信教の自由という偽りの教理についての説教
2022年10月30日 ドモルネ神父
はじめに
現在、カトリック教会が大きな危機で揺れていることは、皆さんもおそらくお聞きになっているかと思います。一部の教皇たちや司教たちが、カトリックの信仰、つまり私たちが私たちの主イエズス・キリストから受けた教えを変えようとしてきたのです。とりわけ、これらの教皇たちや司教たちは、第二バチカン公会議を通して、「信教の自由」という名前の新しい教理を推し進めてきました。この誤った教理は、霊魂に対する毒であり、すべての国の王である、私たちの主イエズス・キリストに対する重大な侮辱です。
今日は、王たるキリストの祝日をお祝いしていますから、信教の自由が何を意味しているのか、そして、なぜ、これが有害な教理であるのかを、皆さんに思い起こしていただきたいと思います。
信教の自由という概念
第二バチカン公会議によれば、信教の自由とは何でしょうか? 第二バチカン公会議の文書「信教の自由に関する宣言」(Dignitatis Humanae)は、次のように述べています。「信教の自由は、すべての人間が、個人あるいは社会的団体、その他すべての人間的権力を免れ、したがって、宗教問題においても、何人も、自分の確信に反して行動するよう強制されることなく、また私的あるいは公的に、単独にあるいは団体の一員として、正しい範囲内で自分の確信にしたがって行動するのを妨げられないところにある」。そして、この文書は、こう付け加えています。「信教の自由に対する人格のこの権利は、社会の法的制度において、市民的権利として受け入れられるべきものである」(信教の自由に関する宣言2条)。
一見すると、おそらく、この信教の自由は、良いことのように思われるでしょう。すべての人は自分の良心に従わなければならず、すべての人はあれやこれやを信じることを強制されえない、というのは、その通りです。しかし、信教の自由という概念は、はるかにそれ以上のことをいっているのです。信教の自由とされているのは、すべての人には、いかなる宗教であっても、それを公に実践する権利があり、世俗の政府は、その権利を、すべての人に与えて、それを保護しなければならない、ということなのです。これは、とんでもないことです。説明しましょう。
偽りの宗教を実践する権利はない
信教の自由の教理によれば、すべての人には、いかなる宗教であっても、それを実践する権利があります。これが意味するのは、すべての人には、どんな間違った宗教でも、つまり天主についての真理を教えない宗教でも、それを実践する権利がある、ということです。しかし、そのような権利は存在しません。すべての人は、宇宙の支配者としての天主を礼拝しなければなりません。そして、すべての人は、天主ご自身が定められた方法で、天主を礼拝しなければなりません。さて、天主は、私たちの主イエズス・キリストを、天主と人間との間の唯一の仲介者として任命なさいました。したがって、すべての人には、イエズス・キリストとその教えを知る義務があり、すべての人には、イエズス・キリストの教えを実践する義務があり、すべての人には、イエズス・キリストが建てられた教会であるローマ・カトリック教会のメンバーとなって、私たちの主と一致する義務があります。したがって、すべての人には、カトリック信者になる権利があります。徳川の将軍たちが日本人に対して行ったように、これに反対することは、非常に重大な不正義です。逆に、誰も、偽りの宗教に従うこととはされていません。したがって、誰も、偽りの宗教を実践する権利は有していないのです。
真の宗教は客観的な科学であり、選択肢の一つではない
この問題の、第二の側面を見てみましょう。信教の自由の教理によれば、すべての人には、いかなる宗教でも実践する権利があります。これが意味するのは、宗教は、物理、化学、数学、歴史、地理などのような科学ではなく、単に自分自身の感情に基づいた個人的な信念であり、自分がそれに与えたいと思う以上の重要性は持っていない、ということです。信教の自由によれば、すべての人には、自分の好みや気分にしたがって、スーパーマーケットで自分の欲しい商品を選ぶ権利があるように、自分の個人的な好みにしたがって、いかなる宗教でも、それを選んで実践する権利があることになります…。しかし、そんな権利は存在しません。物理学、化学、数学、天文学、歴史学、地理学、経済学などが、科学、つまり宇宙の事物とそれを支配する法則に関する確かな知識であるように、宗教もまた、科学、つまり天主とその法に関する確かな知識なのです。すべての人には、自分の望む宗教を実践する権利があるということは、日本の公立大学で、教授たちが、次のようなことを教える権利があるというのと同じくらい、ばかげていて、不条理なことです。「2+2は、その人の望みに応じて、4でも5でも6でも10でもある」、「地球は、その人の望みに応じて、平らでも、丸くも、三角でもある」、「地震の原因は、その人の望みに応じて、構造プレートの動きでも、クジラのくしゃみでもある」、「サハラは、その人の望みに応じて、砂漠でも、氷河でも、ジャングルでもある」、「日本には、その人の望みに応じて、武士がいたかもしれないし、いなかったかもしれない」などということです…。このようなことは、すべて不合理です。しかし、数学、地理、物理、歴史などで、無意味なことを教える権利を、誰も持っていないように、宗教で無意味なことを教える権利は、誰も持っていないのです。
信教の自由は、世俗主義という大きな不正義の原因である
さて、信教の自由の問題の、第三の側面を見てみましょう。信教の自由の教理によれば、すべての人には、いかなる宗教であっても、それを実践する権利があり、世俗の政府は、この権利を、すべての市民に保証しなければなりません。これは、世俗の政府が、すべての宗教に、同じ市民権を与えなければならない、ということを意味します。これは、政府自身が、いかなる宗教も持ってはならない、ということを意味します。これは、天主や、イエズス・キリストとその法や、カトリック教会についての言及が、すべて、政府、市民法、そしてすべての公共施設から排除されなければならない、ということを意味します。これは、政府が、天主の法とは無関係に、みずから、その国民にとっての善と悪を決定する存在となる、ということを意味します。そうなると、例えば、政府は、離婚や中絶の許可を宣言することになるでしょう。これが、信教の自由というものなのです。つまり、すべての国の公的生活から、私たちの主イエズス・キリストを排除することなのです。このように、天主とイエズス・キリストを排除することは、世俗主義と呼ばれます。これは、明らかに、天主と私たちの主に対する非常に重大な不正義であり、各国民にただ大きな不幸をもたらすだけのものなのです。
結論
親愛なる信者の皆さん、信教の自由という教理は、それ自体が不条理であり、天主に対する大きな不正義であり、霊魂に対する毒です。信教の自由は、私たちの主イエズス・キリストの敵どもが、私たちの社会から主を排除するために用いる武器なのです。私たちは、この有害な信教の自由を望んではいません。
私たちが望むのは、すべての人と社会に対する、天主と私たちの主イエズス・キリストの権利が、公式に認められ、尊重されることです。私たちが望むのは、ローマ・カトリック教会が、その本来の姿として、つまり、天主とイエズス・キリストのこれらの権利の真正な解釈者として、公式に認められることです。私たちが望むのは、カトリック教会のメンバーとして、天主と私たちの主イエズス・キリストを礼拝する完全な自由が、すべての人に与えられることです。私たちが望むのは、永遠の生命に到るために必要なすべてのものを、カトリック教会から受ける完全な自由が、すべての人に与えられることです。私たちが望むのは、私たちの主イエズス・キリストが、私たちの政府、法律、裁判所、学校、大学、病院、老人施設、公共交通機関や、工場に、いてくださることです。要するに、私たちが望むのは、私たちの主イエズス・キリストが、その本来の姿として、つまり、私たちの王として、認められることなのです。
【参考文献】
教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまったカトリック信者たちへ【その11】 - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた 本来の意味での「信教の自由」:人間人格の尊厳は、真理を考慮に入れない自由には存しない。 - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた 諸教皇は何故「良心ならびに信教の自由」を排斥したのか、理由は? - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた