イエズス・キリストはここで「FIAT voluntas tua―御旨の行われんことを…」と祈るよう教えられます。私たちは聖母が「FIAT mihi secundum verbum tuum―仰せのごとくわれになれかし」と言われたのと、主ご自身がオリーブの園で「FIAT―私の思いではなく御旨のままに」と言われたのを思い出します。聖母のすべての聖性は一つの言葉「FIAT―天主に『はい』」にあるのです。聖母の全生涯は、全体にわたって完全に、絶対的に「天主に『はい』」なのです。ご托身から十字架の下に至る道のすべてが「はい」であるという、これ以上ない驚くべき従順、謙遜、愛なのです! 罪は天主に対する「いいえ」であり、聖性は天主に対する「はい」です。私たちの主イエズス・キリストは、ご受難において、天主に対する完全な「はい」によって、天主に対する「いいえ」から人類を贖われます。「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた」(フィリッピ2章8節)。
時折、私たちは天主にこのように完全な「はい」を言うことを恐れがちです。私たちは、天主が私たちに多すぎることを要求なさるのではないかと恐れるのです。しかしそう思うのは、天主こそが私たちを強め、天主の十戒を守らせてくださるお方であることを忘れているからです。私たちを強めるために「あふれるばかりの恩寵」(ローマ5章20節)をくださることなくして、天主が私たちに十字架を負わせることは決してありません。絶対にありません。「私を強め給うお方において私にはすべてができる」(フィリッピ4章13節)のです。また、あふれるばかりの報いもあります。「私はどんな試練の中にあっても喜びにあふれている」(コリント後7章4節)。「今の時の苦しみは、私たちにおいて現れるであろう光栄とは比較にならないと思う」(ローマ8章18節)。ですから、「天にまします」を唱えるときはいつでも、その祈願に決して限界を置くのではなく、私たちが天の御父のご意志を完全に実現するための恩寵を 私たちに与えてくださるよう願いましょう。主と聖母を見習って、御父が送られる十字架ならどんなものであっても受け入れ、イエズスと一緒に自分自身をお捧げするようにするのです。そうすれば、「苦しみをともに受けることによって、キリストとともに光栄を受ける」(ローマ8章17節)のです。
「われらの日用の糧を今日われらに与え給え」。聖マテオ福音書では、実際には「日用(毎日)の糧」ではなく「いのちの(super-substantial)糧」となっています。これは明らかに、物質的なパンのことにしては非常におかしな言葉なので、そうではなく、「天から下った生きるパン」(ヨハネ6章51節)、つまりご聖体のことなのです。主は、「私の与えるパンは、世の命のために渡される私の肉である」(ヨハネ6章51節)と言われました。これは、本当に飢えているときに望むべき食べ物です。なぜなら、「私の肉を食べ私の血を飲む者は、永遠の命を有し、終わりの日にその人々を私は復活させる」(ヨハネ6章54節)からです。皆さんは毎日、霊的聖体拝領をすることができます! また、ご聖体を受けるのにふさわしい状態で聖伝のミサに行くことができるなら、そうしてください! 天主の御子が私たちにお与えになったもので、ご自身の「御体、御血、ご霊魂、ご神性」以上に素晴らしい賜物はありません。聖パウロは、「御子とともに他のすべてをくださらないはずがあろうか?」(ローマ8章32節)と言いました。天主は私たちに多くのものをお求めになることができます。それは、天主が私たちにそれよりずっと多くのものを与えてくださったからです! 天主は私たちに聖性をお求めになることができます。それは、天主が私たちをご自身に変容させるために、私たちにご自身を与えてくださったからです。
この最高の賜物とともに、御父はまた、毎日必要なそのほかのものもすべて、私たちの必要に応じて、準備してくださいます。私たちの働きが免除されているのではなく、私たちが植えて水をやると「天主が成長させる」(コリント前3章6節参照)のです。あるいは、「私たちは夜じゅう働いた」あと、天主が大量の魚を与えてくださるのです(ルカ5章5-6節参照)。でも、非常に大切なことは、私たちの求めるこれらの物質的なものが私たちの求める中心となるのではなく、私たちの求める中心となるのは、常に霊的で永遠に続くものであるべきだということです。「あなたたちはまず天主の国とその義を願え。そうすれば、それらのものも加えて与えられるだろう」(ルカ12章31節)。
「われらが人に赦すごとく、われらの罪を赦し給え」。私たちの主イエズス・キリストの特別な恩寵によって原罪とすべての罪から守られていた童貞聖マリアは別にして、私たちには皆、なんらかの罪があります。回心のあとでさえ、いくつかの小罪が残っています。聖書は言います。「正しい人は七たび倒れても立ち上がるが、悪人は災難の中に押し倒される」(格言[箴言]24章16節)。正しい人が倒れるのは小さなころび(小罪)であり、悪人が倒れるころび(大罪)とはまったく違います。でも、最も大切なことは、天主の赦しが必要だと認めることです。「主よ、あなたが罪に目をとめられたら、主よ、誰がそれに耐えられよう」(詩篇129章3節)。ですから、私たちが天主の赦しを受けたいと思うなら、隣人を赦さなければなりません。「天にまします」のすべての祈願のうち、主が強く主張なさった唯一の祈願はこれです。「あなたたちが他人の過失を赦すなら、天の父もあなたたちを赦される。だが他人を赦さなければ父もあなたたちの過失を赦してはくださらぬ」(マテオ6章14-15節)。私たちに対して罪を犯した人を赦すとき、赦しにおいてどのような愛が要求されるのかを私たちは学び、私たちを赦すため天主が私たちをいかに愛しておられるかを私たちは学び、「悪に勝たれるままにせず、善をもって悪に勝て」(ローマ12章21節参照)ということを私たちは学びます。ですから、天主の御摂理によって、天主は人々が私たちに対して罪を犯すのを妨害されませんが、これは私たちに隣人を赦す機会をお与えになるためなのです! そのように見るならば、私たちは天主の知恵についての見識を得ます。天主は悪から善を引き出し、「天主を愛する人々の善にすべてを役立たせ」(ローマ8章28節)るお方なのです。
「われらを試みに引き給わざれ」。「私たちが試みに遭わないようにしてください」と言った方がいいかもしれません。罪は、私たちが本当に恐れるべき唯一の悪です。そのため、私たちはこの一つの大きな悪、ほかのあらゆる悪の源(である罪)から守ってくださるよう天主にこい願うのです。天主に対して罪を犯すことを避けないならば、その人は本当に天主を愛しているのではありません。この祈りの中には、自分の弱さを知っている謙遜があります。私たちは自分の力では「何一つでき」(ヨハネ15章5節)ず、弱く、ただ罪を犯すだけです。「主よ、あわれみ給え、私は力なえている。主よ、治し給え」(詩篇6章3節)。私たちは強い確信をもって、聖パウロが言うように、それを願います。「あなたたちは人の力を超える試みには遭わなかった。天主は忠実であるから力以上の試みには遭わせ給わない。あなたたちが試みに耐えそれに打ち克つ方法をも、ともに備え給うであろう」(コリント前10章13節)。
「われらを悪より救い給え」。赦しによって罪自体から救われるよう、罪の機会(試み)から救われるよう願ったのち、ここで私たちは、罪の結果から救われるよう願うのです。この救いは天国で完成されるのですが、天主はここ地上ですでに、私たちが受けるはずの罰よりも少ない罰にしてくださっています。私たちが受ける罰は天主が軽くしてくださっており、私たちは本来際限なく大きな罰に、そして地獄に値するということを認め、天主に罪の赦しを感謝しつつ、天主からのその軽い罰を受け入れるのです。それでも、さらに御あわれみと罪による罰の赦しを求めることを禁じられているわけでもありません! 私たちは自分自身のために、また煉獄の霊魂のために、煉獄での苦痛の時間が短くかつ小さくなるよう願うのです。これらすべては、いとも聖なる三位一体を讃美することになるのです。
「主よ、私たちに祈りを教えてください!」(ルカ11章1節)。主は私たちに祈りを教えてくださいました。いつもよく祈れるよう、特にこの最も聖なる祈りである「天にまします」を祈れるよう、主が私たちに恩寵を与えてくださいますように! 聖母が祈る方法を教えてくださいますように! 聖ヨゼフが祈りを教えてくださいますように! ナザレトにおいては、主の家はもっとも確実に「祈りの家」(マテオ21章13節)でした。私たちの霊魂も「祈りの家」であるべきです。実際、聖パウロは言います。「あなたたちが天主の神殿であり、天主の霊はその中に住み給うことを知らないのか」(コリント前3章16節)。聖霊と離れることのない御父と御子もまた、私たちの内に住み給うのです。主ご自身が言われます。「私を愛する者は私の言葉を守る。また父もその者を愛される。そして私たちはその人のところへ行ってそこに住む」(ヨハネ14章23節)。私たちが聖霊の神殿であるならば、そして御父と御子が私たちの内におられるならば、私たちの霊魂はまことの「祈りの家」でなければならず、「天にまします」が私たちの祈りの模範でなければならないのです。アーメン。