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【参考資料】ヴィガノ大司教の発言の周辺にある問題点

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【参考資料】ヴィガノ大司教の発言の周辺にある問題点

2022年10月10日

Questions in the Margins of Archbishop Vigano’s Statements

【解説】ある読者がヴィガノ大司教の発言を読み、カトリック教会の現体制を非難しているが、同時にカトリック教会の一員であり続けていることについて、ヴィガノ大司教に疑問を投げかけた。この読者は、カトリック教会を人間的に見すぎていて、天主の創立した、天主の教会という側面を忘れているようである。あたかも普通の会社や団体であるかのように見ている。そこから疑問が生じた。カトリック教会のかしらは、イエズス・キリストであり、教皇を始めとする聖職位階はキリストの代理にすぎない。キリストの後継者ではない。ヴィガノ大司教は、後に彼の疑問に答えて、母なる教会を非難しているのではなく、母なる教会を裏切っている人々を非難している、と言うだろう。


ブログ:アルド・マリア・ヴァッリ

ファビオ・バティストン

ヴィガノ大司教が「カトリック・アイデンティティー会議」のためにマイケル・J・マットに公表したインタビュー記事を、私はブログ「Duc in altum」(沖に漕ぎ出せ)で読み終えたところです。

大司教の発言のトーンや内容について、ここでコメントするつもりはありません。大司教の断言は、第二バチカン公会議の実体と解釈の間に差異があることに関するいくつかの問題点に集中していますが、それでも大司教の発言は「教会」という大きな問題に対する私の見方といつも一致しています。

私が提案したいと思うのは、そのことではなく、ヴィガノ大司教とカトリック教会の現体制との関係を典型例とする、ペトロの舟が今日置かれている「状態」に関する、もっと全般的な考察です。ヴィガノ大司教は、カトリック教会の現体制と対立していますが、同時にその一員であり続けています。したがって、具体的な立場による利益を別にして考えれば、いくつかの問題点が心に浮かんできます。

聖にして母なる教会の高位者と、現職の教皇である(権威的、教理的、司牧的な)人物の間に、これほど大きな意見の相違があった場合、過去数世紀には何が起こったでしょうか? 一方では、母なる教会の川床の内に留まろうとする「反逆者」の意向、他方では、自らの特権を守るために組織権力が用いたであろう手段、これらのことからどのような結果が導き出されたでしょうか? 歴史はこの種の例を数多く与えてくれています(完全に教会内部に限定しており、政治の権力と教会の権力の衝突には触れません)。これらの衝突は、ほとんどの場合、破門、教会を去る人々、離教、断罪、そしてお互いが公に異端の非難を行うことになり、公然かつ深刻な矛盾を生じさせました。私が言いたいのは、こういったときにはすべて、論じる立場の善悪とは関係なく、教会は、強さ、活力、原則の擁護、そして誤謬への対応を示し、そこから常にさらに強く、さらに復元力が増してきたということです。

しかし、その代わりに、この数年間に何が起こっているのでしょうか? 「ヴィガノ事件」に限って言えば、私たちに分かるのは、一人の有力な高位聖職者が、言葉を濁すこともなく、外交的駆け引きを用いることもなく、現職の(reigning)教皇(この形容詞は、サンタマルタ館の現住人には特に歓迎されません)をサタンの使者として扱っていることです。新異教主義、背教、汎神論などは、教皇に追加された副次的な罪状です。

同じ大司教が、ベルゴリオの選出は、メーソンの世界支配勢力(例の「ディープ・ステート」)のお金の支払いを受けてなされたコンクラーベが裁可した、全く無効なものであると、自らの立場を裏付ける豊富な論拠をもって主張しています。このすべての主張は、いたるところにあるマスメディアの装置によって増幅されています。一方で、私たちは、これらの告発が重大であって繰り返されているということを完全に無視するかのような教皇の振る舞いに気づいて、呆然としています。2013年に【コンクラーベで】ブエノスアイレスの大司教に投票したすべての人々【枢機卿たち】の沈黙にも気づくなら、私たちは同じ悲しみを抱きます。

しかし、こういった態度は孤立した【大司教に限った】ものではありません。この点で、回勅【実際は使徒的書簡】「アモーリス・レティチア」(Amoris Laetitia)のさまざまな点について何人かの枢機卿が出した「ドゥビア」(dubia)に直面しながらも、教皇が耳の聞こえないかのように沈黙していることに、どうして言及せずにいられるでしょうか? 私は次のように問いかけます。これは、どのような教会なのでしょうか? 

教皇に対する非常に重大な告発を口にする人々が、自分たちが悪魔的だと考える組織の内部で自分たちの信仰を告白し続けることは絶対に論理的であり、私がほとんど正常だと言ってもよいと考えていることが、受け入れられるのでしょうか? また、教皇が枢機卿たちとともに、地上におけるキリストの代理人をこのように攻撃する者たちに対して、全く関心を示さないということが、受け入れられるのでしょうか? そして、はっきりさせておきたいのは、私がヴィガノ大司教に提案している、この教会の内部にとどまるかどうかという問題点は、私にとっても、ここ数年、自分がこのままでいるのがますます難しくなったと思っている教会の状況の中で生きることを不快に感じてきたすべての人々にとっても、非常に自分の身にかかわる問題だということです。

しかし、怪物のように感じられるのは、何よりも、最高位から始まる位階階級の沈黙です。それはあたかも家族の中で、母親が、不道徳や不誠実や無知で非難されるのを子どもたちが毎日見ているようなものですが、同時に、この女性がそのような悪事の前に反応しないばかりか、自分に対して言われていることに全く無関心であることを、子どもたちが呆れながら観察しているようなものです。子どもたちはどう感じるのでしょうか?

私は、これまで数々の問題点を問うてきたこと、またそれを自問してきたことに気づいています。その問題点とは、どう答えればいいのか私には分からないもの、また、この教会にとって、そして個人的な疑惑や優柔不断、恐れ、罪の真っただ中で、まだ教会の一部である私たちにとって、近い将来はどうなるのかについての不安感を日ごとに膨らませているものなのです。

紀元3世紀のカルタゴの司教、聖タシオ・チェチリオ・チプリアノは、教皇ステファノ二世への手紙の中で、後に教義となる有名な言葉「Extra Ecclesiam nula salus」(教会の外に救いなし)を記しています。この原則は今でも基準です。しかし私は、第三千年紀の初頭には、「どの」教会の外のことなのか、と問わないわけにはいかないのです。

初出「Duc in altum」


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