2022年9月23日(九月の四季の金曜日)説教(大阪)
トマス小野田神父
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン
愛する兄弟の皆様、今日は九月の四季の金曜日です。福音では、何度読んでも非常に感動的なマグダレナ・マリアの回心、罪の償いの場面が出てきます。
彼女は 世間体を一切考えませんでした。人が何を考えようとなんと噂されようと自分はイエズス様のもとに行く、自分は罪を償わなければならない、イエズス様の愛のことでいっぱいでした。そしてそれを実践しました。
イエズス様の足元の後ろに来て、跪いて、涙を流して、痛悔の涙を流して、今までの罪を悔い改めました。何度主を悲しませたことか、それを悲しみました。自分の髪でそれを拭いました。主の御足に接吻を何度もしました。非常に高価な香油で主の御足に塗りました。おそらく彼女の最も大切な宝物で高価な非常に到底普通の人では手が出ないようなものすごいものだったに違いありません。
教会はこの回心の姿を私たちに見せ、私たちも同じようにするようにと、招いています。イエズス様の下で痛悔の涙を流すように、罪を悔い改めるように、そして罪の償いをするように、そしてイエズス様に接吻を差し上げるようにと。
私たちは幸いなことにミサを捧げることができています。歌ミサを捧げることができています。私たちの持っている最も貴重な愛と時間と考えをすべて、イエズス様にお捧げいたしましょう。他の人が何と言うか、それは関係ありません。イエズス様のことだけを、主をお愛いしすることだけを、考えましょう。
過去のキリシタンたちは250年の間、迫害の間、ずっとそうでした。聖フランシスコ・ザビエルから受け継いできたその信仰、イエズス・キリストへの愛、マリア様への愛、これを考えてきました。ですから250年間、迫害にもかかわらず信仰を保つことができたのは、コンチリサンの祈りのおかげだと言われています。つまり痛悔の祈りを良くしたからです。
特に踏み絵を踏まされたとか、あるいはどうしても強制的に村の人が亡くなった時には仏教のお寺に行かなければならなかったとか、という時には、その後に気が済むまで何度も何度も痛悔の祈りを唱えていました。涙ながらに自分の裏切ってしまった罪を悔やんで祈り明かし、祈り通しました。だから信仰が伝わってきた、信仰を守ることができたと、いわれています。日本の私たちの先祖のカトリック教会、キリシタンたちは、祈りの教会であり、痛悔の教会でした。まさに教会が今日私たちに求めていること、つまり祈りと痛悔を、私たちの先祖はそのまま実践したのです。
マリア様も言います。ファチマでおっしゃいました。「ああ、イエズスよ。我らの罪を赦したまえ。地獄の火より守りたまえ。」
キリシタンたちもいつも、七代に渡ってコンフェッソーレつまり告解を聴く司祭がやってくるのを、ずっと待ちに待っていました。「我らの罪を赦したまえ。地獄の火より守りたまえ。」まさに同じ信仰でした。
今日は是非このよい四季の金曜日を過ごすことができますように、このミサを、愛をこめて、マグダレナ・マリアに倣って、お捧げいたしましょう。御聖体を拝領いたしましょう。マリア様に御助けを請い願いましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によって、アーメン