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天主はなぜ私たちが病気やその他の試練で苦しむのをお許しになるのか?そのような状況の中で私たちはどのような態度を取るべきか?

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天主の御摂理、病気、その他の試練についての説教

2022年10月23日 ドモルネ神父

はじめに

今日の福音には、ある王官の息子が、奇跡的に癒やされたことが書かれています。この子どもの病気は、偶然に起きたのではありませんでした。天主は宇宙の統治者であり、天主のご命令もしくはご許可なしにこの地上で起こることは、何もありません。天主は、無限の知恵と、誰も逆らうことのできない力と、父としての比類なき善良さで、すべてを司っておられるのです。この天主による支配は、天主のお許しがなければ、私たちの頭から髪の毛一本さえも落ちることができないほどのものです。ですから、天主が病気や苦悩で私たちを試されるとき、なんらかの、良い賢明な理由のために、そうされるのです。天主はなぜ、今日の福音のなかで、この子どもが病気になるのを許されたのでしょうか?それは、この子どもの父親と家族が、イエズス・キリストの神性を信じ、多くの恩寵を受ける機会となるためだったのです。

まず、私たちが病気やその他の試練で苦しむのを、天主はなぜ、お許しになるのかについて、その後、そのような状況の中で、私たちはどのような態度を取るべきかについて、お話ししたいと思います。

1.私たちが病気やその他の試練で苦しむのを、天主がお許しになる理由

私たちが病気やその他の試練で苦しむのを、天主はなぜ、お許しになるのでしょうか。

第一の理由は、天主が存在し、宇宙と私たちの健康や生命の統治者であることを、私たちに思い起こさせるためです。実際、私たち人間は、この基本的な現実を、あまりにも忘れがちです。私たちは、まるで天主が存在しておられないかのように生きているか、あるいは、自分の人生における天主の重要性を、いささか二次的なものとしてしか、認めないのです。試練や苦しみは、私たちに、自分の弱さや限界を思い起こさせ、助けを求めるよう強制します。そして、人間からの助けが得られないとき、やっと私たちは天主とその全能および善意を思い出し、天主の方を向くのです。この真理は、聖書の中で、次のような逸話(サムエル下14章29-32節)を通して示されています。ダヴィド王の息子アブサロムは、軍の総司令官であるヨアブを二度呼び出しました。ヨアブは行くのを拒みます。すると、アブサロムは何をしたでしょうか?ヨアブの収穫物に火をつけたのです。そこですぐ、ヨアブは、その行為について苦情を言うために、アブサロムのところにやって来ました。するとアブサロムは、ヨアブを無理やり自分のところに来させるためにそうしたのだ、と言いました。天主も、それに少し似ておられます。天主は、私たちに、罪の道を離れてご自分のもとに来るようにと、何度も呼びかけられます。しかし、私たちは、それを聞き入れません。そこで、天主は、私たちになんらかの病気や苦悩を送って、私たちが天主の方に向くよう、強制されるのです。このように、福音のなかで、父親が子どもの癒しを求めるためにイエズスのところに行き、ついには、父親とその家族全員が救われるよう、天主が、まず子どもの病気をお許しになったのも、このような理由からだったのです。

天主が私たちの病気や苦悩をお許しになる第二の理由は、ご自分の正義を行い、私たちに、私たちの罪を償わせるためです。ベザダの池で、体の不自由な人が癒やされたときのことを思い出してください。私たちの主イエズスは、その人を癒やされ、そして、その人の病気の原因が、その人の罪であることを明らかにされました。「どうだ、あなたは治った。さらに悪いことが起こらぬように、もう二度と罪を犯すな」(ヨハネ5章14節)。ですから、私たちが、病気や試練に悩まされるとき、私たちは罪人であるため、苦しむに値する、ということを思い出しましょう(創世記42章21節参照)。聖ヨハネ・クリゾストモは、私たちが苦悩の中にあるとき、私たちは天主の御前にへりくだり、天主が、私たちの現在あるいは過去の大罪あるいは小罪を、償う機会を与えてくださっていると考えるよう、勧めています。

天主が私たちの病気や試練をお許しになる第三の理由は、私たちに対する天主の善意と御あわれみによるものです。病気や試練は、防腐剤のようなものだからです。それによって、私たちが罪を犯す機会や手段がより少なくなり、私たちはこの世の快楽や財物のむなしさをさらによく理解し、天国を求める望みをもっと育み、天国で、より大いなる栄光をうけるべきものとなるのです。例えば、私たちは、自分が病気であることに不平を言いますが、この病気がなければ、もしかしたら私たちは肉欲にまみれた人間か、あるいは酔っぱらいか、あるいは犯罪者になっていたかもしれません。私たちは、自分が貧乏だと不平を言いますが、もし金持ちだったら、もしかしたら非常に高慢になり、天主に対する義務を怠っていたかもしれません。ある日、ある金持ちが、慈善家聖ヨハネに、貧しい人々に与えるための大金を渡して、それによって、自分の一人息子の癒やしを天主から得ようとしました。しかし、その子は死んでしまいました。聖ヨハネは、それについて、私たちの主に対して、いささか不満を表しました。しかし、イエズスは、この子の死は、実際には、聖ヨハネの祈りとその人の施しによって得られた恩寵である、と答えられました。なぜなら、もしその子どもが生きたなら、その父親は息子のためにもっともっと財産を得ることばかり考えることとなって、その結果滅びていたはずであり、また他方、その息子も、世俗的で罪深い生活を送ることとなって、その結果やはり滅びていたはずだからです。

天主が私たちの病気や試練をお許しになる第四の理由は、私たちに対する天主の愛です。実際、天主が私たちを愛されれば愛されるほど、天主は、私たちが御子イエズス・キリストに似た者となることを望まれます。ですから、天主は、私たちも主の御苦しみにあずかるように、なさるのです。この苦しみは、私たちを押しつぶすためではなく、私たちに、天主と隣人への愛を深め、育ませるためのものです。大天使ラファエルが、トビアに言った言葉を思い出してください。「あなたは天主の目にかなったので、誘惑の試練を受けて、それを証さねばならなかった」(トビア12章13節)。愛する者のために苦しみ、死ぬことほど、おおきな愛の証しはありません。

2.病気や苦悩のときに取るべき態度

さて、病気や苦悩のとき、私たちは、どのような態度を取ればよいのでしょうか。一般的に言えば、キリスト教的な精神で、それを受け入れるべきです。つまり、その試練や苦悩を通して、天主が成し遂げることを望んでおられることが実現するよう、可能な限り、私たちは天主に協力すべきです。

天主が病気や苦悩をお許しになるのは、私たちの人生と存在に対する天主の絶対的な支配力を、私たちに思い起こさせるためです。ですから、試練の時には、私たちに対する天主の統治権を崇め、寛大に、そして愛をもって、天主の御旨に従いましょう。聖なる人ヨブが、その大きな苦悩のときにそうしたように、天主を讃美しましょう。「主は与え、主は奪われた。主の思し召しの通り、それはなされた。主の御名は祝されよ」(ヨブ1章21節)。

第二に、天主が病気や苦悩をお許しになるのは、それを私たちの罪の償いとするためです。ですから、試練のときには、天主の正義を崇めましょう。自分の罪を悔い、生き方を改め、自分の過去の罪の贖いとして、私たちの苦しみをお捧げしましょう。

そしてまた、天主が病気や苦悩をお許しになるのは、私たちを、より確実に、天国へ導くためです。ですから、試練のときには、天主の御摂理を崇め、その導きを信じましょう。私たちには、天主の道が十分に理解できないことがよくあります。しかし、善きお方である天主は、私たちを天国に導く方法を、私たちより、はるかによくご存じです。ですから、私たちは、天主を完全に信頼し、可能な限り、天主の御旨に沿うべきです。

最後に、天主が病気や苦悩をお許しになるのは、私たちを、私たちの主イエズス・キリストにさらに似た者とするためです。ですから、試練のときには、私たちの主のご受難をしばしば黙想し、主の愛徳と、主がそのときに示されたすべての聖徳に倣いましょう。

結論

親愛なる信者の皆さん、この説教の締めくくりに、皆さんに、トビア書にあるラグエルの娘サラの美しい祈りを思い起こしていただきたいと思います。「主を尊ぶ者は皆、その命が、試練にあって、栄冠を受けることを知っている。苦難にあえば、解放され、懲らしめを受ければ、あわれみを受ける。あなたは、われらのほろびを喜ばず、嵐の後に、静寂をおくり、涙と嘆きの後に、喜びをまかれる。イスラエルの天主よ、御名は永遠に祝福されよ。アーメン」。




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